定方晟著「インド宇宙誌 ― 宇宙の形状、宇宙の発生」 ― その1 仏教、密教、ヒンドゥー教は多神教なのか、汎神論なのか?
定方晟著「インド宇宙誌 ― 宇宙の形状、宇宙の発生」 ― その1 仏教、密教、ヒンドゥー教は多神教なのか、汎神論なのか?
まず、プロローグには次のように書いてあります。
「本書は自然科学書コーナーにおかれるような書物ではない。 むしろ、宗教書
コーナーにおかれるべき書物である。」
また、前書きには、以下の記述があります。
「本書で扱ったヒンドゥー教の聖典の種類はブラーナとタントラであるが、それが真言宗
でいう仏教の顕・密と次のように対応するように思われる。
プラーナ ― 顕教(顕教のうちの主として大乗)
タントラ ― 密教
よって、タイトルを見て間違った方がいらっしゃったら、ここまでで結構です。(笑)
p10
オランダのインド学者カイペルによると・・・
p11
カイペルの解釈はつぎのとおりである。
宇宙の創造のプロセスは生物の受精のプロセスと基本的に同じである。 「山」とは
子宮の海に漂う卵子である。 「障害」とは精子が卵子に突入する際に突破せねば
ならない障害物としてのホルモンの液膜である。 ・・・受精後、受精卵は着床するが、
これは大地の固定を意味する。
カイペルは「金剛杵」を男根とみているらしく、次の文を示唆的なものとしてあげている。
「インドラがヴリトラを殺したとき、インドラの力と強さが大地に入った。これが植物
および根になった。・・・こうして、詩人は、その超能力によって、卵子時代から胎児時代
までの自己のうえに記録された出来事を無意識に追憶しつつ、それになぞらえて宇宙の
誕生を歌うのだという。
==>> このカイペルの解釈が正しいとするならば、紀元前の古代インドの思想と
いうのは、まるで現代医学を下敷きにしているかのように見えます。
そして、密教の中で「理趣経」というお経が、素人さんにやみくもに
教えてはならないお経とされているのも、また納得できるところです。
人間の記憶というものについては、人によっては2~3歳ころの記憶が
あったり、生まれた時の記憶もあるという超能力のような話もあったり、
さらには前世の記憶をもっている人もいるという噂ですから、その意味では、
卵子時代からの記憶をもっている人がいても不思議じゃないのかも
しれません。 私には信じられない話ではありますが。
「理趣経」についてはこちらで:
https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C-148707
「真実の知恵(般若)の極致(理趣)は現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れ
ないものとして肯定できる立場(一切法自性清浄)である。この苦楽を超越した
絶対境(大楽)が悟りであると説く。日本の真言宗では最も重要な経典。」
そして、空海さんが最澄さんに貸し出さなかった経典がこの「理趣経」の
「理趣釈経」とされています。
要するに顕教と密教の違いを際立たせる部分であったわけですね。
「理趣釈経」最澄に渡るのを恐れた密教禁断の経典
http://www.ocn1.net/yamamtso/newpage51.htm
「最澄はついに「理趣釈経」の借用を依頼して、空海はこれを厳しい態度で断り
ます。(これはその後空海と最澄の決別の要因の一つにされています)
「理趣釈経」(りしゅしゃくきょう)‥
空海の唐での密教の師である恵果のそのまた師(ヤヤコシイ)である不空が
「理趣経」を訳したもので、その中には「性欲の肯定」・「性欲および性交こそ
が菩薩の位」という内容が盛りこまれているのでした‥
恐らく空海はこの経典がもし外に出て、例えば、性交そのもが成仏へつながって
いくなど間違った解釈がなされるのを恐れていたといわれています。
空海にするとまさに教義の秘奥の経典。その経典を安易に最澄であろうと貸し
出すわけにはいかなかったことは想像できます。」
p12
・・・擬人的な創造神の観念を超え、哲学的、抽象的な根本原理への到達を示す詩も現れた。
すなわち、「そのとき、無もなかりき、有もなかりき」の句で始まる有名な宇宙開闢の歌
である。 ここでは宇宙創造の根本原理を「かの唯一物」(エーカム・タット)と表現
している。
このような帰一思想はさらに後代のウパニシャドの時代においてその最高の形式に到達
する。 一般に「梵我一如」の思想と呼ばれているのがそれで、これは個人の本体
(我・アートマン)が宇宙の本体(梵・ブラフマン)と本質的に同一であるとする思想
である。
・・・各個人は小宇宙であり、大宇宙の模型である。
・・・「リグ・ヴェーダ」から「ウパニシャド」に至る諸聖典はバラモン教を構成する
聖典といえよう。
==>> まさにこれが古代インドの宇宙論ですね。
