島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 3  法隆寺世界、日本霊異記、そして今昔物語は日本の仏教史である

 

島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 3  法隆寺世界、日本霊異記、そして今昔物語は日本の仏教史である

 

島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」―「在家こそ日本仏教のあるべき姿である」という

本を読んでいます。

 

 


  

p121

 

安時代になって生まれた真言宗や天台宗になると、本尊には変化が見られる。密教である

真言宗の本尊は大日如来である。 天台宗の場合、釈迦如来が本尊とされることもあるが、

他の如来を本尊とすることも許容される。

 

なお、ここが複雑なところでもあるが、比叡山の本堂、根本中堂の本尊は薬師如来像で

ある。 真言宗でも、高野山の壇上伽藍の本尊はやはり薬師如来像である

 

==>> 私も観光旅行でちょこちょことお寺参りにいって、どうなってんの?と思った

     ことが度々ありました。

     そして、やっと最近になって本などを読んで分ったことですが、2年ほど前

     から準檀家となった真言宗においては、基本的には本尊は大日如来だけど、

     他の仏さんは大日如来の分身みたいなもんだから、お好きな仏さんを

     自分の本尊にしても構いませんという宗派であることを知りました。

     ちなみに、私のうちの隣にある真言宗の御本尊は地蔵菩薩です。

     阿弥陀仏を本尊にしている真言宗のお寺もあります。    

 

     下は、2012年に高野山に観光旅行で行った時のブログです。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-888e.html

 

     「高野山ですからね、ここは 空海さんの 真言宗なんですね。だから、大日

如来なんだろうと思いこんでいたんです。思いこみってのはいけませんね。

お勤めのあったお堂には 「無量寿」って書いてあったんです。

つまり、本尊は 阿弥陀如来なんですね。」

     (御本尊の写真は撮れませんでしたけど・・・・)

 

     ちなみに、薬師如来信仰は奈良時代から盛んになったのでそうです。

 

p122

 

聖徳太子の時代、法隆寺が創建された時代には、南都六宗を構成する宗派の考えは

日本にはまだ伝えられていなかった。法隆寺が再建された時点でも、伝えられていたのは

法相宗と三論宗に限られる。

 

p123

 

法隆寺の言い伝えでは、玉虫厨子は推古天皇が念持仏を祀っていたものとされる

それが正しいなら、制作年代は6世紀の終わりから7世紀のはじめということになり、

聖徳太子の在世中ということにもなる。

 

とすれば、金堂と五重塔、そして玉虫厨子によって構成された法隆寺世界は、五重塔

初重の塔本四面具が造られた711年前後には完成していたことになる。

 

p126

 

壁画として描かれているのは、釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の四つの浄土である。

平安時代末期に浄土信仰が拡がってからは、浄土と言えば、もっぱら阿弥陀如来の

西方極楽浄土をさすようになる。 だが、法隆寺創建の頃には、浄土教信仰は広まって

おらず、とくに阿弥陀浄土だけに関心が集まっていたわけではない。

 

==>> ここでは、法隆寺の思想的世界が、どのようなもので構成されているかと

     いう点から、それが造られた年代を勘案して、その特徴を形作っていきます。

     たしかに、私なども、浄土といえば阿弥陀さんの西方浄土ぐらいしか頭には

     ありませんでした。

     最近、空海さんが唐から持って来たという曼陀羅をみて、いろんな仏さんが

     宇宙のあちこちにいるんだなという認識に変わってきた程度です。

 

 

p128

 

五重塔初重の塔本四面具においては、釈迦のたどった道筋が時間軸にそって表現されて

いる。 

 

p129

 

この塑像群が造られたのは、聖徳太子が亡くなってから90年近くが経った時点でのこと

だが、その場面が選ばれたのは、聖徳太子を維摩居士の再来としてとらえる考え方があった

からだろう。 それは、太子が「維摩経義疏」を書いたという伝承につながっていく。

 

p131

 

法隆寺世界は、過去世から、釈迦在世の現在、そして弥勒下生の未来へと時間軸に沿って

展開するとともに、さまざまな如来と菩薩の織り成す浄土を描き出すことで、空間的な

広がりを持っている。 そして、そこには聖徳太子と深い縁を持つ「法華経」と「維摩経」

が組み込まれている。

 

