中村信子著「ハノイから吹く風」(サイゴン陥落を伝えた日本女性)を読む - 2(完): ベトナムで負けたアメリカ、日本の精神主義とベトナムの現実主義 

中村信子著「ハノイから吹く風」(サイゴン陥落を伝えた日本女性)を読む - 2(完): ベトナムで負けたアメリカ、日本の精神主義とベトナムの現実主義 

 

 


  

p180

 

ホー主席は壇上に立って、何か話しているが、離れた所にいる私にはよく聞きとれない。

・・・ベトナムの優れた指導者であり、クアに帰国の決意をさせた、その人の姿をただ

じっと見ているだけだった。

 

p181

 

一国の指導者にしてはずいぶん質素な姿だったが、白い頭髪とあごひげ、桃色の頬など、

写真で見るよりずっと美しく見えた。

 

==>> ホー主席とは ホー・チ・ミンのことです。

     こちらのサイトの解説にあるとおり、現在の歴史的評価は、当然のことながら、

政治体制の違いによって分かれているようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3

     「ホーの風貌、また腐敗や汚職、粛清に手を染めなかった高潔な人柄は、民衆

から尊崇を集め、そして愛された。晩年は南北ベトナムの両国民から「ホーおじ

さん」と呼ばれた。一方、反共の南ベトナムからの難民が大多数を占めるベトナ

ム系アメリカ人や他国のベトナム系移民からは、「ベトナムを武力によって共産

化した首謀者」として憎悪の対象と見られている。」

 

・・・しかしながら、植民地となっていた祖国を独立に導いた点では、だれも

異論を唱えることはできないでしょう。

 

 

p184

 

ベトナムではじめて生まれた稲の新品種農林1号が出たあとも、クアはベトナムの土地に

適した新品種を次々に作り出した。

 

新品種の成功を喜んでいるとき、南ベトナムの情勢はさらに深刻化していた。

1960(昭和35)年に結成された南ベトナム解放民族戦線は、直接アメリカに抵抗する

ための力を強めていった。

 

p185

 

・・・1956(昭和32)年に、南北統一の総選挙が行われていたら、ベトナムはすでに

統一され、私たちも南ベトナムへ帰っていられたかもしれない。

しかし現実はフランスに取って代わったアメリカがベトナムに介入し、南ベトナムの

情勢は年を追って厳しいものになっていった。

 

==>> 著者の夫であるクアさんは、九州大学で農学博士を取得した方ですから、

     稲の品種改良などをするのが本来の仕事であるわけです。その農業への

     大きな貢献によって、ベトナムの中で尊敬される人になったようです。

 

     そして、そうしている最中に、アメリカがベトナム戦争の泥沼に突入して

     いったということです。

     おそらく、農業は戦略物資という意味でも重要であったろうと思います。

 

p188

 

何か月か飼育して、大きくなってから売るという経済的な理由からだった。 私は否も応も

なく引き受けなければならなかったが、子豚はみるみるうちに大きくなった。

コンクリートで固めた小さな小屋の中で、朝からギイエーギイエーと叫んでえさをねだる。

豚はブーブーと鳴くものとばかり思っていたが、どうもそういうふうには聞こえない。

ベトナムでは犬はワンワンではなく、ガウガウと吠えるというし、猫はニャーンでは

なく、メオメオと鳴くという。 ベトナムは動物もベトナム語で鳴くものらしい。

猫はベトナム語で「メオ」。 だからベトナムの猫は自分で「猫、猫」と鳴いて

その存在を訴えているのだろう。

 

==>> これは、動物がどう鳴くのかという話です。

     しかし、ベトナムの猫は「猫、猫」と鳴くというパターンは初耳です。

     ベトナムの猫は言語脳である左脳が発達しているのでしょうか・・・・

 

 

p195

 