ここで知らない言葉で出てきました。
「かの唯一物」(エーカム・タット)です。
こちらのサイトにこのような記述があります。
https://ameblo.jp/venus-angelus-aquarius/entry-12352051435.html
「「エーカム (一なる者)」。ブラフマンは唯一無二です。ブラフマンは唯一者
です。ブラフマンは生まれる前にも、死んだ後にも、生きているときにも存在
するものです。ブラフマンは変化しません。神はただ一つです。神以外のもの
はすべて、多様な現れです。」
・・・ここでは「かの唯一物」=「ブラフマン」=「神」という表現に
しているようです。
そして、人間を含め、「神意外のものはすべて、多様な現れ」としています。
だから「梵我一如」になるってことですね。
この辺りは、真言宗の大日如来がブラフマンであって、それ以外の仏さまたち
は、その化身だ、個人も仏と同体だという構図の元になっているかと思います。
p12
・・・ヒンドゥー教は宇宙の根本実在として二大人格紳ヴィシュヌおよびシヴァが登場
する。・・・それはウパニシャドの非人格的なブラフマンを民衆のために神格化してみせた
という体裁のもので、二神格はいずれもその根底において帰一思想と関わっている。
二神格が存在すると聞いて、それではヒンドゥー教は多神教かと思う人がいるかもしれ
ないが、多神教ではない。 ・・・かれがある時点で信仰する神が、その時点でのかれに
とっての主神であり、他の神々はその主神の化現ということになる。 これはかの
「交替神教」と呼ばれるものに相当しよう。
p13
それではヒンドゥー教は一神教かというと、そうではない。 ヴィシュヌにしろ、シヴァに
しろ、かれらは宇宙の創造者であるとともに、宇宙そのものである。 したがって
ヒンドゥー教は汎神教ということになる。
==>> おお、ややこしい話になってきました。
私はヒンドゥー教は多神教だと思っていました。
なぜかと言うと、例えばwikipediaにはこのように書かれているんです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99
「狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、
土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。」
・・・つまり、多神教とされています。
こちらのサイトでも、多神教に含まれると理解できる解説になっています。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E6%95%99-93322
「宗教を崇拝対象の数によって分類するとき、複数の神々を同時に崇拝対象
としている宗教形態がある。これを多神教とよぶ。日本の神道、インド、
古代オリエント、古代ギリシア・ローマの宗教などがこれにあたる。」
「複数の神々を同時に崇拝する宗教をいい,英語ではpolytheism。一神教に
対する。神道,古代ギリシアの宗教,ヒンドゥー教などがこれにあたる。広義に
は万物に霊が宿るとするアニミズムも含む。」
一方、「汎神論」を確認してみると:
https://kotobank.jp/word/%E6%B1%8E%E7%A5%9E%E8%AB%96-118146
「存在するものの総体(世界・宇宙・自然)は一に帰着し、かつこの一者は神で
あるとする思想をいう。「一にして全(ヘン・カイ・パン)」「梵我一如(ぼんが
いちにょ)」「神即自然」などが標語として用いられる。世界そのものが神である
とするから、有神論のように世界の外にある神と被造的世界との絶対的対立を
認めず、すべてのものは神の現象であり、あるいは神を内に含むとする点で、
創造以後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異なる。神を世界を統一
する普遍的原理、法則性として考える点で合理的側面をもつが、その反面で自我
の神への帰入、主観と客観との絶対的合一を説いて神秘主義に至りやすい。
神と世界とについて明確な概念が形成された後で登場するのが普通である。
ウパニシャッド、古代ギリシアの一部に最初にみられる。」
・・・これは専門家の定義の問題ということなのでしょうが、私的には
上記の「汎神論」の方が内容的には納得できます。
ちょっと見た目では多神教に見えるんですが・・・・
・・・ってことは、少なくとも日本の密教、真言宗などは、上の解説から
判断すると汎神論ってことになりますね。
仏教が、一神教か、多神教かという議論はいろいろあるようですが、
こちらのサイトではそのどちらでもないと書いています。
平成アーカイブス 【仏教Q&A】仏教は多神教か?
