竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 2 「一であり多である」と「一即多(いっしょくた?)」
竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 2 「一であり多である」と「一即多(いっしょくた?)」
竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』」
「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」
という「超解読」な本を読んでいます。
p32
「第一章
意識」
一言でまとめるならば、意識は「外なる対象の真理」を、自己意識は「自己の自由」を、
理性は「外なる対象のなかに自己を」求めて進んでいく。 つまり、それぞれが目標と
するものが違う。・・・意識はその最終局面で自己意識に転換し、自己意識もその最終
局面で理性に転換する、というふうに進行していくのである。
p33
「意識」の章は、感覚的確信―知覚―悟性、という順番で進んでいく。
p34
自分が対象の真理と思っていたものは、自己の思考の運動だったのである。
それに気づくことによって、対象意識は自己意識へと転換していくことになる。
==>> これは、従来の認識論で止まっていた私のような凡人には、確かにそう言われて
みればそうだよなと思えることがらです。
すべてが「自己の思考の運動」だというのは、そうだろうと思います。
ただし、「自己」とは何かということについては、先に読んだ本で、
「多くの小びとたちが、それぞれの役割を果たしながら、一所懸命働いて
いる」というニューラル・ネットワークの話が頭に残っているので、
保留しておきます。
p35
対象を全身で受け止めているこの意識こそ、もっとも豊かな内容をもち、かつ思考に
よって対象を歪めることのない、もっとも真実なものだろう。
・・・まったくの「ただある(純粋存在)」の状態、これが意識経験の出発点である。
p37
ヘーゲルは、個物の存在を否定しようとしたのではない。 目のまえの個的な対象は
たしかにあるのだが、しかし、その認識のなかには、それが昨日みたものでは「なく」、
向こうにあるものでも「ない」ということが含まれている。 つまり、・・・そこには
すでに時間的・空間的な思考(知的な把握)が含まれているのである。
p43
・・・物に備わったものではなく、意識の観点の移り変わり、つまり意識の運動なのでは
ないだろうか。 ―― その通り、物を一つと見たり、他の者との共通性や差異性である
諸性質の集まりとして見たりする、という意識の運動なしに、「一であり多である」という
物のあり方もない。
==>> この「一であり多である」という言葉は仏教の言葉に似たような言葉が
あったような気がするな、と探したところ、ありました。
「一即多・多即一」
http://www.kannon.org/01/howa7.html
「「一即多多即一」とは、宇宙のなかの全てはお互いに交じり合いながら流動
しており、「一」という極小のなかに「多」、すなわち無限大、一切が含まれ、
無限大、一切である「多」のなかに「一」という極小が遍満している、という
ことでございます。」
こちらのサイトでは、正にこれだ、という記事がありました。
「『一即多』の真理と弁証法的『統合』の真理について」
http://www.jdr.co.jp/1-rinen/open/18/18007.htm
「鈴木大拙は、本格的に、華厳経の中に実在している「哲理」について解説され
ているが、西田幾多郎の根本哲学である「一即多」の「哲理」も、華厳経の根本
哲理である。
「一」と「多」では、形式論理学においては、絶対的に矛盾するものであるが、
弁証法論理学においては「統合」され、「一即多」として、絶対矛盾の自己同一
の定理どおりに、矛盾が統一されるものである。」
はたまた、こちらのサイトでは、「一即多」を「いっしょくた」と読むとも
書かれていました。
「一即多 多即一」(いっしょくた。た・すなわちいち)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/efa7ab6f414cb16704746fcdab026cdb
