中村信子著「ハノイから吹く風」(サイゴン陥落を伝えた日本女性)を読む ー 1: ただただ佐世保市生まれだというだけで読んでしまった本、ベトナムの独立戦争など

中村信子著「ハノイから吹く風」(サイゴン陥落を伝えた日本女性)を読む ー 1: ただただ佐世保市生まれだというだけで読んでしまった本、ベトナムの独立戦争など

 

 

この本を手に取ってみようと思った理由はただひとつ、下のようなニュースが流れ、

この方が長崎県佐世保市出身だと書いてあったからでした。

 


 

https://news.yahoo.co.jp/articles/352182e71988fe524a1667a400c35a1fa8c5f016

「【ハノイ共同】ベトナム戦争の終結をハノイのラジオ局「ベトナムの声」の日本語放送

世界に伝えた元アナウンサーの中村信子さんが10日、南部ホーチミンの病院で死去した。

99歳。長崎県佐世保市生まれ。」

 

 

 

2022年5月10日に99歳で亡くなったそうですから、私よりも27歳も先輩という

ことになります。

 

さっそく買おうとインターネットで検索したら、元の定価は1,800円なのに、中古本で2,500円以上もする値段になっていました。

そこで、地元の図書館で借りて読むことにしました。

 

 

p007

 

1975(昭和50)年4月30日の朝はよく晴れわたっていた。

・・・朝食を取ると、大急ぎでクアンスー通りにある中央放送局「ベトナムの声」放送局

へ向かった。 私はもう十年以上、日本語番組のアナウンサーをしている。

 

・・・午前十一時を過ぎたころ、激しい爆竹の音がパンパンパンパンとけたたましく局中

に響きわたった。「うわぁー」という歓声があちこちで一斉にわき上がった。

 

p008

 

南ベトナムが解放され、ベトナムが完全に統一された

 

・・・ベトナム人民の長年の夢が実現し、長期にわたって苦戦を強いられた戦争が事実上、

ベトナム人民の勝利によって、終わりを告げた。

 

このビッグニュースを全世界に伝えるために待機していた各国語のアナウンサーたちは、

次々に原稿をつかんで録音室に走り、勝利の喜びを伝えた。

 

==>> これは、上記のニュースサイトに書いてあるとおり、

     「ベトナムの声に誘われ63年の日本語放送開始と同時にアナウンサーを務めた。

 75430日、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の進軍に伴い「サイゴン

市は完全に解放されました」とサイゴン陥落を伝えた。」時のことを

その日本向け放送のアナウンサーであったご本人が、ご自分の実体験を書いて

いるわけです。

1975年といえば、私が25歳の時のことなんですが、私自身はその当時は

既に米系のメジャーの石油会社で働いていましたが、政治や世界情勢には

まったくのノンポリであり、無関心でした。

 

p011

 

その日、1945(昭和20)年8月15日、昼休みを利用して安南(現在のベトナム)

留学生ルオン・ディン・クアと近くの農家まで食料の買い出しに行く約束をしていた。

戦況も厳しく、食糧事情が一段と厳しくなっているときだった。

 

p012

 

「きょうは十二時から全国民への重大な放送があるそうです。 あなたたちもここに来て

ラジオを聴いて下さい」

 

・・・床の間に置かれたラジオは、調子が悪くて絶えずピーピーという雑音が入り、

時々かん高い声も聞こえる。 いつもはよく聞こえる福岡放送なのに、こんなに調子が

悪いのは、東京から直接放送されているのか、・・・・・

 

 

p013

 

だれかが「天皇陛下のお声ですよ」と叫んだ。

・・・放送の内容は最後まで理解できなかった。                            

 

・・・研究室を出て何時間もたたないというのに、部屋の空気は一変していた。

廊下で会った二人の友達は肩を寄せ合ってすすり泣いていた。

けろりとした顔で歩いてきた私に不思議そうな目を向けた。

「信子さん、昼のラジオを聴かなかったの? 日本は負けたのよ。無条件降伏なのよ」

 

