前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 4 ニューラルネットワークの小びとたちの学習法、「クララとお日さま」が実現する未来

  

前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 4 ニューラルネットワークの小びとたちの学習法、「クララとお日さま」が実現する未来

 

 

前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか ― 「私」の謎を解く受動意識仮説」

を読んでいます。

 

 


 

p177

 

私は大学で「創造と倫理」という科目を教えている。

 

p178

 

この授業の中で、・・・・・心を持ったロボットを開発してもいいか、ということを考えて

もらったことがある。 すると、過半数の学生が、危険だから開発してはならない、または、

基礎研究はしてもいいが製品化にはきわめて慎重になるべきだ、という判断を示した。

 

・・・私はこれには驚いた。

・・・SFの影響だろうか。 ・・・心を持ったロボットとは、人よりもずる賢く、

社会を破壊し人類を征服する悪役なのだろうか

 

==>> おそらくこれは、「ロボットとは、人よりもずる賢く」と言うよりも、

     そのロボットを開発する人間とそれを利用する人間の良心なり倫理観を

     信用することが出来ないということでしょう。

     最近のディープラーニングに基づくAIの開発においても、AIが

     聞くに堪えないような差別用語や侮辱的な言葉を多用するという

     ニュースがありました。 それほど、人間側に様々な問題があると

     いうことなのでしょう。

 

     「心を持ったロボット」で思い出すのは、カズオ・イシグロ著の未来を描いた

「クララとお日さま」です。

 

     


 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/05/post-13f09c.html

     「p177

改良人間の開発が、改良されていない人間に関して、大きな社会的、政治的

問題を生じさせるのは明らかだ。・・・望むと望まないとにかかわらず、次の

千年間に行われる確率が高いと言っているのだ。・・・人間とそのDNAは、

かなり急速に複雑さを増していくだろう。

 

==>> これは既にカズオ・イシグロ著「クララとお日さま」やそれより以前

の著書で表されているとおりだと思います。

     また、ハラリさんの「ホモ・デウス」でも近未来の様子が語られています。

     「クララとお日さま」では、人間が何らかの改良処置を受けてなんの処置も受け

ていない人間を差別したり、人間を支援するAIロボットが、そのバージョン

の違いによって偏見を持たれたり。揚げ句には、AIロボットの方が宗教的な

ものを信じて、人間との逆転が起こったり・・・人間性とは何なのかを考え

させます。」

 

 

p179

 

心を持ったロボットを作るとはどういうことだろうか。

それは、目的を自律的に生成する人工の小びとたちを作るということだ。

 

心は、小びとたちが織り成す巨大な連想ゲームの世界と、それを意識していると

錯覚している「私」から成るのだった。 トップダウンの存在はいない。

 

無意識の小びとたちの多数決の結果として、運動や行動のみならず、それらの目的自体

さえもが生成される。 ・・・・私たち人間がやっているように。

 

==>> ここに書かれているロボットのイメージは、この著者が言う「受動意識仮説」

     をロボットで実現すれがこのようになるということでしょう。

     人間の意識の構造を真似てつくればこんな感じの心を持ったロボットが

     作れるはずだということです。

     もしそうであるとすれば、この意識は人間の心のコピーということになります

     から、そのようなロボットを信用できるかどうかという話は、人間が人間を

     信用できるかという話に戻ることになりそうです。

 

 

p185

 

ロボットの心が、少なくとも機能の面で人の心とほとんど同じだということが確認され、

世の中一般に受け入れられるようになった際には、人の心の神秘性は消え去り、天国や

地獄、輪廻といった宗教の産物は完全に否定されるかもしれない。

 

