湯川秀樹著「宇宙と人間 七つのなぞ」を読む ― その1 「論より証拠」とは言うけれど

 

この湯川秀樹著「宇宙と人間 七つのなぞ」を読もうという気持ちになったのは、

先に読んだ保江邦夫著「神の物理学 甦る素領域理論」の中で、「素領域論」

元々湯川秀樹博士の発想だったということが書かれていたからです。

 


 

結論から言えば、若い人向けのこの本には、さすがに「素領域論」に関連するようなことは

まったく書かれていませんでした。

 

また、全体の読後感としては、科学の歴史とでも呼べるような内容でしたし、最初に発行

されたのが1974年ですので、近年の物理学や量子論などを読んできた中では、

特に目新しいものもありませんでした。

 

しかし、「ことばのなぞ」や「数と図形のなぞ」などを含め、基本的なところに

ノーベル賞受賞者たる湯川さんが、どのような謎を発見し、興味を持っていたのかを

知り、若い人たちに期待をしていたのかが分る本であると思います。

 

では、毎度ながら、ちょっと気になる部分を引用し、勝手な連想などを書いてみます。

 

==

 

p15

 

日本の神話にはあまりそういう話が出ないんです。 もちろん太陽はいちばん

重要ですから、どこの国の神話にも出てくるのですが、日本では、太陽以外は

月もあまり出て来ないし、星にいたってはほとんど顔を出さない

 

・・・それは人間が何をなぞと思うか、どういうことを明らかにしたいと思う

かは、気候や風土によってひじょうに違うことを示しているわけです。

 

p16

 

しろうととして私の知っているところから判断しても、古い日本語には、草木の

名、 海藻も含めていいと思いますが、そういう植物の名まえが非常にたくさん

ありますね。 それに比べますと、星なんていうのは星ということばさえも、いつ

できたのかわからないくらいです。 ほとんど古い本には出ないわけです

後になってくると、星占いとかいろいろありまして、七夕だとか、北斗七星とか、

さかんに星が登場してきます。 しかし、これらはだいぶ後になって中国からはいって

きたものらしいですね。

 

==>> ここでは神話のレベルでの人々の興味の向く先が、その土地の自然環境や

     風土によって異なることを言っているんですが、日本の場合は、空を見る

     までもなく、身の回りに様々なものが豊富にあったということのようです。

 

p21

 

もっとも古代ギリシアには、すでに地動説を唱えた人は何人かあったのですが、それは

少数意見にとどまったのです。

 

・・・コペルニクスの地動説、もっと正確に言えば太陽中心説が、はっきりと

プトレマイオスの地球中心的宇宙像と対立するものとしで出てくるわけです。

 

・・・実際の観測との比較ではプトレマイオスの説よりすぐれていたとはいえないわけ

です。 ですから、むしろコペルニクス説のほうが全体としてはるかに単純であり、

それで相当のところまで観測事実の全体を説明できるという理由で、そのほうが本当

だろう、と考える人がだんだんふえてきたと見るべきでしょう。

 

==>> 教科書的には地動説といえばコペルニクスなんですが、そのずっと前から

     地動説を唱えた人たちがいたんですね。

https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E5%8B%95%E8%AA%AC-96347

     「地球が不動でなく、円形軌道を描いて空間を公転しているという構想は、

古代ギリシア以来、フィロラオス(前5世紀)、アリスタルコス(前3世紀)、

ニコラウス・クザーヌス(15世紀)、レオナルド・ダ・ビンチ(15世紀)ら

が唱えた。なかでもアリスタルコスの立論は観測資料に基づいたもので、

もっとも合理的かつ具体的であった。」

 

・・・特に驚いたのは ダ・ビンチのその一人だったという発見です。

「そのほうが本当だろう、と考える人がだんだんふえてきた」というのが

ポイントでしょうか。 いくら真実だと主張しても、それが多くの人たちに

認められなければ「真実」にはならない・・・・ちょっと虚しい気もしますが。

 

 

p22

 

ここでたいへんだいじな点は、・・・・コペルニクス説が経験と完全に一致したのでは

なかったことです。 天体の運動というものは、地上の物体の運動にくらべてひじょうに

規則的だ、ひじょうに簡単な規則に従っているという感じは、むかしから多くの人が

もっていた。 だから、かりに観測の結果との一致が完全でなくても、コペルニクス的な

理解のほうがほんとうではないかと考える、そういうセンスのほうが、すくなくとも、

この場合には物理的世界の真相に迫っておったわけです。

 

