波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 2 宗教と哲学はどのように違うのか? カントは、ヘーゲルは?
波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 2 宗教と哲学はどのように違うのか?
波多野精一著の「宗教哲学序論・宗教哲学」を読んでいます。
p89
反省的自己理解は体験の事実的存在を前提する以上、研究者自身が何等かの宗教的体験を
有することは原理的に必要である。しかしながら宗教の哲学的研究は決して単なる事実の
認識ではない。 ましてや、ややもすれば感傷的な自己陶酔におわり勝ちな、研究者自身
の体験物語というが如きものではない。
・・・それの対象は宗教的体験一般である。
・・・研究者は材料を広くあまねく自らの体験以外の事実に求めねばならぬ。これは原理的
には必要ではないが技術的方法論的には無条件に必要である。
==>> はい、正にこういう研究でなくてはならないと思います。
単なる個人の経験談であっては御茶飲み話にしかなりません。
学問的に一般化されてこその宗教哲学だと思います。
p111
宗教において主体(自我)は神聖なる実在者、神との関係交渉に入る。己を虚しくし
一切をこの神聖なるものに打任せそれがなすがままに従う、――これが信仰である。
もっとも信仰は・・・・宗教の重要なる一要素とみとめられて居たに相違ないが・・・・・
・・ギリシア教会においてはそれは「知識」即ち少数者の特権に属する神の本質の完全
なる認識に対してそれの準備的前階ともいうべき働き、即ち教会の伝統的教義を真と承認
するだけの働きであった。 この場合宗教の本質がむしろ哲学と共通なるものに置かれた
ことは特に注目を要する。
・・・それは簡単にいえば善行主義である。 人間は自己の善き行為によって従って自己
の功績によって、功罪を比較しそれに応じて賞罰を分配する裁判者たる神の手より永遠の
生を賞として与えらるべく努力せねばならぬ。
==>> ここでは、宗教が組織的に機能する場合のより現実的な側面が述べられている
ように思います。
過去に読んだ本に関連づけて考えれば、以下のようなことが連想できます。
村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-c35641.html
「p216
現在ある主な組織化された宗教は、次のような進化の過程を通って発達
してきたと考えられる。
― 脳の発達による時間と記憶の認知機能
― 死の認識と原始的不安
― 一部の人間による様々な神秘的幻覚体験 (A)
― 神秘的幻覚体験の意味づけと神話の形成
― 死と実存的不安の超越と宗教体系の形成
― 共通の神あるいは英雄の誕生
― 実践的生活様式、戒律、儀式、教団の形成 (B)
― 神の「体制化」と宗教の権力化、個人の疎外化
・・・つまり、個人的な宗教体験は上記の過程の(A)であり、善行主義と
されているのは(B)のステップではないかということです。
p118
カントの述語を用いればそれは綜合的である。 かれの道徳哲学の基本的原理の示す
如く道徳従って義務はその根拠を己自らのうちに有せねばならぬ。 「自律的」で
あって「他律的」であってはならぬ。 ・・・さらに神その他超感性的経験的存在者
の観念も道徳を他律的に換言すれば無きものにする。 それ故もし両者の結合が成立
せねばならぬならばーー宗教が存在する限りそれは成立せねばならぬのであるがーー
その結合はいかなるものであるべきか、いかなる根拠を有すべきであるか。 かくて
宗教の先天的原理(即ち本質)を構成する二つの要素(契機)の間に成り立つ必然的
聯関が宗教哲学の中心問題となる。
==>> おそらく著者が言っているのは、道徳というものは本来自律的でなくちゃ
いけないのに、宗教的なものはいわば他律的なもんだから、その相反する
性格を統合しないとまずいんじゃないのと言っているように思いますが・・・
間違った理解でしょうかね。
p119
道徳と神との二つの契機は、徳と幸福との完全なる一致という内容を有する「最高善」
