湯川秀樹著「宇宙と人間 七つのなぞ」を読む ― その2 フィクションが現実を再現するようになった

 

 

この湯川秀樹著「宇宙と人間 七つのなぞ」を読もうという気持ちになったのは、

先に読んだ保江邦夫著「神の物理学 甦る素領域理論」の中で、「素領域論」は

元々湯川秀樹博士の発想だったということが書かれていたからです。



 
 

===

 

 p67

 

「古事記」などの最初のほうは、この宇宙がどういうふうにしてできたか、

・・・・そのあと、こんどは生物が生まれ出てくる過程が物語られています。

たとえば・・・葦牙(あしかび)というものが出てきます。葦牙というのは、

ウマシアシカビヒコジの神と言って、萌え出る生命の神を意味します

・・・そのあとアメノトコタチの神という天をつくった神など、それこそ

八百万の神々がつぎつぎにあらわれてきます。

 

 

p70

 

(アリストテレスの)この分類のしかたには、現在私たちが進化ということばで表現

している、生き物の発生系統と申しますか、長い歴史の中でいろいろな生物が派生して

きた時間的順序を連想させるものがあります。 しかし、アリストテレス自身の

考え方の中には、いわゆる「進化」という概念はまったくなく、それぞれの生き物は

あくまでも固定したものと考え・・・・・

 

==>> 宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジ)

     https://shinto-jinja.jp/?p=1243

     「旺盛に伸びる葦の芽のような強い生命力を象徴する神です。」

    「古事記では、天地創成・天地開闢にあたり、天之御中主神(アメノミナカヌシ)

高御産巣日神(タカミムスビ)、神産巣日神(カミムスビ)造化三神に続いて

出現します。造化三神や、次に現れた天常立神(アメノトコタチ)とともみ

別天神(ことあまつかみ)五柱の一神であり、配偶神のない独神(ひとりがみ)

として身を隠します。」

 

     ・・・この辺りの章は、文脈としては、古代の不可思議な現象については

     人々は神が関わってきたという神話的なことにしがちだったけれども、

     科学というものが実証的にできるようになってからは、そこに法則性などを

     発見していくようになったという流れになっています。

 

p77

 

どうもこのダーウィンの説も、それだけではいろいろと納得しにくい点があるのです

けれども、二十世紀のはじめになりまして、突然変異ということが実験的に確かめられた

つまり親と違うものがたまに出てくるということがわかり、これがダーウィンの進化論

を補強することになりました。

 

・・・特に突然変異の大多数は消えてなくなるわけです。 しかしたまには生き延びる

場合がある。 特に突然変異の結果として、これまでの種よりさらに環境にたいする

適応能力のすぐれた個体ができて、その子孫がふえてゆくという場合がたまにあります。

 

==>> ここで私が一番驚いたのは、「突然変異ということが実験的に確かめられた」

     というところです。 突然変異というものは突然なんだから、まさか実験で

     検証できるというのが信じられないことだからです。

 

     そこで、突然変異についてお勉強:

     https://kotobank.jp/word/%E7%AA%81%E7%84%B6%E5%A4%89%E7%95%B0-105385

     「アメリカのモーガンT. H. Morgan1866―1945)が、ショウジョウバエ

Drosophilaで白眼の突然変異をみいだし(1910)、さらにマラーH. J. Muller

1890―1967)が、ショウジョウバエにX線を照射して人為的に突然変異を

作成することに成功して(1928)、その後の遺伝学の発展に大きく貢献した。」

 

1遺伝子座当り世代当りの頻度は、微生物では1億から10億回に1回の

割合で非常に低いが、高等動植物では10万から100万回に1回の割合

比較的高い。ヒトでは四肢短縮症が10万回に5回くらい、血友病が10万回

3回くらい、無虹彩(むこうさい)症や小眼球症がそれぞれ100万回に1

くらいの割合でおこる。

 X線やγ(ガンマ)線、紫外線などの放射線や種々の変異原性化学物質、

発癌(はつがん)物質などを作用させると、突然変異の頻度が人為的に上昇する。」

 