==>> ここでは経験と規則性のことを述べているんですが、経験=観測ということ

     でもあるようです。 一般人であれば経験を重視するところでしょうが、

     研究者としてはそこに見いだされる規則性がなくてはならない。

     湯川さんが「センス」と言っているのがポイントかも。

     規則性というのは、経験的現実というよりも、かなり観念的なものですから、

     すべての人たちを納得させるという意味では困難もあるということになります。

     ある意味、一般人には分かりにくい形而上学的なものかもしれません。

 

p28

 

よく「論より証拠」といいますけれど、「証拠」というのはいったい何に対する証拠か

学問の発展、真理の発見には「論」も必要なわけです。

天動説が地動説になるということは、地球もまた一つの惑星にすぎぬと認めることで

あって、そこで天上の星も地上の物体も、みな同じ物質でできているだろうと思う。

そういう考え方の大きな転換が重要なわけです。 

 

・・・しかし、経験に即していうなら、アリストテレスのいうように、落ちる速さ

は同じではないわけです。 ところが、ガリレオはそういう複雑な場合をいきなり採り

上げてはいけない、もっと単純な場合にどうなるかを問題にすべきだと考えた。

 

p29

 

・・・実験してみた。 ピサの斜塔から大砲のたまと鉄砲のたまを同時に落としたら、

両方がほとんど同時に地面に到達した、と言い伝えられています。

 

・・つまりできるだけ純粋な、単純な条件のもとに起こる現象についてまず調べる

そうするとなにか法則的なもの、規則性がとらえられやすい。

 

==>> アリストテレスの説が絶大な権威をもっていた時代に、ガリレオはどう

     考えて実験をしたかというところです。

     経験だけではアリストテレスを超えられない。 だから、「論」を立てて

     実験という「証拠」をみんなに分るように示した。

 

 

p36

 

レウキッポス、デモクリトス、エピクロスなどという人は、すべてのものは原子から

成り立っている、と主張しました。・・・・・無限の真空中をたえず運動している。

原子は、永遠のむかしから存在しており、あらたに生まれることも、消え去ることも

ない永久不変のもので、原子の種類の違いや、それらの結びつき方の違いによって、

生物や人間も含めた、この世のさまざまなものの違いが説明できると考えたのでした。

 

==>> 古代の原子論についてはこちらでチェック:

https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E8%AB%96-60728

     「自然はそれ以上分割できない微粒子(原子)と真空からできているという

基本的自然観の一つ。自然の連続説に対する不連続説、目的論に対する機械論、

観念論に対する唯物論の立場にたつ。

紀元前5世紀の古代ギリシアでレウキッポスと弟子のデモクリトスが初めて

唱えた。」

「この説は観念論的元素説論者のアリストテレスによって反対され、古代

ではエピクロスおよびその学派が道徳哲学の基礎として受け継いだだけで

あった。」

「一方、古代において原子論と対立した元素説も、化学反応の間にも変化を

被らずに保存されるものがあると化学者たちが考え始め、原子論に接近して

いった。オランダのゼンナートの、四元素に対応した4種の原子あるいは粒子

の想定はその現れである。

しかし、元素説と原子論の完全な結合は、四元素説を払拭(ふっしょく)した

近代的元素説の誕生後であった。」

1803年にイギリスのドルトンは、ラボアジエの諸元素に原子を、化合物に

分子(複合原子)を対応させ、それぞれの相対重量を算出した。ここに初めて、

異種原子の規定がほぼ実証的に重量によってなされたのである。この結果、

哲学的傾向の勝っていたこれまでの原子論は、科学の名に値するものになり、」

 

原子論は、とくに仏教のアビダルマ学者、ジャイナ教徒、ニヤーヤ、

バイシェーシカ両学派によって主張された。ニヤーヤ、バイシェーシカ両学派

によれば、すべての物質は地水火風という要素から構成されているが、それぞれ

の要素は無限に分割できるわけではない。もしも無限に分割できるならば、

巨大な山も、微小なケシ粒も、ともに無限の部分からなることになり、大小の

比較の根拠がなくなってしまうからである。そこで、もはやそれ以上分割ができ

ない基礎単位があることが要請される。この基礎単位が原子である。」

 

・・・上を読むと、紀元前5世紀から19世紀まで、原子論は生まれていた

ものの、認められずに彷徨っていたということになります。

元々、哲学者が科学者も兼ねていた時代だった中で、「論」はあっても、

それを実験で「証拠」とする手立てが、つまり自然科学というものが未分化

だったということなのでしょう。

しかし、それにしても、仏教にも原子論があったとは驚きました。

 

 

p40

 

