D.L.エヴェレット著「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」を読む ― 3(完) ― サラダを食べる人間にはピダハンは理解できない、誰の経験なのか、証拠はあるのか

D.L.エヴェレット著「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」を読む ― 3(完) ― サラダを食べる人間にはピダハンは理解できない、誰の経験なのか、証拠はあるのか

 

 



「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」の

「第十三章 文法はどれだけ必要か」から読んでいきます。

 

 

 

p283

 

言語とは、構成部分(単語、音声、文)の総和ではない。 その言語を成り立たせている

文化の知識なしでは、純然たる言語だけでは、十分なコミュニケーションや理解には

不足なのだ。

 

文化は、わたしたちを取り巻く世界からわたしたちが感じ取るさまざまなものを意味付け

してくれる。

 

p286

 

アメリカ人は、火星人が来たというだけでなく、似たように途方もないことを日常的に

口にしている。 一方ピダハンは、・・・目撃した経験がないかぎり決して言わない。

ピダハンが話すのは、釣りや狩り、ピダハンの人々のこと、自分が見た精霊など、現に

生きている日常の経験についてだ。 ・・・それが文化の価値だからだ。 ピダハンの

文化はひじょうに保守的な文化である。

 

==>> 確かに、文化の理解なくして、言語だけでの十分なコミュニケーションは

     不可能だと思います。 

     それを前提とするならば、意味というものは言語の中にあるのではなく、

     文化の中にあるという話になるのでしょうか。

     例えば、演劇や映画にしても、そのストーリーというのか、あるいは文脈

     というのが理解できないと、意味があるものとしての理解はできません。

     特に、この本に書かれているピダハン語による物語は、それぞれの短い文

     としての理解は出来るものの、物語全体としての理解はほぼ不可能です。

 

     アメリカの火星人の話に到っては、これはもう空想の産物でしかないわけ

     ですが、そのような文化がいわゆるフェイクニュースだの陰謀論などという

     ほとんど根拠のない、あるいは、根拠を確認できない幻想を生むのでしょう。

 

p289

 

文化が言語に大きく作用するというわたしの考えが有効であるとすれば、ピダハンの

認知能力はちっとも原始的ではないことになる。 

 

・・・この考え方のもとでは、文法は、チョムスキーが40年以上主張しつづけてきた

必要不可欠で自律的なものではない。

 

たとえばデュッセルドルフ大学のロバート・ヴァン・ヴァリンはチョムスキー理論に

代わる理論を膨らませていて、そこでは意味から独立したチョムスキーの文法が影を

ひそめ、大幅に意味主導の文法になっている。

 

ヴァン・ヴァリンは自分の理論を「役割と参照文法」と呼んでいるが、彼の理論では、

ごく自然に、文化によって文法の様相を説明することが可能だ。

 

p290

 

そのような理論は、チョムスキーの生成文法(ピンカーの言う「言語を生み出す本能」)

以上に、人間言語の文法を理解する源となってくれるだろう。

 

==>> ここで、私にとって一番ショッキングな言葉は、「意味から独立した

     チョムスキーの文法」というところです。

     私は、生得的な文法という考え方の中に、なんらかの意味を生み出す

     メカニズムがあるのではないかという期待をもって、何冊かの本を

     読んできたのですが・・・・

     その中のひとつが、こちらの本でした・・・

 

     スティーブン・ピンカー著「言語を生み出す本能」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/05/blog-post_31.html

     「p031

地上のあらゆる場所に複雑な言語が存在するという事実は、言語学者を厳粛な

気持ちにさせる。 言語は文化の産物などではなく、人間の特定の本能によって

生み出されるのではないか、という疑問がわく最大の理由でもある。 

文化の産物は、文化圏ごとに精緻さの度合いが大きく異なる。一つの文化圏の

なかでは、精緻さの度合いはほぼ等しい。 ・・・・しかし、言語はこの法則に

は当てはまらない。 石器時代さながらの部族はあっても、石器時代さながらの

言語は存在しないのだ。」

 

・・・・このような正反対の説をそれぞれ読むと、それぞれに納得して

しまうのですが、今両者をなんとなく比べてみると、文化を前提とする言語

という説の方が、生得的とか普遍文法だとかいう抽象的な概念よりも

理解しやすいように感じます。

 

