大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 9(完) 「法華経」は仏教の布教マニュアルか? ちょっと盛り過ぎじゃない??
大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 9(完) 「法華経」は仏教の布教マニュアルか?
大角修 訳・解説「法華経」「無量義経・妙法蓮華経・観普賢経」を読んでいます。
すべて現代語訳になっています。
p372
観世音菩薩普門品は独立して「観音経」ともいい、とくに禅宗で重視される。
また、海で遭難しても観音菩薩を念じれば波が静まって船は沈まないということから
航海の安全を祈って海辺に観音堂がつくられ、観音崎といった地名にもなっている。
普門品には観音菩薩は三十三の変化身を現して人々を救うと説かれている。
p373
熊野権現は阿弥陀仏の化身とされ、そこに至る道は「辺路」(へじ)と呼ばれた。辺境の
道という意味だが、この世とあの世の境を行くのである。 四国八十八カ所の遍路も
「辺路」と同じで、巡礼者は死装束の白衣を着て旅をする。
p374
そのほか、観音菩薩の話は日本最初の仏教説話集「日本霊異記」(平安時代初期)を
はじめ、各地の寺社に非常に多く伝えられている。
==>> 観音様も阿弥陀様も、他の多くの仏様も様々に変身するので、誰が誰やら
わけが分かりませんが、つまりは、我々の近くにいつでもドロンと出没
することができますよって話なんでしょうね。
p383
陀羅尼は「ダーラニー」の表音。 「保持する」という意味から「総持」「能持」等と
意訳されている。 語句の短いものは真言(マントラ)と呼ばれるが、厳密な区別はない。
定方晟「インド宇宙誌」・・によれば、「短い言葉に宇宙の真理が集約されている」という
のは、「一つには宇宙の創造は波動から始まるからであろう・・・すべての運動は音であり、
すべての存在に音が伴う」からであったという。そして、「経(スートラ)という言葉も
そのような短い聖句を意味し、(中略)ほとんど専門家にしかわからぬキーワードを意味している」と述べている。
そのような事情はヨーロッパでのラテン語も同じだった。 中世ヨーロッパではラテン語
を読める修道僧は聖なる言語を持すゆえに祈祷師として崇拝されたという(渡会好一
「魔女幻想 呪術から読み解くヨーロッパ」・・・・
日本でも、荒ぶる怨霊を鎮撫して五穀豊穣などを祈願する祭式が古代からあり、言葉の
霊力を言霊と呼んだ。
==>> ここにはなかなか面白そうなことが書いてあります。
「短い言葉に宇宙の真理が集約されている」、「宇宙の創造は波動から始まる」、
「聖なる言語を持すゆえに祈祷師として崇拝された」などが、現代の宇宙論にも
繋がりそうだし、過去に読んだ本の中でいうならば空海さんの言語論的な
本にもありました。
宇宙論の中でいうならば、「波動」という言葉からの連想で、下の本を
思い出しました。 物理理論の仮説である「ひも理論(弦理論)」です。
ブライアン・グリーン著「隠れていた宇宙」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/10/post-8d8ca6.html
「p152
ギターの絃がさまざまなパターンで振動し、それぞれのパターンが異なる楽音
を奏でるように、ひも理論のひもはさまざまなパターンで振動し、それぞれの
振動パターンが異なる粒子の性質を生み出すのだ。
p155
一九八〇年代半ば、ひも理論は数学的に矛盾のない量子力学理論であるという
納得のいく論拠が・・・提案されると、重力子の存在はひも理論が待望の重力の
量子論をもたらすことを意味するようになった。
p157
ひも理論が次の、そして最後の一歩になる可能性がある。この理論は相対性理論
と量子理論が主張する領域を、一つの枠組みで扱う。 ・・・・ひも理論はそう
するにあたって、先行する発見をすべて完全に包含するのだ。」
空海著 加藤精一編 「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html
「P18
阿字(あじ)はサンスクリット語(インドの古語)アンウトウバーダ
(本不生、本来生せず)の初字で、諸法は本来生ぜず、という教理を内包して
