辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 4 海のシルクロードから東南アジアへ、カレーライスはインドには無い?

辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 4 海のシルクロードから東南アジアへ、カレーライスはインドには無い?

 

 

今回は「インド文化入門」を読んでいます。

 


  

「8 デリー・スルタン朝の遺跡 ― ムスリム政権とインド社会」

 

p127

 

イスラーム教との本格的な接触に基づくインド社会のイスラーム化ということになると、

それは、11世紀以降の、アフガニスタンからのカズニ、ゴール両朝の侵攻からなのである。

 

・・・10世紀後半アフガニスタンにイスラーム化したトルコ系のガズニ朝、12世紀後半

にゴール朝が勢力を持つようになると、彼らはインドへの侵入を繰り返した。

 

p132

 

ムスリム人口が増大したのには、スーフィーと呼ばれるイスラーム神秘主義の聖者

たちによる教化活動が大きかったというのである。 ・・・三人が有名で、彼らは

ムスリムの崇敬を得たばかりでなく、ヒンドゥーの行者たちにも人気があったらしい。

 

p133

 

スーフィズムは10世紀ごろから盛んになってきたイスラーム教における神秘主義で、

神への愛、神についての神秘的知識をもとに神との合一を説くものであるが、似たような

考え方はヒンドゥー教のバクティ思想の中にも見出せる

 

==>> まず、このスーフィズムをチェックしておきましょう。

     動画ではこちらが参考になるかと思います。

     https://www.youtube.com/watch?v=Nshku6DjA1Y

 

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC-84701

     「イスラム教徒の中にも,もっと積極的に音楽や舞踊そのものを典礼の中にとり

入れ,これに陶酔することによってアッラーへの帰一を達成しようと考える

一派がある。スーフィーと呼ばれる神秘主義者がそれで,11世紀の神学者

ガザーリーの音楽擁護論がその隆盛の誘因となったといわれる」

 

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0-84702

     「イスラムの神秘主義。この派の初期の行者 (スーフィー) がスーフ (羊毛)

の粗衣をまとっていたのでこの名があるとされている。8世紀末にイラクで初め

てこの名が使われ,11世紀にすべてのイスラム神秘主義者に対し用いられた。

イスラムは実際的な宗教として発展したが,初期には禁欲主義的で現世よりも

来世に幸福を求める面が強かった。この傾向を受継いだのがスーフィズムで,

修行や思索の助けをかりつつ神を愛することによって神と一体になる無我の

恍惚境を目的とするにいたった。」

 

     ・・・神と一体になるという表現はバラモンの「梵我一如」や密教の「即身成仏」

との関連を連想させますね。

 

p135

 

新しく建てられたムスリム聖者の道場や廟にヒンどぅー教徒がすすんで足を運ぶと

いった事態が起こったのである。 両者の接点がバクティ信仰とスーフィズムにあった

ことは・・・ムスリムの家庭で育ちながらバクティ信仰に影響され・・・

 

・・・つまりそこでは、イスラームは「文化」としてとり入れられているのであり、

それ故に、ヒンドゥー文化とイスラーム文化、両者の共存と融合が可能だったのである。

 

==>> バクティ信仰についてはこちら。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E4%BF%A1%E4%BB%B0-1391155

 

     「ヒンドゥー教における,最高神への絶対的な帰依の信仰」

 

     ・・・この「文化」としての受け止めというのは、少なくとも私自身は、

     神道にしても仏教にしてもそのような感じです。

     まあ、いい加減ということなんでしょうが。

     宗教が原理主義的になると、戦争になりますからね。

 

p137

 

十五世紀初頭、明の大船団を率いて南海に乗り出した鄭和に随行してケーララのコチ(柯枝

国)を訪れた馬歓は、その国の王が腰に小さな布をまとうのみで、上半身はだかであった

と旅行記「えい涯勝覧(えいがいしょうらん)」に記している。 馬歓は、国王の頭に

ついては、「黄白の布を頭にまとう」と述べている。 これは恐らく、ターバンのように

布を巻き付けているということと思われる。

 