 

p292

 

ピダハンの友人はわたしをまじまじと見つめ、ついで野菜を見つめ、もう一度私を見つめた。

「ピダハンは葉っぱを食べない」と彼は告げた。「だからおまえはおれたちの言葉がうまく

ないんだ。 ピダハンはピダハンの言葉を上手に話す。 ピダハンは葉っぱを食べない」

 

 

わたしは・・・妙なことに気が付いた。 ピダハンがわたしと言葉を交わしてから、

まだわたしが目の前にいるのに、まるでいないかのように自分たち同士でわたしのこと

を話し合うのだ。

 

・・・「よし、やつはマッチをふた箱くれたぞ。 今度は服をくれと頼んでみる」

どうして彼らは私の目の前でこんな風に話すのだろう。

 

p293

 

ピダハンの考えでは、彼らの言葉はピダハンとしての生活と、ほかのピダハンとの

関係のなかから生まれてくる。 仮にわたしが彼らの質問に首尾よく答えたとしても

それで彼らの言葉を話せることにはならないのだ。

 

==>> この部分は、非常に奇妙で、書いている著者自身も完全には理解していない

     部分でしょうから、読者である私は想像してみるほかはないのですが、

     ピダハンは、この白人である著者を精霊のひとつでもあるように捉えて

     いるようです。 だから、ピダハンの生活の中で、ピダハンの人間として実在し

ている存在ではないと見ているのではないか。

 

著者がサラダを食べる様子をみて、「ピダハンは葉っぱを食べない」と言う

わけです。要するに、葉っぱを食べている白人はピダハンと同じ人間ではない

ということになりそうです。

 

     例えば、英語が下手な私のような日本人が、英語を母語とする人と何かを

     話しているとした場合、厳密に言えば、この「ピダハンは葉っぱを食べない」   

     という状況と同じことが起こっているのではないかと思うのです。

     具体的には、オーストラリアのビジマイトと日本の納豆あたりを考えてみたら

     どうでしょう。 その味が身に沁みているかいないかは、会話の中に出てくる

     意味を理解する程度に大きな差があるのではないでしょうか。

     そのような文化の理解の程度が大きく異なれば、そこで発している言葉の

     意味は当然大きく違っているということになります。

 

 

p294

 

1950年代以降、多くの言語学者と哲学者は言語をまるで数学理論のごとく扱って

きた。 言語に意味があり、人間によって話されているという事実など、言語を理解する

という一大事業に何ら関係がないかのような扱いだった。

 

p297

 

ピダハンには、「見ることは信じること」であるばかりでなく、「信じることは見ること」

でもある。 ピダハンに何かを話そうとすると、彼らはまずこちらがどうやって

その情報を仕入れたのかを知りたがる。 かてて加えて、こちらが言うことには

はっきりした証拠があるかどうかも知ろうとする。

 

精霊も夢もピダハンにとっては直接体験なので、彼らはしょっちゅうその話をする。

精霊の話はピダハンには作り話ではなく、現実の出来事の再現だ。

 

 

==>> ここでいう1950年代というのは、チョムスキーが生成文法理論を

     発表したことで始まった一連の動きを指しているようです。

     生成文法

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%88%90%E6%96%87%E6%B3%95

     「テクニカルには主として句構造規則からの「生成」(数学における「生成」

由来しており、むしろ「定義」の意味に近い)による文法、句構造文法を主と

して言語(もっぱら自然言語だが、次に述べるように形式言語にも波及した)を

扱うことを特徴とする言語学である。」

「認知言語学の分野から、比喩を含む語用論的な現象や他の様々な要因が、統語

現象に大きな影響を及ぼしているとして、言語の自律性の仮説に批判がなされ

ている。言語現象を、人間のあらゆる知的活動との関係の中で捉えるべきである、

としている。また認知言語学は、生成文法の合理論についても、経験基盤主義的

立場から批判している。」

 

     ・・・・ここでは、ピダハンのケースが、その言語があまりにも文化に左右され

ている典型的な例であるので、チョムスキーの理論には無理があるということ

のようです。

私は、この本を読んでいると、やはり無理だろうとは思うのですが、

一方で、あらゆる人間の現象が、あるなんらかの統一理論によって説明される

ことも期待しているので、進化論的で、遺伝子論的で、生得的というような

説があることに一種の望みも持っておきたいようにも思います。

 