の観念によって媒介される。 徳は道徳的意志の最高の目的幸福は自然的意志のそれ
である。 従って両者の完全なる一致は自由(道徳)と自然との両界に等しく住民と
して生存する人間の本性上必然的なる要求である。 ・・・・等しく両界の究極的原因
でありまた主権者として等しく両界に君臨する神によってはじめてそれは成就される。
それ故神は存在せねばならぬと。
==>> この文章は「この証明の内容は哲学の学徒には周知の事柄である」という
文言の後に書かれています。
また、この文章の後には、「この証明は嘲笑や冷罵をもってさえ迎えられた。
それは、道徳の本質を幸福欲よりの解放に置いたかねての持論をカントが
人情の弱みより醜くも撤回したものと解する人も少なくない。」とあります。
・・・
私は50年前も今も哲学の学徒ではないので、まったく知りませんでした。
いずれにせよ、上記のような「神の証明」によって、カントは一部の人たち
からは批判をされたようです。
・・・
私の個人的な意見としては、個人の自律的な道徳の方が、歴史上様々な
戦争や残虐行為の原因となってきた他律的な宗教による契機よりも
より純粋な善なのではないかと感じます。 つまり、内なる神の善です。
p121
カントが宗教的信念と考え倫理的神学と名付けたもの、即ち道徳律と神の観念とを結び
付けることによって宗教の本質をそれの先天的原理を成立たしめる筈のもの、は実は
畢竟道徳意識を基礎としてその上にそれの理論的含蓄を展開するものとして建設された
一個の哲学的思索の産物一種の哲学的世界観に過ぎなかった。
==>> 要するに著者は、カントさんは宗教哲学に失敗したってことを言いたいん
でしょうかね。
ちなみにこの章は第4章「歴史的瞥見」として、宗教哲学の歴史を振り返って
います。
p126
すべての純真なる宗教的体験は一切が従ってその体験自らもが超越的絶対的実在者より
来るを知っている。 自己中心でなく神中心が宗教の根本的精神である。
静的意味の観想としての理論的動作も意味の動的実現としての実践的動作も、すべて
文化並びに文化的動作は皆等しく人間の自己実現であるが、それらを基礎として材料と
して宗教的体験が行われ得るのは、それらが自らの固有の存在と本来の性格とを全く
克服し否むしろ克服されて神中心の生き方の表現と化するからである。
もしそれらがこのことを肯んぜず飽くまでも本来の意味と性格とを固守しようとする
ならば宗教は不可能におわらねばならぬ。
==>> 「静的意味・・・」の後が私にはいまひとつ理解できません。
ただなんとなく感じるのは、例えば日本の修験道の山伏がおこなう修行のよ
うなものをイメージすれば、その文化的動作が修行者の自己実現であって、
具体的行為が瞑想としての観想や山々を走り回る実践的動作ということに
なるのでしょうか。
そして、最後の一節「もしそれらが・・・・」という部分については、
修行をするその人を取り巻く文化的背景を一切肯定せずに、あくまでも
神からの直接的啓示のような超自然的体験だけを根拠とするならば
宗教は不可能になるという意味なのでしょうか。
p132
シュライエルマッヘルは先ず宗教の理解には研究者自ら体験を有することの、従って
体験より出発することの必要を強調する。 次にかれは神降しにたずさわるものに
譬えを取って研究者の取るべき態度を叙述する。
前者が斎戒沐浴し邪念を祓い清めその対象によって心乱されるを避けてひたすら
思いを霊の出現の場処に集中する如く、後者即ち宗教研究者は謙虚従順の心構えを
もってあらゆる成心を除き「囚われぬ溺れぬ感能をもって、そこに出現するものを
それ自らよりして理解せんとの願いに心満たされつつ」、対象の純粋なる赤裸々なる
特異の姿をさながらに観るべく注意と努力とを集中せねばならぬ。
この場合生の諸領域が文化及び教養の発展とともに互いに深く入雑じり従って各の
真の姿の忠実なる表現に出会うことの困難が特に指摘されている。
==>> いや~~、これは正直いって、研究はほぼ無理と言っているように
感じますね。 宗教(ここでは、霊の出現)のまさにその現場で起こっている