==>> 上記はいわゆる「ターバン」のようなものが高い位にある人の印みたいに

     なっていることを書いているんですが、今現在の辞書では、以下のように

     説明されています。

https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3-94073

     「イスラム教徒やインド人の男子が頭に巻いている布。普通はもめんまたは

羊毛織で、ターブーシュと呼ぶふちなしのフェルト製の帽子の上または直接頭

に巻く。色や巻き方により宗派・部族・身分などを表わす。」

 

p141

 

ヴィジャヤナガルの王たちが、ヒンドゥー王権の王としての種々の称号に加えて、

「ヒンドゥー王たちの中のスルタン」というそれまで聞いたこともない称号を用いた

ことを挙げている。 スルタンに宗教的意味が籠められていたはずはなく、スルタンと

いう語は、当時の国際社会にあって、一般に王権を意味する文化語であったのである。

 

==>> スルタンという言葉は、フィリピンでも時々聞くことがあります。

     もちろん、フィリピンの南部にはイスラム教徒が住んでいますし、

     スペインがフィリピンを植民地にする前の時代には、マニラ周辺にも

     イスラム教徒の王国があって、スルタンもいたようです。

 

     そして、フィリピンの歴史教科書によれば、インドからの影響もかなりあった

     と書かれています。

     

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 10 「猿・カニ合戦」はインドから・・」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/03/10-c361.html

     「― フィリピンに於けるインドの影響

― 東南アジア経由でやってきた何世紀にも渡るインドからの影響は、

フィリピン人の生活や文明化に明らかな足跡を残した.

 Alfred L. Kroeber博士が述べるように「どのように太古の遠く離れたもので

あろうと、現在の文化の要素の中に、インド起源の足跡を見ることのない

フィリピンの部族などはない.

 

おまけに、「ジパング」はフィリピンだったという説もあるんです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/03/09-fb6f.html

「特にスペインが手中にしたフィリピンについては、どこで金が取れるかなど

の黄金情報があふれていた。一方日本では金がとれるのかなどの情報は見あた

らない。地図を見ると日本はかなり北にあり、島ではなく半島との認識もあった

こともわかり、「ジパング」はフィリピンを中心とした多島海地域を指したとの

考えに的場さんは至った。 」

 

 

「9 海のシルクロードとインド ―― 胡椒・陶磁器・島」

 

p145

 

精神文化に目を向ければ、仏教・ヒンドゥー教を東南アジアにもたらしたのもインド

あり、イスラーム教を受容して東南アジアへと仲介したのもまたインドであった。

海のシルクロードでインドが果たした役割は多彩である。

 

==>> これに関しては、すでに上に書いたように、フィリピンでも様々に

     影響があったということになります。

 

 

p149

 

そもそも、紀元1~3世紀にローマとインドの間の貿易が盛んに行われたのは、東西

両地域での経済の発展によるものであるが、航海技術的には、船乗りヒッパロスに

よって、季節風を利用した航法が発見され、沿岸伝いでなく、比較的大型の帆船に

よって両地域を直接に行き来することが出来るようになったからである。

 

・・・黄金島を求めて海を渡ったのは商人だけではなく、職人もいたらしく、クロントム

からは、四世紀のブラーフミー文字でタミル人の金細工師の名が彫られた試金石が発見

されている。

 

インドからは、そのような商人や職人に混じって、バラモン、仏僧といった宗教者も

新天地に向かって船出をした。

 

==>> 「ヒッパロス」が気になったので、確認してみましょう。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%AD%E3%82%B9-120210

     「【ヒッパロスの風】より

海上交易を行っていたアラブ商人たちは前1世紀の中葉に,この季節風を

利用すればインド洋沿岸ルートよりも航海が早いことを知った。前1世紀の

ギリシア人ヒッパロスHippalosが発見したという伝承によってこの名で呼ばれ

るが,実際にはギリシア人以前にフェニキア人,インド人などが利用していたと

考えられる。」

 