 

p300

 

コーホイはこう答えた。「手は上流にある」

・・・

私はコーホイの右手を指差してみた。

「手は下流にある」

 

p301

 

一週間後、わたしは男たち数人と狩りに出かけた。

・・・カアアウーオイが列の後ろのほうから叫んだ。「コーホイ、上流へ行け

コーホイは右の道へ進んだ

 

・・・「上流に行け!」 今度コーホイは、右ではなく左へ向かった・・・・

 

==>> ここでは、右と左という言葉が、著者にとっては非常に難問であったことが

     描かれています。 右と左という言葉すらピダハン語でどう表現するのかすら

     解明できていないのに、主たる目的である聖書の翻訳などができるだろうかと

     悩んでいたのです。

     そして、それがこの狩りに同行したことでやっと分ったというのです。

     ピダハン語での右と左というこのの意味は、川の流れに対してどちらの

     方向であるかという表現によって表されていたというのです。

 

     これで思い出したのが、どこかの先住民族の方向を表わす言葉が、その

     地域の一番高い山に対してどちらの方向にあるかによって表現されていた

     という話です。(何でそれを聞いたのか、テレビ番組だったのか何かの本だった

     のかは記憶に残っていませんが・・・)

     つまり、ここでも著者が言いたいことは、言葉というのはその地域の生活に

     根ざした文化によって制約されるということのようです。

 

 

p307

 

このような解釈は、語彙がなければ概念があるはずがないという誤った推論を導き

かねない。 実際には強いウォーフ仮説は科学とも相容れないのだ。 というのも

科学とはつまるところ、それまで自分たちが表現する語彙を持ち合わせていない概念を

発見することに尽きるからだ!

 

サピア=ウォーフ仮説だけでは、ピダハンの文化と言語にまつわる珍しい現象――

色名や数量詞、数詞がないことや、血縁関係がひじょうに簡略であることなどーーを

全体として説明することはできない。

 

文法と認知と文化とがこれまでどのように関係づけられてきたのか、描き出して

みなければならない。

 

==>> この仮説をチェックしてみましょう:

https://liberal-arts-guide.com/sapir-whorf-hypothesis/

サピア=ウォーフ仮説とは、

異なる言語を使うと、認識する世界観や概念のあり方が変化するという仮説

です。

この仮説にある前提の考え方として、「人は言語を通してのみ思考するのだから、

異なる言語を使えば認識する世界観が変わるだろう」というものがあります。」

 

・・・ここまで読んできた中で考えると、この仮説には無理があるような気が

します。 どちらかと言えば、日常の生活―>文化の形成―>意味の生成―>

概念の生成―>言葉が生まれる・・・という流れではないのかなという感じ

がします。

 

p316

 

コーホイは息子のパイターに向かって、

「おい、パイター、針を持ってきてくれ。 ダンがその針を買った。同じ針だ」

と言ったのだ。

 

p317

 

コーホイの発した短い文章を合わせると関係節を含んだひとつの文のようになり、

・・・・

英語ならこういう場合、「ダンが買って来た針を持ってきてくれ」と言う。

 

つまり、形の上では関係節とは言えないが、意味的には関係節になるような表現を作る

方法はあるということだ。

 

・・・こういうロシアの入れ子人形のような性質を、コンピュータ科学や言語学、心理学、

哲学などではリカージョンと呼ぶ。 

 

p318

 

チョムスキーは人間の言語に無限の創造性を与えている基本的な道具がリカージョン

であると主張した。

 

==>> ここでは、再帰ともいわれるリカージョン、言葉の入れ子人形、が

     言語にとっては基本的なものだとしたチョムスキーの説に対して、この

     著者はピダハン語にはこの再帰現象がないことを示して、反論しているという

     ことです。

 

p331

 

かつてはわたしも、現在の多くの言語学者同様、文化と言語は画然と独立したものだと

考えていた。 だがもしも文化が文法に大きな影響を及ぼすことができるという私の

考えが正しければ、・・・文法は人間の遺伝子に組み込まれていて、言語による違いは

ほとんど取るに足らないものであるという理論は決定的に間違っていたことになる

 

 

p334

 