「「一即多 多即一」(いっしょくた。た・すなわちいち:華厳経の中の言葉)
1つであるが、無数。(一人の人間は、無数の細胞から成り立つ)
無数である、全体で1つ。(無数の細胞は、全体で一人を形成する)」
・・・こういう連想ゲームは実に面白いですねえ。
たまたま繋がっただけのことですが。
p45
一と多、自と他という物の存在の二重性は、意識の運動から現れてきたものだった。
・・・しかし、意識がそう自覚しているわけではない。・・・だから、意識は、こうした
二重の性格を備える新たな対象を、物の真理として求めることになる。
この新しい対象は、さしあたり「力 Kraft」と呼ばれる。 電気や重力のような力は、
さまざまな現象や諸性質を生みだしつつ、それ自身としては一つであるようなもの
だからだ。
この新しい対象と対応する新たな意識形態は「悟性(知性)」と呼ばれる。これは純粋な
「思想」を対象とするような意識である。
==>> ほお、なんだか電気学か物理学みたいな話になってきました。
「意識がそう自覚しているわけではない」というのは、この段階の意識と
しては自覚していないということです。 主人公は意識そのもので、
その成長を今から見ていこうとしている段階にあるわけです。
それを意識し始めることによって悟性(知性)が生まれてくるという話の
ようです。
p47
私たちはふつう、電気や重力のような力は、思考とは関わりなく客観的に存在する
ものだと思っている。 しかしヘーゲルが主張しているのは、力の運動とはほんらい
私たちの思考のプロセスにほかならないということだ。
・・・しかしそのことを私たちは気づかないまま「客観世界の本質は力にあり」
と考えるのである。
==>> ってことは、E = mc2 というものも、私たちの思考のプロセスである、
ってことになるわけですね。
要するに、アインシュタインの思考のプロセスがこれを生みだした。
p48
さて、内なるものとは、超感覚的な世界であり彼岸だが、これの内容は最初はまったく
の「空虚」である。 なぜなら、それは現象(感覚的な世界)ではないもの、という
規定しかもたないからだ。彼岸の内容を満たすものがあるとすれば、それを感覚的な
世界から汲み上げるしかない。(たとえば天国も極楽も感覚的なイメージで彩られて
いる)。
==>> おお、なんと、仏教的な話になってきました。「空虚」とか「彼岸」とか・・
(ただし、「空虚」と「空」とは異なりますが・・・)
たとえば、「内なる神」などと言った場合は、それも感覚的に自分の意識が
感じるイメージですからね。そういう意味での感覚的な世界から汲み上げると
いうことだと思います。
p51
つぎに自己意識の章へと移行するにあたって、ヘーゲルは「無限性」という概念を
とりあげている。 これは、ヘーゲル哲学のかなめともいうべき概念なので・・・・
無限性には、いろいろな表現がある。 「統一と区別との統一」「同一性と非同一性の
同一性」「他と関わりつつ自己同一であること」等々。
一つの力点は、「一と多」にある。 意識は一であり、かつ多である。 だから、
「意識は統一と区別の統一」である。
p52
もう一つの力点は、「自己と他者」にある。 意識は、内面にひきこもって自分である
(同一性)が、外に出てさまざまな他者に関わって自己同一性を失う(非同一性)。
しかし、それでも自己同一性を保っている。だから、意識は「同一性と非同一性の
同一性」である。
私たち個々の人間も、さまざまな生物も、巨大な普遍的な生命から分かれたものだ、
と若きヘーゲルは考えていた。
==>> この「同一性と非同一性の同一性」とか「巨大な普遍的な生命から分かれた
ものだ」という表現から私が連想するのは、人体とそれを構成する細胞や
最近流行りの腸内フローラ、そして、今世間を騒がせているウイルスなど
との関係です。 それらは「多」であり人体としての「一」でもあり、
「他者」であり「自己」でもあり、そして、「非同一」であり「同一」でも
あるという話ですね。
p56
「第二章
自己意識」
「自己意識」は人間に固有な意識であり、ヘーゲルは人間が世界を経験しつつ、どの
ような自己と世界との関係意識を形成し展開してゆくかを、独自の範型論として示し
ている。 その進み行きは、「自我と欲望」―「主奴論」―「自己意識の自由」とたどる。
注意すべきは、ヘーゲルがここで、人間の欲望は「自己価値」への欲望であり、これが
