山崎泰廣著「真言密教 阿字観瞑想入門」を読む ― 禅宗の座禅vs密教の阿字観 Zen meditation of the Zen Buddhism vs.  A-ji-kan meditation of Esoteric Buddhism

 

山崎泰廣著「真言密教 阿字観瞑想入門」を読む ― 禅宗の座禅vs密教の阿字観

 

「真言密教 阿字観瞑想入門」を読んでいます。

 



この本をなぜ手に取ってみたかといいますと、

2020年12月から地元の真言宗智山派のお寺である錫杖寺

月に一回の阿字観会に参加していまして、そもそも阿字観とは

なんだろうという素朴な疑問からです。

 

著者の山崎さんは高野山真言宗大僧正で、高野山大学の客員教授と

あるので、これを読んでおけば間違いないだろうということで・・・

(ただし、私が参加しているのは智山派の瞑想会なので、具体的な

 作法は若干異なるところがあるかもしれません。)

 


 

この写真は、錫杖寺本堂での阿字観会の会場です。

 

p6

 

科学技術は巨大ではあるが、科学自身は、仏教術後でいえば、善でも

悪でもない。「無記」である。 これを善とするか悪とするかは、

偏に人間の側にかかっている。

 

p7

 

私どもは、今自分の見ている世界は当然、実在の世界である、と一般に

信じている。 ・・・生まれてから以来、日々の経験の積み重ねによって、

気づかない間に自我意識が生まれ、その自我という偏見の色眼鏡で

作り上げられてきた仮想の世界、虚構の世界を実在と思い、その中で

自我の延長線上の理想を求め、その幻想の中での喜怒哀楽に日夜振り回され

ているのが実状である。

 

==>> ここは面白いですね。

     私は今年3月にリチャード・ドーキンス著「神は妄想である」

     読んだのですが、ドーキンスさんにも納得しました。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-5d9d05.html

 

     ここでは、一般的な現実そのものが偏見の色眼鏡をもつ

     自我によって作られた仮想世界、虚構世界ということです。

     それもまた、納得できます。

     ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」

     に書かれていた虚構という幅広い概念にも納得しました。

     様々な視点での幻想や虚構があるものです。

     この世は、映画「マトリックス」の世界だという物理学者も

     いますしね。

 

p8

 

アメリカの心理学者であり、二十世紀の産業界にも影響を与えたマズロー

・・・は人間の基本的欲求として・・・・・の七種を挙げている。

 

これらの七種の欲求も、①「生理的欲求」は密教の息災に、②「安全の欲求」

は密教の調伏に、③「所属と愛の欲求」と④「承認の欲求」は密教の敬愛に、

⑤・⑥・⑦は自己実現の欲求である「悟り」に包摂されるのではないだろうか。

 

==>> ⑤は自己実現・⑥は知ることへの願望と理解することへの願望

・⑦は審美的欲求・・・と書いてありまして、それを「悟り」への

 欲求としています。

 私の場合は、今現在は知ることと理解することへの願望が強い

 ので、いろいろと本を読み漁っているということになります。

 

 

p16

 

国連による世界平和サミット ー 宗教の平和共存は可能か

 

p17

 

宗教を議題とすれば、論争で混乱するのではないかと尋ねたところ、今や世界は

宗教対立が争乱の大きな要因となっており、取り上げざるを得なくなった

とのことである。

現代の日本仏教では想像し難いことであるが、宗教感情の対立には私どもの

想像以上の激しさがあり、これは二十一世紀宗教の世界的課題である。

 

==>> ここには「現代の日本仏教では・・・」と書いてあるのですが、

     「現代」をいつからと考えるかによって少々事情は異なるかと

     思います。

 

     既に読んだ末木文美士著「仏典を読む」には以下のような歴史が

     書いてあって、私も若いころには強引な「折伏」の話をよく

     聞いたものです。

 

     「末木文美士著「仏典を読む」を読む ― 5(完) 

親鸞と「歎異抄」、道元の座禅、そして国家主義と結んだ新日蓮主義」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_24.html     

     「p270

何とも勇ましい宣言である。 田中智学(1861―1939)による

近代日蓮主義仏教の輝かしい出発である。 明治34年のことで

あった。 智学は「万物はすべて侵略なり」として、侵略的な態度

で折伏(悪法を打ち砕き、積極的に正法に従わせること、)に努め、

全日本、そして全世界を「法華経」で統一しようという大理想を

掲げた。

・・・智学は後に国柱会をつくり、国家主義への道を邁進すること

になる。その流れに、石原莞爾ら急進的な日本ファシズムと日蓮

主義の結合が生まれる。」

 