中国語課の人が貸してくれた越漢辞典とにらめっこの毎日だった。

ベトナム語は一つ一つの単語はつづりが短くて覚えやすいが、単語が幾通りにも使われる

ので難物である。 おまけに発音の難しさ、発音符号のややこしさも加わってくる。

同じつづりの字でも符号が少し違っただけで、全然異なった意味になる。私が軍隊の「軍」

のつもりで言っているのに、ベトナムの人たちには「ズボン」と聞こえると言って笑われる。

 

ベトナムに技術支援で来ている外国人は・・・

はじめての子どもが生まれた。 彼は大喜びで事務所に入るとすぐ大きな声で

「妻が(子供を)産んだ」と叫んだ。 すると部屋にいたベトナムの人たちが血相を変えて

立ち上がり、ある人は外に飛び出した。

 

・・・よくよく聞いてみると、ベトナム語の発音が悪かったのだ。

「妻」という言葉を下手に言うと「壊れる」という意味になり、「産まれる」という言葉も

「土手」「堤防」の意味になる。

ベトナムの人たちは・・・「堤防が決壊した」と聞いて、あわてたのである

 

==>> 外国語の発音での間違い、勘違いというのはよくある話ですが、ベトナム語は

かなり大変みたいですね。

     英語でも、話される国によっては発音は大きく異なりますから、慣れるまでは

     本当に大変でした。

     オーストラリアの英語はよく笑い話にもなりますが、私もキョトンとすること

     がありました。

     旅行代理店で「アイトオクロック」と言われて「???」となったことが

     ありました。 「明日の朝8時に来い」の「エイト・オクロック」が「アイト」

     だったんです。 Eightを「エイト」と読むか「アイト」と読むかの違いです。

     I’m going to church today. (今日は教会に行くつもりです)の「トゥデイ」が   

     「トゥ・ダイ」という発音になるので、(教会に死にに行く)という笑い話

     がありました。

     カメラのニコンはナイコンになり、デパートのパルコはパーコになるので、

     頭の中が混乱したものです。

 

 

p199

 

「私たちベトナム人民が、日本という国に思いをはせるとき、まず第一に思い浮かべるのは、

風光明媚な美しい国土と、そこに住む勤勉な国民の皆さんの姿です」

 

そういう言葉ではじまるメッセージは、ベトナムと日本の両国には遠い昔からの文化交流

の歴史があった、その歴史の上に今後とも両国の友好関係と相互理解を深めていきたいと、

日本の聴取者に呼びかけた内容だった。 

 

放送の仕事には知識も浅く、生まれてはじめての録音でもあったので、マイクの前で

このメッセージを読んだとき、少し固くなっていた。

 

==>> さて、ベトナムと日本の交流史がどのようなものであったのか、私はまったく

     学んだことがありませんので、こちらのサイトでちょっと概略を見てみます。

     「日本とベトナム: きざまれた交流の軌跡をたどる」

     https://www.archives.go.jp/event/jp_vn45/ch01.html

     「林邑(チャンパ、現在の中部ベトナム)出身の僧・仏哲ぶってつによって、

8世紀頃に日本に伝えられたとされる舞楽です。日本の雅楽伝統において、舞楽

は大別して朝鮮半島由来の高麗こま楽の伝統(右方の舞)と、中国大陸由来の

唐楽の伝統(左方の舞)に分けられますが、林邑楽は9世紀ごろまでには後者に

組み込まれ、長らく宮廷や寺院の法会などで演奏されてきました。」

 

「朱印船制度が確立したとされる1604年から鎖国にいたる1639年までの間に、

のべ350隻を超える船が東南アジアを目指し、うち、ベトナム地域への渡航は

130回を数えました。

 

「苛烈なフランスの支配に対してベトナム国内で民族運動が高まるなか、指導

者のひとりファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、18671940)は、アジアで唯一近代

化に成功した日本に着目し、援助を求めて来日しました(1905)。彼が面談した

梁啓超りょう けいちょうや犬養毅、大隈重信らから、武装蜂起よりも人材養成

が急務であるとの助言を得たファンは、独立運動を担う人材確保のため、

ベトナム青年に日本留学を呼びかける運動を開始しました。これを東遊運動

19051909)と呼び、最盛期には200名前後の留学生が日本で学びました。」

 

