辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 3 不可触民アンベードカルの闘いと新仏教、 「梵我一如」と大日如来

辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 3 不可触民アンベードカルの闘いと新仏教、 「梵我一如」と大日如来

 

今回は「インド文化入門」を読んでいます。

 


 

「6 石造ヒンドゥー寺院壁の刻文 ― 王朝史・社会史を解く」に入ります。

  

p092

 

史書なきインドの歴史

 

インドの場合には、碑に刻むだけでなく、石造寺院の壁面に刻んだり、銅板に刻んだり

することが多いので、刻文という言葉を用いる。 さて、辻博士の言われるように、

インドには、日本や中国に見られるような編纂された「史書」がなく、それが歴史研究

を困難なものにしている。

 

p093

 

したがって、古代にどのような王朝があって、そのような王が統治したかを知ろうにも、

史書を紐解いて、というわけにはいかない。 そこで意味をもつのが、刻文である。

 

もちろん、インドには古代から伝わる豊富な宗教文献があり、それと並んで、文学作品

も全く史実を伝えないわけではない。 しかし、それらの殆どは成立年代がはっきりせず、

書かれた内容も史実かどうか判らず、年代が判る確実な史料となると、刻文なのである

 

==>> おお、これは不思議といえば不思議ですね。

     宗教文献や文学作品はあるのに歴史を伝える史書がないとは・・・・

 

 

p094

 

実は殆どは山腹に転がる大きな岩の比較的平らな表面に刻まれたものなのである。

法勅というのは、王の詔勅ではあるが、内容が、王の理想とする法(ダルマ)を説くもの

であるためである。 アショーカ王は紀元前三世紀のマウリヤ朝の王であるが、刻文を

今日に残した王としては最古の王であり、その刻文も、自己の統治の理念を記すなど、

大変にユニークである。

 

さらに、40を越えるそれらの刻文の分布は、アフガニスタンからガンジス川中流域、

さらに南インドのデカン高原に及び、その分布がマウリヤ朝の支配の広がりを示す・・・・

 

==>> マウリヤ朝については、こちらでチェック。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D-135517

     「古代インドの王朝(前317ころ~前180ころ)。紀元前6世紀から拡大して

きたマガダ王国の領土を継承して、インドを初めて統一支配した王朝。漢訳仏典

では孔雀(くじゃく)王朝という。」

 

「チャンドラグプタの統治は24年に及んだといわれ、その間に未曽有(みぞう)

の大帝国を建設した。南インド征服は彼のときに始められたのであろうが、

それは彼の子ビンドゥサーラによって達成されたのであろう。3代が有名な

アショカ(在位前268ころ~前232ころ)であって、彼は広大な領土を継承し

たうえ、即位9年目にカリンガを征服した。彼はこの征服戦争の悲惨さを反省し

て、仏教にいっそう帰依(きえ)するとともに、普遍的倫理(ダルマ)に基づく

政治を理念として掲げて、彼自身がその実現に精力的に努力し、官吏に命じて

人民の倫理遵守の徹底を期せしめた。」

 

「現存碑文はこのときから始まり、遺跡も遺物もその前代よりもはるかに多く

残っている。」

「仏教はアショカの庇護(ひご)のもとで急速に広がって、各地に僧院がつくられ

た。伝承によれば、アショカのときに仏典結集(けつじゅう)が行われたという。」

 

「また強力な軍事力を背景に強大な国家権力を維持し,道路網の整備や灌漑

(かんがい)事業を行った。行政機構も整備され,文化面でも小アジアやギリシア

と交流が行われた。」

 

・・・なるほど、刻文というのは、このようなアショカ王の仏教的な理想が

人々に向けて示されたということのようですね。

 

しかし、それにしても、強大な国家をつくって、官僚機構もそれなりにあった

んでしょうが、なぜ行政や外交文書みたいなものが残っていないのか、不思議

ですね。

 

 

p096

 

その後1830年代に入って、プリンセプの手で五世紀グプタ朝のブラーフミー文字

解読され、続けて同じくプリンセプの手で、時代をさかのぼったアショーカ王のブラーフ

ミー文字刻文が解読されたのである。

 

p097

 

実は、このブラーフミー文字は、紀元前6,5世紀のころから用いられはじめたと推定

されるのだが、その後次第に変化して、インド各地、さらには東南アジアにまで伝播

して用いられ、さらに発展して、それぞれの地で今日の文字となっているのである。

 