     また、先に読んだ 村本治著「神の神経学」には、私がいろいろ読んだ

     本の中で最も私の腑に落ちる議論がなされていました。

 

     「村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」を読む

 1: 神仏は脳によって作られる」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-31d1bf.html

     「p04

     本書では先ず、宗教活動が脳の各部位の働きと直接に結びついて

いることを示す最近の知見を紹介し、様々な宗教体験と宗教に

関した行動が、脳の機能で説明できることを示す。

     ・・・医学生物学の技術的進歩は、近年加速的に早まっており、

この分野も時々刻々変化を遂げている。

     p05

脳に基づいた宗教のメカニズムの解明は、単なる有神論、無神論、

不可知論、また特定の宗教・宗派を超えて、宗教に対する新たな

建設的視点をもたらす可能性を秘めているのである。」

 

・・・この著者、村本治さんは、キリスト教の家庭に育ちながら、

科学か宗教かという議論において、仏教に期待をしている点が

私には好ましく感じられます。

     ただし、私が好ましいという理由は、一神教の原理主義的な

     世界の動向に危機感を持つという意味においての話です。

     それは、上記の近代日蓮主義や密教に基づくオウム真理教の

     ようなものが日本にもあったことを含みます。

 

p20

 

しかし二十一世紀の宗教には、他宗教を単に容認するというだけではなく、

世界宗教でありつつ、同時に他宗教を心から敬愛し、共存できる宗教原理の

確立が不可避となってきたのである。

そもそも宗教は、なぜ一宗派でなければならないのだろうか。

 

p22

 

異教徒間で互いに敬愛できる原理を見出すことは、二十一世紀の

教団に課された重大な責務である。

 

==>> こういう宗教原理が生み出されることを願いたい。

     ひとつの宗教であっても、様々な解釈によって、宗派が

     分裂し、時代によって変化していくことは、無常という

     ものが宗教にも当てはまってしまうということなの

     でしょうが・・・・・

 

 

p24

 

大日如来は、宇宙的スケールの一神教的要素を保ちつつ、人々の多様な

性格・要求に対して、それぞれに応じて阿弥陀如来・観音菩薩・不動明王、

そしてインドの土俗の神である毘沙門天や大黒天などと、一つの命につながる

同じレベルの人格神として顕現する多神教的要素を矛盾なく、実に整然とした

理論と宗教性を同時に持っているのである。

その一大体系は、胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅などに図絵し表現されている。

 

==>> さまざまな科学的理論を統合して、古い理論を新しい理論で

     包み込んでいくというのは、科学の進歩のあり方だと思います。

     そういう意味で、宗教にもそのような進化があってもいいのでは

     ないかと私は思います。

     少なくとも、それぞれの宗教においての根拠は、いわゆる神の

     啓示であったり、超常現象的な個人の直接的体験という意味では

     共通しているようですから。

 

さて、ここから、本のタイトルで期待されているであろう瞑想の具体的な

内容に入っていきます。

 

p35

 

第五章 瞑想の目的と種類

 

「瞑想」とは、安楽に座り、軽く目を閉じて呼吸を調え、心を静かにして

全身で思考することである。

 

==>> 「全身で思考する」と書いてあります。

     そこで私が思ったことは、「座禅」とこの「阿字観」はどう

     違うのかという点です。

 

     https://www.sotozen-net.or.jp/propagation/zazentop/saho

     こちらの曹洞宗の「座禅」のサイトでは、

     「坐禅の心構え

様ざまな思いにとらわれず、身体と息を調えて坐ります。」

     ・・・と書いてあります。

     また、別のサイトでも、

     「坐禅をしていると雑念が涌いてきて、なかなか無心になる

ことができません。「数息観」を続け、身体と呼吸、心を調える

努力が大切です。」

・・・とあって、「無心」になることが大切であるようです。

 

p41

 

また只管打坐、ひたすら座る曹洞禅は、「非思量底を思惟せよ」と一切の

思慮分別を停止し、座禅中に起きてくるイメージ(心象)をも魔境として

捨て去ることに道元禅師の「身心脱落、脱落身心」の悟境が開かれた。

いずれも否定に徹するところにその本領がある。

 

