馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 3 阿含(伝承)が伝える釈迦の次第説法と「中道」、ガンダーラ写本の衝撃

 馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 3 阿含(伝承)が伝える釈迦の次第説法と「中道」、ガンダーラ写本の衝撃

 

今回は馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読んでいます。

 

 


 

p61

 

バーリ三蔵は、①出家者の生活規則と出家教団の運営方法を示した「律蔵」、

ブッダ(および、場合によっては仏弟子)の教えを示した「経蔵」、 ③思想を簡潔な

散文でまとめた教理綱要である「諭蔵」の三つから成る。

 

p62

 

経蔵は、「長部」「中部」「相応部」「増支部」といういわゆる「四部」と、それに

韻文仏典を多く収録する「小部」を加えた「五部」から成る

 

p64

 

「小部」は、韻文経典を中心として集成だと見なすことができる。 教訓詩を集めた

「法句(ダンマパダ)」、小さな韻文仏典を中心に集めた「経集(スッタニパータ)」、仏弟子

の詩を集めた「長老偈(テーラガーダ)」や「長老尼偈(テーリーガーター)、ブッダの菩薩

時代の前世にかんする「本生(ジャータカ)」などが含まれる。 「小部」は、経蔵のなか

でも半分近い分量を占める。

 

==>> ここでは、初期仏教の内容を伝える仏典の分類あるいは構成を書いてある

     んですが、私が既に読んだ「スッタニパータ」がどういう経として位置づけ

     られるのかが分からなかったんです。 ここでやっと、いわゆる阿含経と

     されるものの中の「経蔵」の中の「小部」の中の「経集」というものであること

が分かりました。

     いずれにせよ、阿含経というのはかなり膨大なもののようです。

     私が読めそうなのは、せいぜい入門書程度かなと思います。

 

p66

 

インド本土で各部派が伝承していた三蔵は、今日では大半が失われている。しかしそのなか

にあって、説一切有部は、例外的な部派だった。

 

・・・上座部大寺派がバーリ語で三蔵を伝承したのに対し、サンスクリット語で三蔵を

伝承し、カシュミール地方やガンダーラ地方など北西インドを中心に大きな勢力をもって

いた。

 

説一切有部の仏典は、北西インドから中央アジアを経て、東アジアにもたらされ、また、

北西インドからチベットへも伝えられた。 

 

完本あるいはほぼ完本が残っているものとして、漢訳の「中阿含経」「雑阿含経」「十誦律」、

サンスクリット写本、漢訳とチベット語訳がある「根本説一切有部律」がある。

・・・・

 

==>> 説一切有部については、こちらでチェック:

https://kotobank.jp/word/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8-87149

     「有部とも。小乗仏教の代表的一派。釈迦の滅後300年のころ,上座部より分か

れた。部派の祖はカタヤーヤニプトラ。自我は非実在,構成諸要素(諸法)は

実在と見て,全宇宙を五つの範疇(はんちゅう)75の構成要素(五位七十五法)

に分ける整然たる体系をつくり上げた。」

 

・・・有部は小乗仏教ですので、日本仏教の中でその経典を根拠としている

宗派はなさそうです。

また、wikipediaによれば、日本ではほとんど研究されてこなかった歴史が

あるようです。

 

「中国においても原初的な経典であることに気付いており、研究を行った記録

もあるが、大勢を占めることはなかった。天台宗の教相判釈である五時八教では、

『阿含経』は釈迦が布教最初期に一般人向けに説いた、最も平易かつ初歩的な

教えだと位置付けているくらいである。日本にも仏教の伝播初期から伝えられ

ており、倶舎宗で研究されていたとされるが、五時八教の影響が強かったため

久しく読まれることがなく、江戸時代になってから儒学者の富永仲基に再評価

された程度であった。」

 

俱舎宗はこちら:

https://kotobank.jp/word/%E5%80%B6%E8%88%8E%E5%AE%97-55240

「日本へは、玄奘に学び法相(ほっそう)宗を伝えた道昭(どうしょう)629―700

が初めて伝えた。奈良時代に玄昉(げんぼう)、義淵(ぎえん)らが研究し、奈良の

諸大寺に倶舎宗が置かれ、倶舎曼荼羅(まんだら)が描かれた。のちには法相宗の

付宗となり、平安初期、最澄(さいちょう)の年分度(ねんぶんど)者の割当てに

際しても法相宗の付宗として、1名が毎年得度できることとなった。近世にも

鳳潭(ほうたん)、普寂(ふじゃく)らによって研究された。現在、独立した宗派は

ないが、『倶舎論』は仏教の基礎学として多くの学者が研究している。」

 

 

p71

 

韻文仏典について・・・・

・・・「牟尼偈」「義品」「到彼岸」「犀角」が挙げられる。 ・・・「経集」は「小部」と

して経蔵に追加されたが、これらの韻文仏典はもともと独立して流布していた。 

 