==>> ここで面白いフィリピンとの繋がりをみつけました。

     実は、かなり前にフィリピンにも古代文字があると何かで読んだので、

     もしかしてと思って検索したら、下のようなことが書かれていました。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%B3_(%E6%96%87%E5%AD%97)

     「バイバイン(アリバタ)はブラーフミー文字を先祖に持つ文字。過去の

フィリピンでタガログ語など様々な言語を表記するために使われていた。」

 

https://navimanilaph.com/in%e3%83%9e%e3%83%8b%e3%83%a9-sulat-mangyan-%e3%83%9f%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%ad%e5%b3%b6%e3%81%ae%e5%8f%a4%e4%bb%a3%e6%96%87%e5%ad%97%e3%82%92-%e5%ad%a6%e3%82%93%e3%81%a7%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6/

「国立博物館で見た「バイバイイン」といわれるフィリピンの古代文字が

逆ハート形で可愛い、と言ったことをしっかり覚えてくれていた先生が、

フィリピンの古代文字に興味があるなら面白い講座を見つけたから行かない

かと誘ってくれた。」

「これまでフィリピンの古代文字はバイバイインかと思っていたが、古代文字

も地域や時代でかなりの種類があるそうだ。前に国立博物館で見た

バイバイインは逆ハート形など曲線が多かったが、粘土などやわらかいものに

書いていたのだろうか。」

 

・・・インドからフィリピンの話が飛びましたが、それほどに、インドの文字が

広がりを持っていたってことですね。

 

p102

 

北インドの場合には、殆どがサンスクリット語のものであるが、その他アーリヤ語系

地方語のものと、さらに南インドのサンスクリット語刻文をも含めて、・・全部で

約三万ある。 南インドでは、・・・ドラヴィダ語系刻文が全体で六万近くあることに

なる。 その他に、ペルシア・アラビア語のものなどもあるが、インドに残る刻文と

しては、南インドのドラヴィダ語系刻文が圧倒的で、その主たる理由は、南インドには

古いヒンドゥー寺院が多く残り、その壁画に数多くの刻文が刻まれているからである。

 

==>> サンスクリットで私がイメージするのは、古代インドの文語としての言語で、

     多くの仏典がこの言語で残されているということぐらいです。

     お寺なんかでみかける梵語のことですね。

 

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88-513906

「インド・ヨーロッパ語族のインド語派に属する言語で死語。日本では梵語とも

いう。サンスクリットは〈完成された(言語)〉という意味。アベスター語

および古代ペルシアの楔形(くさびがた)文字で記された言語に,語彙(ごい)

音韻・文法が似ている。古代インドに侵入したアーリヤ人の上流階級が使って

いたベーダ語が源流で,前5世紀から前4世紀ごろインド北西部の言語を

基礎にパーニニが文語として固定した。これが古典サンスクリットである。

前2世紀にはプラークリット語と遊離し,学習すべき言語となっていた。

《ラーマーヤナ》《マハーバーラタ》の二大叙事詩をはじめ,文学,宗教,哲学,

文法などの古文献が多い。」

 

==>> さて、次の章は、私が一番興味を持っている仏教関連の話です。

 


  

「7 菩提樹の陰にて ―― インドとスリランカの仏教」

 

p110

 

インド亜大陸には、元来オーストロ・アジア、チベット・ビルマ、ドラヴィダなどの

言語系統を異にする諸民族が住み着いていたのであるが、紀元前1500年ころ、

アフガニスタンを経由してインド・・アーリヤ民族が侵入してきた。 彼らは初めの

500年間ほど、西北部のパンジャーブ地方に留まり、先住民族と共存していたので

あるが、紀元前1000年ころから東進をはじめ、ガンジス川流域に進出した。

 

p111

 

アーリア人の宗教は、元来は自然崇拝が主体で、雷、火、風、太陽などの自然現象を

擬人化して崇拝するものであった。 彼らが紀元前1200年ころに生みだした宗教

文献「リグ・ヴェーダ」は、それらの神への賛歌である。 宗教を司ったのはバラモンと

呼ばれる司祭たちであったが、やがて社会の中で彼らの力が強くなり、バラモンは祭礼

を執り行うことによって、神をも支配できると考えられるようになってきた。そこで

成立したのが、祭礼中心のバラモン教であり、それはほぼ紀元前800年ころのことと

考えられている。

 