・・・これに対して、弘法大師が中国から請来した「無畏三蔵禅要」には、

・・・・・

 

p42

念が煩悩や雑念を起こすからといっても、そこから起こってくる雑念を恐れず、

積極的に念を活用すれば、かえって知らぬ間に無念無想を体得することになる。

・・・身・口・意の全身全霊を総動員して悟境を開こうとするのが、密教の

積極的な三密(身・口・意)の瞑想法であり、阿字観は最もシンプルな形で

これを凝縮しているのである。

 

==>> と言うことで、一般的にイメージが広くしられている曹洞宗の

     座禅の考え方と、空海さんの阿字観のそれとは違いがあるようです。

     私のように雑念の多い者にとっては、阿字観の方が入りやすそう

     です。

 

p42

 

自律訓練法は、自己暗示の練習によって全身をリラックスさせ、心身の状態

をうまく調整できるよう、想念に工夫を凝らした段階的訓練法である。

 

p44

 

西洋で生まれ、体系化された完成度の高いとされる精神療法が、東洋の叡智

である阿字観のもつ要素と酷似していることに驚きを覚える。

仏教の宗教的瞑想は、あくまで悟りを目指すものであり、その中には精神

療法としては不適当なものもなくはないが、阿字観は悟りへと導くと同時に、

精神療法としても適確な要素をもっている。

 

==>> つまり、精神療法として利用する場合は、ちゃんと医療関係者

     の指導に従ってやりなさいということですね。

 

p46

 

座禅の呼吸では一般に深くゆっくり、腹式になる点では同一であるが、

吸気と呼気の比はむしろずっと減少して、呼気の時間が吸気の三倍にも四倍

にも長くなる・・・

 

ヨーガの呼吸法プラーナ―ヤーマでは入息・保息・出息の比率を1対4対2

を理想としており、吸気よりも呼気の方が長い点では、禅と密教と共通して

いる。 

深く長く、吐く息に力のこもった呼吸から、気息連綿として、次第に息を

しているか、いないかわからぬような静かな呼吸になるのがよいように思う。

 

==>> 私が阿字観会でいただいた真言宗智山派の作法の文章では、

     呼吸については「全身の細胞の不浄の気を絞り出すように

     深く長く口から息を吐き鼻から吸う」とありますから、

     吐く方に力点が置かれているようです。

     また、「雑念」のことに関しては、

     「月輪観、阿字観を修している時に妄想や雑念が浮かんでも

     そのままにしておく。」と書いてあります。

     その代わりといっては変ですが、月の絵を観る月輪観や

     阿という字を観る阿字観では、イメージを拡大していき

     なさいということが指示されるので、これはこれで

     また難しいもんです。

 

p47

 

催眠状態になると、舌が次第に下がってくる、・・・

舌を意識的に、あるいは無意識的にも、軽く上顎に付けておく、ということは

三昧に入る条件として睡眠・催眠状態に陥らないための重要なポイントである

と考えられるのである。

 

==>> 私の場合は、いつも眠いので、眠りに落ちないための技として

     試してみましょう。

 

 

p62

 

虚空蔵とは、虚空は蔵である、しかもその本体はあらゆる宝物を生み出す

如意宝珠である、と密教ではいう。 無数の天体、そこに誕生した生命体も、

考えてみればすべて虚空から生まれたのではないか。

 

近年に至って、天体物理学は、宇宙は真空ではない、ということがようやく

わかってきたようである。

 

==>> この部分はちょっと興味深いところです。

     先に読んだ本にあった、「自発的対称性の破れ」によって

     この宇宙が生まれたという話を思い出します。

 

     「理論物理学vs仏教哲学 「神と人をつなぐ宇宙の大法則」を読む

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_10.html

     「p26

 

この宇宙が、何もないところからポコンと生まれた

という本当の意味は、完全調和だった世界の一部が、

南部先生の発見した理論によって自発的に破れたという

こと。 その破れたところに、いまわれわれはいるん

ですよ。 われわれは「破れた世界の住人」です

調和が破れている部分を「宇宙」と呼ぶと思ってください。

 

ダークマター(暗黒物質=宇宙の質量の大半を占める

のに観測されない未知の物質)」とかいって、宇宙の中

9割近い物質があるはずなのに、われわれは全然突き

止められていません。」

 

 

p72

 

興教大師覚鑁上人(1095―1143)は、弘法大師の確立した真言密教

の教学と実践を身をもって学修し、そして当時起こりつつあった浄土信仰

に対して、阿弥陀仏・懴悔・臨終などの問題を取り上げながら密教的展開

を成し遂げた。 その中で注目されるのは、求聞持法を八度も修したこと、

阿字観に関する多くの著作を残した、ということである。

・・・阿字観は深秘ではあるが、出家・在家を問わず身近に実修ができる

「易行異修」の行である。

 