・・・なるほど、自然環境にあるいろいろなものが作用して、特に細胞の数

が多い高等動物では突然変異は起き易くなるということですね。

もちろん、人工的につくられた物質も大きく影響しているのでしょう。

 

 

p82

 

特に動物が卵から個体に発生してゆく過程と、動物の進化とのあいだの密接な関係が、

・・・・要約するならば、「個体発生は系統発生をくりかえす」ということになるわけ

です。 系統発生というのは、何億年も何十億年もかかった生物の進化の過程のなかで、

単細胞の生物から高等な哺乳類にわたり、さまざまな種類の生物が出現してきたこと

をさしています。

・・・たとえば人間の胎児は初期には魚に似ており、終わりに近い時期にはサルに似て

きます。 つまり長い年月のあいだにゆっくりと進行した系統発生の一部分を、短い

時間のあいだに大急ぎですましてしまうのが個体発生であるとも見られるわけです。

 

==>> つまりこの話は下の絵のような胎児の成長が、魚から猿になるまでの

     進化に似ているということですね。

http://dr0910.o.oo7.jp/3inochi/301seimei04.htm


 私自身は、私の娘が生まれた際に、当時看護師であった姉が看護学校で使った

     「母性看護学」という教科書を借りて読んだ時に、詳しく知って感動した

     覚えがあります。

     こういうものは、中学や高校の授業で教えるべきだと思ったものです。

 

p87

 

DNAという分子は、いったんそれによく似たRNAという分子をつくり、それを媒介と

して特定のタンパク質をつくる。 ・・・・特定の何種類かのタンパク質をそれぞれ

適当な量だけつくることによって、親のからだとよく似たからだを、子どもも持つように

なるわけですね。

 

・・・生命が生まれてから後の進化ということにも、まだまだわからないなぞが多く

残っているけれども、生命はどうして生まれてきたのか、そのいちばん初期の段階という

のはもっとわかりにくいのです。

つまり、DNAだけがぽこっとできたって、それで増殖はできない。

ある条件のなかでなければ増殖はできない。

・・・だから、そういう特殊な状況が、長い歴史のなかで実現されたことがあったと

考えるほかないことになります。

 

p93

生命というものに関しては、いろいろひじょうに興味のある問題が残っているわけ

ですけれども、神秘性がひじょうに少なくなってきたことは確かだと思います。

 

==>> ここで述べられている生命の誕生に関しては、おそらく下の動画で

     解説されていることが一般的ではないかと思います。

     結構詳しいので驚きました。

     この動画では、41億年前に「原始生命誕生」とされています。

     https://www.youtube.com/watch?v=GPdLEKzHd1g&t=1s

 

     そして、こちらのサイトでは、実証実験の報告があります。

「生命のもととなる可能性のある有機物の合成反応を実証」

https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2020/pr20200303_2/pr20200303_2.html

     「生命は有機物で作られているが、最初の生命が誕生する際の有機物がどの

ようにできたのかについては謎が多かった。これまで、単純なガスから有機物

が合成され、その集積を元にして生命が誕生したとする仮説が有力であった。

地下から熱水が噴出する熱水噴出孔は、原始の地球にも多くあり、そこには

H2CO2、触媒となりうる鉱物が豊富にあるので、生命の起源が誕生した

場所の最有力候補として考えられてきた。しかしこれまで、H2CO2から

の有機物の合成は、化学工業などにより数百以上の極めて過酷な反応条件

では実証されていたが、生物の代謝反応に近い温和な条件での反応を天然の

鉱物を触媒として用い実証した例はなかった。今回、熱水噴出孔にあったと

考えられる複数種の鉱物が触媒として働き、100 ℃以下の温和な条件でCO2

から有機物が合成されることを発見した。今回の成果は、生命誕生の理解へ

大きく貢献すると期待される。」

 

・・・いままでにいろいろと読んできた本でも、人間の意識というものに

関して、医学の様々な分野やAIを始めとする研究の中で、多くの議論が

されていて、特にfMRIでの脳の画像の研究などが、多くの謎を解き明かして

いるように感じています。

 

 

p95

「ことばと文字と記憶」

 

p120

 