==>> これはどうなんでしょうね。もし、人間そっくりのロボットが出来たら、

     上記の「クララとお日さま」に出てくるお友達ロボットのように、

     人間と同じように何かを信仰するロボットが出てきてもおかしくないように

     思います。

     人間には何らかの志向性があって、それが科学であったり宗教であったり

     芸術であったり、人それぞれの意識の赴くところがあるわけです。

     それがどこから来るのか、それも小びとたちの仕業なのでしょうが、

     その大元は多分DNAなのでしょう。

     しかし、それにしても、世の中には3歳ぐらいの時から既に将来は

     何になるかを決めるような才能を表す幼児もいれば、私のようにな~んにも

     考えずに平々凡々とぼんやり生きてきた人間もいるわけで、それもひとつの

     志向性だと思うんです。

 

p187

 

ロボットは、設計者が定義した範囲内で心の機能を発揮するだけだ。だから、例えば

抑圧された結果犯罪に至るような心理発展のアルゴリズムをロボットの心に埋め込ま

なければ、そのような犯罪心理は発生しない。

・・・ネガティブな情報処理をする小びとを作りこまなければ、ロボットが反乱する

心配はない。

 

==>> と書いてはいますが、この後、この著者は、

     「核拡散やクローンの抑止と同様、創造と倫理の関係や法秩序の整備に

     ついての議論が必要となる、」と教授らしくフォローしています。

 

p191

 

アナロジーは未来にも成立つ。

昔の人は奴隷を人と考えていなかったが、現代人は人と考えるように、現代人は

オランウータンを人と考えていないが、未来人は人と考えるということの可能性を、

私たちは否定できない。

 

・・・ちなみに、オランウータンとはマレー語で「森の人」という意味だ。

 

==>> 昔は日本人も人間ではなかった時代がありました。

     過去によんだ本にこのような記述があったんです。

 

     苫米地英人著「人はなぜ、宗教にハマるのか?」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-2ba5b8.html

     「p102

1600年にインドに渡り、肌の黒いインド人を見たヨーロッパの貿易商が、

同行した神父に、「この肌の黒い人は人間ですか?」と尋ねました。

・・・

神父はその場で答えを出さずに、バチカンに質問状を送ります。すると、

しばらくしてバチカンから、「人間ではない」と記された返書が送られてきます。

 それは、「インド人はキリスト教徒ではない」という理由によるものです。

 

p103

キリスト教徒以外は人間ではなく奴隷だ、という当時のバチカンの判断が、

ヨーロッパに莫大な富をもたらすのです。

 

==>> 日本にザビエルが来たのは1549年ですから、キリスト教徒では

ない日本人は「人間ではない」ことになります。 実際、布教長がフランシスコ・

カブラルだった時代には、日本人はサル並みに扱われたようですが、

その後、巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本人の能力を高く評価

して、カブラルを解任しました。そして、ヨーロッパ以外ではあり得なかった、

現地人司祭の養成に力を入れることになりました。」

 

 

p194

 

人は、知る。 神の存在を仮定しなくても、人のすべての営みは説明可能であることを。

そんな未来の人類は、それまで長い時間をかけて発展してきた高等宗教が、人類自身の

ささやかな創造物に過ぎなかったことも、悟る。

 

p195

 

何が現実で、何が幻想だったかをはっきりと知るに至った未来人が、そこに見つけるものは

なんだろう。 それは、遥か遠い昔に私たちが忘れてきた、素朴な自然崇拝の至福で

あるに違いない。

 

==>> これはまったく「クララとお日さま」ですね。

     私自身は、今の複雑な宗教、例えば仏教の経典のようなものは、

     歴史あるいは文学というジャンルに入れられるようになるんじゃないかと

     想像します。

     今読んでいる「法華経」の本などは、まさに奇想天外な空想小説のような

     ものだと私には思えるからです。

     原始仏教の「スッタニパータ」は、成程ねと思うところはあっても、

     空想小説のような形而上学的な描写はほとんどありません。

     これは現実に生きていたブッダが言った言葉だなと思えるからです。

 

 

p199

 

