竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 1 意識が「知」と「真」の弁証法的運動をくりかえし

 

 

竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 1 意識が「知」と「真」の弁証法的運動をくりかえし

 

 

竹田青嗣+西研著「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』

「難解な書物が ここまでわかった! 「知の巨人」がとらえた近代のありよう」

という「超解読」な本を読んでいます。

 


 

まず結論を先に言えば、

「そうだったのか。 この本は凄い。 助かりました。」という感想です。

 

ヘーゲルという名前は、私には非常に遠い存在でした。

私が哲学の入門書みたいなものを読み漁っていたのは二十歳のころでした。

その頃の私の興味は、御多分に漏れず、いわゆる恋愛論が中心でして、恋愛論に関しては、

亀井勝一郎の「愛の無常について」が一番印象に残っていますし、哲学も神秘主義的、

非合理主義的、東洋思想的、やや厭世的なものが好きでしたので、ショーペンハウエルの

哲学に一番触発されたのだと思います。

 

Wikipediaによれば、ショーペンハウエルとヘーゲルは同時代の人で、ベルリン大学などで

二人が講義をしていた時には、ヘーゲル人気で、ショーペンハウエルの教室にはほとんど

学生が集まらなかったそうです。

私は、そのガラガラの教室に行くような学生だったということになります。

 

私のその頃のヘーゲルに対しての印象は、難しい弁証法、マルクス、社会主義、政治理論

というような、当時の大学生が難しい顔をして読んでいるような本という感じでした。

実際に、東京に我が故郷の市の学生寮があって、時々同窓生の部屋を訪ねては、文学論、

哲学論、政治論などをしたものですが、そこには、私が読んでいる本よりも、ずっと

分厚くて難しそうで高そうな本が並んでいました。

 

最近の私の興味は、「人間の意識とは何か」でありまして、意識に関連するものならば

宇宙物理学、量子力学、神経科学、脳科学、ITシステム、そして宗教まで、なんでも

かじってみることにしています。

こちらの「私の本棚」を見ていただければ、そのとっ散らかった様子が分るかと

思います。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/06/post-0915f1.html

 

 

では、ドキドキしながら、ヘーゲルの『精神現象学』を読んでいきます。

 

===

 

p03

 

『精神現象学』は1807年に書かれた、ヘーゲルの主著である。

そしてその後の多くの思想家たちに大きな影響を与えてきた。 マルクスはもちろんだが、

20世紀になってフランスに紹介され、バタイユ、サルトル、ラカン、メルロ=ボンティ

らにきわめて大きな影響を与えた。

 

よく知られているように、この本の主人公は「意識」であり、この意識がさまざまな

経験を積んで成長していくという物語仕立てになっている。

 

p04

 

そのなかには興味深い物語がつぎつぎに登場する。 「オレを認めろ!」と言って争い、

勝ったほうが主人となり負けたほうが奴隷になる。 これがヘーゲルの考える歴史の

始まりだ。

 

==>> ここで一番重要なのは「主人公は意識である」という点です。

     ある人間の特定の意識という意味ではなく、意識一般が歴史的にどのように

     弁証法的に変化していくかを語ったものだということです。

 

p05

 

『精神現象学』は、中身を徹底的に読んではじめてそれが問おうとしたことがわかって

くる、そんな困った本なのである。 そして、大胆な言い方になるが、いまだ

『精神現象学』はほんとうには読まれていない、という気持ちが私たち(竹田と西)

にはある。

 

p03

 

この本はあまりにも難解だからだ。 ヘーゲルがきわめて独自な用語を用いて書いている

こともあって、その文章はともかく読みにくい。 フッサールやハイデガーも難解だが、

ヘーゲルの読みにくさは別格と言っていい。

 

==>> ここにはこの本のタイトルに「超解読!」と記してある理由が述べられて

     います。 哲学の専門家にとっても難解で、なにを言っているのか

     その趣旨がつかみにくいということです。

     その超難解な本を私のような入門者にも分るようにかみ砕いて書いてある

     超現代語・日本語訳の本であるということを、まずお断りしておきます。

     この本が出版されていなかったら、私は一生、ヘーゲルを読むことはなかった

     のではないかと思います。

 

p06

 

近代以前には、このような自由な内面を持つ個人は(ごくわずかな知識層を別として)