http://www.suijoji.sakura.ne.jp/QandA/02_11_05.html
仏教も小乗仏教から大乗仏教のいろんな宗派まであるので、なかなか難しそう。
p18
仏教経典の中国語への翻訳において、サンスクリット語のlokaが「世」と訳され、
dh ā tuが「界」とやくされた。 両者の合成語loka dh ā tuは、したがって、「世界」と
訳された。 「宇宙」と「世界」の大きな違いは、「宇宙」が人間の存在を必ずしも
前提しないのに対し、「世界」が人間を不可分の存在としてそのうちに含むことである。
「世界」は人間(広くいえば生きもの)の業によって作られ、業によって支えられ、
業によって消滅するからである。
==>> もう少し解り易い説明がないかなと探したら、こんな説明がありました。
仏教辞典より:
「仏教では「仏界(ぶっかい)」に対して「世界」といいます。 仏界とは、最高
の悟りをひらいた仏さまのすむところ。
それに対して世界とは、俗世間という
意味です(出典:『仏教が生んだ日本語』大谷大学
編)。 なので娑婆世界
(しゃばせかい)ともいいます。
娑婆とは、堪忍土(かんにんど)ともいわれ、
思いどおりにならないのがこの世の中ということですね。」
・・・つまり、仏界に対しての世界ということのようです。
「第一章: 小乗の世界観 須弥山世界観」
p20
虚空の中に風輪というものが浮かんでいる。 その上に水輪がある。 水輪の上層部
は金輪に変じている。 金輪の上に水がたたえられている。 金輪の中心に須弥山が
そびえ、これを中心に同心状に七つの山脈が並んでいる。 七つ目の山脈の外には
四つの大陸(洲)がある。 すなわち東の勝身洲(しょうしんしゅう)、南の贍部洲
(せんぶしゅう)、西の瞿陀尼洲(くだにしゅう)、北の倶盧洲(くるしゅう)である。
・・・四つの大陸には人が住み、なかんずく贍部洲は「われわれ」の住処である。
贍部洲の表面には畜生(=動物)もおり、地下には地獄・餓鬼の世界がある。
==>> これが須弥山の周辺のおおまかな構造になっているそうです。
私たちが住んでいる世界は、「南の贍部洲(せんぶしゅう)」なんだそうです。
こちらのサイトに解り易く?描いてあります。
「倶舎論」に基づく図だそうです。
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/uchu2.html
p22
贍部洲(せんぶしゅう)について一言しておくと、この洲はおそらくインド亜大陸の
姿を反映している。 すなわち、形は南がせまい台形である。 また、北のほうに
雪山があり、その北の無熱脳池から四つの河が流れでる。 四つの河とはガンジス、
インダス、オクサス(アム・ダリヤ)、シーターであり、それぞれ右旋して流れる。
この形は卍(まんじ、梵)を連想させる。
==>> さて、ここではこの記号が非常に気になります。
Wikipediaによれば:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8D
「世界の多くの文化や宗教でシンボルとして使用されており、ヒンドゥー教や
仏教などの宗教的象徴、アメリカ州の先住民族、西洋では太陽十字からの派生
などの例が存在している。日本では家紋や漢字としても使用されている。
左卍(正卍)は「和の元」。右卍(逆卍:卐)は「力の元」とされている。」
「最も古いと知られている卍はウクライナのメジネで発見された、旧石器時代
の紀元前1万年に象牙で彫られた鳥の置物での複雑な蛇行パターンの一部で
ある。」
「ドイツのハインリヒ・シュリーマンはトロイの遺跡の中で卍を発見し、卍を
古代のインド・ヨーロッパ語族に共通の宗教的シンボルと見なした。」
「1900年代初頭のドイツにおいて、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の
ハーケンクロイツ(鉤十字)は、シュリーマンがインド・ヨーロッパ語族と
卐(右まんじ)の関連を示したことで、アーリア人の象徴として採用。上記の
使用例により、現在のヨーロッパにとって、卐はナチスの忌まわしいシンボル
マークとして認識されている。」
・・・右まんじ(S字形)は危険だと覚えておいたほうがよさそうですね。