欧米の哲学・心理学は今や神経科学やロボティクスとの境界にある理科系の学問に

なりつつある(正確には欧米では理科系・文科系という分け方をしないが)。

そして、哲学や心理学を理解するために、神経回路網が身体や外界のモデルを表現する

メカニズムを理解することが、必須になりつつある。

 

==>> これは確かにそうだろうと思います。

     今まで私が読んできた本のリストをみていただくだけでも、そのことが

     分っていただけるのではないかと思います。

     哲学書や宗教書みたいなものを読んでいると、そこにどうしても

     科学系の話が出てくるんです。

 

     「私の本棚・感想文・紹介文 2005年から今までに読んだ本」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_20.html

     ただし、私が読んできたのは、ほとんどが入門書みたいなものですから、

     深く理解しているわけではありません。

 

     

 p204

 

まとめると、脳は、コンピュータよりもはるかにたくさんの素子が、コンピュータよりも

はるかに遅いスピードで計算を行う超並列計算機だということができる。

・・・要するに、一千億個のニューロンが、すさまじい数の配線によりからみあった

ニューラルネットワーク(神経回路網)を作っていて、同時に壮大な足し算をしている

ようなものだ。

 

p208

 

結論からいうと、人工の階層別ニューラルネットワークとは、原理的には「任意の

非線形演算を行なえる万能機械」だ。

 

p211

 

直線では表せない関数は何でも「非線形関数」と呼ばれる。

 

p212

 

ニューラルネットワークによる計算は、・・・ソフトウエアプログラムはどこにもない

あるのは、シナプス荷重チューニングすることにより、だんだん正しい計算が行える

ように、入出力関係を変化させることが出来る。 計算の決まりは、ニューラルネット

ワークのパターンという形でニューラルネットワーク自体に分散的に記憶されているのだ。

 

==>> 私はコンピュータの動きについては知りませんので、ここに書いてある

     ことを正確にイメージすることはできませんが、著者が言いたいことは、

     このような仕組みであれば、人工的に作ることは不可能ではないということ

     のようです。

 

p215

 

センサで検出した量を、後ろに戻って設定した値と比べ、それを利用して制御を行なうので、

フィードバック制御という。

 

・・・実は、この制御は場当たり的だ。 何も考えず、結果を見て、ずれていたぶんを

修正しているだけだ。

 

 

p217

 

「フィードフォワードモデル」は「逆モデル」であることが多い。「逆モデル」とは、

「こうすればこうなる」、という原因と結果の順関係に対し、「こうするためにはこう

するべき」という、結果から原因を推定する働きをもつモデル、という意味だ。

原因と結果という因果関係を逆さにしたモデルだから、逆モデルという。

 

また、神経科学の言葉でいうと、脳にある「内部モデル」が覚えている、ともいう。

・・・・脳から見て外部で起こったことを、脳の内部でモデル化するから、「内部」

モデルという。

 

・・・このような、運動のやり方を覚える「内部モデル(逆モデル)」は、小脳にある

ことが知られている。

 

p222

 

つまり、目標を持ち、それに近づいていこうとするのがフィードバック誤差学習だ。

学習すると脳に内部モデルができる。 これを使うと、どうすればいいか、予測できる

ようになる。

 

==>> ここでは二つの逆方向の学習の仕方がかかれていまして、具体的な説明

     としては、スキーをする時の学び方が例示されています。

     つまりは、双方向の情報修正のやり方でスキーが上達できる仕組みがあると

     いうことのようです。

 

p223

 

1990年代に、脳の中にミラーニューロンというものが発見されて騒がれたことがある。

人が何か運動しているときに発火するニューロンが、なんと、同じ運動を思い浮かべて

いるときにも発火しているというのだ。 実際の運動と仮想の運動が鏡に映したように

対称なので、ミラーニューロンと名付けられた。

 

p224

 

では、運動の順モデルは何のためにあるのだろうか。

それは、イメージトレーニングのためだと考えられる。

 