==>> これはいわゆる「玉音放送」によって日本が敗戦したことを伝えた時の

     中村信子さんのエピソードを記録したものですが、実際にその玉音放送を

     正確に理解した人は少なかったという話を聞いたこともあります。

 

     こちらで、その「完全版」を聴いてみましょう。

     終戦の詔勅 (玉音放送) ~完全版~

     https://www.youtube.com/watch?v=1XMja7jwtV4&t=7s

 

 

p015

 

私は1942(昭和17)年に福岡の専門学校・福岡高等女子学院を出たあと家事手伝い

をしていた。 戦争が激しくなるにつれて女性も兵器工場や軍需工場に徴用されるように

なり、つてを求めて九州帝大農学部作物学教室の研究補助員になった。

 

・・・戦争中だったが私の生活はそれなりに楽しかった。

 

研究室に勤めてから二年近くが過ぎた五月のある日、安南の留学生が来ると聞いた。

 

・・・二十三歳だというのに背広がよく似合い、見た目よりもずっと年上に見えた。

東京で一年半日本語を習ったというだけなのに、かなり上手に話せた。

 


 

==>> さて、この辺りで、中村信子さんの若い頃の話が出てくるのですが、

     福岡の専門学校・高等女子学院の話は出てくるのですが、それ以前の

     佐世保市時代の話はまったく出て来ません

     佐世保で生まれたというだけなのか、小学校や中学校はどこだったのかなどの

     情報は、残念ながら、インターネットで検索してもまったく出てきませんでした。

     それは非常に残念だったのですが、それを差し引いても、この本の内容は、

     ベトナム戦争中の世界情勢と私の個人的な当時の記憶を呼び起こす意味では

     なかなか良いものでした。

     それにしても、佐世保の大先輩の中にこのように大胆な女性がいたというのは

     なんだか誇らしいような心持ちになるものです。

 

     佐世保の大先輩で、100年ほど前にフィリピンに渡った人たちのことに

     ついては、こちらの本で読んだことがありました。

 

     金ケ江清太郎 著 昭和43年4月10日発行 国政社

「歩いて来た道 -ヒリッピン物語」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-d022.html

「p367

清水ミツさんは、長崎県佐世保市の人.料亭・さくらの女将として有名だった.

一娼婦から身をおこして、当時、飛ぶ鳥も落とすほどの勢いだった将軍・閣下の

宴席にもはべり、・・・女将の貫録十分だった. 

自ら女侠客をもって認じ、マニラの花柳界を牛耳る一代の女傑であった.

ヒリッピンの政・財界人にもこの店を利用する人が多く、日比親善にも一役

買っていた・・・

おミツさんは、在留邦人が北部ルソンへ逃げる前に、郷里へ引き揚げていたが

・・・孤独のうちに淋しく亡くなった・・・・・」

 

 

p062

 

帰国の準備であわただしくなった。 解放区に行くのに和服でもあるまいと思って、

まだ残っていた着物や帯、大切にしていたミシンまでも売り払って、・・・

 

周囲の人たちには南部のサイゴンに帰るということにしていたが、実は香港から中国に

入り、そこからベトナム北部の解放区に入る手はずになっていた。 帰国の手続きは、

日本の民主団体の手で進められた。 かれはいつの間にかそういう人たちと接触を持って

いた。

 

==>> これは1952年の話を書いてあるところです。

     1952年と言えば、私が2歳の時ですから、なんにも知るわけもないので、

     ベトナムの年表をこちらでみてみましょう。

     (urlが長いので、一番下にリンクしています)

 

194938日:フランス・ベトナム協定コーチシナ(南部ベトナム)が

フランスの傀儡国家=ベトナム国に編入される南北ベトナムの固定化

1951211日:ベトナム労働党結成(19761214日 ベトナム共産党

と改称)

195457日:ディエン・ビエン・フーの戦いでフランスの敗北

1954721日:ジュネーブ協定、北緯17度線で南北に分断される」

 