います。 とりわけ阿字はすべての文字の根本であり、他の一切の文字は阿字
が変化したものと見ることができますから、一切の原初でもあるわけで、大地の
ようにすべてのものの本になっていると理解すれば、阿字は地大だということ
もできるのです。」
「p103
阿字の義とは、・・・阿字はすべての文字の母ともいえますし、すべての声の
本体だともいえますし、つまりすべての存在の源といえるのです。
「大日経疏」巻七にも「最初に口を開いて音を出せば、まず阿の声が出ます。
もし阿の声が無ければその他のすべてのことばは存在しなくなります。この故に
阿は、すべての声の母となるのです」といっています。この故に、阿字を離れて
一切の言葉は無く、一切の諸法も空無であることが知れます。 これが阿字の
字相であります。」
・・・いずれにせよ、仏教に出てくる言葉は、ひとつの言葉が多くの意味を
もっていたり、 複数の言葉がほぼ同じ意味であったりと、ややこしい。
とりあえずここでは、経(スートラ)と陀羅尼(ダーラニー)と真言(マントラ)
がほぼ同じ意味だということが分っただけでもめっけもんです。
p387
伝統の祭礼は、そういう力強いものであった。 祭礼においては、信じるとか信じないと
いうレベルを超えて、神や仏と呼ばれる大きなものと人は出会う。 それを祖先とか祖霊
と呼んでもよい。 また祭礼には、流れゆく日常に区切りをつけて新しく時を再生する
機能があり、そこから生きる力が引き出される。もし寺も神社も祭礼もなければ、人生は
ひどく乾いたものになってしまうだろうし、そもそもそんな社会はありえない。
==>> 私はリチャード・ドーキンス著「神は妄想である」が好きなんですが、
それはそれとして、伝統の祭礼、つまりはお祭りに関しては、ここに書いてある
ことに大賛成です。
お祭りは人間の生活になくてはなりません。
p388
時に、かの王は、王を指導し、また人々を哀れむゆえに法華経を説いていました。
それで二人の王子は母妃のところへ行き、合掌して母を誘いました。
ところが、母妃は王子たちに言いました。
「あなたたちの父君は、み仏の教えより他の教えを信じて、婆羅門の妖術にお心を奪われて
おられます。 あなたたちが願っても行かせてはくださらないでしょう。」
そこで二人の王子は、父王のために七つのターラ樹の高みに浮揚し、あたかも地上であるか
のように空中でふるまいました。 そして、仏の許しを得た神変を現したのです。王子たち
は、上半身から水を噴き出し、下半身から火焔を放ちました。・・・また、水の上を
大地であるかのように歩いてみせました。
==>> まあ、このようなことをやって、二人の王子は王である父を納得させて、
法華経を説く雲雷音宿王華智仏を師と仰いで弟子となろうとする場面です。
この法華経の本には、奇想天外、訳の分からない、盛りに盛った話が次々に
出てくるのでもう食傷気味なんですが、例えば初期仏教の釈迦の言葉と
される「スッタニパータ」とか、空海さんの本には、こういうものに関して
は否定的なことが書かれています。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-cdd1.html
(16) 占いはだめよ! 四諦と十二処
「師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全に
やめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。」
「究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、
あらゆる(生存を構成する要素)を滅しつくすが故に、かれは正しく世の中を
遍歴するであろう。」
「究極の境地」とは「四諦」のことと理解されているようです。又、「あらゆる
変化的生存の領域から」については「十二処」と考えられているそうです。」
空海著 加藤精一編 「即身成仏義」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html
「P13
さらに第五の証文で「大空位に遊歩する」といいますが、法身大日は虚空に
等しいほどの規模で法界に遍満しているのですから、あらゆる現象は法身大日
のあらわれだともいえるのです。しかも大日は過去・現在・未来の三世を通じて