この変化しないものは、もはや古代人の考えた四元素ではありえないこと、もっと

多くの種類の化学元素の存在を認めなければならないことをラヴォアジエは明らかに

しました。 彼は化学元素として水素や酸素や金や銅など三十種以上を表にしています

が、その大多数は、今日、元素と認められているものと一致しています。

ただ彼が光と熱とを元素の仲間に入れているのはまちがいだと言われてきました。

しかし二十世紀になって、光にも粒子のような性質があることや、また熱について

もある場合には光と同様な粒子性が見られることがわかってきました

そうなると、彼がそれらを元素の仲間に入れたのも、まったくの見当ちがいでなかった

ことになります。

 

==>> 初めて聞いた名前、ラヴォアジエについてチェック:

     https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8-147704

1787年、ギトン・ドゥ・モルボを中心として、ラボアジエ以下

反フロギストン派により『化学命名法』が出版され、元素の定義とともに

水素、窒素などの名称が採用された。しかし、その元素のなかには光や

カロリック(熱素)が含まれており、ラボアジエによれば、酸素ガスとは

酸素元素とカロリックとが結合したものであった。」

 

・・・「光と熱」にも粒子性が見られると二十世紀になって分かってきたと

いうところが興味深いですね。

光については、波と粒子という二つの性質があることは今までに読んで

きましたが、熱についてはしりませんでした。

今の生活で盛んにつかわれている「カロリー」という言葉もラボアジエの

命名が元になっているのでしょうか。

 

p42

 

科学というものは本来実証的なものなのだという言い方は、昔も今もある意味では正しい

のですが、・・・・経験に忠実であるということを、経験だけからすべてのことを理解

しようとすることだ、という意味にとるのはまちがっています

人間はいろいろな経験を、たとえば原因と結果というような形で関係づけることによって、

その全体を理解しようとしてきた。

 

・・・学問が進んでいくに従って、ますます証明が間接的になってくる。 そして根本的

な原理といわれるものほど仮説的な性格が強くなってくる。 今では、ある前提の正しさ

は、それから出てくる結論によって裏書きされるという考え方が、物理学以外の自然科学

のいろいろな方面に行きわたり、それがあたりまえの考え方になっています。

 

==>> 「物理学以外・・・」というところが気になるんですが、どういう意味なのか。

     実証的であることが科学の要件だと私も思ってはいるんですが、

     その実証実験というものも、最近は一般人には理解不能な高いレベルに

     なっていますから、専門の研究者の間で認められているかいないかが

     一般人としての、その理論を信じる信じないの根拠にならざるを得ない

     というところが、なんとももどかしいところです。

     比較するのは変なんですが、宗教も最後は信じるか信じないかの世界です

     から、究極までいくと科学も宗教も同じかなというところに行き着いて

     しまいます。 凡人としては。

     なので、信じるか信じないかということではなくて、「腑に落ちる」か

     否かというところで、判断するようにしています。

 

 

p45

 

・・・エピクロスは、「あるものはあり続ける。 なぜかといえば、あるものは

ないものにはなり得ないから」というような、ひじょうに奇妙なことを言っています

われわれからみたら何を言っているのかさっぱりわからぬ。・・・・・

 

・・・それにひきかえ、東洋、とくに日本では諸行無常などといって、あるものは

いつかなくなるという考え方が多くの人のあいだにしみ渡っています。 

ところが、原子がこわれることもわかっているし、素粒子のなかには短い時間で消えて

しまうものがたくさん見つかっている現代では、諸行無常という感じが案外、物理学

とよくマッチする点があるわけです。

 

p46

 

・・・自然界を理解しようとする時、東洋ではどちらかといえば「生あるもの」を

出発点としますが、西洋では無生物――物質の存在を前提としております

生命のあるものは特殊な場合であって、ないのが普通であると考える。

このような自然観にもとづいて自然界の法則をとらえると、生命のあるなしにかかわらず、

とにかく物はありつづける、という考え方になりやすいわけです。

 

しかし、自然界というものを総体として理解しようとすると、生命のあるものがどうして

できたかが、また、ひじょうに基本的ななぞのひとつになるわけです。

 

==>> 科学と仏教は馴染みやすいのではないかという点から思い出したのは

     村本治著「神の神経学」なんですが、神経学の立場から、つまり脳神経の科学

から、神及び宗教の存在を位置づけるというアプローチをしています。

     その神経学の先生も、神経学と仏教は馴染みやすいと考えているようです。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-c35641.html

     「p262

日本を初めとする仏教の世界は、適応が早いと私は考える

それは、「内なる神」の概念は現在の仏教の教えに近いものがあり、すでに

多くの人々の心に馴染んでいるからだ。

・・・東洋人、特に我々日本人は、世界の宗教的な和解と平和を唱える

最先端に立つのに、最も適しているかも知れない。」

 

