井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」を読む ― 1 一般化と多様化、異文化理解は可能なのか、 コトバの意味構造の外界を分節する力とは何か、 イマジナルな曼陀羅
井筒俊彦著「意味の深みへ:東洋哲学の水位」を読む ― 1 一般化と多様化、異文化理解は可能なのか、 コトバの意味構造の外界を分節する力とは何か、 イマジナルな曼陀羅
私の今の読書テーマは「意味とはなにか」ということで、この本はそのものズバリみたいな
タイトルなので読むことにしました。
この本は内容が深すぎて理解が追い付かないので、私にとって「意味とはなにか」に
ついてヒントになりそうな部分だけをつまみ食いしていきます。
全体の流れは無視していますので文脈としてはトンチンカンになっているかと
思いますが、悪しからず。
とりあえずは、最初から読み進めます。
====
「一、 人間存在の現代的状況と東洋哲学」
p013
あらゆるものが、互いに密接に結び合わされている。
全存在界を重々無尽の相互連関の網として表象するのは、決して原子物理学の世界像や
大乗仏教の華厳哲学だけではありません。 もっと世俗的な生活に密着する領域――
例えば経済、政治、法律というような存在領域――でも、我々はあらゆる事物、事象の
相互連関、相互依存性をいやでも認めざるをえないのであります。
・・・「地球社会」はもはやたんなる空想ではなく、何かもっと強烈なインパクトをもつ
力として現れてくるのであります。
・・・・こんなことは人類の歴史の上で、未だかつてありませんでした。
p016
この点で特に注目に値することは、この人類の「地球社会化」の過程が、「一様化」と
「多様化」という外見上互にまったく相反する方向に向かっているという事実であります。
・・・人類史上かつてない世界的危機を生きつつあるのだという現代的人間の尖鋭な
意識がここから出てくるのであります。
p026
いろいろな問題が既に我々の目の前で、世界的規模で起こりつつあります。
様々な人間集団の間の経済的、政治的、宗教的、イデオロギー的摩擦、闘争が、それの
具体的な現れです。
・・・工業化と科学技術の異常な発達のおかげで、広い世界がすっかり狭い世界に変わって
しまったのですから、科学技術的に均一化したこの狭い空間の枠内に、多数の国家、多数の
民族が、それぞれまったく異なる文化伝統、世界観、生活感情、感受性をもったまま、
一緒くたに投げこまれているのです。
==>> ここでは、まず著者がなぜこの本を著すことになったのか、その背景や
目的などが述べられています。
そして、西洋哲学と東洋哲学が上記のような世界情勢の中でどのような
意味で異なり、どのような意味で同じであるかを書いて行くようです。
私にとって非常に驚きなのは、そこにイスラームの哲学がかなりの重みを
持って語られていることです。
しかし、私の読書目的とはやや離れますので、そこは省略して進めます。
p028
このような大がかりな文化衝突の構造を分析し、その本質を解明し、それに対処し
得るためには、どうしてもこのような新しい概念の導入が必要になってくるのです。
p029
いわゆる外界に我々が認知する様々な事物、それに促されて我々が考え感じるもの、
我々が為すことすべて、そんな些細なものでありましょうとも、全部、なんらかの形
で我々の心的機構の深層領域に取り込まれて、意味や意味可能体となり、そういう形で
そこに把持される性質をもっている。しかも、それが幼少時代からずっと続いて、我々
の深層意識に微妙にダイナミックな意味的構造体を作り上げているのです。
・・・その対象をどんなものとして認識するかは、その時その時に我々の意識の深層
から働き出してくるコトバの意味構造の、外界を分節する力の介入によって決まるので
あります。
==>> 現代の様々な文化衝突を掘り進めていくと、幼少時代からの深層意識の
意味的構造体に迫ってみなくてはいけないという著者の方針が書かれて
いるように見えます。
そして、そこで重要な言葉が「分節」という作用であるようです。
「分節」とは、辞書的には:
https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E7%AF%80-623360
「① 言語学で、言語に見られる音の単位の区切れ、意味の単位の区切れ。
③ 心理学で、思考・行動のなかで、全体との関連をもちながらも取り出して考察の対象とすることのできる構成部分をいう。」
こちらのサイトでは、さらに分かり易く説明しています;
「言語が世界を分節する」
https://sekakota.hatenablog.com/entry/language_divides_the_world
「「言語が世界を分節する」とは、もともと一つの連続した世界を言語が分解し
て人間に理解させていると考える概念です。言語が違えば人間の理解の仕方が変
わり、また、言語が僕たちに見える世界を形作っていると考えます。」
p031
クーンのいう「不可共約性」とは、要するに、それぞれの文化は言語的にはモノローグで
しかあり得ない、二つの異なる文化の間に真の意味でのコミュニケーションはそこに成立
し得ないということです