・・・これを読んでみると、「ヒッパロスが発見した」というのは、書いたもん

勝ちという感じですかね。

1世紀の大プリニウス」が彼の博物誌に既に書いていたよという記述も

あるようですし。

いろんな物事の発見者が誰々と教科書に書いてあっても、詳しく歴史を

調べると、その人より前に別の人が発見していたってこともあるようですし。

名前が歴史の残るのは、ノーベル賞受賞者ってことになるんですかね。

 

p156

 

元朝自身はイスラーム教を信奉したわけではないが、そこではイスラーム教徒が優遇

され、行政官に多く東洋されたこと、さらに、モンゴルの内紛によって東西を結ぶ

陸路がふさがれたことも大きな意味を持っていた。 13世紀に陸路中国にやってきた

マルコ・ポーロは、帰りは海路で、元皇帝からコカチン姫をイル汗国王の許に送り届ける

役目を負わされて旅をしたのであった。

 

==>> ここでは、中国側からの視点で、なぜ海上交通が発達したのかの理由を探って

     いるんです。要するに、モンゴル周辺の陸路が難しくなっていたということ

     のようです。

     しかし、この頃は、「イスラーム教徒が優遇され」ていたというのが、今とは

     雲泥の差がありますね。

     今の中国がアフガニスタンをどのように扱うのか、興味津々です。

 

p157

 

南インドの諸王朝も騎馬隊増強の目的で、こぞって西アジアから馬を輸入した。

南インドには元来馬はいなくて、飼育法も判らず、暑さによって直ぐ死んでしまうので、

次々と補給しなければならない。 マルコ・ポーロも述べているペルシア湾のキーシュ

(キシ)島からは、年に一万頭もの馬がインドに向けて輸出されたという。

 

p159

 

中国の泉州には、13世紀のタミル語の刻文が残っている。 サンバンダ・ベルマールと

いうインド人が元皇帝(?)の許可を得て、泉州にヒンドゥー教の寺院を建立したことが

判明する。 寺院の建立は多数のヒンドゥー教徒が居住していなければ、起こり得ない

話である。

 

==>> なるほど、軍備と宗教ですか。

     馬の飼育法も判らず・・・って、専門家の派遣とか研修とかやらなかったの

     かなあ。 少しはやったんでしょうけどね。

     唐の時代の宗教的状況については、最澄さんや空海さんが仏教を日本に

持ち込んだ後に、円仁の「入唐求法巡礼行記」が 838年から847年まで

の十年間に及ぶ慈覚大師圓仁の中国旅行日記として残されています。

 

「狂歌で辿る 円仁著「入唐求法巡礼行記」」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/07/post-75c3df.html

 

この本を読むと、唐の長安はたいへんな国際都市であったようでして、

いろんな宗教が勉強できる環境にあったようです。

特に空海さんは、語学の天才だったようで、収穫が大きかったようです。

もっとも、この円仁さんが唐に居た頃から、道教以外への弾圧が始まって

いるんですが・・・

 

 

「10 カレー文化論 ―― 南アジアの統一性」

 

p165

 

ボーイはカリーアンドライスを理解できなかったのである。 それは何故か。 インドには

カレーライスなるものがないからである。 

 

p167

 

それはたくさんのスパイスを用いた総合混合調味料であって、言ってみれば、日本料理

のショウユのようなものである。 そこまで判れば、ボーイがカリーアンドライスと

言われてキョトンとした訳が、理解できようというものである。それは、日本のレストラン

で、「ショウユご飯を下さい」と言われたようなものだったからである。

 