ことをなんの文化や教養からの干渉もなく純粋の記録するということ、そして
何の干渉もなくそれを理論的に判断するというのはほとんど不可能としか
思えません。
この不可能を乗り越えるものとして、最新の神経科学が出て来たといえる
のかもしれません。
そのひとつの例が、すでに読んだ本にありました。
村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-c35641.html
p133
然らば宗教の本質は何に存するか。 吾々が第一に注目せねばならぬ点は、
シュライエルマッヘルが宗教の立場を「高次の実在主義」と名づけたことである。
それは日常生活において常識の立場として行われる実在主義に対して高次的なのである。
常識が実在と信ずるものは哲学の立場よりみれば理性乃至自我の必然的動作の所産または
所為に過ぎぬであろう。 この観念主義を真に克服し得るは宗教のみである。
p134
シュライエルマッヘルは先ず宗教の心理学的所在を定めようとする。
すなわち「宗教の本質は思惟でも行為でもなく直観と感情とである」と。
かれが先ず明らかにしようとしたのは多分哲学と道徳とが反省の立場に立つに対し
宗教は体験の直接性を特徴とするという点に存したのであろう。
直観は対象の直接的影響のもとに生ずる働きであり、感情はその影響に対する主体の
直接的反応の状態であるから。
==>> 宗教は直観と感情である・・・とするならば、もはや観察や叙述によって
研究できるとは思えませんね。
やっぱりfMRIなんかで脳の中の動きを記録するしかなさそうです。
直観と感情が宗教の本質だということになると、それを組織的に人々に
伝えるのはほぼ不可能ということになりませんか。
どのようにでも個々人が解釈し理解できるような文章じゃないと媒体には
なり得ないようにも思います。
シンプルな戒律だけなら分かりますが、教義となるとそうはいきませんね。
もしかしたら、近未来には、その「直観と感情」を、脳から脳に
テレパシーのように伝える脳科学の技術が使われるようになるのかも
しれません。 AI宗教なんかが世界制覇したら、人類は多様性が奪われて
滅亡するんでしょうかねえ・・・怖いですねえ。
p135
シュライエルマッヘルは、古き歴史を有し当時詩人たちの間にスピノザよりの影響と
相俟って深く根を張った汎神論の思想によって、この問題を解決しようとした。
すなわち全体の部分においてのまた無限者の有限者においての内在性の思想がそれで
ある。
p136
シュライエルマッヘルは直観の内容を対象の像と呼びまた宇宙の像という語をも
用いている。 宇宙の像を内容とする直観がいかにしてその宇宙の部分的像を内容
とする感性的直観と単に程度上ではなく種類の上において根本的に異なるものと
なり得るであろうか。
==>> この著者はシュライエルマッヘルの考えかたを検討しながら、結局は
あまり成功したとは言えないと結論づけているようです。
私がこの部分を読んでいて連想したのは、日本の仏教です。
「無限者の有限者においての内在性」とか「宇宙の像を内容とする直観」など
の言葉が、仏教、特に密教における「生仏一如」、「即身成仏」、「曼陀羅」と
だぶって見えてきます。
p153
神の生が哲学と宗教とにおいて最も優秀なる自己実現を遂げる以上、神を対象とする
哲学は同時に宗教を対象とする哲学であるは当然の帰結である。 両種の宗教哲学は
ここに全く矛を収めて平和裡に同一任務の遂行に協力するに至ったかの観がある。
しかしながらこの協力は新しき正しき宗教哲学にとっては実は迎合であり屈従である。
今当面の問題の観点より考察すれば、合理主義的宗教哲学の欠陥と文化主義及びイデア
リスムのそれとは甚だ明瞭にここに露出している。
p155
共通の内容が真理そのものイデーそのものである以上、それに相応する形相は、自然的
実在の表現であるあらゆる規定と制限とを全く超越克服したる純粋に観念的なるもの
即ち純粋の概念及び思想でなければならぬ。 これが哲学であるはいうまでもない。
