竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 4 皆さんは「これぞほんものだ!」に逢われたでしょうか?
竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 4 皆さんは、「これぞほんものだ!」に逢われたでしょうか
竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」
「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」
という「超解読」な本を読んでいます。
「第一章
精神」
p134
「個人の意識は絶対的な存在ではなく、じつは共同的な精神のうちにあり、共同的な
精神から分かれたものである。 共同的な精神こそが絶対の存在である」。
これが精神というものの基本的なイメージである。
p135
第二に「ある時代の精神はそれに対応した社会制度をもつ」。 つまり精神を「ある時代
の集合的意識+社会制度」と考えてよい。
第三に「精神は歴史において自己を展開する。 つまり、さまざまな意識と社会制度とを
生み出していくが、最終的には、精神が自己自身を自覚するところに行き着く」。この精神
の自覚の最終的な形態が「良心」であり、それが事実上の「絶対知」となる。
==>> マルクスが目を付けたところは、こういうヘーゲルの思想の部分なんでしょう
かね。 「精神は歴史において自己を展開する。 つまり、さまざまな意識と
社会制度とを生み出していく」ことによって、必然的にマルクス主義、
あるいは社会主義思想になってゆくということか。
もっとも、wikipediaによれば、
「マルクスはヘーゲル左派として出発し、1840年代に起こったヘーゲル左派の
内部論争の過程で、ヘーゲルの弁証法哲学やフォイエルバッハの唯物論を受け
継ぎつつ、ヘーゲルの観念論やフォイエルバッハの不徹底さを批判し、唯物論的
歴史観(唯物史観)を形成した。」
「ヘーゲルはフランス革命を支持する政治クラブの熱烈な弁士の一人で、
革命に関する新聞を密かに集めて革命思想を説いたクラブの中心的メンバー
であった。」
・・・ということですから、観念論と唯物論の違いはあっても、その当時の
社会の動きの中では、革命に対する熱狂というのはあったんでしょうね。
p136
つまり「精神」とは、「きわめて多様な人間の経験はまったく孤立したものではない。
必ずそれは内在的に理解されうるし、他の経験ともつながりをもつものとして考える
ことができる」というヘーゲルの確信を表す言葉なのである(ちなみに、フッサール
現象学も、あらゆる人間的な経験をとりあげてその意味を内在的に理解しようとする
学問として構想されたものであり、『精神現象学』ときわめて近いモチーフをもっている。
しかしフッサールはヘーゲルをほとんど読んでいず、直接の関係はない。
==>> ここで私が思い出したのが、「文化の遺伝子・ミーム」論です。
リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」を読む:
その5 文化・宗教の遺伝子 ミームとは
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-4563be.html
「p291
ミーム理論を誰よりも推し進めたのは、「ミーム・マシーンとしての私」
におけるスーザン・ブラックモアである。 彼女は繰り返し、脳(あるいは
コンピューターやラジオの周波数帯のような他の情報貯蔵器や情報ルート)と、
そこを占拠しようとひしめきあうミームに満ち溢れた世界を思い描く。遺伝子
プール内の遺伝子と同じように、勝利するミームは、自分自身をコピーさせる
ことに長けたミームだろう。
その理由は、たとえば一部の人々にとって不死というミームがもつような、
直接的な魅力をもっていることかもしれない。 あるいは、すでにミーム・
プール内で多数になっている他のミームの存在のもとで繁栄できるという理由
かもしれない。
・・・実際に起こっているのは、個々の遺伝子がその対立遺伝子と争って選別さ
れるときの環境の主要な部分が、遺伝子プールの他の遺伝子によって構成され
ているということなのだ。各遺伝子は他の遺伝子・・・の存在のもとで、首尾
よく選択されるがゆえに、協調的な遺伝子のカルテルが出現するのである。
ここには、計画経済よりもむしろ自由市場に似たものがあるといっていい。」
・・・もしヘーゲルやマルクスが言う「精神」が社会と結び付き、歴史となって
いくということであるならば、又この「文化の遺伝子・ミーム」だとするならば、
上記の最後にある「計画経済よりもむしろ自由市場に似たもの」というのが
社会主義に対してはかなりの皮肉になっているように思います。
今の現実を、共産党主導の中国に見ても、ほとんど日本やアメリカ以上の
資本主義・自由市場になっているように見えますからねえ・・・・
先日テレビで観たドキュメンタリーによれば、中国は相変わらずの皇帝支配
だとも言われているようですが。
p137
・・・何か妙な神学的なものを感じる人もいるにちがいない。
よく知られているように、マルクスは「精神は自律的に運動するのでない。 歴史を動かす
のは経済、つまり生産力と生産関係との矛盾だ」と批判している。
精神を「根源実在」とみなしてその自己展開を考えるという構想には、“究極原因”を
求めようとする点で、一時代前の形而上学的思考と言わざるをえない面がある。
==>> ここで、一応、マルクスはヘーゲルを批判しているんですが、その動因を
経済というものに求めているのは、唯物論的思想なのに、人間が創った文化の
ひとつの側面である経済に求めるというのは、私的には腑に落ちません。
科学的社会主義というものであるなら、上記の文化的なミーム論みたいな
ところまで行ってもよさそうな気がするからです。
p138
ヘーゲルは、自由な主観性の成立は他者や社会との安定した関係の喪失でもあるが、それは
同時に、他者や社会との関係を自覚的につくりだす契機にもなる、と考えていた。
そして、自覚的な共同性の実現の一つの頂点が・・・・「事そのもの」であった。
もう一つの頂点が・・・「自己確信精神」の「良心」jなのである。
つまり、このストーリーで問題になっているのは、「自由のゆくえ」なのだ。
==>> 「自由のゆくえ」
今、これを読んでいる皆さんはいかがですか?