存在しない。 たとえば日本の農村でも、人々は父祖伝来の土地を耕して生きていく

共同体的な生活を営んでいた。 長男は家の後継ぎをし、女は他の家に嫁に行くことに

なっていた。 つまり、村や家のなかで人が果たすべき「役割」は明確に与えられて

いて、それ以外の生き方を考えるのは難しかった。

 

p07

 

(共同体から切り離された自由な個人となったときに、人は、他者・社会・自己に対して

どのような態度をとっていけばよいか)――これこそが『精神現象学』のなかで問われて

いる最大の問いなのだ。 自由に思考する内面は、たしかに無自覚な素朴な共同体との

調和を失う。 しかし、喪失は自覚的に関係を結び直す契機となる、とヘーゲルは考える。

 

==>> おそらくこのような社会状況は、江戸時代から明治時代になった時に

     大きく変化したのでしょうが、私が二十歳のころ、今から五十年ぐらい

     前にも、長男についてはまだまだ同じ状況が残っていたのではないか

     と思います。

 

     私自身に関していえば、生家は小さな和菓子屋で、兄がいたのですが、

     大学を中退してからフラフラして家にも居なかったので、中学生だった

     次男の私は、和菓子屋の後継ぎをやることになるんだろうと心を決めて、

     高校には行かなくてもいいから、父について和菓子職人の修行をしようと

思っていました。

     ところが、兄が戻って来てしまったので、高校を卒業したらどこかに

     出るしかないなと思って、東京でビジネス英語を勉強することにしたのです。

     その当時は、まだ英語を使える人は少なかったので、英語でもやっておけば

     喰いっぱぐれは無いだろうとの大雑把な見通しだけでした。

     つまり、「役割」が外れて、「自由に思考する内面は、たしかに無自覚な素朴な

共同体との調和を失う」という状況になったわけです。

 

p15

 

・・・認識への疑念の第一の原因は、認識対象と認識主体とを完全に対立的なものと

みなして分離し、認識をこれを媒介する「道具」のようにみなす考えにある。

主観がこちら側にあり、客観(対象)はあちら側にあるというわけだ。

ここから、そもそも「正しい認識」は可能なのか、という「認識への恐れ」が生じて

くるわけだが、これはむしろ「真理への恐れ」と言ったほうがよいかもしれない。

 

==>> これがいわゆる認識論の始まりですね。

     ところが、ヘーゲルの場合は、ちょっと違うのだと次に書いてあります。

 

p17

 

『精神現象学』は、・・・仮象の知、つまり「現象してくる認識(知)」のありさまを

扱うので、他の認識学とはちがったかたちをとることになる。

 

「われわれの立場からは」、真の認識の学としての『精神現象学』は、素朴な「意識」が

さまざまな素朴な知=認識のありようを経験しつつ、その本性にしたがって、徐々に

より本来的で真実な「知」と自己自身についての本質的な理解へと高まってゆき

ついにこれ以上は進めない最後の地平にいたるまでの、そのすべてのプロセスを

くまなく描くという方法をとることになるだろう・・・・

 

==>> ここでの「われわれの立場からは」の意味は、「意識経験のプロセスをすべて

     たどり終えた自分の哲学的な観点から言えば」というほどの意味であると

     注釈があります。

     つまり、意識という主人公がその成長を今振り返ってどう思っているか

     ということだと思います。

 

 

p22

 

先に、ある対象が「意識に対して」存在するありようを「知」(対他存在)と呼び、

これに対して、対象がそれ自体として存在するありようを想定して、これを「真」(自体

存在)と呼んだ。 そしてそのうえで、両者の正しい一致があるかどうか、つまり

「概念と対象の一致」が問題とされたのだった。

 

だがいま我々が理解したのは、「概念」と「対象」が、じつはともに“われわれのうちに”

存在しているということ、つまり、『われわれの探求する知ること自身のうちに属しており、

したがっていろんな尺度をわれわれがおちこんだり(中略)する必要はない』ということ

なのである。

こうして、「知」と「真」の一致を吟味するのに、意識の外側から特別の正しさの基準

をもちこむ必要はないことがはっきりした。

 

p24

 

つまり、われわれは認識の営みを、「主観対客観」の構図ではなく、「知」と「真」という

契機に区分し、この両契機が対立しつつ互いに対の契機を展開させてゆく、という原理で

考えるべきなのである。

 

p25

 