宗教は表象を表現の仕方としてもつ点においてイデーの完全なる実現へはなお一歩手前
にあるといわねばならぬ。
==>> ここでは、「第4章 歴史的瞥見」として、宗教と哲学の違いは何なのかという
議論がされているんですが、なかなか難しくてよく理解できません。
著者は、歴史的にみれば、哲学が宗教と同じであるという思想は間違いで
あったとみなしているようです。 ここでは、凡人である私としては
宗教は表象であり、哲学は純粋な概念であるという違いがあると
受け取っておきます。
ここで連想するのは、空海の密教です。
空海は、顕教と密教を明白に区別して、密教が顕教に優るとしました。
そして、密教は経典を読むだけでは理解できないとして、最澄と絶縁
するほどの事態にもなりました。
そして、直観が大事だということを人々に理解させる表現として
曼荼羅を重要視したように見えます。
その意味で考えれば、最澄が比叡山を総合大学としてアカデミックな、
いわば哲学的な学びの場として多くの宗教者を輩出したのに対し、
空海はまさに真言密教の直観と感情の、より宗教的な場として高野山を
つくったのかもしれません。
p156
換言すれば哲学的真理を通俗的譬喩のかりそめの器に盛る宗教より正味の内容を取り出し、
それに相応するまた本来それに固有なる学問的概念の正しき器に入れ換えることに宗教
哲学の任務は存せねばならぬ。
p157
宗教が低級の哲学であるならば、逆に哲学は高級の宗教でなければならぬであろう。
ヘーゲルは哲学それ自らが神の奉仕であること、宗教も哲学もともに各特異の仕方に
おいて神の奉仕であることを言明した。 哲学は絶え間なき礼拝であるという句も見える。
この思想は文化しかして特に芸術と学問において神に出会い神を崇めようとするイデア
リスム的宗教の発現であって、当時ドイツの精神的指導者たちの間には広く行われた
いわば時代的傾向である。
==>> この部分を宗教的に真面目な人が読んだらさぞかし憤慨するでしょうね。
一応私は真言宗の準檀家ではあるんですが、不真面目ですから、ここに
書かれている著者の主張はそうだよなあ~~と思います。
しかし偉大な哲学者であるヘーゲルさんは、あまりにも宗教的であったが
ために、哲学を神に差し出してしまったようです。
ちなみに、私はヘーゲルの本は一冊も読んだことがありません。
もちろん名前を知っていましたが、難しそうな本だと感じて
敬遠しました。
なので、ここでちょっとヘーゲルさんがどんな人だったかをチェック。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB-129281
「ドイツの大哲学者。新プラトン派の哲学、ルネサンス以来の近代思想を独自
の観点から、論理学、自然哲学、精神哲学からなる三部構成の体系にまとめ
上げた。」
「最初牧師となることを志したが、のどの障害で発音が悪く、神学校の方針と
対立したこともあって牧師となることを断念する。親友ヘルダーリンととも
にフランス革命に共感。卒業後スイスで家庭教師となり、独自の生の哲学に
基づくキリスト教批判のノートを書く。」
「彼の思想の原点にあるものは、ネオプラトニズムを下敷きにしたルネサンス
の自然哲学とドイツの神秘主義のなかに流れる、生命的存在の一元論である。
根元に存在する「一者」(プロティノス)が姿をさまざまに変容させて展開され
てゆく。神が自己を啓示するとは、すなわち、根元の一者である神が己を二つに
分裂させ、分裂という形で本質を現象させることだが、自己認識を達成すること
によってその分裂から自分を取り戻す。」
・・・これはなかなか興味深い経歴と思想ですね。
神学校に行きながら対立したということは、外なる神に幻滅して、内なる神を
求めたということのようですし、「生命的存在の一元論」というのが面白そう。
今更ながら、ちょっとヘーゲルの入門書でも読みたくなりました。
これで「宗教哲学序論」を終わります。
次回は「宗教哲学」に入ります。
=== その3 に続きます ===
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