文字を知らないということと、長い文章を暗誦できるということの間には、密接な

関係が確かにあります。

・・・金田一京助さんのお書きになったもの・・・・

アイヌの「ユーカラ」を書き留めておかれた。 その次の段階で、その覚えている

アイヌ自身に日本語の文字を教える。そうすると、自分が記憶していたことを文字に

書けるようになる。 文字で書き残すようになると、記憶していたことを忘れていく

のだそうです。 

 

==>> 暗誦ということで連想するのは、古事記を作成した時の稗田阿礼です。

     おそらく、稗田阿礼本人は文字が書けなかったのでしょう。

     だから、膨大な量の話を暗誦できていた。

     私などは、記憶力は小さいころからありませんでしたので、いわゆる暗記

科目はさっぱりダメでした。 今はさらに記憶できなくなり、読んだ本の内容

もブログに記録していないとさっぱりと忘れてしまいます。

     記録しているから、忘れるのかもしれませんが。

     しかし、小学校の高学年の頃に公民館で習った詩吟は、とにかく吟じながら

     覚えさせられたので、少しは記憶に残っているようです。

     中学生の時には、英語の暗誦大会に出たこともあります。

     よくまあ、あれだけのものを記憶できたものだと思います。

     今や、昨日のご飯も覚えていません・・・・とほほほ

 

p124

 

ひじょうに未開な種族のことばは、もっと文明の進んでいる国のことばといろいろな点で

ちがっていまして、妙なところで、こまかい区別をしているそうであります。

たとえば人間が走っているのと、シカが走っているのと、ゾウが走っているのと、みな

区別をする。 一般的な「走る」ということばがない

 

・・・どこでも大昔はことばの抽象化、一般化が進んでいなかったのではないかと

思われます。

 

==>> これは面白い話ですね。

     素人の単純な推測をすれば、その種族に人たちにとっては、どの動物の

     走っている足音かによって、自分の身に危険があるかどうかの区別が必要

     だったのかもしれません。

     言語の抽象化ということについては、数学を言語の一種だと認めるとすれば、

     抽象度が一番高い、ユニバーサルな言語なのではないかと思ったりします。

     もっとも、数式でなんでも表せるという人たちがいるのは知っているんです

     が、どの程度表せるのかを私自身が体験したことはないので想像でしか

     ありませんが。

 

p151

「数と図形のなぞ」

 

p152

 

兵卒はみな同じものと見なされ、何人いるか、百人か千人かということが問題になって

いるわけです。 ・・・個人としての生き死にがもんだいではない。そこに非人間化が

あるわけです。 ここでは兵卒としてかぞえられる人間という共通の内容だけを

とり出す、つまり抽象すると同時に、ここの人間がもっている特徴は捨てる

つまり捨象するという操作が行われているわけです。

 

==>> ここでは、まさに数字による抽象化の例が書かれています。

     先の戦争までは、確かに兵卒の数が問題だったのかもしれません。

     しかし、兵器の情報化が急速に進んできた現在では、その兵卒の数よりも

     質の方が重要性を増しているようにも思えます。

     また、一方では、兵器の自動化がAIによって進化することで、人間自体が

     不要になることさえ現実味を帯びているように思います。

     しかし、そのターゲットが人間であることに変りはないでしょう。

 

 

p159

 

素粒子がどうなっているといっても、実際、素粒子の世界というものはそう簡単に

目で見ることのできるようなものではない。 われわれは見てきたような話をしている

けれども、それは見てきたような話であって、直接それを見たわけではない

しかし、素粒子が直接には見えぬものであっても、それが通った跡はいろんな仕掛け

で間接的に見ることができる。

・・・素粒子の足跡を写真にとれますから、どこを通ったかがわかります。

 

・・・このように現にわれわれが直接、感覚でとらえているものだけがあると考えた

のでは、この世の中は理解できないことは明らかです。 

・・・それが存在する証拠を間接的にでも押さえることができれば、それはあると

思ってよかろうと判断されているわけです。 

・・・感覚的にとらえられるものを相手にしているという意味で、実在の世界である

といってよいわけです。

 