・・・これで見る通り、フランスの植民地であったベトナムが独立へ向けて

大激動していた真っ只中であったようです。

そして、その後、アメリカが介入して、泥沼のベトナム戦争になっていきます。

 

196482日・4日:トンキン湾事件が起き、アメリカ軍はベトナムへの

直接介入の口実とする

196527日:米軍による北爆(北ベトナムへの爆撃)開始

196532日:米軍による北爆(北ベトナムへの爆撃)の恒常化

1968316日:ベトナム中部ソンミ村で米軍が住民504名を無差別虐殺

(ソンミの虐殺)

 

この64~68年という時期は、私は中学・高校生であった時期ですから、

「トンキン湾事件」「北爆」「ソンミの虐殺」などの言葉はフツーに私の記憶

にも残っています。

そして、高校2~3年の頃には、同級生の中に何人か「ベ平連」のバッジを

付けているも友達もいました。「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」のこと

ですね。 その内の一人は、その後早稲田大学の政経学部に入りました。

 

そして、1968年には「佐世保エンタープライズ事件」(エンプラ騒動)という

のもありました。 私の高校からも意識高い系の同級生が参加したようでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B8%96%E4%BF%9D%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BA%E5%AF%84%E6%B8%AF%E9%98%BB%E6%AD%A2%E9%97%98%E4%BA%89

「寄港反対派は、この寄港を「佐世保港が、ベトナム戦争の出撃基地になる」と

位置づけ、大々的な反対運動を展開した。」

 

 

p071

 

香港は麻薬の町、スパイの町、泥棒の町などと聞いていたので、何か面倒なことでも起きる

のではと心配していたが、イギリス官憲からの上陸許可はあっさりとしていた。 貨物船の

周囲にはみずぼらしい小さな舟がいくつもやって来た。 海のタクシーであり、さかんに

客引きをする。 「支那の夜」という歌の中で「夢の舟」と形容された例のジャンク船だ

った。 歌で聞くのとは大分印象が違うようだ。

 

==>> イギリス官憲からの上陸許可・・・というのが時代を表わしていますね。

     私が香港へ行ったのは、観光で一度、出張で一度しかありませんでしたが、

     九龍城に代表されるような香港の恐ろしいイメージは1995年ごろまで

     には取り壊されて無くなっていましたし、観光地開発でかなり整備されて

     いました。

     その香港も中国に返還されるということになったものの、かなり強引な

     政治的処置が続いているようです。

 

     返還を言えば沖縄のアメリカから日本への返還があたまに浮かびますが、

     同じ返還といっても、イギリスから中国への香港の返還というのは、

     政治体制が全く異なる国の間での返還であることが災いしているのでしょう。

     返還そのものは本来なら喜ぶべきものであるのでしょうが。

 

 

p108

 

戦争中に日本軍はベトナムでずいぶん悪いことをしたというでしょう。 ここの人たち

が日本人の私に対して、どういう態度を取るだろうと一種の不安があったのよ。ところが、

いままでそんなことで一度も嫌な思いをしたことがないんだもの。 たしかに、日本軍が

以前ベトナムでどんなことをやったか、例えば貧しい人たちが日本軍の物資をほんの少し

盗んだだけでも、軍刀でその手首を切り落としたとか。 軍馬が病気で死ぬと、世話を

していたベトナム人の責任だといって、死んだ馬の腹を切り裂いて、その中に押し込んで

殺したとか・・・・・。」

 

p109

 

「・・・ここにいる日本人は嫌な人が多いわ」

「なぜあんなに偉そうな顔をしているんでしょう。 いまでも大日本帝国があの人たちの

鼻先にぶら下がっているみたい。」

 

「日本軍もそうだったけど、海外に住んでいる日本人があんなふうだから、戦争に負けた

んじゃないだろうかと思う。 この間、日本大使館のパーティーに招待されたときも、

そういうタイプの人たちがかなりいたわ。 その人たちがベトナムやベトナム人について

話しているときは、まるで自分たちが一段上に立つ人種のような口ぶりだったわ」

 