そのようなバラモン教の隆盛がつづいたのち、それに対抗する新しい宗教として興った

のが、仏教はジャイナ教である。

 

==>> さて、ここで、バラモン教の祭礼中心主義と、それに対抗するブッダの

     関係が出て来ました。

     ブッダ自身は、生きていた間に仏教を作ったわけじゃなくて、バラモンたち

     の間にあって、独自の思想を広めたようですが、そのあたりのことは

     「スッタニパータ」(ブッダのことば)の中にも描かれています。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-cdd1.html

     「(8)賤しい人。 バラモン教の神。解脱。 

「怒りやすくて恨みをいだく、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を

奉じ、たくらみのある人、--かれを賤しい人であると知れ。」

生まれによって賤しい人となるのではない。 生まれによってバラモンと

なるのではない。 行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとも

なる。」

神々の道ーー神々の道とは「リグ・ヴェーダ」では神々が天界から祭場へ往来

する路、あるいは死者の霊が神々のもとへ赴く路を意味した。

 

解脱って言葉が、死んでから行くところだったものが、仏教においては精神的

な解脱の意味になったということのようですね。」

 

「(21) 絆を断て!

身を稟けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの

区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称による

のみ。

すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれること

のない人、-かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。人間の絆を捨て、天界の

絆を越え、すべての絆をはなれた人、」

 

「(27) 釈迦は宗教を否定?

「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかに

なることができる」とは、わたくしは説かない。 「教義がなくても、学問が

なくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることが

できる」とも説かない。 それらを捨て去って、固執することなく、こだわる

ことなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。

(これが内心の平安である。)

 

家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、

諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて

談論をしてはならない。

 

「祭祀や儀礼が宗教にとって本質的なものであるという見解に従うならば、

原始仏教は宗教を否定しているということになる。」」

 

「(35)祭祀をやるってことは、煩悩の最たるものだって

ブンナカよ。 かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。利得を得ること

に縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者ども

は、この世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり超えていない

とわたしは説く。」

 

・・・つまり、この「ブッダのことば」を読むと、バラモン教の祭礼主義に

明らかに対抗する思想であることが分かります。

そして「バラモン」の意味は本来はこうあるべきだと説いているようです。

 

p112

 

ブッダは、バラモン教の重視する祭礼ではなく、人びとに重要なのは正しい心の持ち方

あるという内面の教えを説いたのである。

 

p113

 

われわれのよく知っている輪廻の観念は元来アーリア人たちがもっていたものではなく、

先住民たちのものであったと考えられるのだが、ブッダは輪廻をたちきって解脱するため

には、出家して修行することが必要であると考えていた。・・・・部派仏教と呼ばれる

それ(大乗仏教)以前の仏教では、出家が重視され、出家しない一般の人びとは、

出家者集団のサポーターあるいはその予備軍としかみなされていなかったのである。

 

・・・最大のサポーターは国王と長者と呼ばれる都市の富裕な商人たちであった。

 

p114

 

仏教がガンジス川流域を超えたフロンティアに拡大して行くにつれて、仏教自体が

変質して行くことになったのである。 すなわち、・・・慈悲の実践を重んじ、在家の

生活を認める大乗仏教の思想が強まったことである。

 

==>> 確かに、出家して乞食(こつじき)として野や村を彷徨って修行をすると

     いうのは尊いことだと思うんですが、やはりそこはスポンサーがいないと

     集団となればなるほど難しいですからね。

     大乗仏教という形に変化したのは自然のなりゆきなんだろうと思います。

 

p114

 

それは、仏教の成立のころから自己改革を始めていたバラモン教が、ヒンドゥー教として

徐々に力を伸ばし、人びとの生活の中に根強く入り込んでいたからである。

ウパニシャドが思弁的内容を持つもので・・・・そこでは、日本でも知られている

「梵我一如」の考え方が説かれているのである。 宇宙には「梵」と呼ばれる宇宙の

原理があり、個人には「我」と呼ばれる自己の本質があるのであるが、この梵と我は

実は同じものなのであることを悟ることによって解脱できるとするこの考え方は、

すでにバラモン教的な儀礼とは程遠いものであった。

 

