馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 4 仏教の輪廻とは? 仏典は運命論、主宰神論、偶然論をみな斥け、自由意思で「自律」する
馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 4 仏教の輪廻とは? 仏典は運命論、主宰神論、偶然論をみな斥け、自由意思で「自律」する
今回は馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読んでいます。
「第四章 贈与と自律」に入ります。
p108
ブッダの教えをこうした歴史的文脈で理解するために参考になるのは、「シンガーラ教誡経」
である(「「長部」三一」。 「六方礼経」とも呼ばれるこの経典は、初期仏教が信者では
ない人々に対してどのように接したのかを、具体的に示してくれる。
p109
この経典からは、仏教信者ではない者が信じていることを生かしつつ、そこに倫理的な
意味を盛り込んでいることがわかる。 聞き手に合わせて、教えを説くのである。
p110
しかし、仏教が天界への再生や輪廻を論じるのは、単なる模倣ではない。 仏教では、
もともと再生の条件とされていた祭式や、輪廻から解脱する方法だった苦行を必要ない
かたちに組み替えて、それらを説いている。 そして、一貫して、<贈与と自律>を
善とするのである。
・・・当時の社会思想も転換した。 社会階級の伝統的モデルであった「四姓」を
社会契約論によって再解釈し、為政者の正統性を宇宙的秩序にではなく、為政者の行為
そのものに求めた。
==>> この辺りが、初期仏教の本来の姿を描いているようですから、宗教的なもの
ではなく歴史的なものとして理解するには非常に参考になります。
「四姓」とはカースト制度のことですから、その現実を踏まえて解釈を変え、
カーストに関係なく信者を受け入れたようです。 また、為政者の正統性が
バラモン教の宇宙観に基づいた動かせないものであったのを、その実際の
行為によって判断するという倫理的なものに変えていったということである
ようです。
シンガーラについては、wikipediaでどうぞ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%A9%E7%B5%8C
「ある時釈迦は、マガダ国ラージャガハ(王舎城)のカランダカニヴァーパ
(竹林精舎)に滞在していた。そこには、長者の息子シンガーラが住んでおり、
父親の教え通り、東西南北上下の六方角に毎朝礼拝していた。
釈迦はそんな彼に、四戒(五戒)、四毒(三毒)、六門、四敵・四友、仏弟子と
しての六方角礼拝、様々な関係性における五法などを説いた。シンガーラは法悦
し、三宝への帰依を誓った。」
p112
信者ではない者に対する第一段階の教えとしての「贈与(施)」、習慣(戒)、天界(生天)」
と、聞き手にさらなる教えを聞く準備ができた第二段階の教えとしての、「苦、原因、停止、
道」すなわち「四聖諦」とが、区別されている。 仏教を知らない聞き手にふさわしい
教えを説いたうえで、それを聞いて心が澄んだ者には、仏教の核心となる「諸仏の卓越
した説法」を説くのである。
==>> 贈与というのはお布施のことですね。
釈迦は、しきりに「相手に合わせて説く」こと、そして、書いたものによらず
口頭での説法を重視していたようです。
それは、個人レベルでの現実を踏まえた上で教えを説くということなので
しょう。釈迦は形而上学を語らなかったとされていますから、その意味に
おいては現実主義者であったということかと思います。
生天論については、こちらで:
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E5%A4%A9%E8%AB%96-1339849
「初期仏教はこのように,当時の享楽主義的風潮と,伝統的苦行主義や形而上学
を否定し,実際経験できる人間の身体的・精神的現象のみを取り上げて,欲望を
滅し静かな涅槃の境地に入ることをすすめている。・・・・在家に対しては施論
(慈悲をもって生きとし生けるものを愛し,特に出家者へ布施を行うこと),戒論
(在家の五戒すなわち不殺生,不偸盗,不邪淫,不妄語,不飲酒の各戒を守る
こと),生天論(以上の二つを行えば,死後天に生まれる)の三つをすすめたと
いわれている。」
p113
贈与を意味する原語「ダーナ」は、・・・・英語のdonation(寄付)、donor(寄付者)と
同じ語源を共有している。 漢訳では「布施」と意訳し、「檀那」と音写した。
日本では「檀那」が転じて「旦那」となったのは、男性配偶者に女性配偶者への贈与が
期待されていたのであろう。
==>> 貴兄の皆さん、奥方への贈与を忘れてはいけませんよ。忘れたらあとあと祟り
があるかもしれませんよ・・・??