実現するのですから、大日と一体となることを「大空を飛ぶ」と表現したのです。
これを空中浮揚術などと受け取ってしまえばまことに低俗なことになります。」
p396
法華経の霊験
子が父の善知識(先導者)になる話として知られているが、それには霊験を示す
ことが必要だったというわけだ。・・・・・
薬師寺の僧=景戒があらわした日本最初の説話集「日本霊異記」(平安初期)から
経典の力をあらわす二話を掲載する。
「経巻に変わっていた魚のこと」
「火事で燃えなかった法華経」
==>> これは上記の二人の王子がその父である王を法華経を説く師のところへ
連れて行く話の中で出てくる空中浮揚のような霊験という位置づけに
なっているんです。
「日本霊異記」が書かれた時代には、既に聖徳太子によって法華経が
日本に広まっていたということなので、さまざまな霊験あらたかな話が
日本霊異記に書かれていても当然と言えるかもしれません。
日本霊異記の「さわり」の部分をこちらにアップしてあります。
伊藤比呂美著「作家と楽しむ古典:日本霊異記・発心集」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_14.html
「p048
お経の中にもセックスにかかわる話がいろいろと出てくる。 お経というのも
また、語り物の一つですから。 景戒さんには、セックス話はみんな生きる死ぬ
るの根源的な話だと思えるわけです。 それで、ついメモをとって書きとめる。
そのうちに、セックス話の入った説話がたくさん集まった。 それを一冊の書物
にしたのが「日本霊異記」です。」
・・・この本に触発されて、ここに紹介されている「日本霊異記」やら
「今昔物語集」の超現代語訳を読んでいますので、後日感想文をアップ
したいと思います。
p408
コラム「梁塵秘抄」の二十八品歌
以上で法華経二十八品をおわる。 この内容は法華八講などの法話や和歌をとおして、
平安時代には広く民衆にも知られるようになっていた。
釈迦の誓いや頼もしき、我等が滅後に法華経を、
常に持たむ人は皆、仏になること難からず。
(如来神力品第二十一)
観音深く頼むべし、弘誓の海に船浮かべ、
沈める衆生引き乗せて、菩提の岸まで漕ぎ渡る。
(観世音菩薩普門品第二十五)
==>> とりあえず、分かりやすい二つの歌だけをここに引用しました。
こういう分かりやすい歌であれば、確かに民衆にも広がったんだろうなと
思います。 漢字が読めたかどうかは分かりませんが、聞いて覚えるにも
易しいのではないかと思います。
p414
「分別功徳品第十七」の後半以降は「流通分」といい、宣教と功徳について語られて
いる部分である。 法華経を持す者は諸仏諸尊に守護されるという。
・・・法華経は現世において幸福を実現するものであることを示す。 いわゆる
現世利益が法華信仰を強く特色づけるものとなっているのも、ここに依拠している。
・・・キリスト教であれイスラム教であれ、どんな宗教も、それが広まった地域の
文化や信仰と融合し、時代をへて発達した。 そして、どの宗教も現世の幸福と来世の
安らぎを祈るものである。 ・・・・当然、まじないや祈禱の要素をもつ。 それを
典型的に示しているのが観世音菩薩普門品の「念彼観音力(彼の観音の力を念じよ)」
というフレーズであり、陀羅尼の呪句である。
p416
病気の子をもつ母もいるだろう。 とりたてて苦労や不安はなくても、お寺や神社
に行けば何事かを祈るものだし、散華の儀式で散らされた紙の花弁などをお守りに
もらって帰るといった人は多い。
そうした祈りへの共感がないと、たとえ法華経に何が書かれているかを知ったところで、
よく理解できないのではないだろうか。
==>> はい、まさにおっしゃる通りだと思います。
私もせっせと散歩がてらに、寺社を巡って、神仏に形ばかりのお願いを
しております。一番のお願いは「ぽっくり」祈願です。
本音を言えば、写真を撮りに行っているんですけど。
さて、以下はいよいよ「エピローグ」です。
p420
諸仏如来は世の慈父であり、人々の罪を除きます。 釈迦如来は毘盧遮那(光明の仏)
であり、その国は常寂光(平安な光の国)です。 この大乗経典は諸仏の宝の蔵です。
持経者は、すなわち仏身を持し、仏の衣を着て仏のみわざをなします。
・・・このように唱えなさい。