もし理論上リカージョンが言語の必須要素ではないとすると、リカージョンはどこから

きたのだろうか。 リカージョンが人類言語のほとんどで見られることに異論をはさむ

余地はない。 また、リカージョンがどんな人間の思考過程にも存在するなど嘘だと

言い切れる者はいないだろう。

 

私の考えでは、リカージョンは脳の全般的な認知能力の一過程だ。人間が思考をめぐらせ

る過程の一部だーー言語構造の一部にはなっていなかったとしても。

 

==>> 元々はMITでチョムスキーの弟子みたいな場所で研究していた著者なの

     ですが、ピダハンを研究する中で、どうも文化と言語は独立してなんか

     いないぞと考えるようになり、文化が文法に影響を与えていることを

     見いだすにつれ、その言語の文法の中に再帰現象がないとしても、その思考の

     中には再帰があると位置づけているようです。

 

p335

 

ピダハンの物語をよく見てみると、個々の文章にではなく、物語の着想が別の着想の

なかに組み込まれているという形で、リカージョンがみられる。物語の一部が

別の一部に従属した形になっているのだ。

 

==>> 文法的な規則としてのリカージョンはないが、大きな着想の中にそれが

     見られる、つまり思考過程の中にそれがあると言っています。

 

 

p345

 

「前のほうにカイマンがいるぞ、見てみろ」

私は道の前方をライトで垂らしたが、何も見えなかった。

 

・・・「あそこに血走った眼がふたつ見えないか?」

・・・確かに30メートルほど向こうにふたつの赤い点があるのだけはなんとかわかって

きた。

 

・・・殴られて気を失っているもののまだ死んでいないカイマンを、尻尾を持ってぶら下げ

ていた。

 

==>> カイマンとは小型のワニだそうです。

     暗い中でライトをつけても、著者にはまったく見えなかった30メートル先に

いるワニが、ライトを消してもピダハンにははっきり見えているという例です。

     いわゆる文明人には見えなくても、ピダハンには見えるものがあるということ

です。 そしてそのようなものをピダハンは精霊と呼ぶ場合もあるようです。

 

 

p347

 

西洋文明育ちなら子どもでもわかるようなことが、ピダハンにはわからない場合もある。

例えば、ピダハンは絵や写真といった二次元のものが解読できない。 写真を渡されると

横向きにしたりさかさまにしたりして、ここにはいったい何が見えるはずなのかとわたし

に尋ねてきたりする。 

 

近年彼らも写真を目にする機会が増えてきたので、だいぶ慣れてはきたが、それでも

二次元描写を読み解くのは、かれらには難儀なようだ。

 

 

==>> ここでは、文明人には見えても、ピダハンには見えないものの例が

     述べられています。

     こういうことから妄想すれば、宇宙人には見えても、人類には見えないもの

     もあるのでしょう。

     それは、虫や動物には見えても、人類には見えていないものがあるのと

     同様なのでしょう。

 

p361

 

わたしたちに残されるのは、言語を回転させる機構にすぎない文法よりも、世界各地の

それぞれの文化に根差した意味と、文化による発話の制限とが重視される理論だ。

 

・・・言語学は現在多くの言語学研究者が信じているように心理学に属するものではなく、

サピアが考えたように、人類学に属するものになるだろう。

 

人類学やフィールド調査と切りはなされた言語学は、化学薬品とも実験室とも切り離され

ておこなう化学のようなものだ。

 

==>> 言語学は人類学だという見方については、私はその方が面白いと思います。

     そっちの方が楽しそうだというだけの理由なのですが。

 

 

 

 

さて、最後の「第十七章 伝道師を無神論に導く」に辿り着きました。

 

伝道師であった著者が、どのようにして無神論者になったのかが描かれています。

 

p364

 

SILの伝道者は説教もしなければ洗礼も施さない。 聖職者的な行動は避けて通る。

SILはむしろ、先住民を感化する最良の道は、新約聖書を彼らの言葉に翻訳することだと

信じている。

 

 

 

p367

 

わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き

飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、

いたって真面目に語って聞かせた。

 

わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。

 

・・・「どうして笑うんだ?」わたしは尋ねた。

 

「自分を殺したのか? ハハハ。 愚かだな。 ピダハンは自分で自分を殺したりしない

 

p368

 

わたしの話に耳を傾けた者たちは、ヒソー(イエス)という名の男がいて、彼はほかの者

たちに、自分が言ったとおりにふるまわせたがっていると理解していた。

 

次にピダハンが訊いてくるのは、「おい、ダン。 イエスはどんな容貌だ? おれたちの

ように肌が黒いのか。 おまえたちのように白いのか」

 

私は答える。「いや、実際にみたことはないんだ。 ずっと昔に生きていた人なんだ。

でも彼の言葉はもっている」

「なあ、ダン。 その男を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉

をもっているんだ?

