辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 1 日本の仏教説話へと繋がる「ラーマーヤナ」神話をめぐっての争い

辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 1 日本の仏教説話へと繋がる「ラーマーヤナ」神話をめぐっての争い

 

 


今回は「インド文化入門」を読んでいます。

 

こういう本を読むのは、私としては珍しいことなんです。

なぜこの本を読もうと思ったのか。 それは、原始仏教あるいは初期仏教というものが

どんな国で生まれたのか、その文化的背景を知りたいと思ったからです。

 

 

私がすでに読んだ本は、初期仏教に関しては、「スッタニパータ」だけなんです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-cdd1.html

 

そして、もっと初期仏教の本がないかなと思って調べたら、どうも「阿含経」というのが

あるらしいと分かりました。

 

しかし、その前に、そもそも仏教が生まれたインドという国がどんな国なのか、私は

ほとんど知らないな、と思ったんです。

 

私のインドについての断片的なイメージは、仏教が生まれた国、ウパニシャド哲学、

ゼロを発見した、ガンジー、カースト制度、ちょっと前までは社会主義の国だった、

最近ではIT技術者を大勢輩出している国、等ですが、もちろん一度もインドに行った

ことはありません。

 

そこで、「阿含経」というものを読む前に、インドがどのような国なのかを知っておこう

と思ったわけです。

 

では、毎度のことですが、私が気になった部分を引用しながら、連想したことを

ダラダラと書いていきます。

 

=====

 


 

p003

 

過去に偉大な文明を築き上げた南アジア(インド)は、18世紀末に植民地化されて以来、

およそ200年にわたってその輝きを失っていった。 ・・・人々はイギリスの支配の

下で、苦難の道を歩まねばならなかった。

 

==>> これを読んで、私が最初に思い出したのは、オーストラリア・メルボルンで

     半年ばかり日本語教師としての実習をしていた頃のことです。

     私がホームステイした家の主人は、英国人(スコットランド人)でかなりの

     爺さんでした。 その奥さんはインド人でインド料理の本を出すなど、

     料理研究家であったようです。 そうか、大英帝国がこの夫婦を結んだの

     だなと思ったものです。

     しかし、主人が高齢であったためもあるでしょうが、家の実権は奥さんが

     握っていたようです。

 

p017

 

これは現実の話なのであるが、1994年、デリーで開かれた第三回世界考古学者会議

で、ラーマ寺院の存在とバーブルによる破壊、ひいては、「ラーマーヤナ」そのものの

史実性をめぐって、それを検討課題にしようとする研究者と拒否する研究者との間に、

取っ組み合いの争いが起こったのだと言う。

 

「日本書紀」の記述を全て史実とする「紀元は2600年」という言葉は、戦前を知る

日本人には忘れることのできない言葉であるが、何かそれに似たおかしな状況が、現代

のインドに起こっているようにも思われる。

 

==>> 「ラーマーヤナ」は日本の「日本書紀」みたいなものらしいのですが、

     こちらでチェックしましょう。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%8A-147751

     「古代インドのサンスクリット大叙事詩7編、24000(しょう)の詩句

からなる長編で、作者は詩人バールミーキといわれるが、おそらく彼は編者で

あろう。『ラーマーヤナ』とは「ラーマ王行伝」という意味で、古代の英雄

ラーマ王に関する伝説は、紀元前数世紀のころすでに形を整えたらしいが、

現存の形になったのは2世紀末であろうといわれる。」

 

「第一編と第七編で、史的人物たるラーマをビシュヌ神の権化とし、多くの挿話

を加えていることは、この史詩に宗教的意義を与えて後世ラーマ崇拝を流行さ

せる因をなし、後世の文学、宗教、思想上に多大の影響を与えている。」

 

古典サンスクリット文学のなかには、この文章を模し、あるいはその内容を

とって題材としたものが多く、仏教やジャイナ教の文学にも影響を与えている。」

 

