竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 3 恋は理性の出発点、社会制度は「諸個人の実体」??
竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 3 恋は理性の出発点、 社会制度は「諸個人の実体」??
竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」
「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」
という「超解読」な本を読んでいます。
「第一章
理性」に入ります。
p87
不幸の意識は、最終的に、神と自分のあいだをとりもつ媒語(教会)にすべてを委ねる
のだった。 つまり、自分で決意する自由を投げ捨て、自分の労働の成果も教会に譲り
渡そうとするのである。 このことをヘーゲルは「私を外化放棄し、自分の無媒介な
自己意識を物に、対象的な存在にしてしまった」と述べ、さらに「この自分の意志の
放棄は、意志を個別的意志ではなく普遍的意志として定立することである」と述べて
いる。
==>> ここを読むと、私がすぐに連想するのは「梵我一如」という言葉です。
https://kotobank.jp/word/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82-632009
「ウパニシャッドは宇宙の根本原理としてブラフマン(梵)を想定し,個人の本体
をアートマン(我)に求めて,この両者は本質的に同一(梵我一如)であるとした。
またウパニシャッドで明確な形をとった業(ごう),輪廻,およびそれからの
解脱の思想は後代のインド思想全体の本質を規定している。」
このブラフマンが宇宙の根本原理という意味では、梵天であり、密教では
大日如来とも言われるようになったそうなんです。
https://zatsugaku-circle.com/brahma/
「仏教に合流したブラフマーは「梵天」という名前になり、東へと伝来し、
中国や朝鮮半島、そして日本に伝わって来ます。
ちなみに密教では、「大日如来」という名前で呼ばれることもあるのです。」
・・・そういう意味においては、大日如来を普遍的意志あるいは根本原理と
して、個別的意志である我をそれに一体化するという密教などは、
ヘーゲルが言っている言葉に当てはまるのではないかと思えます。
つまり、宗教に自分の意志を委ねるという意味ですが。
ぶっちゃけた話をすれば、
私は数年前からいろいろと本を読んできたんですが、宗教、宗教哲学、哲学、
その他の宇宙論などが非常に難しくて、私の頭のレベルにぴったんこの
「わかった!」と腑に落ちる本というのはなかなか無いわけです。
それで仕舞には「ああ、めんどくさっ」となって、大昔からのお偉い人達が
考え出した宗教なるものでいいや・・・となってしまうんじゃないかって
思ったりもするわけです。
要するに、自分で哲学するのが面倒になって、ギブアップして、なんらかの
宗教宗派に入っていた方が楽だということになるんじゃないか。
p89
これまでの自己意識は、自分の自立性と自由を求めて、現実を否定しようとしてきた。
しかし自分が理性であると確信するようになると、自己意識は現実を受け止めて、そこに
安らぎを得るようになる。
p90
こうした理性の態度から、カント、フィヒテらの「観念論」が生まれてきた。 観念論
とは、自分の思考と現実とが一致しうるという確信からである。 しかし、彼らの観念論
は二つの点で不十分なものにとどまっている。
一つは、自分が生まれてきた歴史的な過程(不幸の意識と教会)に無自覚であること。
もう一つは、「意識があらゆる実在である」という本来の観念論の思想と、「さまざまな
感覚と表象は意識の外なる物によってもたらされる」という正反対の思想とが共存した
ままになっている点である。
p91
理性はまず、自然を観察しそのなかに自己を見出そうとする。
・・・ 感覚的に経験されるものをまず「記述」する態度からはじまって、つぎに鉱物
や生物を「分類」しようとし、さらに「法則と概念」とを見出そうとすることになる。
・・・「われわれ」にとっては、理性が無自覚なままに、理性自身の本質を見出そうと