・・・これらの韻文仏典の成立が古いことは疑いない。 

 

p72

 

しかし、これらの仏典には、仏教特有の語句がほとんどなく、むしろジャイナ教聖典や

「マハーバータラ」などの叙事詩と共通の詩や表現を多く含む。仏教の出家教団に言及

することもなく、たとえば「犀角」は「犀の角のようにただ一人歩め」と繰り返す。

多くの研究者が指摘してきたように、これらの仏典は、仏教外の苦行者文学を取り入れて

成立したものである。

 

==>> 「韻文」については、

     https://kotobank.jp/word/%E9%9F%BB%E6%96%87-33253

     「韻律や押韻といった一定の規律に従って書かれた言語表現のことで,散文

 proseと対置される。英語の verseやフランス語の versはラテン語の versus

 (回転) を語源とし,同じリズムの繰返し・回帰という性質を表わす。口承時代

には記憶しやすいために歴史的,宗教的叙述にも韻文が用いられたが,・・・」

 

仏教らしい用語が使われていないという点については、おそらく釈迦が生きて

いた時には、釈迦自身も仏教という宗教をつくろうとしていたわけではなく、

バラモン教という環境の中で、それに対抗する考え方を広めていたようです

から、仏教的用語はその後形成されていったのではないかと思います。

 

p74

 

こうした韻文仏典は、「法と律」の原型に収録されていなかったのだから、仏教の出家教団

のなかで流布し愛好されていても、当初は結集仏典としての権威はなかった。 実際、

経蔵の四阿含のうちには「韻文」の「諸経典」を批判する記述がある

 

p75

 

そこで、本書では、そのような危険を避けるために、韻文経典は取り上げず、結集仏典

の原型に焦点をあてることとする。

 

==>> この著者は、最初にも断り書きがあったように、宗教的ではなく歴史学として

     初期仏教をどうとらえるかというスタンスですので、「スッタニパータ」に

     出てくる「犀の角のようにただ一人歩め」などの韻文は対象から除外するという

     話のようです。

 

     さて、ここからいよいよ、「第3章 ブッダの思想をたどる」にはいります。

 

 

p81

 

この四阿含に収録される経典は、「このように私は聞いた(如是我聞)」という定型句から

始まる。 そして、しばしば「かれら満足した比丘たちは、世尊が説いたことに歓喜した」

という定型句によって締めくくられる。

 

この仏典集成の名称として、サンスクリット語、漢訳、チベット語訳では、「伝承」を

意味する「阿含」という言葉が用いられる。

 

p84

 

現存する四阿含のいくつかの経典では、・・・・

時系列でブッダの生涯を追う記述はない。 それぞれの経典が前後の脈絡なしに、

あちこちの地方でブッダが説法したことを記しているのである。

 

そてに対して、「律」では、・・・部分的にではあるがブッダの生涯を説明している

本書ではこれを、のちに作られる独立した仏伝作品と区別して「仏伝的記述」と呼ぼう

 

p85

 

「法」の四阿含と違って、「律」の仏伝的記述は五部派のヴァージョンが全て残っている

から、諸部派が共有したブッダの教えを探るうえで資料的価値が極めて高い。

 

p86

 

平川は、出家教団が大規模となって受戒の制度が確立するまでの経緯を説明するために、

「律」に仏伝的記述が組み込まれたのだと指摘した。 ・・・ブッダが悟った直後から

語り起こし、出家教団設立直後に行っていた、制度として確立する前の受戒の作法を

示している。・・・「五分律」「四分律」ではそれをさらに膨らませて、釈迦族の系譜から

説き起こすようになったと考えたのである。

 

==>> この本では、あくまでも実在した釈迦の姿を資料の中から読み取ろうとする

     ものであって、宗教的に作られた釈迦のイメージを追うものではありません

     から、ここで丹念に、より史実である部分を探しています。

     平川とあるのは、仏教学者の平川彰氏のことで、平川著「律蔵の研究」が

     紹介されています。

 

p88

 

「梵天勧請」

ブッダは、悟りをひらいた直後、菩提樹の下で「十二支縁起」を観察した

その後、七日ごとに場所を変えながら、座を組んで解脱の喜びを味わっていた。

タプッサとバッリカという二人の商人がブッダに麦菓子と密団子を施し、ブッダと、

ブッダの教えに対する帰依を表明した。 この二人が最初の在家信者になった。

 

p89

 

ブッダが・・・自らが観察した縁起の内容があまりに深いために・・・・教えを説かない

方に心が傾いていた。

すると、ブラフマン神(梵天)がそれを知って、ブッダの目の前に現れ、ブッダに対し、

敬意を表する姿勢で、教えを人びとに説くように三度要請した

 