ところで、エピクロスについては、こちらでチェック:https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9-37163

「古代ギリシアの哲学者。サモス島に生まれる。35歳ごろアテネに学園を開く。

その学園は「エピクロスの園」とよばれ、婦女子や奴隷にも門戸を開放した。

・・・・・若くしてデモクリトスの原子論とその倫理思想を学び、これが彼の

思想の基本的骨格を形成する。

 エピクロスは、欲望や激情から生ずる惑乱、死の不安、神々の処罰という迷信

から人間を解放しようとする。哲学の目的は、この解放によってアタラクシアー

(心の平安)を得ることにあり、その基礎をなすものが自然学である。」

 

・・・この解説を読むかぎり、エピクロスさんの考え方は、お釈迦さんの

思想にも似ているようにみえます。 女性が比丘になることも、カーストの

不可触民が参加することも、受け入れていましたし、死の恐怖や迷信から

人々を救おうとしたわけですから。

 

     「生命のあるものがどうしてできたか」については、湯川さんの時代から

     かなり研究は進んできているとは思いますが、まだ、これといった決定版は

     ないみたいですね。有望な説はあるようですが。

 

p55

 

・・・放射能とはいかに驚くべきことかといいますと、原子がひとりでにこわれて

ゆくのを示しているのです。 ・・・古代ギリシア以来の西洋流の考え方に従えば、

原子はできたり、なくなったりしない。 ・・・ところが、放射能の発見はこの

考え方を否定するものであった。 現に放射能の原子はこわれつつあるのです。

原子がこわれるということは、どういうことかとさらに調べると、もう一つの

電子の発見と関係しまして、原子の中には電子がいくつもあり、中心に一個の

原子核があるということがわかってきた。 そして、放射線を出す原子というのは、

その中の原子核がこわれているのだということがわかってきます。 ただし、それは

二十世紀にはいってからのことです。

 

p57

 

・・・不可解なことが残っていました。 そのひとつは原子の中心にある原子核とは

いったい何であるかという問題であり、もうひとつは宇宙線という奇妙なものの

本体は何かという問題でした。

 

 

p58

 

どんな物理的、化学的変化によっても元素は変わらぬということは、原子核が不変な

ものだという意味に解釈された。 ただしウランやラジウムのような放射性をもった

元素は例外で、それらの原子核は自発的にこわれて他の種類の原子核になってしまう

 

・・・つまり原子核は陽子と中性子の集まりだと考えると、いままでの矛盾はすべて

なくなることがわかったのです。

 

==>> 放射能について、基本的なことを読むのは、私にとっては初めてのことです。

     「自発的にこわれて」というのが、なんとも暗示的な感じがします。

     「自発的対称性の破れ」を連想するからです。

     単なる言葉での連想にすぎませんが。

 

p59

 

よく考えてみると、そこにはまだ大きななぞが残っているのでした。

・・・陽子や中性子がどういう力で結びつけられて原子核を構成するのかという問題は

全然、解決されていなかったのです。

・・・「中間子」という未知の粒子の存在を認めることによって、うまく説明できるという

結論に到達しました。 

 

・・・1947年に、予期された中間子が宇宙線に存在することが確認されました。

・・・それらはすべて寿命が短く、ひとりでに他の種類の粒子に変ってしまうのです。

 

==>> これが湯川博士がノーベル賞を受賞した中間子論ですね。

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E9%96%93%E5%AD%90-97101

     「湯川の中間子論は1935年に発表され、49年日本人最初のノーベル賞

(物理学賞)を授与された。電子とともに原子を構成する原子核が核子の束

縛系であることはすでに32年に明らかになっていたが、核子を結合させる

力、核力、は荷電粒子の間に働くクーロン力と比べると、強さは100倍程度

大きい一方で原子核の大きさ程度の小さい距離でしか働かないという特徴

があり、その本性は当時まったく不明であった。湯川は核力はU粒子という

未知の粒子が核子の間に交換されることによって生じると考えた。」

「メソンともいう.クォークと反クォークからなる素粒子.ボース統計に従い,

強い相互作用をもつ重い粒子.湯川秀樹がその存在を理論的に予言した.」

 

・・・中間子を「予言」したわけですね。

理論的に予言して、それを観測や実験などで実証するのが科学ということの

端的な例ということでしょう。

だから、ただ単に経験だけでは科学は成り立たない。

しかし、ここで、凡人に分からないのは、どうやってそのような「予言」が

できるのかってところですね。

もちろん、理論的にということなんでしょうが、湯川博士は数学はあまり

得意ではなかったという話もありますから、どのように理屈を詰めていった

のかが素人的にも不思議。

そこで、先に読んだ本にその謎が書かれていたんですねえ。

 