==>> つまり「仮想の運動」=「脳の中の順モデル」であって、頭の中で、

     例えばスキーのイメージトレーニングをやれば、短い期間でスキーが上達

     するという話が書いてあります。

     おそらく、その脳内の順モデルが実際のスキーでは、ミラーニューロンなる

     ものを介して、実際の運動に繁栄されるということだと思います。

 

p226

 

順モデルを使ったイメージトレーニングでは、実際に運動をしなくても、頭の中で

(ミラーニューロンを使って)運動をイメージし、よりよいやりかたを学習(よりよい

逆モデルを獲得)できる。

 

 

p229

 

つまり、脳がやっている心の五つの働き、「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」を

つかさどる、それぞれの小びとたちのふるまいは、すべて、ニューラルネットワーク

を用いて記述されたフィードバック制御・フィードフォワード制御、順モデル・逆モデル

という形で実現できるということだ。

 

p232

 

心の地動説。 自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして、「意識」は

すべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の

結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと

解釈し、エピソード記憶をするためのささやかで無知な存在。

 

さらに、意識の中でも最も深遠かつ中心な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、

最もいとしく失いたくないものであるかのように感じられるものの、実は無個性で、

誰もが持つ錯覚に他ならない。

 

==>>  これが著者の主張する「私」や<私>などについての結論です。

      自分自身を振り返ってみると、確かに私は小びとによる分散処理の結果

      だなと思います。

      しかし、自己意識である<私>の部分がどのように著者のいうように

      なるのかという点についてはまだ疑問が残ります。

 

      そして、著者はその「あとがき」に以下のように語っています。

 

p239

 

「要するに、脳の中の「私」とは何か?」という一見西洋科学流の客観的な問題設定

に対し、あるときは演繹的、あるときは帰納的な論証によって、主客混合的に(東洋流に)

「わかる」ことを目指した本書を・・・・

 

p241

 

(読者からの批判に対しての答)

「クオリアはどのようにして作られるのか、という疑問には答えていないではないか。

だから、心の謎は解けていないではないか・・・・」

 

・・・お伝えしたかったのは、そこではなく、脳が作った私のクオリアは「なぜ、何の

ためにあるのか?」をシステムとして俯瞰し、「なぜ、なんのために?」への答えを

説明するという点だ。

 

つまり、理工系学者として現象を解明したい「私」というよりも、町の東洋哲学者と

して第一人称的に自己の問題に対する「わかった・腑に落ちた」という総合的納得感・

満足感を得たい・・・・

 

==>> 以上のように、著者も「どのように」には答えていないことを認めています。

     私自身にとっては、その疑問は残るものの、意識というものが全体的に

     どのように出来ているかについては、非常によく分ったように思います。

     そして、哲学的な意味合いでの「なんのために?」という部分は

     なるほどそうですか・・・という感じで受けとめることができました。

     

 

さて、これで一冊を読み終わりました。

 

「あとがき」に著者は「主客混合的に(東洋流に)「わかる」ことを目指した」と書いて

いますが、私は特にはそのようには感じませんでした。

 

ただし、「小びとが分散的に処理している」という表現からは、密教の曼荼羅を連想

しましたし、既に読んだ下の本を思い出しました。

 

村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」を読む

 1: 神仏は脳によって作られる

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-31d1bf.html

 

「p14

・・・精神神経医学の臨床に関わるにつれて、精神病や薬物による妄想や

幻覚、てんかんに伴う精神的体験の中に、宗教書に描かれている宗教体験と

酷似するものがあることに、私は深い興味を覚えざるを得なかった。」

 

「p48

カントの神に対する見方の中で、・・・・いわゆる「カントのコペルニクス的転回」である。 彼は対象(客観)が先に存在してわれわれがそれを認識する(主観)のではなく、対象こそ