・・・第二次世界大戦の前には、フィリピンでも日本の力を借りて独立したいと

いうグループがありましたが、それと同じようなことがベトナムでもあった

ようです。 そして、その後どうなったかは皆さんご存知の通りです。

 

それにつけても最近残念に思うのは、下のようなサイトの議論です。

「技能実習生」にとって日本はもはや魅力的ではない…

この国に巣食う「根深すぎる闇」

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E6%8A%80%E8%83%BD%E5%AE%9F%E7%BF%92%E7%94%9F-%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E3%82%82%E3%81%AF%E3%82%84%E9%AD%85%E5%8A%9B%E7%9A%84%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%81%93%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AB%E5%B7%A3%E9%A3%9F%E3%81%86-%E6%A0%B9%E6%B7%B1%E3%81%99%E3%81%8E%E3%82%8B%E9%97%87/ar-AAYIrqZ?ocid=msedgntp&cvid=7cd98222bcf245c49d7e08cde4c0aa46&fbclid=IwAR3TaPruL7N2mvETq6UNQ2tbGFa0WNrZNAY_4hREq2EzNrUHEcycpCcJL2w

 

「そもそも外国人技能実習生は「外国人技能実習制度」のもと、日本の企業で

技術や知識を習得するために開発途上国から来日します。得た技能は帰国後、

母国の経済発展に活かされる。彼らの多くは自分や家族のためだけでなく、母国

のために高い志を持って働きにくるのです。」

「技能実習生のほとんどは真面目で、真摯に技術を学びにきています。それが何

らかの理由で仕事を辞めて失踪し、その末路で罪を犯している。現在、約40

人の技能実習生がいますが、毎年7000人前後の失踪者が出ています。

では、原因は何かというと、実習先の環境です。過重労働や低賃金、ハラスメン

トなどの人権侵害が横行している職場が少なからずあるのです。転職も許され

ず、ひどい場合はパスポートを取り上げられてしまうから国に帰ることもでき

ない。追いつめられて失踪という選択をしてしまうんです。」

 

・・・最近のテレビ番組などでも、この制度の暗い部分が報道され、

実際に一部の酷い企業によって日本に幻滅して帰国せざるを得ない

ベトナムの若い人たちが不憫でなりません。

そういう現状の問題に対して、法務省も厚生労働省も他の省庁にお任せ

のような態度であるような報道もありました。

日本という国を信じてやってくる外国の若い人たちに見放されないような

法的な対応が必要な時期ではないかと思います。

日本の魅力が急激に低下している今となっては、もう遅いかもしれません

が・・・・

 

 

p205

 

1964(昭和39)年に入ると戦争はさらに激しさを増し、アメリカはベトナム全土に

軍事攻撃を加えるようになった。 政府も、ハノイに留まっている必要のない人たちは

疎開するようにでとの指示を出した。 放送局でも老人や小さな子供を抱えた女性職員が、

優先的に疎開地へと移って行った。 

 

==>> 著者の中村信子さんは第一線のアナウンサーであったので、子ども達と一緒に

     疎開することも出来ず、夫のクアさんが勤務しているタインホア省で夫の部下

     に面倒をみてもらうことになったことが書かれています。

 

p210

 

1965(昭和40)になると、アメリカは北ベトナムに対する爆撃(北爆)を開始した

ばかりか、ベトナム中部のダナン港に第一陣を上陸させて、直接ベトナム戦争に介入

してきた。 ハノイの情勢はさらに緊迫した。 

 

・・・戦争の中で誕生したばかりのベトナム人民軍空軍がはじめて空中戦に出撃して、

「アメリカ軍の飛行機を何機撃ち落とした」というニュースは、ベトナムの人々を小躍り

させた。

 

タインホア省は戦場となり・・・・クアは前年の秋に疎開したばかりの子どもたちを連れて

ハノイに帰って来た。

 

==>> ベトコン(ベトコン=南ベトナム解放戦線)は、アメリカに勝ったんですから

     確かに凄いと思うんですが、その勝利の要因はなんだったのでしょうか。

     航空戦力などの物量的にはアメリカが圧倒していたと思うんですが。

 

