永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その5 「言語による表現の可能性」が志向性を作りだす、文の意味とは問いに対する答えである?

永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その5 「言語による表現の可能性」が志向性を作りだす、文の意味とは問いに対する答えである?

  

今回は「第4章 文法 中期ウィトゲンシュタイン哲学」に入ります。

 

 

p104

 

たとえば、視野の中にある場所が黄色であるとすれば、視野のその場所が青色である

ことはできない。 「論考」的な「論理」の観点から見ても、「黄色である」ことと

「黄色でない」ことが両立しえないことは自明であるが、「黄色である」ことから

「青色でない」ことが推論できるとすれば、それは一般的な論理形式によってではなく、

「色」に関する文法形式によってのみ正当化されるのである。

 

つまり、実は、要素命題と見えるものは、真理関数によって外的にではなく、文法に

よって内的に結びついていたのである。

 

==>> 私は元日本語教師なんですが、「文法」という言葉が嫌いなんです。

     おまけに、なんで哲学の話の筈なのに、ここに文法なんてのが出てくるんだ、

     と思ってしまうんです。

 

     私が日本語を教える時は、直接教授法、つまり日本語だけで日本語を教える

     という教え方でやっていました。

     それに、日本語の文法というのは、大学の教授の数ほど様々な文法があって、

     昔NHKの番組でも、日本語の翻訳ソフトを開発する会社が、日本語学の

     大御所に助言を求めた際にも、統一された日本語文法はありませんから、

     開発は難しいでしょう、などと言われたそうです。

     ですから、入門日本語の最初のオリエンテーションで、「文法は教えません。

     日本語文法を勉強したい人は、日本の大学で専門的にやってください。」と

     まず宣言しました。

 

     じゃあ、どのように教えていたかと言うと、日本語のテキストを見れば

     すぐに解ることですが、文型をいうものを使います。

     もちろん、研究者レベルでは文法をやってもらわないと、現場の教師は

     どのような教え方をすればよいかの指針を得ることができませんので、

     文法の研究はやってもらわないと困るんです。

 

     さて、ここで、上記の抜き書きの前段の部分は理解できるのですが、

     後段の「要素命題と見えるものは、真理関数によって外的にではなく、文法に

よって内的に結びついていたのである。」というところがピンときません。

おそらく、論理形式という世界の真理を判定するいわば超越論的形式を

もちださなくても、色を扱う文法の範囲内で判断できるということ

なのかなと思います。

 

p107

 

「意味」が「検証方法」のことだ、と言われてもすぐにはピンと来ないかもしれないが、

意味を知っているとは検証方法を知っているということだ、という風に考えれば、納得

がいくだろう。 

「多摩川の上流で大雨が降っている」という命題の意味を知っているとは、それが

どういう場合に真と見なされ(どういう場合には偽と見なされ)るかを知っていると

いうことだ、というのがその趣旨である。

 

==>> 「意味を知っているとは検証方法を知っているということだ」というのは

     確かにピンと来ます。

     しかし、私が知りたいのは、その「意味」ってどこにあるの? ということ

     なんです。 空中に浮かんでいるのか、自分の脳の中にあるのか、そして、

     意味というのは人それぞれなのかな、と思うんです。

     そして、人それぞれの意味があるとすれば、「真」も「検証方法」も異なる

     ということなのか。

 

 

p107

 

論理実証主義者は、ウィトゲンシュタインの検証理論を、有意味な命題と無意味な命題

とを峻別する批判原理として受け取り、これに基づいて疑似科学批判を展開した。

つまり、意味の検証理論に関してもまた、ウィトゲンシュタインと論理実証主義者とでは、

同じ一つの考えがまったく異なる目的と脈絡のもとに置かれることになったわけである。

 

p108

 

たとえば「箱の上に本がある」という命題の検証に関して二つの見解がある。

その本をさまざまな角度から観察し手に取って頁をめくってみるといったことで、この

命題は完全に検証される、というのが一つの見解である。 そのようなことをどんなに

積み重ねても、その命題は完全には検証されない、というのがもう一つの見解である。

デカルト的懐疑の精神は、もちろん後者を支持するであろう。錯誤の可能性はどこまでも

残るからである。

 

p109

 