ヒンドゥー教はそのような新しい考え方を採り入れ、また土着の信仰とよくマッチした

シヴァ神、ヴィシュヌ神のような人格紳の崇拝をも発展させて人々の間に勢力を浸透

させていったのである。

 

p117

 

タントリックな密教が発達するにつれてその傾向はさらに強まり、七、八世紀以降、

仏教において大日如来の信仰が行われるようになると、仏教とヒンドゥー教の接近

決定的になる。 バラモン教の儀礼を復活させた点でも両者は共通し、このような両者

の接近は、インドにおける仏教の独自性、ひいては、その存在理由も失わせることに

なったのである。

・・・仏教に、最後の打撃を与えたのは、アフガン勢力の侵入であった。

 

・・・仏教僧院は第一にその餌食にされ、13世紀初頭には、壊滅的打撃をこうむった。

 

==>> いよいよ出てきました。「梵我一如」、そして大日如来です。

     この密教が、比叡山延暦寺の最澄さんや、高野山の空海さんたちによって

     日本にやってきたわけですね。空海さんの方が本格的でしたが。

     日本の密教も、確かに他の日本仏教と比べると、ヒンドゥー教でしょと

     言いたくなるぐらい仏教から離れているように感じます。

 

     私個人は、一応葬式仏教として真言宗のお寺さんに厄介になろうとしています

     ので、それなりに勉強しているんですが、一番面白い点は、曼陀羅なんかに

     現れている宇宙観です。

     今、並行して読んでいる立花隆さんの「臨死体験」の中にも、「梵我一如」じゃ

     ないかと思える様々な体験記が紹介されているので、興味津々です。

 

     ところで、tantric(タントリック)の意味なんですが、

     辞書では「タントラ教の、または、タントラ教に関する」となっていますので、

     「タントラ教」で調べてみましょう。

 

https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99-95348

     「シバ神の妃ドゥルガーまたはカーリーを崇拝するヒンドゥー教シバ派の一派。

その教えによると,永遠の最高実在としてのシバはブラフマンと同一視され

まったく非活動であるが,彼の神妃は活動そのものである。そこでその活動力

(性力 śakti) を重んじ,それに基づく救済を説く。」

「それぞれの活動力に応じて呪語が発せられ,それに神秘的な霊力が宿ると

考えられた。」

「仏教もタントラ教の影響を受け,パーラ朝 (750頃~1199) の頃から

タントラ仏教が盛んになった。即身成仏の思想から現世の快楽を肯定し,

人間の煩悩愛欲は抑制されるべきではなく尊重されるべきであるとした。」

 

・・・はい、まさに、「梵我一如」と空海さんの「即身成仏」、そして真言と

呼ばれる呪術、加持祈祷。 それに、危ない経典と言われている「理趣経」が

真言宗では大事な経典とされていて、お勤めでも読経されるようですから。

 

こちらの「葬式」のサイトでも、「理趣経」が読誦されると書いてあります。

https://www.osohshiki.jp/column/article/739/

理趣経(りしゅきょう)は般若経典のひとつで、真言宗でよく使われるお経

です。ほかの経典とは異なり、読誦することで功徳が得られると書かれています。

理趣経の大きな特徴的は煩悩に対して肯定的なところでしょう。理趣経には

情交などあらゆる欲望に対して肯定的な「十七清浄句」があります。人間が汚れ

た存在なのではなく欲望によって道を間違えることが問題であり、悟りの道へ

と励むのが大事という教えです。しかしこれらが曲解され、情交や欲望を肯定

するお経だと勘違いされることもありました。」

 

・・・曲解だかどうだか知りませんが、「情交や欲望を肯定するお経」があると

いうだけで、なんだか気持ちが解放されませんか。

キリスト教やイスラム教なんかでは、経典に書いてあることだけを熱心に守る

という原理主義もあるやに聞いていますけど、この「理趣経」がそんな扱いを

されたらどんなことになるんでしょうかねえ。

 

 

p118

 

インドの宗教の中で、より「合理的」と考えられる側面の多い仏教に関心を示す者も現れ

てきた。 ・・・ロンドンで仏陀の生涯について記すエドウィン・アーノルドの「アジアの

光」を読んで深い感銘をうけたガンディーも、その一人に数えることができる。

 

しかし、仏教に対する知識人のそのような関心が社会運動として実際の意味をもつように

なったのは、アンベートカルによっている。 彼はマハールというマハーラーシュトラの

不可触民の出身であったが、開明的藩王の助力をえてアメリカで勉強し、帰国後に不可触民

の解放運動に身を挺するようになった。

 