・・・こうした法隆寺世界の構成は、果たして偶然のものなのであろうか。

そうではないだろう。 一定の意図をもって作り上げられたことは明らかである。

 

・・・その世界は、日本の仏教が宗派によって特徴づけられる以前のものである。

 

p132

 

「日本書紀」が完成するのは720年のことである。

 

 

==>> はい、ここですね、著者がいいたいところは。

     この法隆寺世界は非常に独特なものであって、それが法華経や維摩経という

     聖徳太子と関係の深い経典の内容が造り込まれているということです。

     聖徳太子は「日本書紀」の中で権力者によってつくられた架空の人物で

     あると言うよりも、その前の時代に聖徳太子の存在を示す特徴をもつ

     法隆寺があるじゃないか・・・ということを言いたいみたいです。

 

p134

 

大山誠一などが唱える聖徳太子虚構論においては、理想化された聖徳太子の姿は、

藤原不比等、長屋王、そして僧侶の道慈という三者によって、「日本書紀」編纂の時点

で作り上げられたものだとされていた。

 

ところが、・・・720年に「日本書紀」が編纂される前の時点で、聖徳太子が創建した

法隆寺には、独特の宗教世界が形作られていた。

 

 

==>> 大山誠一氏をチェックしておきましょう。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E8%AA%A0%E4%B8%80       

「大山は、飛鳥期にたぶん斑鳩宮に住み、斑鳩寺(法隆寺)も建てたであろう

有力王族、厩戸王の実在は否定していないが、推古天皇の皇太子かつ摂政だった

聖徳太子の実在については否定している

大山によればこれらは、720年に完成した『日本書紀』において、当時の権力者

であった藤原不比等・長屋王らと唐から帰国した道慈らが創造した人物像

ある。」

 

 

p139

 

聖徳太子は、私たちが生きる俗世間を虚しいもの、仮のものととらえ、それに対比して

仏の世界を真実の世界ととらえていたというのである。

 

天寿国繍帳銘文の短い文章をもとに、聖徳太子の仏教思想の意義を考察することは

そもそも難しい作業である。 その点で、聖徳太子がそのような発言をしたのか、

あるいは発言する可能性があったのかについて考えていく必要がある。

 

p141

 

浮彫には、釈迦の生涯を描いた「仏伝図」と呼ばれるものと、その前世を描いた「本生図」

と呼ばれるものがある。 このうち、仏伝図では、釈迦の生涯における重要な出来事が

描かれている。

 

ところが、・・・それが、釈迦の生涯を描いたものとしてまとめあげられるのは、後の

時代になってからのことである。

 

・・・法隆寺世界のなかには、涅槃以外の場面は登場しない。つまり、釈迦が生きている

あいだに経験した出来事については法隆寺では接することはできないのだ。

 

p142

 

その代わりに登場するのが、五重塔初重東面に描かれる維摩居士が文殊菩薩と法論を

戦わせる場面である。 維摩居士は、在家のまま釈迦の弟子になった人物で、「維摩経」

に登場する。 維摩居士のもとに文殊菩薩を送り込んだのは釈迦であり、このエピソード

は釈迦在世中のものである。

 

==>> 著者がここで言っているのは、普通ならばお釈迦様の生涯の重要なエピソード

     を時系列に並べて展示するように一揃いの絵を掲げるところを、ここには

     普通ではない「維摩居士と文殊菩薩のディスカッションの場」を掲げている

     ということのようです。

     なぜなのか?  維摩居士が在家の弟子であったことが重要なのではないか。

     在家であるということは聖徳太子も同じである。 そして、ひいては

     非僧非俗の親鸞にも通じる・・・ということのようです。

 

     法隆寺の「塔本塑像」の写真

http://www.horyuji.or.jp/garan/gojyunoto/

このサイトの解説の中に、「維摩詰像土」のことも述べられています。

 

 

p145

 

「日本書紀」が成立する以前の段階で、法隆寺の五重塔初重の塑像群に維摩居士が登場する

点は無視できない。 ・・・・釈迦の生涯を描いてしかるべき箇所に、釈迦に代わって

維摩居士が登場しているからだ。

 

それは、塑像が造られる段階で、「維摩経義疏」がすでに存在していたことを示唆して

いるのではないだろうか。 

 

p147

 