人間の「自由」への欲望の原型である、という大胆な原理的仮説から出発している点だ。
==>> ここでは、解説者の竹田氏が、全体の流れとキーポイントを事前に教えて
くれています。
p58
たとえば、一つの個体は、自分のうちに、さまざまな有機体の組織(区別)をもち、それが
生み出す複雑な連携の働きによって、つねに一つの生命としての自己の「統一」を保って
いる。 個体としての「生命」だけではない。 種や類としての「生命」も、さまざまな
「区別」をもちながら、「種」や「類」としての自己の統一を保っている。
==>> この考え方を拡大していけば、もしかしたら地球という生命体、あるいは、
さらに、太陽系とか銀河系というようにある一定の統一を保っている有機体
という妄想ができるかもしれません。
p60
人間は「自己の自立性の確証」(私は私だ)を求める。 これは、ある意味で「他者の
否定」をふくむが、他者の直接的な否定(殺したり、食べたりすること)ではない。
むしろ他者が身を低くし(自己を否定して)「私」の優位を承認することを求めるのだ。
そしてこれが「自己確証」の欲望の最終目的である。
==>> 確かに、他者に認めてもらうことが前提でなければ、「優位を承認」して
もらうことは出来ませんからね。昨日、自民党の総裁選でいろんな駆け引き
がありましたが、まさにそこには「自己確証」の欲望があったように
見えました。
p64
自己意識とは、純粋な「エゴ」、自分が世界の主人公たろうとするような存在だ。
だからそこにもう一人の自己意識、他者が現れると、それは基本的に自分にとって
否定的な存在となる(親子の場合も、対等な承認関係ではない)。
p65
・・・逆に、そのような場面で生命を賭さなかった人間、戦いに尻込みした人間は、
死への恐れによって自分の「自由」をあきらめた人間とみなされる。
==>> ヘーゲルは、この本では、世界、とくにヨーロッパでの歴史を背景にした
人間の意識の変化を物語として語っているのですが、例えば、これを
家族間や夫婦間ということに置き換えても、通じることかと思います。
親子・兄弟の場合ならば、まだ血のつながりがありますから、なんとなく
あまり意識もせずに一緒に暮らすこともあるでしょうが、なかには親子・兄弟
関係が凄まじいドロドロの関係になってしまうこともあるようです。
一方、夫婦間ということになると、所詮赤の他人がくっついているだけの
ことですから、基本的には「エゴ」のぶつかりあいが生活の中に出て来ても
当たり前かなと思います。
そして、夫婦間での「戦いに尻込みした」あるいは「諦めた」側は、
(私のように)黙ってしまうということになります。(笑)
そこで思い出したのが、昔好きだった歌です。
一服してください。
長谷川きよし 「黒の舟唄」
https://www.youtube.com/watch?v=0DLzaR5NONU
p67
主は、生命を賭けても、ひたすら他に対する自己意識の優位を主張して自立的たろうと
した。これに対して、奴は、「死の畏怖」によって自由を放棄し、そのことで主の威力に
服したのだが、じつはこのことのうちに、むしろ「自己意識の純粋な自立性」の自覚、
言いかえれば、実存の自覚の契機があるのだ。
・・・自己存在の根本的な不安に、魂の底まで震撼させられるという経験である。
もう一つ重要な点がある。 それは「労働」という契機だ。 この経験によって奴は、
そのつどの欲望を先へ延ばして耐えることを学ぶ。 この契機は、主体の本来の自立性
にとってもう一つの不可欠な本質契機なのだ。
p68
だが、主の、物の消費と享受への「自由」は、じつは奴の労働に依存しているにすぎない。
==>> ここでは、主と奴という関係における意識の違いが述べられています。
平たくいえば、会社での上下関係ですね。 資本家と労働者と言ったほうが
より正確かもしれません。
主は一見勝ち誇って優位に立っているようにみえて、実は奴の労働による
生産におんぶにだっこしているということです。
この辺りが、もしかしたら、マルクスが「ヘーゲルの思想は使えるな」と
思った部分かもしれません。
p69
権力(あるいは親のスポイル)によって自分の「自由」を思うままに得ている人間は、
欲望しさえすればすべてが満たされるはず、と考える人間になる。この人間には、自分の