     こちらでその辺りの事情をチェックしてみます。

     「なぜ大国アメリカがベトナム戦争で負けたのか?」

     https://www.tnkjapan.com/blog/2019/04/25/vietnam_war_losingcause/

     「これらの行為は報道カメラマンによって世界中に報道され、世界中から非難が

殺到。アメリカ国内でもこの戦争を問題視する人々も現れ始めました。この影響

もあって、アメリカ政府は南ベトナムへの軍事支援を縮小することを決定しま

す。

世界各地の反戦運動を受け、当時のアメリカ大統領であるニクソン大統領は、

共産主義で北ベトナムに介入していた中国に介入するのをやめるよう求める

ために訪中します。これをニクソンショックといいます。

しかしニクソン大統領の訪中も功をなさず、最終的にアメリカはこの戦争に

もはや意味はないということで考えがまとまり、ついに1973年にパリ平和協定

を結び、アメリカはベトナムから撤退します。」

 

・・・これを読む限りでは、世界の反戦運動と、アメリカ国内での世論、

そして中国がベトナムへの支援を止めなかったから、ということでしょうか。

 

今現在進行中のロシアのウクライナ侵略は、どのように収拾できるのか。

アメリカが共産化のドミノ理論を恐れて始まったとされるベトナム戦争に

対して、ウクライナ侵略はNATO化を恐れての侵略という見方もあるよう

ですが。

いずれにせよ、アメリカのベトナムとロシアのウクライナは、帝国主義症候群

とも呼べるような病気のように見えます。

 

p211

 

アメリカ軍の兵器は、以前日本がB29の爆撃を受けたころに比べると超近代的である。

超音速機という、音よりも速く飛ぶ飛行機、1トン爆弾を何個も抱えるB52爆撃機

空中で炸裂し何百個の弾になって人間の体内に食い込むボール爆弾、無人偵察機など

数えたらきりがない。 近代的といえば聞こえはいいが、それが兵器である限り、

ただ残虐さを増すだけのものだ。

 

戦いの日々の中で、クアは再びベトナム友好訪問団の一員として三週間ほど日本へ行った。

 

==>> 確かに書かれているとおりで、日本がアメリカにやられた時に比べれば

     軍事技術は各段に進歩していたのでしょう。

     しかし、アメリカも自国の国土が脅かされるような戦争ではないので、

     核兵器まで使うという正当性もなかったようです。

     今、ニュースで議論になっている、ロシアが核兵器使用を仄めかしている

     という話は、どうみたって正当化はされないことだと思うのですが・・・

 

 

p213

 

1967(昭和42)年のはじめ、クアは政府から「労働英雄」の称号を贈られた

国家に大きく貢献した人だけに送られる最高の栄誉賞で、これが軍隊ならば「戦闘英雄」

と呼ばれる。

・・・農業技術に対するクアの意見の正しさが認められた。

 

クアが16年前に日本で農学博士の学位を取ったときと同じように、わが生涯の最良の

日とも思える喜ばしい出来事だった。

 

・・・ハイフン省に食糧作物研究院が新しく設立され、彼はその院長になった。

 

==>> 九州大学で農学博士の学位を取って、ベトナムに帰国した当初は、

     共産主義的農業科学の理論に反する理論を持ち帰ったため、上司から

     あらぬ嫌疑というか嫌味な質問をされたことも書かれています。

     要するに、当時のソ連などの科学は、イデオロギー優先で、本物の科学では

     なかったらしいのです。

 

     しかし、そのクアさんは、やっと農業での実績が正当に評価されたと

     いうことのようです。

 

p217

 

近ごろ、アメリカ軍が投下する爆弾には不発弾が多いという。 クアの実験畑に落ちた

1トン爆弾もそうだった。 こうした爆弾はアメリカの軍事基地になっている日本で

製造され、ベトナム人民を支援してくれる日本の労働者がわざと不発弾を作っている

のだとまことしやかに言うベトナム人もいた。 生産管理の厳しい日本でそんなことが

できるとは思えなかったが、悪い気はしなかった。

 