==>> この部分は、中村信子さんと夫であるクアさんとの間の夫婦の会話なんです。

     信子さんは、日本人の中にはベトナム人に対して不遜な態度を取る人たちが

     いると言っているわけです。それに対して、夫のクアさんは

     「僕はママとは反対に、はじめて日本に行って驚いたのは、日本にいる日本人は、

     何て親切な良い人たちだろうと、サイゴンでも、そして香港、上海でも、僕は

     日本人に近寄る気がしなかった。 いまここにいる日本人だって、日本に

     帰れば良い人たちなんだろう」と日本人を擁護しています。

 

 

     このような日本人の、特に東南アジアの人たちに対する偏見のある

     見下すような態度というのは、恥ずかしながら私自身にもありました。

     そのことに私が気が付いたのは、私がフィリピンの駐在員になってから

     一年程経ってからのことでした。

     

     国と国の間の経済的なランキングのようなものを背景にして、

     当時は世界第二位の経済大国として勢いのあった日本という国を背負っている

     というような錯覚をもっていたように思います。

     要するに国を見て、個人を見ていなかったということだと思います。

     まあ、いわば、虎の威を借りる狐のようなものですね。

 

p110

 

・・・ベトミンの勝利がどういう意味を持つのか、クアの話を通して聞く以外は何も

しらなかったが、この戦いはフランス軍とベトミンの天下分け目の闘いだったらしい。

 

その直後、ジュネーブ協定が締結され戦争は終わった。 ベトナムは一時的に南北二つ

に分かれ、二年後の1956(昭和32)年に全国統一の総選挙が行われることになった。

 

p120

 

その町は中立地区ということで、フランス兵やサイゴン政府軍兵士の姿も見えれば、

ベトミン軍兵士の姿も見えた。 初めて見るベトミン軍兵士たちは、小柄な体に草色の

軍服、同じ色のヘルメット帽をかぶり、さっぱりとした清潔な感じがした。

・・・舟に乗れば、すぐに解放区に入れるのだという。

 

==>> これは、南ベトナムのサイゴンを出て、北ベトナムの解放区に家族で転居する

     場面です。 ただ、通過したこの町の名前は判らなかったと書いてあります。

 

 

p123

 

案内された家はベトミン政府の接待所だった。

・・・フランス軍の残虐な仕打ちを写した写真がたくさん張ってある部屋もあった。

・・・想像を絶する残虐の限りを尽くしたものばかりだった。

耳や腕を切り落とされた遊撃隊戦士の遺体、首のない男女の全裸の遺体、蜂の巣の

ように銃弾の跡が見える遺体など、目を覆いたくなるような写真が壁一面に張られて

いた。 ・・・・「フランス軍がはたらいた犯罪行為のほんの一部にすぎないのですよ。

本当はもっとひどいものです」という声が飛んで来た。

 

「だれがこんな写真を撮ったのですか」

「戦場で死んだり、捕虜になったフランス軍将兵のポケットから没収したものです」

 

==>> このような写真の展示は東南アジアの各国にあるのだろうと思います。

     私はシンガポールの博物館で見たことがあります。もちろん日本軍の

     残虐行為が主なものでした。 日本では、長崎や広島の原爆資料館や

     沖縄の資料館で見たことがありますが、日本の資料館の展示は、生々しい

     写真はほとんど展示せず、間接的にほのめかすような資料が多いように

     思います。

     いずれの国においても、展示されるのは被害者としての資料であって、

     加害者としての資料の展示をみたことはありません。

 

     その意味で、上記の写真が「フランス軍将兵のポケットから」というのは

     加害者側の資料ということになるように思います。

 

 

p135

 

クアの話によると、ゴム園の労働者はほとんど字を読むことも書くこともできず、酒を飲み、

気が荒く、けんかをする人も多い。 植民地制度が、そうした人間を生み出すのだろうが、

ナムさんのように革命に参加した人たちは、教育によって読み書きができるようになり

自分の仕事に対する自信と誇りを持ち、政治的にも道徳的にも正しい見解を持てるように

なるという。たしかに教育の力だろうが、一方で何とも堅苦しそうな生活に慣れることが

できるのだろうかと不安になってきた。

 