命題の真偽を知るためには、その命題の意味をすでに知っていなければならない。

それは文法規則に属することがらなのであって、経験による真偽の決定は、それを

前提としてなされる第二次的な仕事にすぎない。 ウィトゲンシュタインにとって、

検証条件の指定は文法規則の提示だったのである。

 

==>> ここはピンと来ませんが、「箱の上に本がある」という例で考えてみると、

     命題の意味はすでに知っているわけだから、それを検証するには文法規則

     だけで十分だという話なのでしょうか。

     

p110

 

「隣室に兄が居る」という命題と、それの現象そのものを記述する命題との関係は、

文法規則によって想定された内的な関係だが、「隣室に兄が居る」という命題とそれの

兆候を記述する命題との関係は、経験的な観察や蓋然的な推測によって立てられた

外的な関係にすぎない。 この区別こそが決定的なのである。 内的な関係――

語りえず示されるものーーと外的な関係――語りうるものーーとの対比は、この場面でも

崩れてはいない。

 

自然法則が問題になるような場面に関しても、同じ区別が成り立つ。 ・・・「命題」と

「仮説」の対比によって答えた。 自然法則は仮説であり、命題が点だとすれば、

仮説はそれを結ぶ最も単純なグラフである。 命題は直接経験によって検証されるが、

仮説には間接的証拠しかありえず、そのいくつかの断面が検証されるにすぎない。

つまり、どこまでも蓋然的なものにとどまるのだ。

 

==>> 命題は直接経験であり内的関係。 仮説は間接的証拠であり外的関係。

     そこまでは分かります。

     なんとなく感じるのは、「命題と、それの現象そのものを記述する命題との関係

は、文法規則によって想定された内的な関係」というのは、同じ内容を

言い換えによって記述するのだから、文法規則で検証できると言っているの

でしょうか。

ただし、「命題は直接経験によって検証される」というのが、なんとなく

一足飛びのような気もします。

デカルト的懐疑論に影響されているのでしょうか。

 

p111

 

他人が痛みを感じているという仮説と、痛みを感じていないが、痛みを感じている場合

と同じように振る舞うという仮説とは、もし一方を証拠立てる可能なあらゆる経験が

もう一方も証拠立てるならばーーつまり、もし経験によってどちらが正しいか決着

をつけることができないならばーー、意味が同じであると言わねばならない。

 

==>> これは結局「決着をつけることができない」という意味で同じだという

     ことなのでしょうか。 他人の痛みを証拠立てることができるとは

     思えませんが、今の科学であるならば、fMRIなどを使って間接的になら

     証拠立てることは可能なような気がします。

     しかし、これはあくまでも間接的で外的であるってことになりますね。

     それに対して、自分が痛みを感じている場合はどうなのでしょう。

     直接経験であり内的であるということでしょうか。

     そしてそれを、文法規則に従って、いろいろな形で言い換えることが

     可能であるということなのか。

     これが「命題と、それの現象そのものを記述する命題との関係」であると

     理解していいのでしょうか。

 

p112

 

「・・・われわれが、イスは痛みを感じえない、と語るのと同じ意味で、他人は痛みを感じ

うる、と語っていることはあきらかだと私は思う。」

では、ミミズはどうか。 ともあれ、これはもはや検証主義的には根拠づけることの

できない発言であり、同時にまた、「他人」や「痛み」という語の使用規則(文法)

よって、これを根拠づけることにも無理があるだろう。 ここには、後期思想の予感が

読み取れる。

 

==>> さて、ここで、ウィトゲンシュタインの考え方が変化してきていることが

     語られているようです。

     「根拠づけることができない」と同時に「文法」でも無理だろうと述べて

     いるんです。

     私は、もう大混乱です。

     

p112

 

ウィトゲンシュタインは、・・・・「言語から志向という側面が除かれるなら、言語の

全機能はそれによって瓦解するだろう」と書き、・・・・・

「志向・意図において本質的なものは像、つまり意図されたものの像である」と書いた。

っこのいささか唐突な印象を与える「志向」への言及は何を意味するのだろうか。

 

p113

 

