立花隆著「臨死体験」を読む ― 4 三島の「仮面の告白」、教会はなぜ体外離脱・臨死体験を悪魔の仕業だとするのか
立花隆著「臨死体験」を読む ― 4 三島の「仮面の告白」、教会はなぜ体外離脱・臨死体験を悪魔の仕業だとするのか
立花隆著「臨死体験(上)」を読んでいます。
「第六章 記憶の深層」
p203
・・・自動書記においては、書かせる主体が自分は誰々であると名乗りをあげるという
ことがよくある。 その場合、それは通常、霊的ないし神的存在である。
大本教の根本経典は、教祖出口ナオが自動書記した「お筆先」と呼ばれる文章集だが、
その中で、お筆先を書かせた神的存在は、自分を「キツネやタヌキではござらぬぞ。
ウシトラの金神があらわれたのじゃ」と名乗りをあげている。
例の「幸福の科学」の大川隆法も、はじまりは自動書記である。
・・・そして、「おまえは、なにものか」とたずねると、「ニッコウ」と署名します。
日興上人だったのです。
p204
自動書記の実例は、・・・・文章だけではない、自動書記で作曲がなされることもある。
イギリスのローズマリー・ブラウンという女性の場合は、ベートーベン、バッハ、ショパン、
シューベルト、シューマン、ラフマニノフなど、有名な作曲家の霊が自分に次々に
乗り移ってくるといって、六年間に四百曲もの曲を書いた。
・・・そのいくつかはちゃんとした交響楽団の演奏でレコードにもなっている。
==>> 前回その3でも自動書記というのが出てきましたが、これは「誰かに書かされる」
それが書く本人の意志ではなく、なにかが降りて来て書かされるということ
なんです。
だから、書く本人は筆記道具を手に持つだけということのようです。
自動書記ではありませんが、ノーベル賞の湯川秀樹博士にも、これと似た経験
があって、その短いメモによってノーベル賞を取ったというエピソードがある
ようです。
理論物理学vs仏教哲学 「神と人をつなぐ宇宙の大法則」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_0.html
「p161
夜、寝ていた湯川先生は、雷の音でふと目が覚めた。そのとき、目覚める直前に、
夢の中の自分が「中間子理論」というものを考えていたのを覚えていた。
雷の音で突然目覚めたから、まだ鮮明に記憶に残っていたんでしょうね。
湯川先生は、常に枕元に、・・・・あれ(紙)を置かれていた。・・・夢の中で
自分が考えた中間子理論を、その紙に書き留めて、また寝た。で、翌朝見たら、
「あっ、これはすごい」というので論文にして、それがノーベル賞ですよ。
論文はわずか2~3ページで、すごく短いんです。確か数式は三つくらいしか
なくて、非常に初歩的。 それでノーベル賞なんですよ。
p166
岡潔は寝ている間に情報を得ていました。 寝ている間というより、ときどき
意識がなくなって仮死状態になり、あっちの世界に行っては、さまざまな数学的
真理を見てきたようです。 帰ってきて、パーッと論文を書き、世界的に有名な
多変数関数論の理論を完成させました。」
・・・世の中いろんな不思議なことがあるものです。
そういう経験のない凡人の私には口を挟むこともできません。
p205
一般に科学というのは、・・・常ならざるものに対すると、それに異常現象のレッテルを
貼って分類してしまい、それで事足れりとしてしまう傾向がある。 だが本当にそれで
すませてよいのだろうか。 そうする限りにおいて、科学は、日常的で月並みな世界に
自らを限定してしまうことになる。 ・・・科学は真の普遍性を失ってしまう。
これに対して、芸術はアブノーマルなものをすすんで受け入れようとする。日常性と
月並性は、芸術の創造性にとっては敵である。
p206
物理学がニュートン力学からアインシュタインの相対性原理に発展することでどれだけ
より多くのことが説明可能になったかというと、・・・・日常の世界では常識的に全く
考えられないような異常な現象でしかない。 ・・・それも包含するように説明原理を
拡大することで、物理学はかくも発展してきたのである。
p207
真の精神科学は、より多くのアブノーマルな精神現象を説明可能にする方向に発展して
いかなければならない。
==>> ニュートン力学もほとんど分からない、相対性原理など全くわからない、私の
ような凡人でも、科学にはそうであって欲しいと思います。
私がいろいろ本を読んでいるのも、意識という精神現象はどんなメカニズムに
なっているのかが知りたいからなんです。
なぜ知りたいかというと、自分という人間の指向性・志向性・嗜好性が
特に自分の意志でもないのに、なぜあるのかが不思議でならないからです。
不思議でならないものを知らないままにしておくのって、気持ちが悪く
ないですか?