お寺の記号としては、この逆ですね。こちらのサイトでの説明です:
【マジ卍】ってなに?言葉の由来や意味
「卍が「寺院」を指す地図記号であることを知っている人は多いと思いますが、
そのほかにも卍にはさまざまな意味があります。
卍は家紋に使われていたり、仏教の象徴とされたりもします。宗教的な意味が
強いことが多いですが、なかでも仏教やヒンドゥー教では、幸福や繁栄という
意味を持っているのです。」
p26
生物が輪廻をくりかえすと同様、世界も輪廻をくりかえす。 成(生成)、住(持続)、
壊(消滅)、空(非存在)の四段階で一サイクルが構成される。 各段階が二十劫続く。
・・・一劫ごとに人間の寿命の増大と減少がくりかえされる。 現代のわれわれが位置
している時点は第九番目の劫であり、しかも寿命の下降(減少)線上の百歳くらいの
ところだといわれる。
==>> さて、ここには「世(時間)」のことが書かれているんですが、
「劫」というのは「刹那」の反対の大きなほうの時間単位だそうで、
こちらのサイトにはこのように書いてあります。
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%AB-61344
「非常に長い時間という意味。上下四方 40里の城いっぱいにけしを満たし,
3年ごとに1粒ずつけしを取除いて,すっかりけしがなくなってしまう時間を
劫と説明したのを芥子 (けし) 劫という。さらに上下四方
40里の岩を,天女が
天から3年ごとに下ってきて,羽衣でひと触れしているうちについにその岩が
すりへってなくなってしまうのを磐石劫という。」
・・・まあ、要するにとんでもなく長い時間のことですね。
それに、人間の寿命の増減のことが書いてありますが、この本の図をよく
見てみると、人間の寿命の下限が10歳で、上限が8万歳と書いてあり、
さらに無限歳まで書いてあります。
8万歳なんて世界に生まれたくはないですねえ。御免こうむります。
もしかして、人類の進化を見通して、バイオテクノロジーなんかで人工的に
長寿を獲得する人類をすでに想定していたんですかねえ・・・・
p28
弥勒は大乗仏教において現れる仏であるが、・・・これは釈迦の次に現れることになって
いる。 出現の時期は釈迦滅後五億七千六百万年である。 しかし、後世――おそらく
誤ってーー五十六億七千万年後というのが通説になった。
==>> 誰が間違ったのか知りませんが、ずいぶん盛っちゃいましたね。
一応、ビッグバンは137億年前ってことになっていますけど・・・
https://www.kyoto-su.ac.jp/project/st/st01_02.html
「宇宙が「ビッグバン」という大爆発によって生まれたと聞いたことがある
でしょう。およそ137億年前、何もないところにとても小さな宇宙のタネが
生まれました。生まれると同時に急激に膨張(インフレーション)し、引き続い
て大爆発したのです。これが「ビッグバン」と呼ばれています。」
「旧人類が登場したのが、大体50万~30万年前くらいです。」と言われて
いますから、五億年でも果てしなく遠いですねえ。2030年が危ない
なんて言っている場合じゃないですね。
弥勒さんが出てくるまでに、人類は何度滅ぶんでしょうか・・・・
p29
須弥山世界観がどのように構想されるようになったかは定かではない。私はかつて
須弥山にはヒマラヤ山のイメージがあると書いたことがあるが、はっきりした根拠
があるわけではない。
須弥山世界観は地球の高緯度地方で経験された現象の記憶を残していないだろうか。
といいうのは、日月星辰が水平に回転するとのべられているからである。
これについて連想させられるのは、インド・アーリア人がロシア方面から来たという説
や、北の倶盧洲(くるしゅう)が理想国と考えられていることなどである。
==>> ここには「はっきりした根拠があるわけではない」と正直に書いてあり
ますから、あとは研究者の推理や推測がおおいに賑やかになるところ
なんでしょうね。それにしても、元の構想を生み出した人の頭の中は
どういう構造になっていたんですかねえ。
次回は「第二章: 大乗の世界観 蓮華蔵世界観」を読んでいきます。
=== 次回その2 に続きます ===
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