欲望の意味を対象化し、他者関係のなかでこれを調整し、工夫や努力を重ねて目標に
到達するという悦び、つまり真の「自由」の悦びは現れることがない。
==>> 私は貧乏な家に生まれて育ったので、ボンボンの生活は分かりませんが、
金銭的になんでもできるようなお金持ちの家であれば、おそらくそのような
こともあろうかと思います。しかし、ヘーゲルが頭に思い浮かべている権力
というのは、日本のそんじょそこらの金持ちを遥かに超えるヨーロッパの
権力者レベルの大富豪の家族のことなのでしょう。
いずれにせよ、さまざまな苦労があってこそ、目標を達成できたときの
悦びは大きく、自由も感じることができると思います。
p70
ヘーゲルでは、対象を、「表象」としてではなく「概念」において理解する、という言い方
がよくなされる。 たとえば、宗教的な信仰は、絶対神が彼岸に存在するという
「表象」をもつが、哲学はこれを「絶対的なもの」に対する欲望が「彼岸の絶対存在」
という「表象」を作りだしたのだ、という仕方で「概念」において理解する。
つまりより本質的な仕方で理解する、と言われる。
==>> ここで「表象」と「概念」の違いを確認しておきましょう。
「表象」 https://kotobank.jp/word/%E8%A1%A8%E8%B1%A1-121320
「一般に心または意識に現前するものを意味する。通常は、representation
(英語)、représentation(フランス語)、Vorstellung(ドイツ語)の訳語と
して使われる。」
「外界に刺激が存在せずに引起された事物,事象に対応する心的活動ないし
意識内容のことで,以前の経験を想起することにより生じる記憶表象,想像の
働きにより生じる想像表象などが区別される。」
「概念」 https://kotobank.jp/word/%E6%A6%82%E5%BF%B5-42803
「本質的特徴により区別された事物の類,また類別する思考様式。本質的特徴と
その連関を概念の内包connotation,intension,内包を共有する事物の集合を
概念の外延denotationとよぶ。たとえば「少年」は,「年少」(おおむね5~6歳
から11~12歳),「男性」という内包をもち,その外延は隣接する概念,「青年」
などとを区切る境界をなす。」
・・・たしかに、宗教的な信仰というのは「表象」で感じるということだと
思います。 私がいろんな宗教の本を読んで勉強したところで、信仰という
領域にすんなり入っていけないのは、表象ではなく概念で理解しようとして
いるからではないかと思います。
つまり、空海さんがいうところの、密教と顕教の違いでしょうか。
p73
そもそも人間の意識と認識の働きは、・・・・「真」かと思えば「知」にすぎなかった
という弁証法的な「否定性」の運動として展開してゆく。
ところで、本来の認識の弁証法的な「否定」の運動は、現実のほうから、「じつはそうでは
なかった」という否定性がいやおうなしにわれわれに現れてくる、というかたちで生じる。
つまり、「こう見えていても、じつはああも考えられる」というわけだ。 このことで
スケプシス主義は、一切のことがらの確実性を相対化し、その現実性に異議をとなえる
ことができるのだ。
==>> まず、スケプシス主義ですが、「懐疑主義」ということのようです。
https://kotobank.jp/word/%E6%87%90%E7%96%91%E6%B4%BE-457009
「懐疑の原語である「スケプシス」skepsisというギリシア語は元来探究という
意味であった。しかし探究はしばしば袋小路に陥り、問題解決に絶望することも
多い。真理の探究は、真理へのエネルギーの弱まるとき真理への絶望に転化する。
そこに、真理は存在しない。たとえ存在しても人間のことばでは認識できないと
する懐疑論が生まれる。」
そして、「真」と「知」の定義の確認をしますと、
「「意識に対して」存在するありようを「知」(対他存在)と対象がそれ自体と
して存在する「真」(自体存在)」ということでした。
つまり、懐疑主義では、「真」も「知」も一切が確実ではないと否定してしまう
ということのようです。
ところで、たまたまですが、この著者のお一人である竹田青嗣氏と思われる
方のサイトがひっかかってきました。
詳しく知りたい方はどうぞこちらへ:
p76