宗教も好きなんですが、なぜってところの説明がないですからねえ、すっきり
しないんですよ。
p222
モース医師がいうように、人間の記憶能力、知的能力の発達が従来考えられていたより
はるかに早くはじまっているということは、近年の心理学的研究が明らかにしている。
特に記憶については、人によっては、胎児時代にまでさかのぼることができるし、潜在的
に出生時の記憶を残している人は少なからずいるということも明らかになっている。
p223
そういった潜在的記憶を引き出すためによく使われているのが、催眠術をかけて年齢退行を起こすことである。 ・・・・その時代の記憶を呼び覚まして、いろいろのことを語る
ようになる。
==>> 生まれる前の胎児の時の記憶をもっている人がいるなんて信じられませんが、
それが本当だとすると、お釈迦さんが誕生すると同時に「天上天下唯我独尊」と
言ったというのも、あながち嘘じゃないかもしれませんね。(嘘だと思いますが)
私は記憶力がよくないので、余程のエピソードがないとほとんど覚えて
いません。 エピソードがあっても、詳細に記憶しているということもあり
ません。 特に人の名前などは覚えられません。困ったものです。
もし出来ることなら、この催眠術で年齢退行を起こして、私が小学生の時に
崖から落ちて一旦死んだときの記憶をとりもどし、あわよくば、その時の
臨死体験も取り戻せないものかと夢想しています。
p225
三島由紀夫は、「仮面の告白」の冒頭で、自分は生まれたときのことを覚えているとして、
次のように書いている。 ・・・・・
p226
主人公の告白という体裁をとっているが、三島は生前、これは自分自身の記憶であると
人に語っている。 しかし一般には、それは三島特有のはったりと受け取られ、その言葉
どおり信ずる人はいなかった。
・・・しかし、・・・出生時体験を記憶する人間が結構いるのだということを知った今では、
あれはやはり、三島の本当の記憶だったのではないかと思い直している。
p227
ここで知っておいていただきたいのは、生後すぐの赤ん坊にも、このような記憶能力が
あるということである。 その記憶能力は、臨死体験とか体外離脱体験などに対してだけ
働くものではない。
==>> 詳しい内容は「仮面の告白」をお読みください。
ここでは引用が長くなるので割愛します。
私の相棒は一番最初の記憶はおよそ3歳ごろ、母親の社員旅行に一緒に行って、
そこで大人たちが揃って記念写真を撮っている間、ちょっと離れたところに
置いておかれて、母親が戻ってこないんじゃないかと恐れた記憶だそうです。
私自身の場合は、何歳の頃か分かりませんが、保育所で女の子たちや先生が
お遊戯会の踊りの練習を、舞台の上でやっているのを観た記憶や、そこで飼って
いたウサギに大根の葉っぱを包丁で切って餌をやった記憶が最初だったように
思います。
さて、ここで「私の仮面の告白」なんですが、上に書いたお遊戯会の舞台を
眺めていた記憶についてです。
この時に眺めていたのは、舞台の下から舞台で踊っている女の子や女の先生
たちのスカートの中を覗き見していた記憶があるんです。
そして、なんだか悪いことをしているような感覚があったことも覚えています。
そして、今振り返って考えてみると二つのことが気になるんです。
ひとつは、4~5歳児にも性的な欲求があるのかということと、もうひとつは
そのような欲求に対してなんらかのやましさや罪悪感みたいなものがすでに
あるのか、ということです。
まず、最初の幼児における性的な欲求というか行動についてなんですが、
こちらのサイトにこのように記述されています。
「幼児性欲」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%BC%E5%85%90%E6%80%A7%E6%AC%B2-145698
「S.フロイトは幼児にも性欲の活動がみられると考え,これを幼児性欲と名づけ
た。幼児性欲は性的ではあるが,性器的ではなく,その性感帯は自己保存の本能