==>> 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」がふっと頭に浮かびました。

     湯川さんの上の話と比べるとどういうことになるでしょうか。

     比べるのもどうかとは思うんですが、気に成ります・・・・

     素粒子の足跡が写真に写った。 それは、仮説の証拠である。

     幽霊が感覚的に捉えられたと思った。 しかし、それは枯れ尾花であった。

     まあ、幽霊がいるという仮説を立てて、それが高い確率で写真に写れば

     確かに幽霊は実在するんだ・・・と言えなくもないでしょうが。

     ちなみに、先の読んだ「モナド論」をベースにした「神の物理学」では、

     霊という言葉が何度も出てきますから、もしかしたら・・・・

 

p161

 

本来、数そのものが実在しているかどうかということは、ひじょうに初歩的な段階から

してすでに問題なわけです。

数のなかでも自然数といわれるものは、いかにも現実世界のものらしい。

・・・しかし、それは実在するものではない やはり概念的なもの、つまり物そのもの

よりは抽象的なものですね。

 

p163

 

今日ではゼロもまた数であることは、まったく自明でありますが、歴史的にはなかなか

そうはならなかったのです。

・・・それをいちばん初めに考えついたのはインド人だったとされていますが・・・

インド人は大昔から大きな数が好きで、けたが上がるごとに別の名前をつけたりしていた。

漢文に訳された仏教のお経を見ましても、恒河沙(ごうがしゃ)、つまりガンジス川の

砂粒の数というような意味をもつ、ものすごく大きな数が出てきます。

 

ところが、そういうけた数の大きな数の計算でもしようということになると、それに

適当した算用数字が必要になってくる。 そこへゼロを表す数字が登場してくる。

 

・・・アラビア数字のもとはインド数字であって、インドで先にこんな書き方をして

いたわけです。

 

p165

 

ごくあらっぽく言えば、「あるものはあり、ないものはない」という思想だと

ゼロという数もないわけで、そんなものを数字として持ち込むこともできない

これは東洋思想と比較した場合、ひじょうに違う点の一つではないかと思います。

東洋ですと、中国であろうと、インドであろうと、無とか、虚無とか、空とかいう

概念が早くからあった

 

==>> ここでは、数の抽象性について話が発展しています。

     ゼロという概念は、西洋思想的には発想するのが難しい。

     それに比べて、東洋思想ではそのような概念が早くからあった。

     日本人は「色即是空」や「諸行無常」が好きですしね。

 

 

p166

 

午後も零時からはじめて十三時と言わずに午後一時と言う。

ところが、二十数年前のアメリカでは零時ということばを使わない。 十二時という。

これはたいへんに変なことでして、お昼のことをしばしば12PMと書く

PMは午後、AMは午前の意味です。 だから、11AMと書いてあったらこれは

午前11時。 ところが12時になりますと、これは午後のはじまりです。

これを12PMと書いてあることがある。・・・・そうなるとお昼すぎの零時半も

午後12時半という言い方になる。 私たちの考え方では、それは真夜中になるはず

ですね。

 

==>> これは、フィリピンでも経験します。

     これがその証拠です。



             右側の時刻表の一番上の時刻が 12:30AMと書いてあるのが分るで

しょうか。

     私がもっと驚いたのは、バスのスチュワーデス(車掌のことです)が、

     真夜中過ぎの零時台の便で、「グッド・モーニング」とアナウンスしたこと

              です。

     ことほど左様に、時間感覚と言葉は、日本とは違います。

 

 

p179

 

こんどは、マイナス1の平方根ということになる。 そんなものはいくら考えても

ありそうもない。 ありそうもないけれども、数学的論理を徹底させるために、あること

にしましょう、仲間に入れましょうというわけです。 こうして頭の中でつくりあげた

数を、アルファベットの小文字のiで表します。マイナスの平方根、つまり二乗したら、

マイナス1になるような数をiと書く。 それが実は二つある。・・・・・・・

 

・・・いろいろな操作をしても、かならず答えはあるというようにしようと思いますと、

複素数というところまで数の範囲を広げなければならなくなります

 

p180

 

・・・それらは虚数と呼ばれています。 それ以前の数は実数だったわけです。

実数と虚数を足したようなものを複素数というわけですが、・・・・

 