こうして、意識が「知」と「真」の弁証法的運動をくりかえしながら、認識のありようを

高めてゆくプロセスを「経験」と呼ぼうと思う。

 

==>> この定義、「意識に対して」存在するありようを「知」(対他存在)

     対象がそれ自体として存在する「真」(自体存在)というのがこの後何度も

     でてくるので、記憶しておきましょう。

     いずれも、「“われわれのうちに”存在して」という考え方を前提として

     物語が進んでいくようです。

 

     そして、私が待っていた「弁証法的運動」という言葉も出てきました。

     この部分だけを読むと、何やら仏教の「空」、「縁起」、そして私が好きな

     「相依り」という言葉が連想されます。

 

p25

 

重要なのは、およそ「認識」における「経験の運動」とは、このように、「真」として

つかまれたものがじつは主観的な(自分にとっての)対象の「知」にすぎなかった、という

発見の連続として進んでゆく、ということである。

 

==>> この辺りを読んでいて私が思ったのはフッサールの純粋意識、主観と客観が

     不可分な状態での意識というのを連想するのですが、下のリンクの方の

     意見としては、まったく関係ないよ、とのことです。

 

     https://okwave.jp/qa/q8999672.html

     「ヘーゲルにとって意識とは自然的意識でしたが、フッサールにとって同じ意識

という言葉でも、中身がまったく異なり、現象学的還元を経た現象学的な意識で

した。

ヘーゲルにとって意識とは人間が有するものでしたが、フッサールにとって、

人間以前にあるもの、むしろ人間はその意識によって構成されるものでした。

ヘーゲルにとって現象とはカントと同じ意味で、時間・空間の中にある物の現象

であり、現われでしたが、フッサールにとって現象とは物に限らず、霊でも魂で

も、神でもいい、単に私の意識に現われるものならば、時間空間の中にあっても

無くてもいい、すべてを含みました。」

 

「フッサールの現象学の最大の功績は、世界の存在、「生活世界」が私たちの

人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見したことに

あります。」

 

・・・ということだそうです。

私のように雰囲気だけで大雑把に理解した気持ちになる者は、詰めが甘くて

自分の考えを持つには程遠いですねえ。

それにしても、「私たちがそれに生かされていることを発見した」というくだり

は、東洋的な臭いがしませんか?

 

・・・と思って、検索してみたら、こちらのサイトにこんな意見もありました。

「〜超自然的原理と反哲学〜」

https://mind-bodywork-lab.com/2017/11/09/34400/

「その流れに乗って、マルクス、フッサール、メルロ=ポンティ、ハイデッカー

やサルトル等が東洋思想に近い「自然的な思考」=「生きている自然」をベース

とした哲学を展開するようになる。」

 

 

p28

 

この弁証法的認識論によって、ヘーゲルは、デカルトやカントによって典型的に示され

ていた、近代認識論の「主観―客観」(意識―対象)という根本図式を、決定的な仕方で

変更している。

なぜなら、「主観―客観」という認識図式は、「主観」と「客観」の一致こそ真理であると

いう考えを前提し、しかし同時に「主観」と「客観」は決して一致しないという論理的に

解けない難題を生み出すからだ。

 

p29

 

つけ加えると、「主観―客観」図式を「意識」の領域に還元するという方法はきわめて

根本的なもので、ヘーゲルの後、ニーチェ、フッサールそして後期のヴィトゲンシュタイン

がこの構図をとることで、はっきりと相対主義や懐疑主義を超え出ている。

ただし、ヘーゲルでは、その哲学体系の頂点に「絶対精神」という超越項が存在している。

 

==>> このヘーゲルによる根本的な考え方の変更は、その後の哲学者たちにも

     引き継がれたということなんですが、そこに「絶対精神」という神みたいな

     ものを持ち込んじゃったので、そこはちょっと減点ですねと著者はコメント

     しています。

 

     ここまでで、「まえがき」と「緒論」を終わりました。

     ここからがいよいよ本論の章に入ります。

 

== その2 に続きます ==

 竹田青嗣+西研著「はじめてのヘーゲル『精神現象学』」― 2 「一であり多である」と「一即多(いっしょくた?)」 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

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