 

==>> ここでは、ピダハンの文化の中で意味の無いことは、一切意味が無いことを

     述べているようです。

     自殺するという行為は、ピダハンの文化の中では信じられない。バカバカしい

     こととして受け止められたようです。

     そして、直接経験と生きている人間による証拠がないものは一切信用しない

     という文化が、伝道を不可能にしているという話です。

 

 

p374

 

直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど

無意味になるということだ。 これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃

していない遠い過去の出来事を頼りに伝道をおこなう立場からすれば、ピダハンの

人々は話が通じない相手になる。 実証を要求されたら創世神話など成り立たない

 

 

p375

 

私が大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった。

ピダハンからすればたんなる迷信であり、それがわたしの目にもまた、日増しに迷信に

思えるようになっていた。

 

・・・彼らが信じるのは、幻想や奇跡ではなく、環境の産物である精霊、ごく正常な

範囲のさまざまな行為をする生き物たちだ。・・・ピダハンには罪の観念はないし、

人類やまして自分たちを「矯正」しなければならないという必要性ももち合わせていない

・・・彼らが信じるのは自分自身だ

 

 

そんなわけで1980年代の終わりごろ、わたしは少なくとも自分自身に対しては、

もはや聖書の言葉も奇跡も、いっさい信じていないと認めるにいたっていた。

わたしは隠れ無神論者だった。

 

==>> なんという皮肉でしょうか。

     文明人が持ち込もうとした何億人をも魅了した宗教が、いわゆる未開の人たち

     からみれば、「的外れ」で「迷信」にしかすぎないと笑われているわけです。

     それで私が一番に思い出す本は、こちらの本です。

     リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-a3a824.html

     「私は人格神を想像しようとは思わない。 世界の構造が私たちの

不完全な五感で察知することを許してくれる範囲で、その前に立ち、

畏怖の念に打たれるだけで十分だ。」 アルバート・アインシュタイン

 

 

p377

 

わたしは自分が幻想のもとに生きていること、つまり真実という幻想のもとに生きている

と思うに至ったのだ。 神と真実とはコインの表裏だ。 人生も魂の安息も、

神と真実によって妨げられるのだーーピダハンが正しいとすれば。 

ピダハンの精神生活がとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っている

ことを見れば、彼らの価値観が非常に優れていることのひとつの例証足り得るだろう。

 

 

p384

 

わたしはピダハンが心配だと言うのを聞いたことがない。 というより、わたしの知る

かぎり、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙がない。 ピダハンの村に来た

MITの脳と認知科学の研究グループは、ピダハンはこれまで出会ったなかで最も

幸せそうな人々だと評していた。

 

わたしも過去30年余りで、アマゾンに居住する20以上の集団を調査したが、これほど

幸せそうな様子を示していたのはピダハンだけだった。

 

わたしが知り合ったどんなキリスト教徒よりも、ほかのどんな宗教を標榜する人びと

よりも、幸福で、自分たちの環境に順応しきった人々であるとさえ、言ってしまいたい

気がする。

 

==>> 「心配する」という語彙が無い、というのは何と幸福な世界なんでしょうか。

     自殺することがバカバカしいことであるというのは何と幸せなんでしょうか。

     

 

さて、これで「ピダハン」を読み終わりました。

 

私の読書テーマにとってはどんな「意味」があったのでしょう。

 

日常の生活―>文化の形成―>意味の生成―>概念の生成―>言葉が生まれる、という

ようなひとつのプロセスがありそうだなあというのが、今回の収穫です。

 

まあ、いろんな本を読むたびに、コロコロと意見が変わるので、今後どうなりますやら。

 




===== 完 =====

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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