・・・その全体はもう直線の上に乗り切れませんから、iというほうの軸をもう一つ

直角に出します。すると二つの直交する直線をふくむ平面ができます。 これを複素平面

といいます。つまり複素数のそれぞれにこの平面上の点を対応させるわけです。

 

==>> これは、私にとっては、初めて複素数の意味が分かった瞬間でした。

     実は、私の場合、複素数を高校数学で習った記憶はありません。

     私は文系の進学クラスだったので、入ってなかったのだろうと思いますが、

     もう50年以上前のことです。

     私は高校数学IIBで落ちこぼれました。

     なので、最近の物理学・量子論系の本を読んでも、何のこっちゃという感じで

     流してきたのですが、ここでやっと複素数の概念が理解できました。

 

     ちなみに、今の高校ではどうなっているのかをインターネットで調べてみた

     ところ、以下のようなことになっていました。

     「高校数学は行列が確率変数がカットされ代わりに複素数は盛り込まれました

のはいつのことでしょうか」

2015年からです。」

・・・まあ、大学受験については、いろいろと変遷がありましたので、

2015年以前でも理系進学クラスならばやっていたのでしょう。

 

p181

 

1をゼロで割ったら答えは無限大だというけれども、その無限大は複素数平面上の

どの方向になるのか。 たぶん、実数軸の右のほうの無限に遠いところだろうと思われる

けれども、とにかく無限大は一つの数なのかどうかさえも、よくわからない

とにかく、ゼロと無限大というのは、とりらもたいへんむつかしいものですね。

 

p182

 

無限大自身を相手にしようという数学が、十九世紀の後半になると出てきます。

・・・ここで問題になっているのは無限に多くあるものの集合です。 そういう無限集合

の比較をすると、一口に無限大といっても、その中にまた大きい小さいがある、という

議論をするわけです。

・・・集合という考え方は、有限個の物の集まりについてはたいへん具体的なわかりやすい

考え方です。

 

p183

 

どっちが大きいとか、どっちが小さいとかいうようなことは、アリストテレス流の

形式論理、いわゆる三段論法とすぐ結びつくわけです。

 

・・・つまり三段論法的論理と集合の大小関係が、ひじょうにうまく対応するわけです。

 

p184

 

ところが、無限集合になりますと、いろいろとひじょうにおかしなことが出てきます。

 

p185

 

このように無限というものを扱いだすと、論理と直観の間にいろいろな食い違いが出て

くるのです。 そして、カント―ル流の論法だと、無限にも大小があることになります。

無限の大小というのは奇妙な考え方でして・・・・・

p186

 

数学というのは、無限大を別扱いにしないで、これも数の仲間に入れてあつかう。

そこへも論理を適用しようとする。 どんな変なことが出てこようとも、論理を貫徹

しようとする。 それが数学の宿命みたいなものですね。 その結果として、だんだん

現実ばなれしてくるのも止むを得ないと考えるわけです。

複素数というようなものは現実にはない。 ないけれども、これをあると思うのが

数学の立場ですね。 それは物理学などで何かがあるというのとは、だいぶ違うわけです。

 

==>> ああ、五十年振りに数学のことを考えて、どっと疲れました。

     私が感じたのは、明らかに数学は形而上学だなということです。

     先の読んだ本で、神は存在しないということを数学で証明してしまったという

     数学者のことが書いてありました。

     数学が形而上学ならば、それも可能かなと今さらですが理解できそうです。

     もちろん、凡人がその証明の数式を見たところで無意味ですが・・・・

 

    「ゲーデルの不完全性定理の証明が神の存在を否定した

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-2ba5b8.html

      「p157

ゲーデル自身はユダヤ系ではなかったと言われていますが、敬虔な

キリスト教徒であったのではないでしょうか。 彼は、不完全性定理

の証明が神の存在を否定するということにたいへん悩み、その後の

人生を神の存在証明のために費やすようになりました。

・・・そして、ついに頭がおかしくなり、療養先の精神病院で餓死

するという最期を迎えます。」

 

     ところで、ゲーデルさんについては:

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB-59761

     「ゲーデル(Kurt Gödel

19061978]米国の数学者・論理学者。オーストリアに生まれるが、

ナチスに追われ渡米。記号論理学・数理哲学・集合論などに多大な業績を残した。

特に、不完全性定理の証明は数学界に大きな影響を及ぼした。」

 

 

p190

 

それ以来、数学というものは現実にあるかないかに関係なく、人間が考え得るもの

であればよいことになってくる。 そこでだいじなことは、論理的に矛盾をもって

いなくて、しかも充分豊富な内容をもつものであることです。

それはつまり、数学がだんだんと一種のフィクション、虚構になっていく傾向をもって

きたことを意味しています。 

 

p191

 

数学というのは、出発点はそうでなかったけれども、つきつめてゆくとフィクションに

なる。 物理のほうは、どこまで行ってもノン・フィクションのはずですね。

しかし二十世紀になると物理にもフィクションがないとは言えなくなってきた

・・・たとえば今日の物理学では「素粒子」というものが、ひじょうに重要な研究の

対象になっている。 

 

p192

 

・・・フィクションの程度はちがうけれども、そういうものを考えることは、

たとえば非ユークリッド幾何をかんがえたり、複素数をかんがえたりすることと、

ぜんぜん異質的な傾向ではないわけです。

 

・・・アインシュタインは物理学的世界は四次元のリーマン幾何の成立する世界である

ことを発見した。 驚くべき発見です。 フィクションと思っていたものがかえって

現実となった。 ・・・・

ユークリッド幾何は経験にもっとも忠実であると思っていた

・・・ 時間や空間のスケールをひじょうに大きくしてゆくと、むしろ一般には

非ユークリッド幾何のほうが現実を再現しているという、ひじょうに奇妙なことに

なってきた。 

 

==>> 数学が経験的にも直観的にも現実的なユークリッド幾何であった時代には、

     非ユークリッド幾何はまさに非現実的な虚構の世界だと思っていた

     しかし、今やその虚構だと思っていた数学的理論の方が、もっと現実を

     反映できるという時代になってきた。

 

     「サピエンス全史」のハラリさんは、人類が作ってきたもの、例えば、

     宗教にせよ、政治にせよ、科学にせよ、文化的なものはすべて虚構だと

     述べていました。

     そうであるならば、数学や物理学も虚構であることに違いはないでしょう。

     しかし、実証可能な虚構ということから言えば、数学や物理学や医学などの

     科学の方が、少なくとも宗教や政治や文化などよりも優っていると

     言えるのではないかと思います。

     ただし、それが正しく実証されるには、それ相当の時間が必要であると

     いうことなのでしょう。地動説が認められるまでに何世紀もかかったように。

 

p226

 

高所恐怖症というのがあります。・・・ある年から以後、高い建物の上に上がると

恐怖に襲われる。 ・・・歩いていったら簡単に落ちて死ぬだろう、それは困るなと

気になりだすと、ひとりでにそっちへ行きそうな気がしてくる。 ・・・やがて、悪魔

に魅入られたように、衝動で行ってしまわないかという恐れが出てくる。

 

==>> ここでは「知覚のなぞ、感情のなぞ」を取り上げています。

     高所恐怖症については、この湯川博士の感覚は、私も同じです。

     電車のプラットホームを歩いていても、時々、線路に吸い込まれるような

     気持ちになることさえあるのです。

     線路に飛び込んで自殺する人の感覚がわかるような気がします。

     若い時は高いところが好きだった私が、突然高所恐怖症になったのは、

     多分40代の頃に、東京都庁の展望台に登った時でした。

     私は元々、金属質の建物が嫌いでしたが、都庁のビルがまさに金属質なもので、

     いやな感じがしていたんです。

     その嫌な感じと高所というのが相まって、高所恐怖症のスイッチが入ったと

     いうような感じでした。

     

p229

 

記憶というのは、ただいろいろのことを記憶しているのじゃなしに、記憶しているもの

が私なら私という人間の頭のなかで、全体としてまとまった構造に築きあげようとする

動きをしている。 そういう動きが始終ある。 そういう動きをさせる力として感情が

働いている。・・・・昼間困った、その困ったという感情に結びついた古い記憶が夢の

中でよみがえって動き出す。そういうような構造になっているのではないかと思うのです。

 