人間は絶対者の精神のありようを“分け持っている”という感度が現われ、この絶対性
と個別性の統一のシンボルとして「聖霊Geist」が意識される。
キリストについての歴史的な物語は、人間が、自分を「精神」的本質として自覚して
ゆくプロセスが、宗教的な表象(イメージ)として表現されたものだ(キリストの
誕生、十字架上の処刑など)。 それはつまり、個別者としての人間と、絶対者として
の神とが和解し、統合へ向かうプロセスなのだが、しかしその途上で、イエスでさえ
運命を逃れられないという苦悩など、つねに「引き裂かれの意識」、つまり「不幸の
意識」の感度につきまとわれている。
==>> この辺りの感覚としては、「人間は絶対者の精神のありようを“分け持っている”」と言う事でいうならば、私が感じるのは、絶対的真理としての、例えば
真言密教における大日如来が、その化身としての諸仏となり、即身成仏と
いう概念に乗っかって、個々人が仏と一体化するというイメージです。
つまり、「一切衆生悉有仏性(一切の衆生に悉く仏性あり)」という概念です。
p78
神への徹底的な献身や感謝さえ、じつは「我欲」であり自己への執着であるという意識
にさいなまれ、人は、いっそうの自己放棄の可能性を探そうとする。 そして、この
徹底的自己放棄の要求に応じてその役割をはたすのが、「教会」(=セクト)である。
・・・自己努力も「我欲」であることに気づき、そこですべてを教会に委ねようとする。
そのことで教会は絶対者と人のあいだの媒介者となる。
==>> この理屈は、私には今一つ理解ができません。
おそらく「神への徹底的な献身や感謝」を以っている信心深い人にとっては
そうなのでしょう。そして、ヘーゲルの時代のヨーロッパにおける、共同体
のあり方や教会の権威の大きさ、そして日常生活の中に浸透している教会を
中心としたか文化的・民族的慣習が大きな要素ではないかと思います。
ちなみに、現在の私の立場で考えてみると、信仰心はほとんどなく、
知的な興味のために宗教の本をよみ、実際にお寺で瞑想会にも参加したり
してはいますが、「すべてを教会に委ねる」という意識にはなりません。
いわゆる葬式仏教といわれている日本仏教を、家族の葬式という現実問題の
ために利用するという形であろうと思います。
p80
現在ヘーゲルが描くような、宗教や政治的理想への絶対的帰依(一致)やそれに
伴う自己滅却の情熱は下火になった。 しかしそれてもなお、「不幸の意識」が、
近代社会における青年の自己意識の独自の危機についての本質的洞察たりえて
いることは驚くべきことである。
==>> 私の年代は、たまたま、戦後生まれで、高度経済成長の中で育って
働いてきましたので、かなりラッキーな世代であると思います。
それに比べると、若い世代の人たちは、さまざまな経済危機の中、
そして今回のパンデミックの中で、「不幸な意識」というものが
現実問題としてあるのではないかと思います。
その意味では、日本の宗教はやるべきことが多々あるのではないかと
思いますが、一方で、オウム真理教のような過激セクトが出てくる
不安も感じます。
p81
まず、ヘーゲルは「生命」の本質からはじめる。ヘーゲルの哲学体系は、世界は一つ
の絶対的な「精神」であり、「精神」の本質は、無限に自己を展開する自由な運動で
ある、という出発点をもつ。 「生命」は、この「絶対精神」の「無限性」の本質を
分け持っているので、その本質は、たえず自分自身を区分し統一しつつ再生産する
運動、という点にある。
p82
人間関係の基本は、まず一方的に相手の承認を求めてせめぎあう「相克」の関係と
なる。 「承認をめぐる戦い」の記述は、荒々しい普遍戦争がつづいて、各文明の
古代大帝国の成立にいたる紀元前後までの世界史を思い描きながら読むと、まずよく
理解できるはずだ。
==>> 「世界は一つの絶対的な「精神」」であるとともに、「一方的に相手の承認を
求めてせめぎあう「相克」の関係」という時、ここでは最初に前提と
されている「主人公は精神である」ということです。
あるいは、意識の世界史といってもよいかと思います。
これで、第二章を読み終わりました。
次回は「第三章 理性」に入ります。
=== その3 に続きます ===
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