まず真理への意図(志向)があって、時に応じてそれが検証されたり反証されたりする

のと同様、たとえばまず願望があって、場合によってそれが実現されたりされなかったり

する。 願望、予期、恐怖等々も、志向であり、それは時に充足され、時に充足されない。

これが、ウィトゲンシュタインの言う「志向という側面」であり、それが除去されてしま

えば、言語の全機能が瓦解する、とここで彼は言っているのである。

 

==>> 「志向」という言葉がやっと出てきました。

     今の私の読書テーマは「意識とは何か」でして、そこに「なぜ意識には志向性」

     があるのかという疑問も含まれます。

     意識は誰にでもあると思いますが、人それぞれにその意識の向かう先には

     志向性があるように見えるからです。

     ひらたくいえば、好き嫌い、あるいは興味の向かう処が人それぞれなのは

     何故なのかということです。

     ただし、上記には「真理への意図(志向)」とか、「願望、予期、恐怖などなども

     志向であり」などと書かれていますので、私が思っている志向とは意味が

     違うのかもしれません。

 

p114

 

志向をめぐるウィトゲンシュタインの議論は、ラッセルの「心の分析」とフッサールの

「論理学研究」との対比の中で理解されるべきものである。

 

==>> おやおや、こりゃあ大変なことになってきました。

     私は「分析」とか「論理学」というのはその文字をみただけでネガティブに

     なってしまうもんですから・・・

     著者はラッセルの考え方を下のように解釈しているようです。

 

p114

 

・・・不快をともなう初期の真理状態が、目的である事態への「欲求」である

この事態に関する真なる信念をともなうとき、欲求は「意識的」であり・・・・

・・・なんであれその不快が鎮まりさえすれば、目的が実現されたことになるだろう。

 

ラッセルが見のがしているのは志向性であり、志向性において本質的だとウィトゲン

シュタインが言う「像」である。

 

p115

 

・・・人間とは、自己自身を欲動的にではなく志向的に捉えて生きる動物だからである。

そしてこの洞察は、その本質においては「論理学研究」のフッサールに帰されるべきもの

である。 志向と充実の内的関係をはじめて明確に取り出したのは彼であり、

この点に関する、この時点におけるウィトゲンシュタインの見解は、フッサールのそれに

きわめて近く、本質的にはフッサールを超えていないからである。

 

==>> フッサールですか。辛いなあ。 志向について知りたいなら読めってこと

     ですかねえ。

     実は、私が哲学っぽい本を読んでいた50年前に、フッサールの現象学を

     知りまして、上智大学の現象学講座の聴講生になったことがあるんですが、

     こんな分析的なのは私には向かないと感じて、すぐにやめたんです。

     あるサイトには、「フッサールは、『論理学』において現象学を記述心理学と位置

づけて、あらゆる前提を取り払った純粋記述として、自我の心理作用を記述し

ようとした。」と書いてあります。

     分析的な方法で人間が解る訳がないとその当時からずっと思ってきたので、

     今更という感じなんです。 なので、心理学も好きではない。

     外から内に向かう分析的方法よりも、内から外への方向性の方が人間を

     理解するには一番の方法なんじゃないかと思っていたんです。

     だから、客観的というより、随分主観的考え方なんですが。

 

p116

 

ウィトゲンシュタインは「像によって何かが思念されるのはどのようにしてか?」

いう問いを立て、こう答えている。

志向は像それ自体の中にはない。 なぜなら、像がどのようなものであっても、

それはさまざまな仕方で思念されうるからである。 だからといって、像が思念されて

いる仕方は、一定の反応が引き起こされた時にはじめてわかる、ということではない。

なぜなら志向は、私が像と実在とをいま比較するその仕方の中にすでに表現されて

いるからである」

 