==>> 著者の中村信子さんは、教育の本質を見抜いているような感じがします。

     教育というのは、もちろん重要であって、それがなければ人権もなにもない

     という話になるんでしょうが、それがある一定の限度を超えると、かえって

     問題の原因にもなるということでしょう。

     政治的な意味での問題もあるでしょうし、日本であれば現代における

     不登校などの精神的ストレスを原因とするさまざまな問題が考えられそう

     です。

 

 

p138

 

上陸用舟艇の入口が開かれた。 クジラがパックリと口を開けたような入り口から、

班ごとに列を組んで乗り込んだ。 戦争中は、私たちが腰を下ろしている場所に、

戦車や軍用車、武器、弾薬、完全武装の兵士たちなどが満載されていたのだろうが、

いまはがらんとした大きな部屋という感じだった。

 

・・・幸いこの船のフランス人乗務員は常識的な人たちばかりだったらしく、トイレの

ドアも釘づけされなかった。

 

・・・ようやく河口に出て、サイゴンの沖合に停泊していたポーランドの大きな船

に乗り移った。 ほかの社会主義諸国がベトナムを支援するために提供してくれた船で、

貨物船を特別に改造したらしい。

 

p139

 

目的地のサムソンに着いたときは生き返る思いがした。 ・・・私たちは待望の

北ベトナムの地を踏んだのだ。 案内された所は南から北へ来る人っちを受け入れ、

一週間の休養をさせてくれる接待所だった。

九年間の苦しい抵抗戦争に参加した人々の労をねぎらうかのように、毎日ごちそうが

出され、一日中、のんびりと過ごす日々を送った。

・・・今度は軍人と一緒ではなく、医者や法律家、実業家などとの生活だった。

 

「筋金入りの闘士」ともいえる女性が、クアにこう言った。

「あなたは共産党員は、みんな立派な良い人間ばかりだと思っていらっしゃるようですが、

党員の中にも悪い人間はいるのですよ。 注意して下さいね。」

 

クアは出鼻をくじかれたように驚くと同時に、ズバリ言ってくれたその女性に非常に

感心していた。それまでは彼は共産党員というと特権階級で、神聖にして侵すべからざる

存在と思っていたらしい。

 

==>> フランスに対する独立戦争に勝利をした北ベトナムへ、この家族が入っていく

     場面を詳しく書いてあるのですが、よくまあここまで詳しく記憶していた

     ものだと思います。おそらく日記かなにかに家族の記録を残しておいた

     のでしょう。

     おそらくこの著者・中村信子さんの性格なのでしょうが、この本の中には

     一切暗い話は出て来ませんので、苦労を苦労とも思わない方なのでしょう。

     そして、夫である農業の専門家であるクアさんの人柄でもあるように

     思います。

 

 

では、次回は「ハノイでのくらし」に入ります。

 中村信子著「ハノイから吹く風」(サイゴン陥落を伝えた日本女性)を読む - 2(完): ベトナムで負けたアメリカ、日本の精神主義とベトナムの現実主義 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

==== 次回その2 に続きます ====

 

ベトナムの歴史年表

https://vietnam-information-log.com/history/#:~:text=%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D111%E5%B9%B4%EF%BC%9A%E5%8D%97%E8%B6%8A%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%89%8D%E6%BC%A2%E6%AD%A6%E5%B8%9D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E5%BE%81%E6%9C%8D%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81%E4%BB%A5%E5%BE%8C%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%9D1000%E5%B9%B4%E9%96%93%E3%80%81%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E5%8C%97%E9%83%A8%E3%81%AF%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E4%B8%8B%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B,%E7%B4%80%E5%85%83%E5%BE%8C40%EF%BD%9E43%E5%B9%B4%EF%BC%9A%E3%80%80%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%80%82

 

 

 

 

 

 

 

 

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