波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 1 そもそも宗教とは、宗教哲学とは何なのか?
波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 1 そもそも宗教とは、宗教哲学とは何なのか?
波多野精一著の「宗教哲学序論・宗教哲学」を読んでいます。
私は今まで宗教哲学の本を読んだことはありません。
宗教ってそもそも何なんだ? というのがこれを読もうと思った動機なんですが、宗教で
すら訳が分からないのに、その哲学はやっぱり難しくて、肝心なところが理解できなかった
ように思います。
一度読んで、そんな感じでしたので、ここで付箋を付けた部分を再度読みながら、なんとか
理解できないかにチャレンジしてみます。
== 「宗教哲学序論」 ==
p11
宗教と呼ばれる、殆ど挑戦的といってもよき程に鮮やかなる特色を有する風変わりな一種
の現象に対して哲学は取るべき態度について十分の自覚と自信とを有せず殆ど途方に暮れ
ているかの観がある。
宗教哲学は宗教的体験の理論的回顧それの反省的自己理解でなければならぬとは著者の
かねてからの持論であるが・・・・・
==>> これはこの序論の「序」で述べられている著者の主張です。
確かにそうであろうと私も思うのですが、その「宗教的体験」というものが
私にはかけらもないので、ほぼ絶望的です。
p16
すなわち、実証主義的宗教研究は必然的帰結として宗教の否定に導く。 従ってこの
帰結を明白に表明せぬ場合にも、宗教の事実を曲解しその真相を歪曲する。 これが
実証主義に下す吾々の判決の要旨である。
==>> 私が二十歳の頃は、ほとんど唯心論的なものを一所懸命読んでいたもので
すから、心理学で人の心が分る訳がないと思っていました。
個々人の内的なものは外部からの観察によっては解明できないという意味で、
それを観察できるのは、この著者のいう内省であろうと思うわけです。
そういうことになると、実証的という方法があるのかなという気持ちになり
ます
p25
ファイヒンゲルは否定の態度においてフォイエルバッハほど勇敢ではなかったものの、
すべて思惟作用の産物すべて理論的なるものーー宗教もまたかかるものの一であるがーー
を実践的なるものの手段と説き、かかる手段の最も顕著なる一類として「虚構」換言すれば
偽と知りつつしかも真であるかのように見做す表象を挙げ、宗教もかかる方便の嘘の
一に数えその目的を道徳に置いた点において、全く同一軌道を進んだものに外ならぬ。
==>> 確かに、いままで読んで来た宗教、特に仏教関係の本で受けた印象としては、
一見理論的であるようであって虚構であるという感じではありました。
一方で体感しなくては本当のところは分からないというのも本当らしく
思えるわけですね。 そこが宗教体験ということなのでしょうが・・・・
ただし、原始仏教の「ブッダの言葉」(スッタニパータ)では、いわゆる
形而上学的なものは否定されていますので、その後の大乗仏教経典などに
見られるような理論的なものとはかなり異なっているように思います。
p32
さて自然科学とは異なって精神科学は事実の内容に重心を置く。 内容は体験との聯関に
おいてのみ存在するゆえ、主観性はそれの欠くべからざる特徴である。 それが通常
心理学と呼ばれるものと必ずしも同一でないことは、種々の方面より殆どすでに説き尽く
されたことであり・・・・
・・・同じ働きも内面的意味の方面より観られるにいたってはじめて精神科学の対象と
なるのである。
==>> ここで著者は、一応、精神科学は自然科学的であることを認めています。
しかし、それは心理学とは異なると考えているようです。
私が今までに読んだ本の中で、一番気に入っているのはこちらの本です。
村本治著「神の神経学 ― 脳に宗教の起源を求めて」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-31d1bf.html
「p04
本書では先ず、宗教活動が脳の各部位の働きと直接に結びついていること
を示す最近の知見を紹介し、様々な宗教体験と宗教に関した行動が、
脳の機能で説明できることを示す。
・・・医学生物学の技術的進歩は、近年加速的に早まっており、この分野も
時々刻々変化を遂げている。
p05
脳に基づいた宗教のメカニズムの解明は、単なる有神論、無神論、不可知論、
また特定の宗教・宗派を超えて、宗教に対する新たな建設的視点をもたらす
可能性を秘めているのである。」
p40
果せるかなカントの立てた神の概念は一切の存在の総体を内容となし、従って理論的認識
のいつも変わらぬ究極の理想を言い表したものに外ならぬ。 彼は神を対象とする認識の
不成立をこの理想に到達し得ぬ人間の認識能力の不完全にのみ帰し、もし理性が直観的と
なり得るならば神を認識し得るであろうと考えた。