花山は、とくに現在は御物となっている「法華義疏」を調査、検討し、これは聖徳太子

自筆本と認められると結論づけた。

その際に花山は、「法華義疏」のなかで、本義となる法雲の「法華義記」にはない考え

方として、大乗を超えた「一大乗」を主張していることに注目する。

一大乗は「法華経」にある「一仏乗」のことで、それは、仏になることのできる唯一の

道のことをさす。

 

==>> 「法華義疏」については、事典によっては聖徳太子の著作を否定して

     いるものもあるようです。

 

https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%BE%A9%E7%96%8F-133472

     「法華義疏ほっけぎしょ

聖徳太子の著書。4巻。『三経義疏』の一つ。主として法雲の『法華経義記』に

よっているが,一大乗の説や菩薩の不親近処十種の説などは,中国高僧の注疏類

にはみられない独自な解釈である。そこには現実生活を肯定する立場が認めら

れる。」

 

 

p148

 

在家仏教の価値を認めるという点で、「法華義疏」は、「維摩経義疏」と共通した性格を

持っている。 しかも、「三経義疏」の残りの一つである「勝鬘経義疏」の場合にも、

王妃である勝鬘夫人が釈迦の前で、一乗への帰一と衆生の本性が清浄であることを説き、

釈迦がそれが正しいと認められる物語である。

教えを説くのは、在俗の勝鬘夫人であり、その点で、「維摩経」と設定が共通している。

 

==>> つまり、聖徳太子が著したとされる三経義疏の共通点は在家でも浄土に行ける

     ということをお釈迦様が認めたという内容であるから、それは、親鸞さんに

     とってみれば、戒律や修行を重視する法然さんの教えよりも、自分がめざすもの

     に近いということなのでしょう。

 

p149

 

戒壇は、戒を授けることによって正式な僧侶として認めるための場だが、最澄の時代には

すでに、東大寺、下野薬師寺、大宰府観世音寺に戒壇が設けられていた。

これは、中国から鑑真が来日したことで生まれたものである。

そこで授けられる戒律は、出家中心主義の、当時の言い方からすれば「小乗仏教」の

戒律だった。 

 

p150

 

最澄は、天台教学が「法華経」を中心となる経典と位置づけたことから、そこで

説かれた「一乗」の思想を中心に据えた。 ・・・・南都六宗で説かれた「三乗」を

否定した。 ・・・・最澄は、「法華経」において、すべての衆生には仏性が備わり、

仏になることができると説かれていることを強く主張した。

 

==>> ここで比叡山の最澄さんが出てきました。

     最澄さんと言えば比叡山延暦寺ですが、そこに常行堂・法華堂という

     二つのお堂がありまして、渡り廊下で繋がっています。   

     ここでは、今でもお坊さんたちが二つのお堂を行き来して修行をされると

聞きました。

     常行堂の本尊は阿弥陀如来で、法華堂の本尊は普賢菩薩になっています。

 



2019年11月25日撮影 常行堂と法華堂

手前に建ててある石柱には「親鸞聖人 旧跡」と書いてあります。

 

     詳しい解説はこちらでどうぞ:

     http://www.redleaves.jeez.jp/enr1006.html

 

 

p152

 

法然は、従来の仏道修行を「聖道門」と呼び、念仏を唱える「浄土門」と区別した

・・・・浄土門に入るためには、念仏さえ唱えればいいわけで、それは在家の信者に

可能な方法だった。

 

 

p153

 

禅宗の場合には、禅の修行に専心するには出家する必要があり、その点では、在家仏教

の傾向は見られない。 しかし、曹洞宗は・・・・仏教式の葬儀のやり方を開発し、

それを広めることで、在家信者に対して救いを与える道を切り開いた

 

日蓮は、「法華経」の信奉者で、自ら「法華経の行者」の道を歩んだり、個人の救済と

いうことよりも、国家における仏教のあり方を問題とした宗教家であった。

 

p154

 

日本では、世俗の世界から隔絶された世界に生きる僧侶をひたすら崇めるということは、

当初の段階から必ずしも好まれなかった。

法隆寺世界において、聖徳太子が維摩居士と重ね合わされているところには、在家仏教

の方向性がすでに示されていた。

 