==>> 日本のカレーライスの起源といえば、

 

     https://www.maff.go.jp/j/agri_school/a_menu/curry/01.html

     「カレーは18世紀、インドからイギリスに伝わりました。イギリスはインドを

植民地(しょくみんち)として支配しはじめており、インドのベンガル地方の

総督(そうとく)だったイギリス人が紹介したといわれています。

19世紀、イギリスで初めてカレー粉が作られました。インドにはカレー粉と

いうものはなく、いろいろなスパイスを組み合わせて、カレーの味をつくって

いるのです。もうひとつ、インドのカレーとのちがいは、小麦粉でとろみを

つけたところです。

明治(めいじ)時代は、アメリカやヨーロッパの文化が日本に積極的に取り入れ

られ、その中でイギリスからカレーが伝わりました。そのころの『西洋料理指南

(しなん)』という料理の本に、カレーの作り方がしょうかいされています。」

 

そして、日本海軍がイギリス式を見習って採用したという話も時々聞きます。

https://www.mod.go.jp/msdf/kanmeshi/tip2.html

「イギリス式のカレーを採用した日本海軍は、カレーを広く普及させるため

「5等厨夫教育規則」(明治22年)や「海軍割烹術参考書」(明治41年)など

にカレーの調理法を紹介しました。このように兵食改革の一環として、カレーが

広く普及して食べられるようになっていきました。」

     

     「国内最強ココイチが「インド進出」を決めたワケ」

     https://president.jp/articles/-/29549

     「カレーチェーン「カレーハウスCoCo壱番屋」がインドに進出する。国内では

1300店舗を展開し、盤石の地位を築いている。なぜわざわざカレーの本場・

インドに進出するのか。」

 

     ・・・ってことで、「CoCo壱番屋」がインドで成功したら、「カレーライス」と

     いう言葉が本場インドでも通用するようになるかもしれませんね。

 

p168

 

仏陀が苦行の無意味なことを悟って山を降りたとき、スジャータという娘が差し出した

のは、乳みであった。 仏典にはパーヤサと記されているが、それは乳粥のことで、

今日のインド料理にも、パーヤサは、ミルクを用いた甘いデザートとして残っている。

 

==>> パーヤサの作り方は、こちらでどうぞ・・・

     https://cookpad.com/recipe/4403537

 

     「ブッダのことば」には、以下のように書いてありました。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/04/post-e938.html

     「牛から生ずる薬についても、解説に書いてありました、

「牛から生ずる五味をいう。 すなわち乳と酪と生酥(ショウソ)と熟酥

(ジュクソ)と醍醐をいう。」

さらに、辞書によれば、「仏教では乳を精製する過程の五段階を「五味」といい、

「乳(にゅう)」「酪(らく)」「生酥(ショウソ)」「熟酥(ジュクソ)」の順に

上質で美味なものとなり、最後の「醍醐」で最上の味を持つ乳製品が得られる

とされた。」とあります。」

 

・・・ブッダは、医者でもあったようですので、乳製品を薬と捉えて

いたのかもしれません。

 

 

p169

 

13世紀にインドの半島を廻ったマルコ・ポーロも、スリランカの人びとは「米、乳、

肉を常食とし」、西インドのバラモン行者については「もっぱら米と乳のみを常食とする」

と述べている。

 

p170

 

時代が下がって16世紀にインドにやってきたヨーロッパ人の記録ともなると、味への

言及もあり、これはもう立派なカレーである。 

 

南インドでは、サンバ、クリャンブなどといって、汁状のカレーをご飯にかけて食べる

のが一般的で、このリンスホーテンの記事は、まさにそれを指している。

 

・・・そしてそのカーヤムは、コショウ、ウコン、クミン、マスタード、コリアンダール

の五点によって作るとされているのである。

 

カーヤムの組成である五つのスパイスは、・・・カレーのための基本的スパイスである。

 

==>> さて、ここで、どんなスパイスがあるのかを知りたい方は、こちらの

     スパイス専門店のサイトへどうぞ。

     https://www.mayabazaar.net/jp/spice/whole-spice.html

 

     海軍さんのカレーでは横須賀が有名のようですが、我が故郷・佐世保にも

     ちゃんとありますよ。

     https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2099/

 

 

== その5 に続きます ==

 辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 5 差別を描く社会派映画、 インドと日本 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

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