しているのである。
==>> この本では、あくまでも「意識」が主人公で、その歴史を物語っているわけ
なんですが、その視点が「われわれ」の視点なんです。
ここで述べられているのは、哲学と自然科学の歴史の中で、自然科学に於いて
記述や分類などいわゆる科学的なアプローチが出てきて、一方では
哲学の観念論が、まだ二元論の世界に縛られていることを語っているように
思います。
p95
実験し法則を見出そうとする観察する理性は、結局、「固定的で自己同一的なものと考え
られていた物」から、互いに関係しあい運動する、無限性としての「概念」を取り出し
ている(じつは、理性(意識)じたいがこうした無限性としてのあり方をしているのだが、
理性はそれに気づいていない。 ここでの理性は、本能的に、自分自身のあり方を自然
のなかに見出そうとしていたのである。)。 こうした無限性を備えた概念を、現実の存在
でありながらそのまま表現している対象がある。 それが「有機体」である。
==>> つまり、自然科学のやり方から、どうも有機体っていうのは、多分進化論も
この中にあるんじゃないかと思うんですが、無限性をもって相互に関係し
ながら運動していると見えたんでしょう。
そういう考え方を、人間の理性の動き方にも適用できるんじゃないか、って
ことなんでしょうか。
p104
行為する理性は、最初は、個別的な自己を相手に直接承認させようとする姿勢(恋)から
スタートするが、次第に普遍的なものを意志するようになり、最終的には、精神という
あり方を自覚していく。 つまり、国家や家族のような社会制度が個々人を生かす「精神的
な本質」であり自分たちの「実体」であることを自覚するところまで進んでいくことに
なる。(実体とは、内容的には社会制度のこと。 社会制度は個々人の意志や行為をいわば
下から支えるようにして生かしている。 そういう意味で、社会制度は「諸個人の実体」
であると言われる)。
==>> 理性は「恋」から生まれるんですねえ。
確かに、私が二十歳前後の頃には、恋から始まり、恋愛論を読むようになり、
それから哲学の本を読み、精神とか宗教とは何かなんてことを読むように
なりました。
しかし、私の場合は、その後は個人と社会の関係までは考えが発展せず、
社会学とか政治学、そして経済学などには及ばずに今に至っていますから、
なんとまあ遅れてきたおっさんという感じのようです。
政治社会的な意味では、私も「幼稚だなあ」という自覚はあるんですが、
どっちかっていうと「面倒くさい」というのが本音です。
興味のないことに興味を持てと言われても、無理なもんは無理ですからねえ。
それにしても、社会制度自体が「個人の実体」だと思えるほどに、
政治が他人事ではなく自分の存在理由だと思える人はどれほどいるので
しょうか。
p105
人倫と道徳はともに規範を意味する言葉だが、とくにヘーゲルでは、人倫は「社会に
共有されている習俗やルール」、道徳は「個々人がみずから問い確かめた規範」を
指す。
p107
素朴な人倫よりも自覚的な道徳性のほうがより高い立場といえる(ここは、ヘーゲルの
モチーフが端的に表明されている箇所。 近代の自由は近代以前の素朴で美しい共同体
の喪失でもあるが、同時に、自覚的に共同性を打ち立てるための条件でもあると
ヘーゲルはみなす。・・・)
==>> 「人倫」という言葉は、あまり聞きませんが、下のような解説があります。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%80%AB-82749
「① ひと。人々。人類。特定の個人や集団ではなく、人間一般をいう。
②
君臣・父子・兄弟・夫婦など上下尊卑の人間関係や秩序。また、そのような
人間関係を保持する道徳・倫理。転じて、人としての道。人としての倫理。
③
古辞書や作品集などで、語彙・題材などを分類する語。」
・・・字面から見ると、②の意味が最初に思い浮かびます。
社会的には人倫が優先されるのでしょうが、レベルが高いのがどちらかと
訊かれれば道徳の方が高いように私も感じます。
個々人の道徳がなければ、人倫は支えることが難しいでしょうから。
p109
対象である恋する相手のもつ「他的存在という形式」を否定しようとする。
・・・
しかしその結果は、個別的な自分こそがリアルだと思っていたこれまでの見方を失わせる