p033
もし爆発するエネルギーが正しいチャンネルに導入されるならば、異文化衝突は建設的
な批判精神誕生のきっかけとなり、自分自身の「枠組み」を他の「枠組み」の光で
検討することを可能にし、さらに進んでは、対立を乗り越えて、より高い次元に、
より広い知的展望を拓くことも可能にする機会ともなり得るのです。
人類の歴史は、東洋でも西洋でも、そういう生産的な異文化衝突の著しい事例を幾つか
記録に残しております。
==>> 異文化コミュニケーションなんて不可能だという見方に対して、著者は
歴史的に見ても楽観できるという立場をとっているようです。
いわゆる弁証法的に解決可能であるという見方をしているように思います。
しかしそれにしても、翻訳の難しさなどを考えると、「枠組み」を変えての
翻訳ということが可能かといえば、かなり難しいことのように私は思います。
p036
この東洋哲学的「枠組み」が、現代世界で支配的位置にある西欧的な哲学の「枠組み」
と対立した場合、そこにどんなディアローグが起こり得るだろうか、またもしディアローグ
が実際に起こった場合、そこにどんな「地平融合」の可能性があるだろうか。
そういうことを考えてみたいと思ったわけであります。
==>> この本の主旨は、このようなことなんですが、私自身の興味はあくまでも
「意味とはなにか」ですので、文脈をかなり外れた感想文になることを
お断りしておきます。
p037
人間が見失ったーーあるいは次第に見失いつつあるーー「自己」、そこから疎外されて
いる「自己」とは何なのか。この問いを抱いて東洋哲学を眺めてみると、東洋の主要な
思想潮流が、まさしくこの問題をめぐって生じ、発展してきたことに気づきます。
極東であれ、中東近東であれ、いつでもどこでも、真の「自己」の探求は、哲学的
思考の出発点であり、基礎であり、中心課題でありました。
・・・すなわち、「自己」を理念的あるいは概念的に理解するのではなくて、そのような
知的操作にかける前に、先ず哲学者たる人間が、真の「自己」を自分の実存の深みにまで
主体的に追及して行き、それを自ら生きるということ。
p039
・・・主体性を極限まで探求するために・・・・中国的表現で言えば「道」であります。
・・・例えば、インド思想のほとんどすべての学派に共通なヨーガ、大乗仏教の止観、
禅仏教の座禅、老荘の座忘、宋代儒教の静座、イスラームの唱名(ジクル)、ユダヤ教の
文字・数字観想など、主なものだけちょっと挙げてもいろいろですが、いずれも意識の
形而上学的次元における特異な認識能力を活性化するための体系的方法であることは
違いありません。
==>> ここでは、西洋哲学の特徴について詳しい説明は書いてありませんが、
おそらく上記の「「自己」を理念的あるいは概念的に理解する」のが西欧的で、
「真の「自己」を自分の実存の深みにまで主体的に追及して行き、それを自ら生
きる」というアプローチが東洋的であるという対比をしているようです。
西欧の哲学史をざっとみてみると、哲学者=自然科学者であったという時代
から、物事を客観的にみるという傾向が強いように見えますので、この著者の
対比はおそらくそういうものであろうと思います。
p044
つまり、深層意識のこのレベル、あるいは領域、では、コルバン流の言い方で申し
ますと、事物はみな「イマジナル」になるのでありまして、観想のこの段階における
意識の見る存在世界は、例えば天使や精霊など、事物のイマジナルな形象に満ちた
抽象的世界です。
シャマニズムがその典型的な場合であることは勿論ですが、もっと構造化された形と
しては、真言密教の「マンダラ」があります。 またこれと関連して、大乗仏教
諸派のうち、深層意識の構造に並々ならぬ関心を向けていることで知られる唯識派が、
意識のイマジナルな機能に関して多くの重要なことを明らかにしている事実にも、注目
しておくべきでありましょう。
==>> さて、やっと、意識の話に入ってきました。 そして、そこに出て来たのが
「イマジナル」という言葉です。
アンリ・コルバンについては、こちらでチェック:
「アンリ・コルバンは、フランスの哲学者、翻訳家、東洋学者。イランのイスラ
ーム思想、その中でも特に、グノーシス主義的シーア派思想を出発点とする哲学
を展開した。」
「コルバンによると、スフラワルディー及びその弟子たちの東洋的神智学の
基本的特徴は、「プラトン思想における元型(フランス語版)(ἀρχέτυπον)
の解釈を、ゾロアスター教的天使論(フランス語版)(ヤザタ論)の述語を用い
て行う」ことにあるという。」
「西洋における世俗化と脱聖化は、ニヒリズムで最終段階に至ったように思わ
れる。最終段階に至った世俗化と脱聖化は、限りある命の精神に、危機をもたら
す。コルバンは、著作の主題である東洋思想が、このような危機に対する盾にな
りうると考えた。」
また、コルバンの「イマジナル」の意味については、こちらのサイトで:
http://imaginal-holybasil.com/newpage7.html
「イマジナル(imaginal)という言葉は, フランスのイスラム学者アンリ・
コルバンが作った造語です。本来はイランのイスラム哲学で使われていた