==>> これには笑ってしまいました。 日本で爆弾が製造されていたのかどうかも

     分かりませんが、仮にそうだったとして、こういう噂がベトナムの一部の

     人たちにでも信じられた噂だとすれば、楽しいことです。

     そして、今の時代にそのように日本びいきをしてくれるベトナムの人たちが

     どれくらいいるのかが大変気になります。

 

p221

 

ベトナム人民軍はアメリカ軍の爆撃機など4千機余りを撃墜していたが、アメリカは

いろいろな口実をつけて戦争を続けた。 ベトナムばかりでなく隣国のラオス、カンボジア

にまで戦火が広がり、インドシナ三国人民の抵抗戦争になった。 世界の世論はインドシナ

三国人民を支持し、日本でもアメリカでも、反戦運動が高まった。

 

 

p236

 

ベトナム人民軍に撃墜されたアメリカの飛行機はすでに4千機を超えたと発表された。

パイロットの犠牲者数も少なくはない。 はじめのころの捕虜は左官級の将校たち

だったが、次第に尉官級も多くなってきた。 ほとんどが良家の子弟であり、近代的

な戦闘機や爆撃機を操作できるほどの知識人である。 これらの人たちを失うという

ことは、アメリカにとってもおおきな損失だろう

 

==>> アメリカは選挙の結果だけを気にする政治家が多いようですから、

     遠く離れた国にわざわざ出かけていって戦争の犠牲者になる若者が増えれば

     当然のことのように厭戦気分が選挙に大いに影響すると思います。

     そして、ほとんど独裁状態になっているプーチン政権においても、

     ロシアの母親たちの影響力は大きいと聞いています。

 

     戦争は結局「金のため」ということが真実ならば、命を生み出す母親の力が

     戦争を止める最後の砦なのかもしれません。

     ただし、戦時中の日本のような国は、そういう議論が通用しないのかも

     しれません。 なにせ桜のように散るのがかっこいいと思う人たちですから。

     テレビ番組を見ていたら、イスラム教徒に自爆テロを身をもって教えたのは

     日本赤軍だそうですから。

 

 

p237

 

どうしてベトナム人を殺しにやって来た人間に、こんな貴重な食べ物を出さなければ

ならないのか」と不満をもらしたらしい。

その責任者は「アメリカ人とベトナム人はもともと体質が違う。 われわれ東洋人は

脂肪やたんぱく質をたくさん取らなくて大丈夫だが、アメリカ人はすぐにやせ細って

しまう。 戦争が終わって、捕虜たちが本国へ帰れるようになったとき、どうして骨と

皮ばかりになった人間を相手国に引き渡すことができるのか。 ベトナムの恥ではないか」

と言ったという。 それがベトナム流の武士道であり、武士の情けというものだろうか。

 

==>> 第二次大戦中に日本軍の捕虜となった外国人兵士たちは、写真などで見る限り

     それこそ骨と皮のようになっていたようです。 もちろん、日本軍兵士でも

     ほとんど食べる物がない状況だったようですから、捕虜は置き去りという

     ことだったのでしょう。

     日本国内での外国人捕虜への対応がどうだったのかは私は知りません。

 

     フィリピンでは、アメリカ人とフィリピン人が日本軍の捕虜となった時、

     捕虜収容所までの長い道のりを炎天下で歩かせ、死亡させたということで、

     「バターン死の行進」が有名です。

     そして、戦争が終わった時、日本軍が武装解除された後に長い距離を歩かされた

     のは、「死の行進」に対する報復だったという説もあるようです。

 

     こちらは日本軍サイドからの資料映像のようです。

     https://www.youtube.com/watch?v=JeqUnra75xI&t=4s

 

     こちらの漫画では、「死の行進」に至った理由が描かれています。

     https://www.youtube.com/watch?v=8kcF_Z2MBUY&t=396s

 