皆さんに自由はありますか? そのゆくえがどうなると思いますか?
「事そのもの」とは、以下のようなものでした・・・・
「p130
音楽や文革の何かの作品に出会って「これぞほんものだ!」と思う。 そんな
経験を皆さんもしたことがあるだろう。 「事そのもの」とは、そのようにして
信じられる「これぞ文学(文学そのもの)」「これぞ落語(落語そのもの)」など
のような、理念を指す。 プラトン風にいえば、文学のイデア、落語のイデア
と言ってもよい。」
・・・皆さんは、「これぞほんものだ!」に逢われたでしょうか。
もう一つの頂点である「良心」については、この後に出てくるようです。
p139
個としての意識が主人公であったこれまでの「意識経験」の歩み(意識―自己意識―
理性)に代わって、これ以降は、共同的な意識である「精神」が主人公となる。
精神こそが「自分自身を支える絶対的で実在的な本質」であって、これまでの意識の諸形態
(意識・自己意識・理性)は、すべてこの精神から抽象されたものであり、もともと
は精神のなかにその根拠をもつものだったのである。
p140
さて、精神は意識の諸形態であるだけでなく、「世界の諸形態」(歴史的な具体的な社会制度)
でもあり、歴史のなかで展開しつつみずからの本質を自覚していくものである。
==>> 「個としての意識」が「共同的な意識である精神」の一部、あるいは、
精神こそが「自分自身を支える絶対的で実在的な本質」という考え方は、
以前に読んだ「完全調和」としての宇宙的意識みたいなものを連想させます。
保江邦夫著 「神の物理学 甦る素領域理論」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_2.html
「p124
実は、完全調和の真空を多数のモナドに分割する考え方の本質は、それぞれ
一体として統一された物質存在の背後にその物質存在を構成するすべての素粒
子の運動を制御する一つの霊モナド(=素モナド)がこの宇宙の裏側に存在す
るという点にある。
たとえば地球や火星などの太陽系内惑星のそれぞれを安定な物質形態として存
在させるために、その背後には「地球モナド」や「火星モナド」とでも呼ぶよう
な霊モナド(=素モナド)がこの宇宙の裏側に存在している・・・・・「太陽系
モナド」・・・」
・・・言いたいのは、このようなモナド論みたいなものを想定すれば、
自己の意識みたいなものは宇宙の精神の一部であるというような理屈も
成り立つなということです。
この保江さんの専門は数理物理学・量子力学・脳科学ということなので、
ヘーゲルやマルクスが唯物論に立つのであれば、こういう基礎の考え方が
あっても可笑しくないんじゃないかと思うわけです。
もっとも、保江さん自身が敢えて「神の物理学」と呼んでいる訳ですから、
形而上学的な構想なんだと思いますが。
p140
分裂した精神(自分から疎遠になった精神)――ここでは、個人と世界とは疎遠なものと
して対立する。 世界も、此岸の「教養の国」と彼岸の「信仰の世界」とに分裂する。
この分裂は、一切を概念的に把握しわがものにしようとする近代理性(啓蒙)によって
克服されていくが、それは「フランス革命」として具体的な現実世界の変革を引き起こす
ことになる。
==>> ヘーゲルはキリスト教を批判しながらも、何かキリスト教を超えるようなもの
を探究していたんじゃないかと見えるんですが。それが弁証法的に世界の歴史
という現実世界の中で精神がフランス革命を起こしちゃったということなんで
しょうかねえ。
私自身は、政治的なことにあまり興味がないもので、共同的「事そのもの」には
興味はあるものの、それより広い社会との繋がりという点では、なかなか
そのメカニズムが腑に落ちません。
p141
この人倫の世界(ギリシャ)において、精神は大きく普遍態と個別態とに分かれる。
普遍態のほうは、国家共同体(ポリス)の掟であり「人間の掟」と呼ばれる。
個別態のほうは、家族(オイコス)の掟であり「神々の掟」と呼ばれる。 自己意識も
それぞれに振り分けられて、男は「人間の掟」と一体化し、女は「神々の掟」と一体化
している。 ここには、掟の正しさについてあれこれ考えるような、まったくの個人