==>> 私が阿字観会に通っているお寺は真言宗智山派なんですが、

     真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖ということで、

智山派を含む宗派を起こしたのがこの興教大師覚鑁上人なんです。

     易しい修行法を編み出してくださって、ありがたや。

 

 

p75

 

現在日本の真言宗を中心に用いられているインド古代の悉曇文字を、一般では

梵字といい、また古代の原語は梵語といわれているが、これはインドで四、五

世紀頃用いられた文字である。 それはヒンドゥー教の最高神ブラフマン、

すなわち梵天が人間界に授けたとされているところから、このように

呼ばれるようになったもので、インドでは文字や言語を神聖視する思想

が古くからあった。

 

==>> 梵語について思い出すのは、2月に読んだこの本です。

     特に「声字実相義」と「吽字義」が空海の言語論に

     なっているそうです。

 

     「空海著 加藤精一編 「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html

     「p107 

阿字を観想することによって一切のものが本来的に生じたもの

ではなく、縁によって生じていることを知るのです。 およそ

この世のことばというものは名称からはじまります。

しかもその名称は字によって示されます。

したがって梵字の書体の阿字も他の字の母とするのです。

他の字はすべて阿字が変化したものだからです。

阿字を観想して真実を知る時も同じです。

・・・

すべてのものは本来的に存在するのではないことが知れますし、

これがすべてのものの真実のすがたなのです。

・・・

阿字本不生の実体を見るものは、真実の自分の心を知ることに

なりますし、自心の真実の内容を知ることができれば、

この心こそ仏陀大日如来の一切智智と同一だといえるのです。

そういうわけで大日如来はこの阿字という一字を大日如来の

真言、種字とされているのです。」

 

「「〘名〙 仏語。密教の根本の教えで、阿の字はすべて

     の文字の始めであるとみて、これに「本」の義

     「不生(ふしょう)」の義があるとし、ここから阿字は、

     一切が不生不滅すなわち空(くう)であるという真理を

     表わすとして、これを阿字本不生といったもの。」」

 

・・・つまり、「阿」という文字は「空」であるということの

ようです。

 

p82

 

特に真言密教では、大日如来を表わす文字(種字)とし、この阿字本不生

を達観したとき、大悟が得られると説き、阿字観が生まれた。

 

p85

 

現象の世界では、形が現れれば初めありと思い、形が消失すれば終わりあり

と考えるが、すべての存在は因と縁の限り無く連続する展開の相である

その本の本となる源をたどっていくと、そこには何か第一原因なるものが

あるのではないかと考え、宗教によっては、それは人智を超えた神とする

ものもあるが、密教では、第一原因は本来不生である、とするのである。

 

==>> 「本来不生」については、こちら:

     https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E4%B8%8D%E7%94%9F-2083064

     「〘名〙 (「本来不生」の意) 仏語。あらゆる存在がその根本・

究極において不生であり、新しく生じてくるものは一つもない

ということ。一切の事象の絶対性を明らかにする真言密教の説。」

 

また、「阿字本不生」を辞書で調べると:

「【×阿字本不生】 の解説

仏語。密教の根本思想の一。一切諸法の本源が不生不滅である、

すなわち空(くう)であることを、阿字が象徴しているという考え。」

 

・・・つまり、第一原因というものも「空」であるということの

ようです。

 

p88

 

たとえば、「水は空である」という。 これは零下になれば氷として個体と

なり、百度を超えれば気体となり、水は常に液体ではないので実体がない

ともいえる。 しかし水は生命を養い、あるいは人を溺死させる確たる

実体を有している。 この変化するところを空と言い、水が命を養い、

あるいは殺すところを有というのである。 これが別々の存在ではなく、

水の千変万化する性質を覚知し、それを自在に活用するところに不生の

働きがある。

 

==>> 最後の「それを自在に活用するところに不生の働きがある。」

     という部分の意味が分かりません。

     誰が活用しているんでしょうか?

     いわゆる神仏でしょうか?