==>> p113に志向は「真理への意図」、願望、予期、恐怖等々も、志向である

     と書いてありました。

     この「真理への意図」と読み替えると、上記の意味も一応漠然と理解できます。

     ただし、私が思っている「志向性」と「真理への意図」「願望」「予期」「恐怖」

     などの言葉が馴染むかと問われたら、どうも馴染んでいないように思います

     なので、フッサールの本を読んで、私が期待しているものが得られるかは

     かなり疑問です。 まあ、その前に、難し過ぎて理解できないのだろう

     とほぼギブアップですが。

 

p117

 

検証条件の指定が文法規則の提示である以上、検証はもはや、命題を言語外の実在へと

直接関係づけることはできない。 ・・・・1931年末に、彼はこう語っている。

「命題の検証は、再びある記述によってのみ与えられる。 ・・・第一の命題は第二の

命題から導かれねばならないということを、私は単に文法規則として立てる。

だから私は、意味について、意味とは何かについて、まったく語っていない。

私はもっぱら文法の内部に留まっているのだ」

 

==>> ああ、なんと。 「意味とは何かについて、まったく語っていない」とは。

     ここまできて、私はがっくりきています。

     私が今読みたいのは「意味とはなにか」という本なんですから。

 

 

p119

 

コンピュータが思考するか否かという問題は、スペイン人がなまものを食べるか否かと

いった問題とは、種類の違う問題なのである。 後者には主張から独立の証拠が存在

するが、前者にはそれが存在しない。 それは、何をその主張の証拠と見なすかが

主張の意味をはじめて決めるような種類の問題なのである。

 

規則の外部に規則を正当化するものがないという点で、文法規則はゲームの規則に

似ている。

 

==>> 「スペイン人がなまものを食べる」の是非については、「独立の証拠」、

     つまり「外部に正当化するものがある」という繋がりでしょうか。

     そうすると、「コンピュータが思考する」の是非については、そのような

     外部からの証拠というものはありえない、ってことになりそうです。

 

p120

 

ゲームには、当然のことながら、その遂行を背後から動機づけるような外部もない

それがあると思う人は、再び、背後を語るゲームの中に居るにすぎず、そのゲームも

また文法規則に規定されて始めて意味を持つからである。 そしてゲームそのものは、

つねに語りえず示されるものとして、ただそこにある。 われわれにできることは、

その事実をそのまま受け入れることだけなのである。

 

==>> 要するに、ゲームというのはそれだけで独立した閉じた世界であって、

     内部のルールだけで機能しているものだから、外部とは何の関係もない

     ということのようです。

     そして、この関係性は、上記でいえば「コンピュータが思考する」の是非

     という問題のようなものだということですね。

     それは、「志向」、「真理への意図」と同じようにゲームや文法規則のような

     構造になっているらしい。

     ということになると、結局、「語り得ない」「そのまま受け入れる」べきもの

     ということになりそうです。

 

p122

 

われわれは他人の痛みを感じることができないーーこれは人間の痛覚の構造に関する

事実の報告ではなく、文法に関する所見である。 つまり、どこにどんな感覚を感じ

ようとも、他人の感覚を感じたとしてはならない、という「感覚」や「人」という

語の使い方に関する所見なのである。

 

==>> これがp112にあった「語の使用規則(文法)」の範囲内で語られる

     ことだというわけです。

     外部には証拠立てるものはないということですね。

     

p123

 

降雨の場合なら、雨が降っていると言えるための規準を明らかにすることは「降雨」と

いう語の意味のすべてを明らかにしうる。 雨はけっして降っているふりをせず、

「降雨」の意味はわれわれに全面的に開示されているからである。 歯痛の場合は

そうではない。

 

p124

 

この関係にとって本質的なものは何であろうか。 それは言語である。

言語による表現の可能性こそが、意図、予期、願望等々の志向的なはたらきを、

はじめて可能にするのである。 人間が自己自身を志向的に捉えて生きる動物で

あるのは、人間が言語を持つ動物だからである。

これがウィトゲンシュタイン独自の洞察であり、言語ゲームというアイディアの中核

を形づくる発見でもある。

 