==>> 日蓮さんについては、江戸時代以降に祖師としての信仰を集めて

     在家仏教になっていったと書いてあります。

     いずれにせよ、延暦寺は仏教の総合大学としての役割を果たし、多くの

     宗派の創始者を輩出したということになりますが、その修行の場であった、

     常行堂と法華堂にはそれぞれの宗派の思想につながる種があったようです。

 

 

p160

 

法隆寺に形作られた法隆寺世界が、いったい誰の意図によるものかということは分から

ない。 ・・・もっとも重要なことは、聖徳太子が中心に据えられ、釈迦の化身として

位置づけられていることである。 

 

p164

 

「日本書紀」が編纂される前の段階で成立した「法隆寺世界」において、聖徳太子の

神格化はすでに著しく進んでいた。 聖徳太子は、維摩居士と重ね合わされ、さらには

釈迦如来とも重ねあわされた。 そして救世観音も聖徳太子の等身大で造られたと

され、聖徳太子は観音菩薩の化身ともされていた。

 

p166

 

聖徳太子が神格化された姿を伝える初期の文献としては、・・・・

・・・鑑真が来日した顛末について記したものに「唐大和上東征伝」がある。 これは、

奈良時代の文官であった淡海三船が著したものである。

 

・・・そのなかに、鑑真と聖徳太子を結び付ける逸話が出てくる。

 

・・・「・・・本国にむかし聖徳太子あり、曰はく、二百年の後、聖教日本に興らんと、

今、この運に鍾る。 願はくは和上乗遊して化を興したまへん」と、聖徳太子の予言を

持ち出して来日を要請した。 注目されるのは、この要請に対して鑑真が、「むかし聞く

に、南岳の思禅師は遷化の後、生を倭国の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度せり」

と答えたとされることである。

 

==>> ここで著者は、聖徳太子の神格化は「日本書紀」以前にできており、

     日本国内どころか唐においても「聖徳太子は、中国の南岳の恵思禅師の

     生まれ変わり」とされていたという伝説が8世紀末には成立していたことも

     あげています。

     

     ここに、「大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」を著した思託が、788年に

     「延暦僧録」を書いていて、これは日本で最初の僧侶の伝記だそうです。

  

     まず、「唐大和上東征伝」についてはこちら:

https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E5%A4%A7%E5%92%8C%E4%B8%8A%E6%9D%B1%E5%BE%81%E4%BC%9D-103874

     「唐僧鑑真(がんじん)の伝記。1巻。淡海三船(おうみのみふね)著。宝亀10

779)成立。鑑真の出自や出家から六度目にようやく渡日に成功して日本に

戒律を伝えた経緯、唐招提寺の縁起を述べる。」

 

「大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」は、こちら:

https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E5%A4%A7%E5%94%90%E4%BC%9D%E6%88%92%E5%B8%AB%E5%83%A7%E5%90%8D%E8%A8%98%E5%A4%A7%E5%92%8C%E4%B8%8A%E9%91%91%E7%9C%9F%E4%BC%9D%E3%80%8B-1359038

     「【唐大和上東征伝】より

…《鑑真和尚東征伝》《鑑真過海大師東征伝》《過海大師東征伝》《東征伝》など

の別称がある。鑑真に随伴して来日した思託の請により,三船が思託の著した

《大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝》(略称《大和上伝》《大和尚伝》)や鑑真の

行状を伝聞して完成したもの。」

 

さらに、いろいろとこの関連を検索してみると、下のような論文が見つかり

ました。

「聖徳太子慧思託生説と百済弥勒寺「金製舎利奉安記」」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/61/12/61_64/_pdf/-char/ja

     ここには、「718年の頃、中国・杭州地方の碑石に・・・・」ということが

     書かれています。興味のある方は読んでください。私はこれ以上深入りしません。

 

p169

 

中国に渡って師(最澄)が十分に招来できなかった密教を体系的な形で日本にもたらした

のが円仁だった。 ・・・そこで見聞した事柄は「入唐求法巡礼行記」につづられている。

 

p170

 

聖徳太子は、南岳思禅師の化身として日本に転生し、唐に使者を派遣して、経典を取り寄せ、

それに注釈を施すとともに、講演も行った。鑑真が来日したのも、そうした聖徳太子の

徳を慕ってのことで、天台の教えを携えて来日したというのである。

 