==>> ここでは、記憶と夢の関係として書かれていますが、過去に読んだ本の中で、

     意識に関連して「統合情報理論」というのがありました。

 

「意識はいつ生まれるのか」を読む 

- その3 右脳と左脳、意識を測る統合情報理論

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/11/post-249733.html

     「p111

統合情報理論とは、・・・・意識の謎を解く鍵である。

この理論の肝となる事実は、まさにわれわれの主観的な経験をダイレクトに

観察することで得られた。哲学であれば、さしずめ「現象学」といったところだ。  

統合情報理論の基本的な命題は、ある身体システムは、情報を統合する能力が

あれば、意識がある。というものだ。」

 

     ・・・この理論に即して言えば、湯川博士の言っている夢であろうが現実で

     あろうが、脳の中に情報を統合する能力があって、それが意識されるという

     ことではないかと思います。

     困ったなあと思うと、それに関連する情報が何故か統合されてますます

     困ってしまうということにもなってしまいます。

     おそらく、SNSなどの閉鎖的な一人の空間で、自分に向けられた誹謗中傷

などの言葉を読むと、追い込まれてしまう人がいるのも頷けます。

 

実は、私も間接的にではありますが、二十年ほど前に、インターネット上で

間接的に非難をされたことがあります。 直接的な誹謗中傷ではなかったの

ですが、私がその当時学んでいた日本語教授法に対する誹謗中傷でした。

そのスレッドで主張を繰り広げていた一人の人物と対面で議論がしたくなって、

その人の指定の場所、日時で出向きますと書き込みをしたところ、

その人は静かになってしまいました。

つまり、困ったことというのは、自分の頭の中で自動的に膨らんでしまうので、

その風船をしぼませるには、頭の中ではなく、現実の世界の中で

直接、具体的に、相手が人間ならば、その生身の人間に対面することが

一番の針になり得るということだと思いました。

     頭の中の美人も野獣も、現実にはそうそう居るものではないという話です。

 

ここで、一応湯川博士が書いた部分は終了です。

以下は、池内了氏による解説の部分から引用します。

 

p239

 

すべての物事には「はじまり」があるのだが、それが「なぜ」起こったのかと問いかけ

たくなるのは、人類が常に抱き続けてきた「私たちは何処から来たのか?」という

疑問から離れられないためではないだろうか。 すべての科学は「はじまり」とその後

の進化を明らかにするのが目的であるのかもしれない。

 

 

p241

 

湯川秀樹は、人間が自然界の因果関係をまず考えたくなること(「この世に起こる事柄

にはすべて原因がある」との考え)が、たとえ最初「神様を想起したとしても」科学

発生の芽であり、その背後にある規則性・法則性・一様性を見つけだそうとする知的

欲求が科学の本質であると考えるのだ。

 

 

==>> 以上でお分かりのように、この本は今からの科学の世界を担っていくべき

     若い人たちに向けられた内容です。

     p238の最後のページには、「1974年、こどもの日に 湯川秀樹」

     書いてあります。

     その当時、私は既に二十歳を超えていましたので、中学、高校時代に読んで

     いれば、もっと科学に興味がもてる少年になっていたのかもしれません。

 

     しかし、冷静に振り返ってみれば、動物が好きで図書館で動物図鑑を読み漁った中学時代の将来の夢は動物園の飼育係、その後英語が好きになってからは、

     外交官、商社マン、英語が使えるならなんでもいいやと変化しました。

     その当時は、今のようには英語が出来る人が多くはなかったので、英語さえ

     やっておけば、将来喰いっぱぐれはないだろうとの大雑把な見通しでした。

     それは又、高校時代に成績が次第に「伸び行く姿」ではなく「落ち行く姿」に

     なったからでもありました。

     一方で、物作りが出来る技術者になれればいいなというかすかな希望ももって

     いましたが、結局理系の頭ではなかったようです。

 

     古希となってしまった今では、遅すぎますが、せめて最近の物理学系の

     本を読みながら、鉄腕アトムや「2001年宇宙の旅」の夢を追いたい

     と思います。

 

 

=== 完 ===

 

 

 

 

 

 

 

 

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