想像界(alam al-mithal)という言葉に、コルバンがムンドゥス・イマジナリス
(mundus imaginalis)という訳語をあてたことに由来します。
イマジナリスとは想像上(imaginary)ではなく、想像的(imaginal)という意味
であることに、大きな注意を払わなければなりません。
自然科学的世界観によって、われわれ日本人もイマジナルなものを失ってし
まいました。イマジナルな世界は知性のみでは理解することはできません
体で感じ、その中で生きることによってのみ、イマジナルな世界を知ることが
できます。」
・・・ということですので、コルバンの思想にしてもこの「イマジナル」に
しても、かなり神秘主義的な背景があるように見えます。
また、コルバンの研究は、この本の著者である井筒氏と重なる部分があるよう
に見えます。西洋哲学と東洋哲学を比較することによって、その垣根を
乗り越えようとしているのではないかと思います。
P046
つまり全体的には無分節の、しかし、無分節でありながら、限りない柔軟性をもって
自己自身をどこまでも分節していく可能性をもった統一体として現れてくる。 これが
荘子のいわゆる「混沌」でありまして、その流動的なダイナミックな存在構造が、
同じ中国で発達した仏教の華厳哲学で、「事事無礙法界」という形で表われるのであります。
p047
荘子の「混沌」は、この段階に至って老子の「無」に転じます。
ここでの意識は「何かについての意識」では、もはやありません。 絶対に純粋な
「意識」そのものです。 およそいかなるものについての意識でもなく、「無」の意識
ですらない。 むしろ、「意識」と完全に合一した「無」とでも言うべきもの。
言い換えれば、無分節態における形而上学的リアリティが、純粋主体性における「意識」
として現成した境位であり、これら両者の相即性そのものが、絶対無分節者であるのです。
==>> 「言い換えれば・・・」以降の文は、難し過ぎて理解できません。
「事事無礙法界」はこちら:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E8%A6%B3
「事事無礙法界(じじむげほっかい) 一切の物が空であるという理が姿を消し、
一切の物事が妨げあわずに共存するという見方。
インド仏教が空の世界に行きっぱなしなのに対し、一度空の世界には行って
から現象世界に戻ってくるところがいかにも中国仏教らしい現実性を感じさせ
る。禅の十牛図で最後に町中に帰ってくる(入鄽垂手)のと共通のものを感じ
させる。」
老子の「無」に関しては、インターネットでいろいろ検索しましたが、
これという決定版のような解説が見つからないので、パスします。
p051
いわゆる「事物」は、正確には、もう事物ではないということに注意しなければなりません。
観想体験に関係のない日常的生を生きている人が、「事物」として知覚しているものは、
観想体験を経た人の目から見ると、一つ一つが存在的「出来事」、言い換えればプロセス
なのです。
・・・普通、認識されているフィジカルな世界は、この見地からすれば、ただ現象的
幻影にすぎません。
==>> 観想体験というものがどういうものを言っているのか分かりませんが、
月に一回真言宗のお寺で阿字観会という瞑想会に参加してきたのですが、
さっぱり進歩がありません。
上記に「イマジナル」という言葉が出てきましたが、それが想像的という意味
をもつイメージだとするならば、私はまだまだ失敗続きの観想体験という
ことになりそうです。
具体的には、その瞑想会で、阿字や月輪のイメージを頭の中に作らなくては
いけないのですが、それがまったく思うようにはできないのです。
もし、そのようなイメージそのものが意味だとするならば、私はまったく
意味というものを捉えられない状態だということになります。
p055
現代物理学では、この旧来のパラダイムは既に新しいパラダイムに置き換えられ、デカルト
的な物と心の二元論は否定されつつあります。 自然科学のこの新しいパラダイムが、
いわゆる「事物」の存在論的構造そのものに意識の積極的参加を認め、それによって事物
の実体的凝固性を「溶解」し流動化するような性格のものであることが注目されております。
・・・意識の内面からの参与によって、限りなく柔軟で、常に変転する「出来事」の相互
連関の複雑微妙な創造的プロセスとして見られるようになってきた、ということであり
ます。
==>> ここで著者は、現代の自然科学が東洋哲学的なものを取り入れてきている
という主旨のことを書いています。
ただし、具体的にどのような動きのことを指しているのかは分かりません。
しかし、今までに読んで来たさまざまな分野の本からの印象で言うならば、
密教系の僧侶が量子物理学の世界と密教の世界の考え方に類似するところが
あるというような話をしているのは、その一例かもしれません。
さて、 「I 一、 人間存在の現代的状況と東洋哲学」を読み終わりました。
次回は、「I 二、 文化と言語アラヤ識」に入ります。
私の読書テーマから言えば、「アラヤ識」に期待したいところです。
===== 次回その2 に続きます =====
===============================
コメント
コメントを投稿