「南無釈迦牟尼仏 南無多宝塔 南無十方釈迦牟尼仏分身諸仏。 我れ今大乗経典
甚深の妙義に依って仏に帰依し法に帰依し僧に帰依す」と。
==>> 「釈迦如来は毘盧遮那」というところがクエスチョンなので確認します。
https://kotobank.jp/word/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F-121777
「「輝くものの子」を意味するサンスクリット語の音写。毘盧舎那仏とも音写し,
略して盧舎那仏,・・・・仏陀の智慧の広大無辺なことを象徴し,『華厳経』の
本尊。・・・天台宗では毘盧舎那仏,盧舎那仏,釈迦仏を,それぞれ法身,報身,
応身の三身に配して究竟の妙境に顕現するものを毘盧舎那仏とする。
密教ではこの仏陀を大日如来とみなして理智不二の法身であるとする。」
ほお、一応天台宗では応身という位置づけなんですね。
真言宗では大日如来と釈迦牟尼仏の関係がよく分らないんですけど。
こちらの「胎蔵界曼荼羅」の解説では、「釈迦院」として説明がありました。
http://www.world-egg.co.jp/sumie/mansetu.html
「釈尊中心の院であるため特に釈迦院とよばれる。大乗仏教では肉身の釈尊
よりも釈尊の体験した悟りの世界を重んじ、普遍的な法に目覚めた覚者をより
理想化することによって多くの如来が生し、法身思想のきわまるところ、一切の
如来の徳を統合した太陽のような如来、すなわち密教における大日如来が出租
したのである。・・・・現実に生きた釈尊を通して法が実現されたのであって、
法身世界を実践してゆくことが第二重曼陀羅の本旨であるからである。」
・・・つまり、大日如来の化身として現実の世界にお釈迦さんが現れたと
いう位置づけでしょうか。
さらに、手元にある宮坂宥勝著「空海密教の宇宙」で調べたところ、以下の
記述がありました。 (下のサイト内には書いていませんが・・・)
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/08/post-2f3924.html
「p142
仏には三身がある。 応化(身)が説いたのは顕教という。 言葉は顕略
であって人々の宗教的素質にかなった教えである。 法身が説くのが密教
である。 言葉は秘奥にして実説である」
「仏身には (1)法性身(法身) (2)父母生身(生死身)の二種がある、
と説く。(1)は超越的な絶対の仏身であるが、(2)は実際的には歴史上の
人物である釈迦がそうである。」
・・・ただし、一般的には大乗仏教では、法身、報身、応身の三種の仏身が
説かれているそうです。
法身は、絶対真理(真如)、すなわち釈迦の覚りそのものであるともされて
いるようです。
・・これでやっと、違いが分かりました。
p422
懺悔(さんげ)は一般には「ざんげ」と読み、反省して謝ることをいう。しかし、
仏教でいう罪は、法律をおかしたり道徳に反したりすることだけではない。
生きていること自体に必然的に伴い、知らず知らずに重ねていくもので、垢(濁りや
穢れ)として認識される。・・・・謝るとすれば人間の誰かに対してではなく、仏に
礼拝して赦しを祈るほかにない。
・・・三千仏経によって三千の仏の名を唱える仏名会は古くは宮中で十二月に
おこなわれ、歳末に一年間の罪障消滅を祈った。 今日の除夜の鐘につうじる行事
である。
==>>
「波多野精一著「宗教哲学」を読む― 6「お願い」と「祈り」はどう違う?」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/08/blog-post_23.html
「p435
「悔い」の観念は、宗教にとっては極めて固有なる重要なるものであるにもかか
わらず、人間性の立場より観れば、不条理や無意味を免れ難いであろう。為され
た行為は過去となった事実である。 過去が無に帰したことを意味するならば、
無きものに関して思い悩むは愚である。
・・・悔いの意味を否認しようとする哲学者のあるはむしろ当然というべきで
あろう。しかるに、実在的他者との関係において生きることに生の本質を置く
ならば、展望は全く顚倒し、悔いは生の中心に立つ極めて重要有意味な事柄と
なる。・・・・悔いは罪の体験と必然的に聯関し、むしろそれの一契機とさえ