==>> カントがこのように考えたということは、カントには直観的な認識力が
なかった、つまり宗教体験がなかったということなんでしょうか。
そうであれば、同じく宗教体験がまったく無い私としては安心材料です。
私のような凡人は、神を直観しろと言われてもねえ・・・・
「神の概念は一切の存在の総体を内容となし」というのは分るんですけど。
p44
「宗教と呪術」の複雑なる問題の論議に立ち入る暇はないが、呪術が宗教と同じように
尋常の標準を超えたる極めて強き不可思議なる力と関係があるにかかわらず、宗教と
区別されるのは、そこにはその力と人間の主体との間に一義的直接的聯関が存するから
である。
・・・
それ故呪術は認識にもとづく応用的なる実践的技術の部類に属するのである。
その認識は進歩したる今日の自然科学よりみれば極めて幼稚であり支離滅裂とも見え
ようが、宗教と比較する時は両者が全く同一精神によってうごかされて居るものである
ことは用意に看取される。
==>> 呪術については、お釈迦さんも否定していました。
「ブッダのことば」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/07/post-62de.html
「927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占
いとを行ってはならない。 鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったり
してはならぬ。」
・・・みなさん、仏教は呪術や占いは やっちゃいけないんですよ!
これだけ見ても、今の日本の仏教とは かなり違いますよねえ。
空海さんの真言密教なんかも相当呪術的なものが入っているんじゃない
ですかね。
それに、「般若心経」に到っては、まさに呪術だという解釈もあるようですし。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/01/post-c641.html
「宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。
「掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、娑婆賀」
(ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー)
これが そのマントラ(真言、祈りの言葉)なんですね。」
p48
神は人間本来の認識能力即ち理性を全く超越する。 このことは通常人間の有限性より、
乃至一層宗教的に理解される場合には、罪悪より導きだされる。 ・・・・感性的ならぬ
存在者であり感性的認識を超越する対象である神は人間の自然的能力によっては不可認識
的である。
幸いにも超自然的啓示がーー宗教的理解によれば、神の恵みによってーー与えられる。
これは人間の本性よりしてはまた世界の出来事を支配する自然の法則よるしては全く
不思議不可解の出来事であるゆえ、驚異(奇蹟)と名づくべきものである。
==>> 宗教的であるかないかは別として、啓示と呼ばれるものに相当する
現象はこんな物理学者の話にもでてきます。
理論物理学vs仏教哲学 「神と人をつなぐ宇宙の大法則」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_0.html
「p161
夜、寝ていた湯川先生は、雷の音でふと目が覚めた。そのとき、目覚める
直前に、夢の中の自分が「中間子理論」というものを考えていたのを覚えて
いた。 雷の音で突然目覚めたから、まだ鮮明に記憶に残っていたんでしょうね。
湯川先生は、常に枕元に、・・・・あれ(紙)を置かれていた。
・・・夢の中で自分が考えた中間子理論を、その紙に書き留めて、また寝た。
で、翌朝見たら、「あっ、これはすごい」というので論文にして、それが
ノーベル賞ですよ。 論文はわずか2~3ページで、すごく短いんです。
確か数式は三つくらいしかなくて、非常に初歩的。 それでノーベル賞なんですよ。」
・・・これは神の啓示と呼ぶにはちょっと首をひねってしまうのですが、
いずれにせよ、宇宙の法則を寝ている間に天から降ろしてくれたような体験
であることは確かなのでしょう。
p50
啓示を仲介するものは、特殊の人物経典等種々あり得ようが、最高の品位と確実性とを
有する絶対的真理の伝授者として無上の権威を有さねばならぬ。 かかる権威に対する
服従、従って判断の理論的確実性及び普遍妥当性を保証するための合理的手段を換言
すれば理性の要求する研究方法を用いず、むしろかくの如き方法を斥けて行う服従
――これが信仰である。
==>> つまり、合理的とか理性とかいうものを否定して、権威に服従するのが
信仰である・・・と言うことになりますか?