ことになる。 なぜなら「自分自身と他の自己意識との統一」である「普遍的なもの」
(切っても切れない絆や、子どものこと)が生まれてくるからである。 こうして快楽を
めざした自己意識に、捨てたはずの家族や社会との「つながり」が、当人の予期しなかった
厳しい「必然性(さだめ)」として、経験される。 快楽の享受は自己実現であるとともに、
個別的な自己の否定をも意味していたのである。
==>> 親から離れ、兄弟姉妹から離れ、そして、恋愛という快楽にはまって、
結婚したら、そこは地獄であった・・・・なんちゃって。
要するに、独身時代は自由気ままにできていたのに、惚れた相手と結婚
したら、毎日が喧嘩の生き地獄。 自由にやれていたことも我慢しないと
いけなくなっちゃった、というお話ですね。
そして、逃げ出した筈の家族というものを、自分自身で作ってしまった。
しかし、世の中には、結婚前と結婚後では、前世と現世ぐらいの違いがある
という人もいますから、あながち地獄になるだけではなさそうです。
p114
改革者は自分の心胸の法則をそのまま普遍的なものだと思い込んでいたが、この自身の
エゴイズムに気づき、エゴイズムをとことん取り払ってこそ善なる秩序は実現できる、と
考えるようになるのである。
==>> これは、政治でも会社でもいいのでしょうが、例えば革命的な社会の変革と
いうのは、かなり強引に政策を変えるわけですね。 そうすると、当然のように、
いわゆる守旧派みたいなグループからは様々な抵抗がある。
そういう部分について、改革者は気を配らざるを得ないということのようです。
p125
たとえばある個人が、何かある事の実現にとりかかる。 他の人びとは、彼は「事そのもの」
の実現をめざしていると思い、そこで「私もお手伝いします」などと言う。すると彼は
「いや、私は自分がやりたいからやっているので、手伝いは結構です」と断る。
そこで他人たちは「これは欺瞞だ」と言うが、彼らのなかにも欺瞞がある。 彼らが援助
しようと馳せ参じたことじたい、事そのものの実現よりも、「自分」が手伝っていることを
示したいという動機からだったのである。
==>> おそらくこのようなことは、さまざまなグループの活動の中で頻繁に起こって
いることではないかと思います。
しかし、「これは欺瞞だ」という発想は、私には分かりません。
私の個人的な経験から言えば、確かに「私は自分がやりたいからやっている」
という思いはあっても、「手伝いは結構です」と断ったりはしないからです。
ある事を実現しようとすれば、どうしても他人の協力が必要になるし、
自分が出来る事には限度があるので、手伝ってくれる人がいれば渡りに舟と
思ってしまうからでもあります。
ついでに言えば、「こんな事をやってくれる人がいないかな」と思い、それを
実際にやってくれる人がいるのなら、その人を陰でサポートする方が気楽で
いいなと、怠け者の私は思ってしまうのです。
p127
カント道徳説への批判
この自己意識である「「健全な理性」(皮肉っている)は、まず、何が正しくかつ善であるか
を「直接(無媒介)」に知っており、かつ、この命令は「無条件」に妥当するものだ、
と主張する。 つまり、善に関する「直接知」と「無条件性」とを健全な理性は主張する
(これはカントの道徳説。 カントはどんな人間のなかにも道徳法則があり、それは
「汝の格率(自分なりのルール)が万人に妥当する普遍性をもつかどうかを吟味せよ」と
命令してくる、と主張した。 そして、自分の格率を吟味して普遍的なものとする作業を、
「普遍的立法」(万人に妥当する道徳の掟をみずから立てること)と呼んだ。
p128
・・・健全な理性は「自分もそういうつもりだった」と語って命題を改善し、「各人は、
真実についてのそのときどきの自分の知識と確信にしたがって、真実を語るべきである」
とする。 しかしこうなると、この命題はもう無条件なものではなくなってしまう。
==>> このカントの命題は、完全な性善説に立たないと無理だろうなと思います。
それに「万人に妥当する普遍性をもつかどうかを吟味せよ」なんて声が聞こえて
きたとしても、そういう能力が万人にあるとも思えないですからね。
そこで、ちょっとカントの本を振り返ってみます。