的な活動をする器官と一致している。すなわち,おしゃぶりに代表される口愛,
排便を快感とする肛門愛,身体の洗浄や摩擦で感じる快感などが日常的に観察
される。3~5歳頃には性に関する好奇心が高まる。やがて自分以外の人間に
対する性欲が芽生えるが,最初は男女いずれにとっても母親が対象になる。
次いで異性の親が対象になるが,やがて禁止,抑圧されて,潜伏期に入る。」
・・・フロイトさんは、なんでもかんでも性に根拠を求めるという噂ですが、
いずれにせよ、大学などで心理学を学んだ人ならこの辺りの話は常識として
ご存知のことだと思います。
私は二十歳の頃は、心理学より哲学の方が好きだったので、今回初めて読み
ましたけど・・・
さて、問題は幼児における性に関する罪悪感とかやましさの気持ちなんです。
特にそのようなしつけ教育や宗教的訓練もされていない幼児の年代で、その
ような感情が働くのかどうか。
この疑問に関しては、インターネットで検索しても、ズバリというものはあり
ませんが、ちょっとヒントになりそうな記事はこちらにありました。
https://kodomo-manabi-labo.net/erikson-development-theory
「【遊戯期(play age)】3歳~5歳
【心理社会的危機】自発性・積極性対罪悪感(initiative vs. guilt)」
「あれもダメ、これもダメ」と親に止められ、話しかけても「静かにして!」
とうんざりされてばかりでは、子どもはどう感じるでしょう。「やりたいことを
するのは悪いこと」「知りたがることは悪いこと」と、罪悪感を覚えてしまうの
です。」
「エディプスコンプレックスとは?時期・特徴・克服」
https://spitopi.com/blog/20180521113625.html
「子供は精神分析で「男根期(3、4~6歳)」と呼ばれる発達段階の時期に、
「親との心理的・性的な無意識の葛藤」であるエディプスコンプレックスを経験
することで、「社会性・異性の親からの自立性」を段階的に身につけていくの
です。」
「男根期(エディプス期)には自分の性器・性別の区別を自覚しやすくなり、
「異性の親に対する漠然とした性的関心・欲求」を感じやすくなります。男根期
は性自認によって、男性と女性としての違いに基づく欲求が発生しやすい時期
で、性的欲求が介在するエディプスコンプレックスが強まりやすいのです。」
「しかし、精神発達のプロセスが順調に進まなかった場合には、「思春期・青年
期(10代後半~20代前半)」においてエディプスコンプレックスが再発する
ケースもあります。」
「エディプスコンプレックスの特徴として、子供が想像で「同性の親(主に父親)」
から「異性の親(主に母親)」を奪い取ろうとして、父親から報復(復讐)の処罰を
受けるのではないかという不安を覚えやすくなるということがあります。
・・・・この父親から処罰される不安のことを「去勢不安」と呼んでいます。」
・・・えいやっぱ~~なんですが、上記のような心理学的要因があって、罪悪感
とか不安感を覚えるというのが底辺にあるのでしょうか。
つまり、私が幼児期にそのような性的感覚を持ち、罪悪感みたいなものを感じた
というのは、フロイト心理学的には、当たり前だということになりそうです。
ちなみに、私の生家は父ちゃん・母ちゃん零細企業の和菓子屋でしたので、
両親は多忙でかまってくれず、十五歳も年上の長女が、母親代わりに私の面倒を
見てくれました。
p229
フィンランドでは、ルーテル派が国教になっています。 といっても、本当に信仰深い
人は5パーセントくらいで・・・・・教会は大変な権力を持っています。
私の本が出版されてしばらくしてから、教会が体外離脱現象とか、臨死体験、輪廻転生、
死者との交感といったことについてどう思うか世論調査をしました。
すると、15%の人が死者との交感体験があるといい、12%の人が、臨死体験ないし
体外離脱を体験したと答えました。