==>> ついに、ここで、志向、すなわち真理への意図、願望、予期、恐怖等

     が言語へと繋がっていきます。

     「言語による表現の可能性」が志向性を作りだすということになりそうです。

     しかし、私にはまだその意味が分かりません。

     なんらかの志向性があることが意味を生み、それが言語表現に繋がるような

     気がするからです。

     p117では「意味とは何かについて、まったく語っていない。」としているの

     ですが、p120では「ゲームもまた文法規則に規定されて始めて意味を持つ

     と書いてあります。

     ということは、この本の文脈からいえば、

     言語表現―文法規則に基づく意味―志向性 という順番なのでしょうか。

     私のイメージでは、志向性―意味―言語 なんじゃないかという感じなの

     ですが。

 

     上記に「人間が言語を持つ動物だから」とあるのですが、最近の研究では

     さまざまな動物にも言語を使うものがいるという話があります。

     と言うことになると、人間だけが自己自身を志向的に捉えるという存在では

     なくなるということになりそうです。

 

p126

 

予期の例をとって、彼は「予期とその実現が接触するのは言語においてである」

断言している。 ・・・・表現は反省による内面の記述ではなく、予期そのものの

発露、つまり予期行為そのものである。 だからこそ、予期の表現は予期の兆候では

なく、むしろその規準なのである。

 

あるイメージを持ちつつ、それが予期なのか願望なのか想像なのかわからない、という

ことがありえない理由は、もはや明白であろう。

 

言語表現と連続しかつ言語表現の可能性によって支えられた行為こそが、このゲームの

成立にとって本質的なのであって、イメージや像、そしてそれを対象に関係づける思念

のはたらきは、むしろ不要なのである。

 

==>> 「表現は反省による内面の記述ではなく、予期そのものの」ということに

     なると、私が上に書いた 「志向性(予期)―意味―言語」というのが順番が

     つけられない同時に起こるものであるってことになるのでしょうか。

     あるいは、この本の文脈としての

「言語表現―文法規則に基づく意味―志向性(予期)」の方でしょうか。

まだ志向性が最後にくるというのは腑に落ちません。

 

p127

 

言語を持たないという事実が、恐れることができないという事実を、因果的に引き起こす

のではない、犬は言語をもたないから、明日の事件をいま恐れることができない、と

われわれは言う。 これは言葉の使い方に関する文法的所見なのである。

 

==>> 裏返しに書いてみると、

     「犬は言語を持っているという事実が、恐れることが出来るという事実を、

     因果的に引き起こす」となりますか?

     もしこの文が文として正しければ、内容的にも納得しそうです。

     しかし、犬が恐れるか否かということはどうあがいても分かる話ではないので、

     結局外部に証拠を立てることができない。 よって、結局文法的なものだと

     言うしかないってことでしょうか。

     理解できているのかどうか、さっぱり自信がありません。

 

p128

 

ウィトゲンシュタインは、文の意味とは文の中に吹き込まれた精神ではなく、

意味の説明がもとめられたとき答えとして出されるもののことだと言う。

 

p129

 

文に意味を与える精神作用の存在が確認されたわけではないということである。

そのような仕方で取り出せる「意味」が、どうして言葉の意味でありえようか。

言葉に意味がある(ない)とか、意味がわかる(わからない)とか、意味が伝わる、

といったことを問題にするとき、われわれはそういう「意味」を問題にしているのでは

ないだろう。

 

==>> これがウィトゲンシュタインの「意味論」ということでしょうか。

     「文の意味とは、意味の説明がもとめられたとき答えとして出されるもの」

     というのは日常生活の中での会話を想い起してみると確かにそういうもの

     だなと思うのですが、なんだか腑に落ちません。

     「これはAだよ」

     「それ、どういう意味?」

     「A‘という意味だよ」

     (A‘はAの言い換えとして、説明的に表現する)

     ・・・どうしても、最初のAの言語表現の前に何等かの志向によって

     意味が浮かび、それが言語になるんじゃないかと思ってしまうんです。

 

 

=== 次回その6 に続きます ===

 永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」を読む ― その6 自己中な言語、日本語堪能なライオンはどんな肉を持ってくるか (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

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