波多野精一著の「宗教哲学序論・宗教哲学」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/08/blog-post_23.html
「p545
そこで、過去に読んだ「NHK「100分で名著」より西研著「カント:純粋
理性批判」」の感想文を振り返って、カントの批判哲学がどのようなものだった
かを復習してみます。
カントさんが考えたのは、時間・空間という枠組みの中で感性によって対象を
認識し、それを純粋概念の枠組みの中で悟性によって判断し、それを元に理性
でいろいろな推論をするってことのようです。
そして、その理性は暴走して、答えの出ない領域である物自体の叡智界に迷い
込むという話らしい。
そこで西研さんがこのように解説しています:
「実践理性は「完全なる道徳的世界とそこでの生き方」を理念として思い描き、
それをそのまま実現するように命じる・・・」
「現実世界にあって、道徳的に正しく生きることを支えてくれるのが、
神への信仰であるとカントは述べます。」
「人間は、みずからを道徳的存在として完成させるために死後も修練しなけ
ればならない、とカントはいいます。」
・・・しかし、カントさんが「実践理性批判」において、まるで空海のように
死後も修練しなければならないとした・・・・
・・・ということでしたので、結局カントさんは、最終的には哲学が宗教的な
世界に入ってしまったようです。
そのことを、ヘーゲルは「健全な理性」と皮肉ったのかもしれません。
「健全な」ということ自体が条件付きですもんね。
p130
音楽や文学の何かの作品に出会って「これぞほんものだ!」と思う。 そんな経験を
皆さんもしたことがあるだろう。 「事そのもの」とは、そのようにして信じられる
「これぞ文学(文学そのもの)」「これぞ落語(落語そのもの)」などのような、理念を
指す。 プラトン風にいえば、文学のイデア、落語のイデアと言ってもよい。
p131
・・・「事そのもの」には、狭義の表現の領域を超えて、「ほんとうの教育」とか、「ほんと
うの看護」といったものもふくまれる、・・・
ポイントは、さまざまな試行と相互の批判が生き生きとおこなわれることによって、
なにかしら「真実なもの」が人びとのあいだに信じられるということにある。
==>> 私の経験でいうならば、
哲学の分野では、二十歳ごろに読んだショーペンハウエルの「哲学入門」がそれ
でしたし、落語の分野では惜しくも自死した天才落語家・桂枝雀でした。
桂枝雀(二代目) - 幽霊の辻
https://www.youtube.com/watch?v=OifjFV3idRQ
枝雀さんの落語はまさに「これぞ落語」と呼ぶべきものだったと思います。
しかし、ここで「さまざまな試行と相互の批判が生き生きとおこなわれることに
よって」というポイントが今一つはっきりしません。
p131
他者はどちらが上位にいくかを競うものではなくなって(赤裸々な承認の競争や主奴関係
ではなくなって)、ともに「真実なもの、真に意義あるもの」を求め実現する仲間として
の意味を持つようになる。
・・・文学や教育などの制度も、事そのものを実現しようとする個人にとって外在的な
ものではなくなり、自身の試行と批評を支えるものという意味をもつようになる(もち
ろん、制度を批判してはいけないということではない。 事そのものの経験は、制度が、
さまざまな試行や批判を許し「事そのもの」の実現へ向かうものになっているかどうか
を検証する姿勢と結び付くだろう)。
p132
もし個々人の自由な試行と批評とが、真実なものへの「信」をもたらすものとなるならば、
自由を否定する理由はなくなる。 自由が美しい果実をもたらす可能性をヘーゲルは
描いたのだ。
==>> ああ、ここに来て分かりました。
個人と社会の繋がり方が、自由によって可能となるという意味だったんですね。
個人の意識、自分の意識という視点だけならば、社会は不可知な他者であると
思ってしまうんですが、なんらかの事をなそうとする行為を通じて、個人の
意識が寄り集まり、個人を支える社会制度になって、社会を包含するという考え
方も納得できそうな気がします。
これで、第三章を終わりました。
次回は「第四章 精神」に入ります。
=== その4 に続きます ===
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