・・・ブッダは、・・・・ブラフマン神の懇願を受け入れて、伝道の旅に出た。

 

まず、快楽と苦行の両方を離れた「中道」を説き、「四聖諦」を説いた。

 

==>> 梵天の要請をうけて説法したというのが、ちょっと怪しげな表現ですが・・・

さて、ブッダが最初に説いたという「中道」とはなんでしょうか

     https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E9%81%93-97407

     「仏教用語。執着を離れ,正しい判断をし,行動すること。釈尊以来,仏教の

伝統的スローガン。 (1) 苦と楽いずれにも偏しない実践法である八正道

 (はっしょうどう) のこと (2) 断滅論と常見論を離れた非断非常の理法の

こと。 (3) 中観派でいう空の理法のこと。この理法は縁起 (えんぎ) であり,

相対的に対立している諸概念のうちのいずれか一方に執着しないことを意味

する。 (4) 法相宗では有と空に偏しないこと。 (5) 天台宗では諸法実相のこと。

 (6) 華厳宗では法界 (ほっかい) のことをいう。」

 

・・・まあ、上記をみると、中道と言ってもいろいろあるようです。

この中で一番古いのは(1)のようですから、おそらく「苦と楽」の中道

を説いたのでしょう。

 

 

p92

 

ヤサに父親に食事に招かれたブッダは、ヤサを連れて彼の家へ行った。そしてヤサの

母親ともとの妻に出会って、「次第説法」をすると、この二人も知見を得た。彼女たちは、

三宝に帰依して、在家信者となった。 この二人が最初の女性在家信者である。

p94

 

三宝への帰依を表明したビンビサーラ王は、ブッダと出家者たちを王宮に招いて、自ら

給仕してご馳走した。 ・・・・ある竹林を寄付した。 これが出家教団に寄付された

最初の土地であり、竹林精舎のはじまりである。

 

 

==>> 「次第説法」の解説はこちらのサイトにありました:

     https://buddha.pink/buddhism/44/

     「布施の話 ― 戒の話 ― 天の説 ― 諸欲にまつわる災難 ―

      ― 劣等さ、汚れ ― 欲望から離れる利益

     の順番で、四諦を受け入れやすくするための順序ある説法」と説明されています。

 

     ブッダは、食べ物も在家からの布施に頼ることをルールとしていますから、

     まずは食事に招待してもらって説法をするというのが段取りだったようです。

 

p95

 

五部派の「律」に共通するこれらの仏伝的記述において、ブッダはどんな教えを説いて

いるのだろうか。 ・・・すると、細かな相違はさまざまあるものの、ブッダが

「施、戒、生天」「四聖諦」「十二支縁起」「五蘊」「十八界(または十二処)」を教えた

と伝承している点で、ほぼ一致することがわかる。

 

じつは、平川彰は、紀元前三世紀までに「律」の仏伝的記述が成立していたと推定していた。

・・・もしこの平川説が正しければ、本節が取り上げた「ブッダの思想」は紀元前三世紀

以前に遡ることになる。

 

==>> 釈迦が生きていたのはいつなのかについてはwikipediaによれば、いろいろと

     説があるようです。

     「主な推定生没年は、

紀元前1029 - 紀元前949 : 「正法眼蔵」による説

紀元前624 - 紀元前544 : 南伝仏教による説

紀元前565 - 紀元前486 : 北伝仏教の『衆聖点記』による説 

紀元前466 - 紀元前386 : 宇井説

紀元前463 - 紀元前383 : 中村説

等があるが、他にも様々な説がある。」

これをみると、紀元前三世紀以前であることは当たり前なんですが、

一番近いのは中村説ということになりそうです。

 

さらにwikipediaで「部派仏教」の年代をチェックしてみると:

紀元前3世紀頃に原始教団が上座部と大衆部に分裂(根本分裂)したのち、

この2部派がさらに分裂して行った。各部派は、釈迦が残した教法を研究・整理

して、独自の教義を論(アビダルマ)として作り、互いに論争した。部派仏教は、

釈迦と直弟子時代の初期仏教を継承し、大乗仏教の成立後も数世紀に渡り

インドで大きな勢力を有していたとされる。」

 

・・・釈迦の入滅後、上記の原始教団が分裂するまで何年ぐらいあったのか

分かりませんが、おそらく「互いに論争した」のが分裂の理由なんでしょうから、

さほど年数を要したとも思えませんので、一番近い中村説は結構いい線なん

じゃないでしょうか・・・・

 

 

p97

 

ブッダは四聖諦を認識することにより悟ったとするのは、仏典で最も多い説明である。

「律」の仏伝的記述にもそうした四聖諦の認識による成仏伝承があり、五部派で共有

されている・・・・

 