     また、フィリピン人捕虜にゴボウを食べさせたところ、「木の根っこを食わせる

     のか」という反発を受けたと言う、笑い話のような話も残っています。

     日本人がゴボウを栄養価の高い野菜だと思っていることとはまったく異なる

     反応だったということです。

 

 

p250

 

私たちの世代にとって、戦争といえば、すぐに第二次世界大戦末期の日本を思い起こさせる。

「欲しがりません、勝つまでは」の精神で物資の不足や食糧難に耐えたあの時代のことを。

しかしベトナムでは、「腹が減ってはいくさはできぬ」で長期戦を続けている。

 

お米は配給制だが、遅配、欠配もなく、私はひと月で17.5キロ、そしてアナウンサーは

一般市民としての配給のほかに、肉や魚、砂糖、ミルクなどの特別支給がある。

 

クアは私以上の配給があり、食糧に困ることはなかった。

 

姉が想像しているようなみじめな生活だったら、絶対に日本に帰ろうとは思わなかった

だろう。 クアの面子にかけて、いろいろと世話になっているベトナム民主共和国の

面子にかけても。

 

==>> この部分はなかなか面白いことが書いてあります。

     戦争に対する日本人の精神主義と、ベトナム人の現実主義の違いが垣間見え

     ます。 そして、この著者が「面子にかけても」と言っている部分は、

     日本的な「武士は喰わねど高楊枝」みたいな根性が見て取れます。

     ちなみに、私の母は鹿児島県出身で、瀬戸物屋のお嬢さんでしたが、

     貧乏な佐世保の和菓子屋に嫁いでからは、「武士は喰わねど高楊枝」みたいな

     根性を持っていたように思います。

     もっとも、和菓子屋ですから、喰うに困ることはなかったようですが・・・

 

 

p251

 

ある日姉が突然「ベトコンって何のこと」と聞いてきた。

・・・ベトコンとはベトナム共産党の略語だが、南ベトナム解放戦線の総称にも使われる。

「ベトコンを知らないの? 私もベトコンなのよ」と答えると、姉はすぐに言葉が

出なかった。

 

姉はベトコンとは、邪悪な人間の集団と思っているようだった。 ハノイの中央放送局

では日本語課が解説されて以来これまで、日本の聴取者からたくさんの手紙をいただいた。

「おたくの放送は堅ぐるしい」「ベトナムの民謡はすてきだ」「ハノイだよりは楽しい」。

内容はさまざまだが、聴取者の大半が「私たちはベトナム人民の闘争を支持します。

頑張ってください」という言葉で結ばれていた。

 

p252

 

「クアさんはベトナムでどんな仕事をしているのかい」

 

「主人はね、労働英雄に国会議員、農業博士、大学教授、食糧作物研究院長、祖国戦線

中央委員、越日友好協会副会長という肩書を持っているのよ、その仕事を全部やって

いるわ」

 

28年ぶりに見る福岡の町は、鉄筋コンクリートとアスファルトの町に変わっていた。

近代的で美しいと思うが、私には、夕焼け空の中に暮れなずむ昔の城下町の雰囲気が

懐かしかった。

 

 



上の写真は巻末にある中村信子さんの年表です。

 

1975年の年末にご主人であるクアさんが55歳で亡くなられています。

この本は2000年に出版されていますので、中村信子さんが78歳の時にご主人との

楽しかった生活と子ども達との幸せな生活を思い出しながら書かれたものと思います。

 

この本を読むと、政治思想、社会思想は生活上の方便であることが分かります。

イデオロギーに染められてしまうと理性的な判断も曇ってしまうことも分かります。

政治思想や社会思想が悪いのではなく、独裁的リーダーが良くないのだということが

見えて来ます。

独立戦争と植民地獲得戦争の違いも分かります。

 

 

ただただ中村信子さんが佐世保市生まれだということだけで、この本を手に取って

みたのですが、ほのぼのとした中に、私の青春時代を重ねていろいろと考えさせ

られることが書いてありました。

 

99歳で今年お亡くなりになった中村信子さんに合掌。

 

 

=====  完  =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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