==>> 「入唐求法巡礼行記」は、私も一応読んだんですが、聖徳太子に関係する

     ことを読んだ記憶は残念ながらありません。

     その読書感想文は狂歌の形で書きました。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/07/post-75c3df.html

 

 

p171

 

注目されるのは、現存する「日本霊異記」では、この聖徳太子についての話が上巻第4縁に

載せられているのに対して、延暦6年のオリジナル版では、冒頭の第一話におかれて

いたことである。

 

p172

 

吉村武彦は、「「日本霊異記」や「三宝絵」は、日本仏教布教の起点として聖徳太子を

位置づけた」ことを指摘している。

 

p174

 

さらに、後世の聖徳太子信仰に多大な影響を与えたのが、編年体の聖徳太子の伝記で

ある「聖徳太子伝暦」であった。 編者は歌人の藤原兼輔で、917年に成立したと

される。 これは、それまでに存在した各種の聖徳太子伝を集大成したものだった。

 

==>> ここでは、聖徳太子信仰がその後どのように伝えられていったかが

     記述されています。 

     「日本霊異記」は非常に気になっている本でして、その入門書みたいな

     ものはちらっと読んだのですが、ツンドク状態になっています。

     いずれ読まなくちゃいけないなと再度思っているところです。

     とりあえず、こちらでその概要を:

https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%9C%8A%E7%95%B0%E8%A8%98-110323

     「日本霊異記【にほんりょういき】

平安初期成立の仏教説話集。3巻。《にほんれいいき》とも読み,また《日本国

現報善悪霊異記》,または《霊異記》ともいう。薬師寺の僧景戒の著。漢文で書

かれた日本最古の説話集で,因果応報の日本における実例の奇事を示し,善行を

すすめる唱導教化の書。」

 

p182

 

日本において「法華経」に対する信仰は、極めて重要な意味を持った。最澄が日本で開いた

天台宗は、「法華経」に説かれた教えを中心にしており、それを基盤に天台教学を築き上げ

ていった。 「法華経」が重視されたのは、すべての衆生が成仏する可能性を有している

ことを明確に主張したからで、そこからは経巻としての「法華経」そのものを信仰対象に

する動きが生まれた。 寺社その他に経巻を納めることは「納経」と呼ばれるが、納経の

中心になったのが「法華経」である。

 

==>> ああ、なるほど、そういうことでしたか。

     私は以前から、漠然とした疑問を持っていました。それは、多くの場合は

     釈迦如来像、阿弥陀如来像、大日如来像などの如来や菩薩を前にして

     仏を拝むということに対して、「法華経」の場合はなんだか様子が違うなと

     感じていたからです。

     おそらくそれは、両親が浄土真宗の門徒で、日常がそのような雰囲気の中で

     育ったからなのでしょう。そして、還暦を過ぎてからその浄土真宗や仏教

     そのものを知りたくて、原始仏教から浄土真宗にいたる道筋をおおまかに

     辿りながら本を読んできましたので、そこには「法華経」が入っていなかった

     のです。 いわば、延暦寺の常行堂と法華堂の内、阿弥陀如来を本尊とする

     常行堂の方に偏った読み方になっていたようです。

 

     ・・・ということで、とりあえず百科事典で概略をチェックしておきます。

     https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C-132828

     「法華経【ほけきょう】

大乗仏教の重要経典。《妙法蓮華経》が正称で,サンスクリット《サッダルマプ

ンダリーカ・スートラ》の訳。27章(または28章)からなり,紀元前後,

インドで成立したとされる。詩や比喩(ひゆ)や象徴的手法を縦横に駆使した精妙

な文体で,すべての法はすべて大乗の現れであり(一大乗),仏とは永遠の生命

そのものであること(久遠実成(くおんじつじょう))を説く。」

 

とりあえず、早速、法華経の現代語訳を一冊注文しました。

いつ読む気になれるか分かりませんが・・・・

 

p185

 

「今昔物語」の本質は、仏教の歴史を描き出すことにあった

・・・全体として、天竺インドに生まれた仏教が、いかに震旦、本朝に伝わったかを

物語ったものである。 それはインド仏教史であり、中国仏教史や日本仏教史であった。

 

・・・本朝について述べた部分の特徴は、仏教に割かれたと同じ分量が世俗に割かれて

いることである。 天竺や震旦の部分について世俗に割かれた部分は少ない。

 