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_0.html

     「p161

      夜、寝ていた湯川先生は、雷の音でふと目が覚めた。そのとき、目覚める

直前に、夢の中の自分が「中間子理論」というものを考えていたのを覚えて

いた。 雷の音で突然目覚めたから、まだ鮮明に記憶に残っていたんでしょうね。

湯川先生は、常に枕元に、・・・・あれ(紙)を置かれていた。

・・・夢の中で自分が考えた中間子理論を、その紙に書き留めて、また寝た。

で、翌朝見たら、「あっ、これはすごい」というので論文にして、それが

ノーベル賞ですよ。 論文はわずか2~3ページで、すごく短いんです

確か数式は三つくらいしかなくて、非常に初歩的。 それでノーベル賞なん

ですよ。」

 

・・・この話は、湯川博士の弟子が書いているので、まさか嘘を書くはずは

ありませんからねえ。

天才の頭の中はどうなってんだと思いませんか。

 

 

p61

 

インド人は昔から空想的で、三千世界などと言っていますけれど、三千世界という

言い方でもとても及ばないほど宇宙は広大なのです。 そういうすべてのものを

含めた宇宙全体には、果てしがあるのかないのか。 そういう宇宙論の問題が、

二十世紀になって新しくクローズアップされるようになってきました。

 

p62

 

今日では何億光年、何十億光年という遠いところにも天体があることがわかっています。

・・・この理論(一般相対性理論)から宇宙全体が膨張しつつあるという考えが出て

きますが、それは望遠鏡での観測結果とよく一致します。

・・・宇宙のなぞは深まりつつあるのです。

 

==>> 三千世界と聞けば、まず思い出すのは、

     高杉晋作の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」なわけですが、

     きちんと真面目に紐解けば:

     https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%8D%83%E4%B8%96%E7%95%8C-70936

     「仏教の世界観による全宇宙のこと。三千大千世界の略。われわれの住む所は

須弥山(しゅみせん)を中心とし、その周りに四大州があり、さらにその周りに

九山八海があるとされ、これを一つの小世界という。この一小世界を

1000集めたのが一つの小千世界であり、この小千世界を1000集めたのが

一つの中千世界であり、この中千世界を1000集めたのが一つの大千世界である。

この大千世界は、小・中・大の3種の千世界からできているので三千世界と

よばれるのである。先の説明でわかるように、3000の世界の意ではなく、

10003乗(1000×1000×1000)、すなわち10億の世界を意味する。」

 

ここで書かれている内容を絵に描くとどうなるのかが下のサイトに

ありました。

https://yasurakaan.com/shingonshyu/sanzendaisen/

三千大千世界の構成

須弥山を中心とした日・月・四大州・六欲天・梵天などを含む世界を一世界と

して、一世界が千個集まった世界を小千世界、更に小千世界が千個集まった世界

を中千世界とし、更に中千世界が千個集まった世界のことを三千大千世界と

言います。

一つの世界がこの宇宙の中では約10億個集まっているというのですから、

広大な無限の内夕には、私達の存在する銀河系のような集まりが10億個

あるということなのです。」

 

・・・最近の宇宙論には多世界論とか多宇宙論というものもありますから、

それこそ無限の宇宙があるのではないかとも考えられているようです。

これらは量子力学の考え方からでてきた宇宙観であるようです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/10/post-8d8ca6.html

 

「p23 

量子力学の基礎となる数学 ―― それを支える、少なくとも一つの

世界観 ―― は、起こりうる結果がすべて起こっていて、

それぞれが別々の宇宙に存在することを示唆する。

 

p26 

第一は、ひも理論によるプレーンワールド・シナリオだ。すなわち、

私たちの宇宙は、もっと大きな宇宙という一斤のパンをスライス

した薄切りパンのように、高次元空間のなかに浮かぶおびただしい

数の「厚板」の一つだと仮定する考え方だ。」

 

 

== その2 に続きます ==

 湯川秀樹著「宇宙と人間 七つのなぞ」を読む ― その2 フィクションが現実を再現するようになった (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

=================================

コメント

このブログの人気の投稿

ホテルでクレーマーになってしまう私 草津温泉と伊香保温泉・湯治旅

埼玉県・芝川サイクリングコース、荒川・芝川水門から大宮公園・氷川神社までの橋をすべて?撮影してみた

2023年を 自作の狂歌で 振り返ってみる ー 妻の病気とフィリピン・バギオからの帰国