(「この自己」)は存在しない。 自己意識は掟と一体になっているのである。
p144
国家は成員が死なないようにその安全を配慮するもの(外敵からの防衛、また内部の
争いの平和裡の調整)である。 だから戦争のときには市民は死を賭して戦わなくて
はならない義務がある。もし戦って死んだとしても、家族が死者を冥界に入れてやる
――こういうつながりなので、死者の弔い=神々の掟が働かないならば、国家もまた
力をもちえない。
==>> なるほど、戦争と弔いというのはそういう関係にありましたか。
アメリカは、戦争中のやり方をドキュメンタリーなどでみても、できるだけ
米兵の損失が少なくなるように配慮しているように見えますし、キリスト教式
の宣誓や弔い方も現代でもありますから、その点では分かりやすいですね。
一方で、日本の場合は、「一億玉砕」みたいなことをやろうとしたし、
おまけに「靖国神社」問題がややこしいことになってしまっているし、
戦争という視点からみると、本来のメカニズムがぐちゃぐちゃになっている
ように思えます。 つまりは、どちらもが無責任な体質になってしまっている
ってことでしょうか。
言いかえれば、本気で国民を守ろうとしない、本気で死者を弔おうとしない。
p148
「個」つまり「自由な主観性としての自己」の自覚が生まれることは、いったんは
素朴な美しい共同体の調和を解体することになるが、こうした自由な主観性こそが
自分と掟との関係を「自覚的に」担いうるからだ。 自由な主観性によって全体と個との
調和が自覚的につくりだされる、という地点に向かって、精神の歴史は進展していくので
ある。
==>> 考えてみれば、これはかなりの楽観論ですね。
たまたま、この本と並行して「初期仏教 ― ブッダの思想をたどる」という本
を読んでいるんですが、出家者の理想を語りながらも、現実社会の苦をいろいろ
と乗り越えようとする物語があります。
それはあくまでも個々人がさとることを踏まえての物語になっています。
一方で、このヘーゲルは、「個の自覚」と「全体の精神の歴史」が、なにやら
必然的に「進展して」いくかのような書き方になっています。
もちろん「自覚的に」という言葉はあるのですが、そこには善・悪という
要素を、この時点では加えていません。
この後、出てくると思いますが。
p149
ここでは個々人に市民権が与えられ、対等な権利をもつ「人格」として承認されている。
・・・・しかしこの個人は以前のような「実体に溶け込んだ自己」ではなく、「つれない
冷酷なこの自己」としてあるにすぎない。 つまり、自己意識はバラバラの個人になって
いて、他者や共同体とのつながりを実感できないのである。
p152
権利をもつ人格は、実体を欠いたものであり、諸元素(国家権力と財富)にもてあそばれる
ものでしかなかった。
しかしこのような世界もやはり、われわれ(「哲学的観望者」から見れば意識がつくりだす
「作品」であって、「存在(客観)と個体性(主観)との相互浸透」が成り立ってはいる。
==>> 「実体に溶け込んだ自己ではなく」と言ったり、「自己意識はバラバラの個人
になっていて、他者や共同体とのつながりを実感できない」という意識は
おそらく現代にもまだまだ多いのではないかと思います。
特に、昨年来続いているパンデミックの中では、殊更に多いのではないで
しょうか。
p153
・・・意識は自己と世界との分裂を克服しようとする。
・・・その結果、国家権力や財富も、自分たちがつくりあげているものでしかないと
わかってくると、それらに真の価値を認める必要はないと考えるようになる。
この意識の態度は「純粋洞察」・・・と呼ばれるが、これは、あらゆる自体存在(意識と
関係なくそれ自体として存在するもの、具体的には、事物や社会や神)を、対自存在
(自分にとって理解しうるもの)へと転換しようとする姿勢、つまり近代理性である。
そしてそれはまず、信仰を批判するところからスタートする。
==>> 縛られていた共同体から解放され自由になって、市民権を得て、独立した
自己の意識というのが持てるようになった。
そして、世の中のことが分ってくると、それらがつまらないものに見えてきた。
そして、その近代理性の矛先がまず向かったところが宗教だった?