p114
出家教団は、今日の社会では「法人」に当たる概念である。
・・・あらゆる法人のなかで最も古いのは、宗教法人なのである。
仏教の出家教団が果たした経済的役割は、この法人を運営するに当たって、いわばクラウド
ファンディングを行なったことである。
==>> ここでは、出家者は所有を認められていないので、お布施に頼り、
貯め込まれていた物やお金を流通させることによって、一定の経済効果が
期待できたと書いてあります。
現代の宗教法人へのお布施が、どのように使われているかは知りませんが、
公益性のある事業に使われることを願うばかりです。
p115
仏教の「戒」には、この訳語から誤って想像されがちな、一神教で神が命じる戒め、
たとえば「モーセの十戒」のような意味はない。 神の命に従うとか、神に誓うという
ニュアンスは、そこにはないのである。
「戒」の原語「シーラ」は、習慣を意味する。 言葉の意味としては「良い習慣」も
「悪い習慣」も含みうるが、言うまでもなく、仏教の「戒」とは良い習慣を意味し、
身に付けるべき正しい行動様式を指している。
・・・仏教がこの語を用いたのは、習慣化に倫理的効用があることを見出していたからに
他ならない。
==>> ここでは「五戒」が解説されています。
― 生きものを殺さない
― 盗まない
― 誤った性的関係をもたない
― 嘘をつかない
― 酒による放逸の原因をなさない
最後の飲酒の部分がとても気になりますが・・・・・たぶん、酒を飲んじゃ
いけないってことなんでしょうけど。誤解のないようにしなくちゃいけません。
生きものを殺さないっていうのも、肉を食べている身では、なかなか・・・。
釈迦は乳製品はOKだとスッタニパータで言っていますけど。
性的関係については、「配偶者以外との性行為」はダメよということみたいです。
p116
月に六回、新月や満月の日などの斎日には、在家信者は「八斎戒」を守るように勧められる。
p117
五戒と八斎戒の両方を要約するなら、在家信者の生活様式は、飲酒を避けつつ、他者に
対する非倫理的言動をやめ(五戒)、定期的な禁欲習慣を身に付けること(八斎戒)で
ある。
・・・仏教以前から存在していた生天信仰を、祭式から切り離し、贈与と良い習慣を
その条件とすることによって「倫理化」しているのである。
==>> 「飲酒を避けつつ」という感じがいいですねえ。
「八斎戒」の詳細はこちらでどうぞ:
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E6%96%8E%E6%88%92-602571
「一般に在家信者は1か月に6回、日の出とともにこの戒を受け、翌朝の
日の出まで守った。それゆえ「一日戒(いちじつかい)」ともいう。在家信者の
いわゆる「精進(しょうじん)日」であり、出家者に準じた修行である。」
これで連想したのはイスラム教における「ラマダン」です。
フィリピンには、外務省のサイトによれば、
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/philippines/data.html
「ASEAN唯一のキリスト教国。国民の83%がカトリック、その他のキリスト教
が10%。イスラム教は5%(ミンダナオではイスラム教徒が人口の2割以上)。」
とされていまして、大統領府や地方政府から「ラマダン」での祭日情報が
発信されています。
「ラマダン」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%B3-176471
陰暦で日程が決まるようで、フィリピンでは突然祭日の発表がされるので
「いきなり」感があります。
p118
初期仏教は、すでに存在していた輪廻思想を継承しつつ、独自の輪廻観を形成した。
仏典では、生命をもち輪廻する存在として、神々、人間、飢えた亡者(餓鬼)、動物、
地獄に生まれた者という五つを挙げている。 これを「五趣」という。
後には、「五趣」に阿修羅を加えて「六趣」という考えが生まれて、東アジアに定着した。
p119
仏教の輪廻観では、行った言動は、その善悪に沿って、必ず自らに返ってくるとされる。
・・・文字通り「自業自得」の思想である。
==>> この輪廻にしても自業自得にしても、私の感覚としては、釈迦が
形而上学を語らなかったということが事実であるとすれば、ちょっと
違和感を感じるんです。
しかし、当時のインド社会がバラモン教に基づく統治がされていた現実を
考えれば、仏教としてもその輪廻観を受け入れるというのも現実主義
ということになるのかもしれません。ただし、その解釈を変えているわけ
ですね。
p121
仏教のこうした輪廻思想は、先行する輪廻思想を継承したものであり、善悪の基準も、
古代インド社会で広く認められた道徳と大差はない。 では仏教の独自性はどこに
あるのかというと、輪廻思想の核となる「行為」(S. Karman, P. Kamma 漢訳では
「業」)の意味を大きく転換した点にある。
・・・ブッダは次のように説く。
私は、意思を行為と説く。 思ってから、身体・言語・意によって行為をなす。
p122
すなわち、行為の善悪は、口から発する言葉として、あるいは身体の動作として発現
する「意思」によって決まるのだとする。 仏教は、行為の原動力としての意思に焦点
を当てることによって、意思にもとづく倫理を組み立てたのである。
「意思」を核として行為論を組み立てたことは、仏教が生命の範囲を人間と動物にとどめ、
植物に拡げなかったことを裏付ける。
また仏教は、意思の自発性を否定する見解を認めなかった。