 

p88

 

無我は人格がなくなることではない。 我執が破られたところが無我であり、

無我になったとき、普遍的個性となり本来の自己自身になる。 これが

「如実知自心」であり、「本不生」である。

 

==>> 「如実知自心」TRANS.Bizのサイトでみると、

     

     「「如実知自心」の意味は「自分の真の姿を見る」

「如実」を使った言葉に「如実知自心(にょじつちじしん)」

があります。「如実知自心」とは「ありのままの自分の心

を知ること」を意味する言葉で、真言宗(しんごうしゅう)

の教えの1つです。「如実」が「ありのままの」「真実の」を

表し、「知自心」が「自分の心を知ること」を表します。」

 

・・・ということになって、これも「空」という話になる

ようです。

 

 

p94

 

百光遍照観と今の阿字能生の内容を総合して、その発想を現代の感覚で

解読していくと、・・・

初めもなく終わりもなく、有無未分の宇宙のあるとき、静寂の中から

どこからともなく「ア」の一音が発せられた。 アの一音はイ・ウ・エ等

の十二の母音を生み、その母音はカ・カァ等の二十五の父音を生み出し、

二十五の音は各々発心・修行・菩提・涅槃と発展しながら百光となり、

さらに展開し拡大していくところに時間の流れ、空間の広がりが生じていく。

 

==>> この記述の空海的言語学の部分は理解できませんが、

     ビッグバン以前の有無未分の「空」の状態から、

     いわゆる自発的対称性の破れとしてのビッグバンに

     よって、この宇宙が、時間と空間の始まりとして

     出現したという科学的宇宙論に似た記述になっている

     ように見えます。

     キリスト教的には「光あれ」というところでしょうか。

 

     Weblioで見てみると、次の解説がありました:

     「「始めに言葉ありき」は新約聖書中の「ヨハネによる

福音書」の冒頭の記述を日本語に訳した表現である。

「始めに言葉ありき」の解釈は複数唱えられており、

世界のあらゆるものは全て言葉によって成っていると

いう解釈などがある。新約聖書の同じ部分をもとに

「太初に言あり」「初めに言があった」などと表記される

こともある。ちなみに、旧約聖書では神の最初の言葉は

「光あれ」であるとされる。」

 

・・・こういう点では、インド哲学あるいは空海の言語学

と大いに似ていると考えてもよさそうです。

 

 

p98

 

第二次世界大戦後、健康と美容の効用をキャッチフレーズに、日本人の間に

ヨガが普及し定着しつつある。 真言密教とこのヨガはまったく異質で、

なんの関係もない、と一般的には思われているようであるが、その源流を

探れば深い関わりがあったのである。

 

・・中期ウパニシャドには、感覚器官と意識を散乱しないように統御する

心理操作をヨーガといっている。

 

p99

 

古代インドにおいて、二元論としてのサーンキャ哲学(数論)を思想背景と

していたヨーガ行派が、後には宇宙としてのブラフマン(梵)と個人の本体

であるアートマン(我)との一体を説くヴェーダーンタ哲学を背景とする

一元論へと発展し、梵我一如、すなわち梵と我とを「結びつける」ところ

にヨーガの行法として展開されていく。

 

・・・いかなる対象に向かって、いかなる方法で一体(ヨーガ)となるか、

ということによって、多くの流派が生まれたと考えられる。

 

==>> ここにおいて、空海が9世紀に日本に持ち込んだ真言密教には、

     それまでのヨーガの流派のほとんどの要素が含まれているそうです。

 

     この後、この本では、第十三章で「ヨーガ体操の活用・座法・印」

     に入っていまして、具体的にどのような作法で阿字観をやるのか

     が解説してあります。

     要するに、準備体操や座り方や呼吸法や阿字観の作法などが

     細かく書かれています。

 

p200

 

九。 宇宙の意志は、人間の欲望を通して実現しようとしている。

   それを汚すのは、自我である(大欲清浄)

 

十一。 阿字から生まれ、阿字の故郷に帰る我が身であることを心底に据え、

    阿字の一念に住して、今日一日を生きる。

 

==>> これは、「阿字観行者 日常の心得 十一カ条」に書かれている

     ものです。

     

     この本の中のいくつかの言葉は、次に読んでいる

     保江邦夫著「神の物理学・甦る素領域理論」に若干通じる

     ものがありそうです。

     その保江さんの考え方の片鱗は既に読んだこちらに書いて

     います。

     「理論物理学vs仏教哲学 「神と人をつなぐ宇宙の大法則」」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_10.html

 

 

さて、瞑想入門ということだったので、具体的なことを勉強するつもりで

買ったのですが、すでに何度か阿字観会に参加している私としては、

実技的なことよりも、考え方の方が役に立ったように思います。

 

今後も時々、瞑想マニュアルとして読みながら、考え方の面でも

実技の面でも、レベルアップできればいいなと思っています。

 



どうも、お付き合い有難うございました。

 

 

 

 

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