私は疑い深い人間なんで、ある程度は合理的だったり理性的だったりして、
考えて、納得したら信じるという感じなので、それを抜きにして
権威に服従するという点がいまひとつ理解できません。
ただ単に権威というものならば、いろんな権威があるでしょうからね。
国の権威、政府の権威、学術会議の権威、医学会の権威、文学界や芸術界の
権威、などなどいろいろあります。
なにをもって権威と考えるかは、分野によっていろいろありそうな気が
しますが、宗教の権威とはそもそも何なのでしょうか。
恐怖による政治みたいなものだったら、権威とは言えないようにも思います
しねえ。 少なくともそのような政治には品位もなにもないですから。
p51
啓示の仲介者として経典その他のものの有する権威は、譬えていえば、学校教育上
教科書が無知の生徒に対して有する権威と原理的には同一部類に属する。
ただ教科書の伝達する知識は理論的認識の確実性を設定または保証する合理的研究
方法によってあるいは確立あるいは修正あるいは置き換えを見るを得また見ねばならぬと
全く異なって、啓示の内容はかかる合理的完成を許さぬという相違がある。
==>> つまり、平たくいえば、経典というのは教科書と違って、誰にでも分る、
理解できる、納得できるように書いてはならないという話でしょうか?
読む人によって如何様にでも読めて、それぞれ何となくありがたく納得した
気持ちになれればよいという感じでしょうか。
そういう意味では、般若心経なんかは最高の作品かもしれないですね。
p72
絶対的実在者に出会おうとする者は必ず論理の支配する国を棄てて宗教的体験の世界へ
赴かねばならぬ。 そこでは論理的に矛盾の如く見える事例がかえって基本的事実なので
ある。 神の言葉はそれを聴くものの実在性を要求する。 創造の恵みの特異性を
認めぬ以上、人間は神の前には犬猫と択ぶ所がないというが如き空論に陥る外はないで
あろう。救われる罪人の実在せぬ救いはいわば神の独り相撲である。
==>> おそらくこの点こそが、アメリカなどで教育界まで巻き込み、政治的な運動
となっている創造論の根本にある議論なのでしょう。
リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-f757c6.html
「p155
無作為に抽出したアメリカ人を対象におこなった大がかりな研究に
ついて述べている。
・・・信心深さが実際に教育と負の相関を示している(高い教育を
受けた人ほど、宗教的になりにくい)という発見があった。
信心深さはまた、科学への関心と負の相関を示し、政治的なリベラリズム
と(強い)相関がある。
・・・英国の子供を研究している社会学者たちの研究結果からは、
両親の宗教的信念から離脱できるのは12人に1人しかいないことが
わかっている。」
p84
合理主義の宗教哲学と異なって正しき宗教哲学は宗教的体験の反省的自己理解、それの
理論的回顧として成り立つ。 体験の立場に立つものは宗教が他と混同を許さぬ固有の
意味内容を有するを知る。 かかる意味内容を反省に上せ、それの理論的理解を原理へと
推進めて行くものは本質の観照把握に到達してはじめて満足を見る。この本質の理解こそ
宗教哲学である。
==>> この著者の主張は、第3章「正しき宗教哲学」に書かれています。
この主張に私は一応賛成ではあるんですが、残念ながらその前提となっている
宗教的体験というものには全く縁がないので、すでに失格です。
そこでちょっと気になるのは、宗教哲学を考える人たちにはすべて宗教的
体験がなくてはならないのかという点です。 もしそうならば、おそらく
私のような凡人には宗教哲学を理解するチャンスは永遠にこないだろうという
ことになります。
=== その2 に続きます ===
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