今の私等の、核家族化した現状を振り返ってみると、確かに宗教って何?と
思うんですが、少なくとも私等の親や祖父母の時代には、檀家制度がまだ
しっかり残っていて、共同体の中核を担っていたんじゃないかと思います。
フィリピンに十数年住んでみて分ったのですが、カトリックが歴史的に
全国の津々浦々にまで浸透していて、さまざまな行事が教会を軸に廻っている
ように見えました。 それはもう宗教というよりも習慣と言った方がいいの
ではないかという感じでした。
もちろん、日本にも、意識はしないけれども文化・習慣として定着している
ものが多々あると思います。
p155
自己意識は、自然な生まれつきの自己を外化放棄し、自分から疎遠になる・・・ことに
よって、国家権力や財富をわがものにすることができる。 この自然な自己の外化ないし
疎遠化が「教養」(自己形成ないし自己陶治のこと)と呼ばれる。
p156
こうした自己の外化放棄は、実体(国家権力や財富)の側から見れば、実体を現実化する
ものでもある。 つまり、現実の威力であり実体である国家権力や財富も、じつは個々人
の行為によって生きているのである。このように、教養の営みがさかんにおこなわれる
現実世界は「教養の国」と呼ばれる。
==>> まあ、構造として、そうなのかなということは分るのですが、それを「教養」
と言われると、違和感があります。
「教養」を国語辞典で調べると:
「1 教え育てること。「君の子として之 (これ) を―して呉れ給え」
2
㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の
豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教など
の精神活動。
㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。「高い教養のある人」
「教養が深い」「教養を積む」「一般教養」」
・・・これらの意味に照らしてみると、2の㋐に該当するんだろうと思う
ので、「精神活動」ということではヘーゲルのこの言葉の使い方はそのとおり
なのでしょうが、私自身はこのような使い方を今までしらなかったので
なんとなくしっくりこない感じがします。
もちろん、権力の近くにいる人たちや富豪にとっては、ヘーゲルの言うような
「教養」の営みによって生きているという感覚は持てるのでしょうが、
一般庶民にとっては、政治活動を実行している人たちでなければ、なかなか
そういう意識は持てないんじゃないかと思います。
唯一あるとするならば、選挙制度を通じての一票ぐらいじゃないかと思い
ます。
p158
意識の教養は、高貴な意識からスタートする。 高貴な意識は、具体的には「誇り高き
封臣」である。 彼は国家権力が自分の本質であり目的であると意識しているから、自分
だけの特殊な目的を否定する「奉公のヒロイズム」の態度をとる。
高貴な意識は、この「国家権力は本質(善)である」という判断と自発的な自己犠牲と
を介して(判断と自己犠牲を「媒語」とすることによって)、国家権力と推理的に
連結される。
==>> 「封臣」を辞書で調べると、以下の解説がありました。
「封臣(ほうしん 羅:vassalus)[1]とは、中世ヨーロッパの封建制度において
領主や君主との相互の主従関係に加わっている人のことである。何らかの特権
と引き換えに、主従関係にはたいてい軍事的支援や相互保護が含まれていた。
特権にはたいていレーエンとしての土地の付与などが含まれていた。
この言葉は他の封建社会における似たような取り決めに対しても用いられうる。
対照的に、fidelityあるいはfidelitasとは、王に服従している臣下が誓った
忠誠のことであった。」
・・・・このような封建時代の君主と臣下と似た関係が今の時代にあるかどうか
は私には分かりませんが、少なくとも、民主主義政権の中において、
大統領や首相などに対して、いわゆる公僕とされる人たちにこのような
「高貴な意識」とか「自発的な自己犠牲」があるのかは疑問です。
「高貴な意識」を持っていた公僕が、「追い込まれた自己犠牲」を実行した
例は何度か聞いたことがあるのですが・・・・
=== その5 に続きます ===
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