看做し得る。
==>> 人間性、哲学的立場からいえば「悔い」というものは不条理で無意味。
一方、宗教的な立場からは中心的事柄になるようです。これもおそらくキリスト
教的な意味合いであろうと思います。過去に読んだ本の中に下のような記述
がありました。」
「苫米地英人著「人はなぜ、宗教にハマるのか?」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-4fb67f.html
「p200
こうした中国浄土教の論理から親鸞は、大乗仏教をキリスト教レベルの世界
宗教の論理に引き上げました。・・・親鸞の考え方は、キリスト教の無償の愛
と同じです。」
「・・・・また、こちらの浄土真宗のお寺のサイトではこのような、まるで
キリスト教かと見まちがうような言葉が書いてあります。
https://komyouji.com/hougocalender/2014-09.html
「お念仏は 讃嘆であり 懺悔である」 「「即懺悔(そくさんげ)」といふは、
南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始(むし)よりこのかたの罪業を懺悔
するになると申すなり。」」
(無始=無限に遠い過去。無限にさかのぼった過去。)
・・・つまりは、生まれた時から背負っている人間の宿命としての罪業と
いうことになりそうです。
p429
「法華経の小辞典」より:
<供養・功徳>
法華経はもっぱら供養と功徳を説く経典である。
漢訳経文に「供養」は191回、「功徳」は品名にあるのを含めて98回も出る。
「福徳」「利益」など「功徳」に類する語も多い。
p433
<悪人成仏>
代表的な悪人と伝えられる提婆達多(デーヴァダッタ)が未来に仏になると告げられること
から、どんな悪人でも救われるという。
涅槃経には父を殺してマガダの王位についた阿闍世(アジャータシャトル)を
一闡提成仏(いっせんだいじょうぶつ)の例として記されている一闡提はイッチャンティカ
(欲求にとらわれた者)の音写で、そのような人にも仏性(さとりの性質)があることが
「一切衆生悉有仏性(一切の衆生に悉く仏性あり)という言葉で告げられる。
==>> 「悪人成仏」でインターネット検索をすると、日蓮宗系あるいは法華経系の
サイトが多くヒットします。
しかし「悪人成仏+wiki」でやると、「悪人正機」がでます。
また、「悪人成仏+コトバンク」でやっても、「悪人正機」が出て来ます。
さらに辞書系のサイトでも、やはり「悪人成仏」の代わりに「悪人正機」が
引っかかって来ます。
そこで、wikipediaで提婆達多について読んでみると、以下のような記事が
あります。
「『増一阿含経』には、提婆達多が逆罪を犯した様子が描かれている。しかし
増一は、阿含経の中でも最も後期の部派仏教による成立であり、堤婆達多が釈尊
に逆心し大罪を犯したとする内容は現在の仏教学においては疑問視されて
いる。」
「「法華経」提婆達多品第十二では、提婆達多は天王如来 (devarāja) という名前
の仏となるという未来成仏が説かれている。これは、のちの日本仏教、特に鎌倉
以後の諸宗に大きな影響を与え、この期以後の禅、念仏、日蓮の各宗は、この
悪人の成仏を主張している。」
「また、「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞著)では、「仏説観無量寿経」に登場する
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、ガウタマ・シッダールタ(釈迦如来)、
・・・・・守門者と共に、デーヴァダッタが浄土教を興起せられた15人の
聖者として列せられている。」
・・・・私自身は、教科書などに書いてあった「悪人正機」の方が馴染みがある
ので、それとの関係をちょっと確認してみます。
Wikipediaでは、以下のように書かれています。
「この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の
法然が、7世紀の新羅の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』
を引いている。・・・また浄土真宗本願寺第三世覚如も、元は法然の教えである