が認識により構成されるという、それまでの認識論の見方を転回させたのである。

・・・神はわれわれの認識に依存しているという結論に到達せざるを得ない。」

 

「p68                               

 このようなピック病の患者の症状は、前頭葉の前部が人間の道徳的観念、倫理的判断、

そして宗教活動の本質的な面に対して、不可欠な機能を果たしていることを示唆している。」

 

「p77 

・・・前頭葉は、自分を振り返って考え、自分を制御して、倫理的、道徳的な生き方を選び

取るために、どうしても必要な脳の部位であることが分る。この部位が障害されれば、人格

は失われ、宗教的な信仰も宗教への献身も失われるのである。」

 

「p102 

なお、興味深いのは、上に述べた症状のうちのあるものは、てんかんを持たない正常者にも

経験されることである。

「自分の存在感が感じられない」、「自分の外の世界の現実観がなくなった」、

「自分の心が自分に属さない感じがする」、という感覚は、てんかん患者意外にも様々な

精神疾患でも報告されている他、特に精神神経系の病気を持たない人でも体験されている。

これは精神科領域で離人症と呼ばれる症状である。」

 

「p131 六、

宗教を起こさせる脳の特定の部位、すなわち脳内の「神の座」あるいは「神を知る中枢」の

実体は、脳内の一点ではなく、幾つかの部位を結ぶ神経回路網であると考えられる。 宗教

と似た複雑な人間の認知行動パターンである恋愛行動が、同じ様に複雑な神経回路網の

働きで理解されるのとよく似ている。」

 

「p172 

古代ヒンドゥー教では、この個人の自我(アートマン)と、宇宙の根本原理、あるいは絶対

真理(ブラフマン)とは、究極的に一体化することが、一貫したテーマになっていたことで

ある。 この一体化は「梵我一如」あるいは「汝(我)はそれ(宇宙原理)である」とも

表現される。」

 

「p174 

更に、ヒンドゥー教の神秘的要素に影響されて発展した密教では、曼陀羅や火などの感覚的

道具を使いながら、神秘的体験を通して「即身成仏」、すなわち儀式を通してただちに仏に

なることができるという教義が形成された。 これは後に空海が日本で確立した真言宗の

教えに至っている。」

 

「p202 

本書が提示するのは、「神(仏)」というものは、人間の脳の進化に伴って脳内神経回路と

して発達してきた「実体」であり、それは人間にとって「内なる神」として、「感じられる」

存在であると共に、人間が生きていく上で非常に重要な役割を果たしてきた存在である

という考え方である。 

その意味で、「神(仏)」は「実体」として「存在」し、その存在は科学的に調べることが

できるのである。 

・・・これが本書の結論として得られる「神経学的紳論」である。」

 

「p203

ユダヤ教、イスラム教の神は、あくまでも外から人間を見守る存在であり、「内なる神」の

概念が出てこないのも当然と考えられる。 

これと対照的に仏教の側から見れば、ここで提唱する「内なる仏」の存在は、・・・「人は仏

の素質を、生まれながらにみずからの内部に宿している」という如来蔵思想を、いわば科学

的に証明したように見えるかもしれない。「仏」の概念が無数にあり、新たに仏が作られて

きた仏教の歴史を見れば・・・」

 

==>> 長々と引用してしまいました。スミマセン。

     ざっとお読みになればおわかりかと思いますが、要するに、神経学からみても、

     前野隆司さんが書いた内容である「小びと」が脳の中にいて、あちこちで

     分散処理している事例があることをここで並べたかったわけです。

 

     それと、前野さんが東洋風という意味が、この村本治著「神の神経学―脳に宗教

の起源を求めて」にはしっかり書かれていることをご紹介したかったと

いうことです。

 

私が今まで読んできた中で、一番腑に落ちる脳と意識の関係はこの

村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」なんですが、それをシステム的に

補強する考え方として、前野隆司さんのこの本は非常に勉強になりました。

 

 

=== 完 ===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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