ガンディーも不可触民の差別撤廃を目指したが、彼はカースト制度そのものの存在を容認

したのに対し、自身不可触民として様々な差別に苦しんだアンベードカルはカースト制度

そのものに反対し、ガンディーと対立した。

 

==>> この記述の前に、「ヒンデゥー教の不合理な悪習」と書いてありますから、

     要するにタントリックな考え方は不合理だという話なんだと思います。

     つまり流れでいうと、密教も不合理だってことですね。

     確かにかなりスピリチュアルな宗教ですからねえ。

     そうでしたか、ガンディーさんはカースト制度自体は容認していたんですね。

     アンベードカルという名前は初めて知りました。

 

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%AB-429747

     「1920年ごろから不可触民制撤廃運動に献身。社会改革団体や政党を組織し、

大衆示威運動を指導した。独立達成よりも社会改革を優先させるという立場

から、ガンディーの指導する国民会議派の民族運動を批判。19301932年の

イギリス・インド円卓会議に、被抑圧階級の代表として出席した。インド独立後

は初代ネルー内閣の法相となる。また、憲法起草委員会の委員長として共和国

憲法の制定に中心的な役割を果たした。」

「死の2か月前の195610月に数十万の大衆とともに仏教へ改宗した。

アンベードカルの仏教はカースト制度を否定し、社会貢献を強調しており、従来

の仏教と区別して新仏教(ネオ・ブッディズム)とよばれることがあるが、改宗

者は自らを単に「仏教徒」と称する。」

 

 

「仏教国」スリランカ

 

p122

 

・・・スリランカの仏教は部派仏教であって・・・

インドと異なっていたのは、スリランカでは、仏教の伝来以前にバラモン教、あるいは

ヒンドゥー教が広まっていなかった点である。 ・・・インドとは逆に、ヒンドゥー教

の影響が強まった時には、仏教がすでに人々の日常生活の中に根をおろしていたのである。

 

 

p125

 

スリランカの仏教は、サンガ、国家、一般の在家の間でうまくバランスをとると同時に、

ヒンドゥー教、民間信仰、あるいはイスラーム教などともうまく折り合いをつけながら

存続してきたのである。

 

==>> スリランカ(=セイロン)については、インド仏教が大乗仏教になり、衰退

     した後も、ブッダの時代の経典を残していたというので、原始仏教あるいは

初期仏教の研究には重要とされているようです。

そこで「部派仏教」なんですが:

https://kotobank.jp/word/%E9%83%A8%E6%B4%BE%E4%BB%8F%E6%95%99-125612

     「根本仏教から分裂した諸派の仏教。前2世紀から1世紀頃までに成立。

釈尊の入滅から 100年ほどたった頃にそれまで一つにまとまっていた原始教団

が,戒律の実践と釈尊の人間性を重視する上座部と,絶対者としての釈尊への

信仰を重んじる大衆部に分裂,さらに大衆部から8部派,上座部から 10部派が

分れた。」

「現存のアビダルマ文献は主としてセイロン上座部と有部に所属するものが

多い。 

部派仏教の論師たちは原始仏教以来の三法印(さんぼういん)「諸行無常」

「諸法無我」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の意味をより精密に理解せん

と努め、釈尊の忠実な継承者を志したということができる。すなわち「諸行無常」

については無常の構造をより正確に説明せんとした。」

 

ところで、最近の日本仏教の潮流がどうなっているのか、私には見えないんですが、

時々下のサイトのようなスリランカ仏教などから学ぶグループがあるように見受けられ

ます。

https://peatix.com/event/2610616/view

「日本に初期仏教の教えと実践を伝え広めたスリランカ仏教長老のアルボムッレ・

スマナサーラ師と、評論家で自らを仏教者と名乗る宮崎哲弥氏による、仏教と幸せを

テーマにした対談。地球規模の大きな時代の転換点にあり、世界がコロナ禍で激しく

揺さぶられる今、2600年の歴史を持ち、生きとし生けるものの幸せを願い幸せの道を

説く仏教は、どのような力を持つのでしょうか。二人の巨人にお話しいただきます。」

 

 

 

=== その4 に続きます ===

辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 4 海のシルクロードから東南アジアへ、カレーライスはインドには無い? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

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