としている。」
また、コトバンクによれば、「悪人正機」について、
「仏教では,一般に五逆罪を犯した者,正法 (仏教) を誹謗した者,仏法を信じ
ない者 (闡提〈せんだい〉) は成仏できない,と救済の対象から除外されていた。
それが『涅槃経』では,こうした悪人中の悪人にこそ,仏の慈悲がひとえに重く
注がれる,と説かれている。」
そこで、「大般涅槃経」をチェックしてみると、コトバンクでは、
「大乗仏教の思想を述べた『大般涅槃経』という膨大な経典がある。北涼の
曇無讖の訳した 40巻本と宋の慧厳らの加筆した 36巻本とがある。大乗の
この経典は,仏の法身は常住であり,一切衆生にことごとく仏性があり,
悪人でも救われることを説いている。」
同じく、コトバンクで「法華経」については、
「古くから、『法華経』をよりどころとして自説をたて、学派・宗派を確立した
人々は数多く、また注釈書も圧倒的に多い。とくに、この経に依拠して、中国の
智ぎに始まる天台宗は、最澄(さいちょう)により日本に伝えられ、その本拠の
比叡山(ひえいざん)には、以後の出家者のほぼすべてが、いったんは籠(こも)
って修行し、鎌倉仏教の祖師たちもここに学んだ。なかでも日蓮(にちれん)が
『法華経』そのものに傾倒して、「南無妙法蓮華経」の唱題を始めたことは名高
い。日蓮宗の系譜から出る現在の日本のいわゆる新宗教の多くも、『法華経』の
精神の実践に活躍している。」
・・・つまり、上記を読んでみると、法然さんは「大般涅槃経」あるいは
「法華経」から「悪人正機」を唱え、日蓮さんは「法華経」を元にして
「悪人成仏」を唱えたという感じでしょうか。
そして、親鸞さんの「悪人正機」が教科書にものるほど有名になった。
おそらく、日本の宗派別の人口が一番多いのが浄土真宗だからでしょうね。
ちょっと古い2012年度版で、宗派別のランキングを見てみましょう。
2012年度日本の宗教信者数ランキング(宗教年鑑版)
http://sougouranking.net/ranking/religion_nenkan/
大雑把に計算してみると、(個別の宗派の内容が分らないので大雑把です)
浄土系と真宗系合計は、およそ 1,700万人
法華・日蓮系合計は、 およそ 500万人
ぐらいでしょうか。
ちなみに、私は以前は浄土真宗だったんですが、今は真言宗なので、
真言系の合計としては、およそ 600万人でしょうか。
せっかくなので、文化庁「宗教年鑑」(令和2年版)は、こちらです。
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/r02nenkan.pdf
さてさて、やっと「法華経」を読み終わりました。
私の個人的な感想を一言でいうならば、この本の巻末にあった「法華経の小辞典」に書いて
あった「<供養・功徳>法華経はもっぱら供養と功徳を説く経典である」ということに
尽きるかと思います。
さらに付け加えるならば、「法華経」というか、仏教がいかに素晴らしいものであるかを、
お釈迦さんが亡くなった後に広く知らしめて信徒を増やすための、広報・宣伝・布教
マニュアルではないかと感じました。
その為に、仏の世界の素晴らしさをこれでもかこれでもかというぐらいに「盛って」
インド流?の広大無辺で豪華絢爛なイメージを描き、供養の重大さと、功徳の大きさを
強調しているし、布教の仕方やそれによってうける迫害についても書いてありました。
おそらく、その当時のインドでの仏教をとりまく状況を反映したものであろうと
思いますが、初期仏教のお釈迦さんの生の声に近いと言われている、「阿含経」など
「スッタニパータ」を含む仏典の素朴で人生哲学・生活哲学のような内容に比べると
宗教としての宇宙観や不可思議さが強調され過ぎて、現代感覚の私からみれば、
ちょっと盛り過ぎという感じがしました。
「スッタニパータ」はすでに感想文を書きましたが、
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-b443.html
今後もう一度初期仏教の「阿含経」などを読んでみたいと思います。
お付き合い有難うございました。
=== 完 ===
「
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