仏典は・・・運命論、・・・主宰神論、・・・偶然論をみな斥ける。
p123
そのように意思の自由がないところには、行為の善悪は成り立たないし、必然的に倫理は
否定されることになる。
==>> 人間には自由意思なんてものがあるのか、というのは今まで読んできた
哲学や先端物理学などの本でも議論されているんですが、この初期仏教では
人間の自由意思によって善悪が決まるのであって、いわゆる絶対神が決める
のではないという点は、希望があって良いなと思います。
・・・とは言いながら、意識やその志向性というのが、何かに操られて
いるような気がするのも一方では不可思議なんです。
私はそこが知りたいんですけどねえ・・・・・
p123
その論理的帰結として、自らの心を正すことによって、自らの行為を正すことが目指される。
それは、あくまで自分で自分の行為を律することだから、共同体の秩序に従うとか、神の
命令に従うといった他律ではない。・・・・自身で生み出す規範である。
・・・「自律」と呼ぶべき倫理的な指針を生み出している。
・・・それは、地縁血縁から離れて、「個の自律」を実現する行動原理だったのである。
==>> この辺りは、倫理と宗教が、私の頭の中でごちゃごちゃになりそうなんですが、
いわゆる部派仏教(小乗仏教)の前の段階での個々人の生き方に関する
自分の意思による規範ということであれば、それは倫理的修行ということに
なるのかもしれません。
少なくとも、「神の命令に従うといった他律ではない」と言っていますしね。
p126
仏教は、業と輪廻という仏教以前からあった観念を、祭式(バラモン教)から切り離し、
運命論(アージーヴィカ教)から切り離し、苦行(ジャイナ教)から切り離して、倫理
思想に転換したのである。
==>> なるほど、そういうことでしたか。
一番コンパクトにまとめた説明ですね。
p128
この仏教的社会契約論を詳しく説いているのが、「起源経」である。 この経典は、世界の
はじまりについて語るという形式を取りながら、家や蓄財や土地所有や社会制度などが
どのように始まったのかを論じ、批判精神に満ちている。・・・(「長部」二七)。
==>> この後に長々とその「世界のはじまり」の物語が書かれているんですが、
仏教にもこんな「起源」論があったのかとびっくりしました。
読んでみると、世界というより「宇宙」論ですね。
「起源経」はこちらで:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B7%E6%BA%90%E7%B5%8C
「更に釈迦は、光音天(二禅天)から堕ちてくる形で、梵天界や地上界(欲界)
が形成され、四つの身分秩序(カースト)が生成され、最後に業を離れて法を
求める自分たち修行者(沙門)が現れることになったこと、そして、身口意の
三業で悪業を成す者は身分に関係無く卑劣で地獄に堕ちていくこと、善業を
成す者は身分に関係無く高貴で天国に還っていくこと、七科三十七道品の重要
性などを説く。」
こちらのサイトには、もっと詳しく書いてあります。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=30601040
「『原始仏典【第三巻】長部経典③』春秋社 P115から)
「 第二七経 人間世界の起源――起源経
本経は、サーヴァッティー(舍衛城)の鹿子母講堂(高殿)でブッダが、婆羅門
出身の見習修行僧ヴァーセッタとバーラドヴァージャに対して説いたもので
ある。 婆羅門たちから、この両名に浴びせられた非難を聞いたブッダは、まず、
王族・バラモン・庶民・隷民のそれぞれの階級自体に上下や浄不定の区別はない
ことを説示する。
その理由を説明するために、世界が帰滅して後、人間の世界が成立する過程を述
べる。すなわち、大地の精髄・地衣類・蔓草の出現と消失、稲の出現、男女の
分化、盗み等の発生が説かれる。そして、社会において王族・バラモン・庶民・
隷民の階層が成立した起源を語源的に説明解釈する。」
・・・この「原始仏典〈第3巻〉長部経典3 単行本 –
2004/2/1」は、めっちゃ
高いので、私は手が届きません。 アマゾンで7千円以上になってました。
でも、まあ、宇宙・世界の起源を語ることが主目的ではなく、当時のインドの
社会制度などを批判するための話のようですから、正面切って宇宙論を
展開しているということではなさそうです。
p130
「マヌ法典」が行為規範や社会的義務を神話的世界観に依拠して説くのに対し、
仏典はそれらを人間社会の約束事としてとらえたのである。
欲望に駆られた人々が生み出した混乱を解決する手段として、人民は合意により為政者を
立てたという仏教的社会契約論は、スリランカや東南アジア、内陸アジア、東アジアへも
伝わった。
日本の一例を挙げるなら、北畠親房は「神皇正統記」の冒頭部分で、その内容を天竺の
説として紹介しており、マハーサンマタ王を「平等王」と呼んでいる。
==>> 「人民は合意により為政者を立てたという仏教的社会契約論」という表現は
なんだか、民主主義の原点を語っているような雰囲気ですね。
「マヌ法典」が、アーリア人がカースト制度をつかってインドの先住民族を
支配するための神話であったのに対して、それを批判したのが仏教の思想
だったということになるのでしょうか。
神話によって、先住民を統治するというやり方は、日本でも行われたようですが。
=== 次回その5 に続きます ===
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