教会は大変な危機感を持ったようです。 そこで教会は、そういう現象はすべて悪魔の
仕業で起きることだと宣伝する一大キャンペーンをはじめました。
・・・かなり多数の人が輪廻転生を信じているという結果が出ました。 実に17%もの
人が信じているのです。 ・・・女性にかぎると、22%にものぼりました。
教会に定期的に行く人の12%、政治的保守派の10%、共産主義者の22%が輪廻転生
を信じている・・・・
==>> 私の正直な感想を言えば、教会は何故そんなことが怖いんだろうと思います。
元々、旧約聖書の「モーセの十戒」にせよ、イエス・キリストにせよ、
絶対的な唯一神がいて、その言葉を拠り所にしている教会なんだろうと理解
しているんです。 もしそうならば、体外離脱や臨死体験で出てくる神のような
存在はその絶対的な唯一神であると言えばよさそうなものですけどね。
もちろん、「輪廻転生」の話になると聖書には一切出て来ないそうですから、
都合が悪いんでしょうが・・・・
そこで頭に浮かんだのが、過去に読んだ村本治著「神の神経学」です。
この本には、「内なる神」と「外なる神」を私が成程なという程度に区分して
ありました。
(ちなみに、この本は私のイチ押しの本です。宗教と科学を上手く統合して
書いてあると思います。)
村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-a880cd.html
「p206
・・・創始者の「内なる神」を「外なる神」に投影し・・・唯一絶対の一神教が、
ユダヤ人やアラブ人などの本来遊牧民族の中に発達したのは偶然ではない。
彼らは常に異民族と対決し、その歴史は攻めたり攻められたりの繰り返し
であった。 そのような社会では、民族を安定して統一していく力強い、
「外なる神」がどうしても必要であったのである。
・・・「内なる神」は外側からの投影ではありえず、むしろ無意識の中に
眠っていた状態から発見されて意識の舞台に引き上げられなければならない・・
p209
神経回路から宗教国家までの関係を、「悪魔」と「神」とで対照する形でまとめ
てみると・・・・
―「内なる悪」から異教、敵国の悪魔化までの発展過程―
―「内なる善」からの宗教団体、宗教国家までの発展過程―
p210
「外なる神」を強調する宗教は、悪魔もまた外に投影され、実際の人間、団体や
国を悪魔と同定する。 このような宗教は、どうしても外部に向けた戦いの活動
が、必然的に宗教活動の一部となる。 これが「聖戦」である。
それに対し、「内なる神」を強調する宗教は、悪魔もまた内在化され、それは
信仰生活の中で、自己の内部での克服の対象とされる。」
・・・この理論を使えば、「共産主義者の22%が輪廻転生を信じている」と
いうデータもなんだか納得できそうに思います。
「輪廻」については、一応仏教用語ということになってはいるようですが、
西欧、ギリシャを含めていくつかの宗教に共通の思想であるようです。
https://kotobank.jp/word/%E8%BC%AA%E5%BB%BB-150461
「霊魂が,人間,動物あるいは場合によっては植物などと,1つもしくはそれ
以上の存在に次々に生れ代っていくとする思想,信仰。普通アジアの宗教や哲学
に顕著であるが,原始宗教,古代オリエントの宗教,マニ教,グノーシス主義,
さらには神智学など現代の宗教運動にも輪廻の思想が見出される。インド古来
の生死観では,saṃsāraと呼ばれ,たとえば,ウパニシャッドの哲人ヤージュニ
ャバルキヤは,輪廻を業の思想に結びつけ,アートマンとブラフマンの合一に
よる解脱を説いた。不変の実体霊魂を認めない仏教では,人間行為の結果として
の業そのものが輪廻すると考える。」
(グノーシス主義は、地中海世界に興った宗教思想運動だそうです。)
次回は「第七章 超能力の虚実」から読みましょう。
=== 次回その5 に続きます ===
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