==>> 今昔物語については、著者が言うように、私自身も芥川龍之介の「鼻」や

     「羅生門」などのイメージが強く残っていて、まさか仏教史を書いたものだと

は知りませんでした。

さっそく、入門者向けの本を注文しました。

ツンドクがますます増えています。

 

 

p187

 

婆羅門僧正とは、東大寺の大仏開眼会で導師をつとめたインド人僧侶、菩提遷那のこと

である。 弘法大師は空海、伝教大師は最澄、そして慈覚大師は円仁、智証大師は円珍

である。 このなかで、出家していないのは、聖徳太子のほかは、修験道の祖ともされる

役の優婆塞、役の行者だけである。 ただ、役の優婆塞は神話的な存在である。

 

==>> これは今昔物語の巻第十一の中に出てくる仏教を広めた人たちの名前を

     リストアップしている部分です。

     要するに、ここでも、聖徳太子だけが在家であるということを語って

     いるものと思います。

 

p191

 

法隆寺世界において示されていたものが物語として表現されたのだと見ることができる。

法隆寺が種となり、「今昔物語」という花を咲かせたわけである。

その点を、私たちは見逃してはならないのである。

 

p192

 

聖徳太子自身が、そのことを意図したというわけではない。 だがそれは、一つの

自然な流れであり、特定の個人の作為によるものだとはとらえられない

「日本書紀」が聖徳太子の神格化のはじまりだったというわけではないのである。

 

==>> ここで著者は、釈迦やイエス・キリストの例もあげながら、

     「神格化されない教祖、宗祖というものは存在しない」と述べています。

     日本仏教の多くの宗派の宗祖が神格化され、崇敬されていることを思えば、

     それは自然なことだと私も思います。

     「日本書紀」ただひとつで、それが出来たとは考えにくいと思います。

     まあ、聖徳太子非実在論の筆頭とされている大山誠一氏の本を読んでみないと

     分かりませんけどね。

 

 

p194

 

親鸞はなぜ聖徳太子ゆかりの六角堂に籠り、そこで、聖徳太子の示現という出来事を

経験しなければならなかったのだろうか

 

それまで親鸞は比叡山で学んでいた。 ただ、親鸞が比叡山においてどういった生活

を送っていたのかについてはほとんど分かっていない。

 

p97

 

親鸞が比叡山で僧侶としての生活を送っていたのなら、天台の教えとともに密教の

教えについても学んでいたはずである。 その際に、問題となるのは、比叡山において

親鸞がどういう立場、どういう地位にあったかである。

 

 

p198

 

常行三昧は、7日間、あるいは90日間にわたって、常行堂の本尊である阿弥陀仏の

周囲をめぐりながら念仏を唱え続けるものである。 それは、円仁が唐から密教の

行法として取り入れたものであり、やがては念仏信仰を生み出す源流ともなっていく。

親鸞のその後の信仰を考えれば、常行三昧堂の堂僧であったことは十分に考えられる

そこで親鸞は、浄土教信仰、念仏信仰に目覚め、それをきっかけに、専修念仏の教えを

説く法然に帰依するようになった。 この道筋は理にかなっている。

 

==>> 著者は、親鸞の比叡山での動向はよく分からないとしながらも、常行堂での

     修行はやったであろうと推論しています。

     常行堂については、p150のところでその写真を掲載しました。

     そこには「親鸞聖人 旧跡」という石柱も建ててありますから、おそらく

     そこで修行をやっていたことは間違いないのでしょう。

 

     私がここで、ちょっと驚いたのは、念仏を唱え続けるという行が、「円仁が唐

から密教の行法として取り入れた」という部分です。

比叡山には、高野山の東密にたいして、台密とよばれる密教が伝わっていた

ことは分かっていましたので、おそらく親鸞も密教を学んでいただろうとは

思っていましたが、専修念仏自体が密教の行法から出たものとは思っても

いませんでした。

浄土真宗から真言宗に鞍替えした私としては、そこがちょっと嬉しいような

感じがします。 つまらないことですが・・・・

 

 

=== その4 に続きます ===

 島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 4  師・法然ではなく、聖徳太子こそが、親鸞の生き方のモデルだった? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)



 

 

 

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