==>> ということは、「四聖諦」が一番重要ってことなんでしょうか。

     https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E8%81%96%E8%AB%A6-73362

     「仏教用語。略して四諦 (したい) ともいう。真理を4種の方面から考察した

もの。釈尊が最初の説法で説いた仏教の根本教説であるといわれる。

(1) 苦諦 (この現実世界は苦であるという真理)

(2) 集諦 (じったい。苦の原因は迷妄と執着にあるという真理)

(3) 滅諦 (迷妄を離れ,執着を断ち切ることが,悟りの境界にいたることで

あるという真理)

(4) 道諦 (悟りの境界にいたる具体的な実践方法は,八正道であるという真理)

4種。」

 

     ・・・これを読むと、ああなるほど、という感じでしょうか。

     そして、その実践方法である「八正道」は、

     https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93-115083

     「釈迦(しゃか)の教説のうち、おそらく最初にこの「八正道」が確立し、それに

基づいて「四諦(したい)」説が成立すると、その第四の「道諦(どうたい)

(苦の滅を実現する道に関する真理)はかならず「八正道」を内容とした。」

 

・・・これらを読むと、具体的で分かりやすい実践方法だと思います。

     もちろん、ひとつひとつの項目は、掘れば掘るほど意味が深そうですが。

 

p99

 

1990年代中頃にはじまるガンダーラ写本の発見は、近代仏教学の歴史のなかでも

衝撃的なものだった。 なぜなら、ネパールや中央アジアのサンスクリット写本の

作られた年代が古くともせいぜい紀元後7~8世紀なのに対し、ガンダーラ写本は

紀元前後から紀元後3~4世紀のものと考えられ、それまでの年代をはるかに遡るもの

だったからである。

 

p100

 

仏典の書写が紀元前後に始まったとするなら、ガンダーラ写本はまさにその同時代の

仏典の姿を、いま我々に示していることになる。 ミュンヘン大学やワシントン大学を

中心とする研究者たちにより、従来の定説を揺るがす報告が相次いでいる。

 

==>> ガンダーラ語仏教写本については、こちらのwikipediaで:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A9%E8%AA%9E%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%86%99%E6%9C%AC

     「ガンダーラ語で書かれた1世紀から3世紀ごろの仏教写本を指す。大部分は

1990年代以降に現在のアフガニスタンとパキスタンで発見された。現存する

最古の仏教写本であり、また大乗仏教の経典を含むこと、初期の漢訳仏典と共通

性があることでも注目される。」

 

「ワシントン大学のリチャード・サロモンらによって調査が進められているが、

『犀角経』(スッタニパータの一部として知られる)、『法句経』の別の版、

『無熱悩池偈頌』などを含む。」

「アメリカ議会図書館が2003年に入手した樺皮写本の断片は紀元前1世紀から

1世紀のもので、燃燈仏から迦葉仏に至る過去の13仏、釈迦、弥勒菩薩に関す

るものである。冒頭と末尾を除く全体の80%が残っているという。デジタル

画像が公開されている。」

 

ここで、ちょっとアフガニスタンの宗教の歴史が気になったので、こちらの

サイトにお邪魔してみました:

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/9450

 

「この場所は、中東、中国、中央アジアを繋ぐ交通の要衝にあり、古くから大国

の影響を受けてきた地域でした。紀元前330にはマケドニア王国の

アレキサンダー大王に征服され、ヘレニズム文化が流入。大王の死後は

セレウコス朝シリアの支配下に入ります。・・・

紀元前305にはアフガニスタン東部がマウリヤ朝インドに征服され、仏教が

盛んになりました。・・・

8世紀の初頭にはアッバース朝の侵攻を受けてイスラム教が流入。・・・

1017年にはカブールを首都とするイスラム王朝のガズナ朝がマームン朝を

滅ぼし、インドに侵攻。インドにイスラム教が流入するきっかけとなります。」

 

これを読むと、まさに仏教を広めた時期に、アフガニスタンが大きな影響力を

持っていたように見えます。そして、世界宗教になる扉を開いたということ

でしょうか。日本へ仏教がやってきたのも、このガンダーラのお陰ということ

なのでしょう。

今やタリバンやらISが闊歩する時代になりました。まさに諸行無常です。

 

 

=== 次回その4 に続きます ===

 馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 4  仏教の輪廻とは? 仏典は運命論、主宰神論、偶然論をみな斥け、自由意思で「自律」する (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

================================

 

コメント

このブログの人気の投稿

2023 Philippines-Japan Friendship Month - Baguio Tanabata Festival & Kanazawa UNESCO Creative City - Entries for the Poster Making Contest

噂の噂 ― フィリピンの大学には、なぜ女子大生が圧倒的に多いのか

ホテルでクレーマーになってしまう私 草津温泉と伊香保温泉・湯治旅