「『ラーマーヤナ』の普及は、インド文化の国外への伝播(でんぱ)に伴い、

南方では、ジャワ、マレー、タイ、安南、カンボジア、ラオスの諸国に及び

劇化、舞踊化あるいは影絵芝居に仕組まれ、美術、彫刻などの優れた作品も

残っている。北方では、チベット、ホータンにもあるが、中国では『六度集経

(ろくどじっきょう)』や『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』などの漢訳仏典に

含まれ、仏教説話の形をとっている。これらの漢訳仏典を通して日本にも伝わり、

鎌倉時代の仏教説話集『宝物集(ほうぶつしゅう)には、この物語が含まれて

いる。」

 

・・・これは凄い神話ですね。 日本にもその影響が及んでいるというのは

驚きです。 

     「宝物集」については、こちらです。

     https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9D%E7%89%A9%E9%9B%86-132419

     「鴨長明(かものちょうめい)『発心(ほっしん)集』などの仏教説話集」にも

     影響を与えているようです。

 

p021

 

「ラーマ物語」は、紀元前1000年ころに北西部のパンジャーブ地方からガンジス川

中流域にまで進出したアーリア人達が、紀元前500年ころになって国家を建設し、周囲

の部族民と戦って、その勢力を拡大して行くころの話なのである。

物語の中で聖仙の祭祀の邪魔をする魔族として描かれているのは、それらの部族民達であり、ラーマのガンジス川を越えての旅立ちは、森の広がるフロンティアとしての南部への、

アーリア人たちのさらなる進出を示している。

 

==>> なるほど、弥生人が縄文人の列島に進出してきたような感じですね。

     「古事記」はそんな時代の記憶を神話としたのかもしれませんね。

     この「ラーマーヤナ」が出来たのが紀元前数世紀と書いてありますから、

     それこそインドにおける紀元2600年という感じでしょうか。

 

p023

 

紀元後3世紀以降の成立したジャイナ教のテキストでは、ラーヴァナやハヌマーンは、

魔族や猿ではなくて人間であり、ジャイナ教の信者として描かれている。

 

東南アジアの「ラーマ物語」でも、主人公たちの名称は「ラーマーヤナ」のそれが踏襲

されながら、筋書きはその土地の状況に応じて大きく改変されている。

あるヴェトナムのヴァージョンでは、北部の安南がアヨーディアとされ、南部の占城が

ランカ―とされ、マラヤのイスラーム系ヴァージョンでは、アダムやマホメットも登場

するという。

 

p025

 

「ラーマーヤナ」は、大勢の信者に読んで聞かせる「聖典」とならねばならず

一部のエリートにしか理解できないサンスクリット語ではなく、誰にでもわかる言葉

に置きかえられることになる。 16世紀になって、ドゥルシーダースというバクティ

詩人によるヒンディー語のラーマ物語「ラーム・チャリット・マーナス」が生みだされた

のは、このような状況下においてであった。

 

==>> つまりは、勢力を拡大した為政者側が、さまざまなバージョンを作りながら、

     権力の正統性を定着させるために、宗教的な力を借りながら、統治をして

     いったということでしょうか。

 

p027

 

かつてインドの国営テレビが大河ドラマとして放映した「ラーマーヤナ」もまさにそれ

であり、ターバル教授によると、最近のインドでは、このヴィシュヌ信仰、ラーマ信仰

という特定の宗教的立場からする「ラーマ物語」の国家的標準化がおこなわれていて、

より豊かなインド全体に適合する「インドの文化表現」としての「ラーマ物語」が、

抹殺されようとしているのだという。

 

==>> なるほどねえ。 インドのように広大な面積と民族と言語をもつ国では、国民を

     まとめるというのはほとんど不可能といえるのかもしれませんが、その点

     日本という小さな国は、江戸時代にせよ、明治維新にせよ、大河ドラマで

     無難に収められていると言ったところでしょうか。

 

     ちなみに、この本は、元々は2000年に刊行された本を改題して、2020年

     に出版されています。

 

p029

 

インド共和国の中で、憲法に記された公用語の数が18に上がることはある程度知られて

いるが、・・・・言語学者が・・・およそ260もの異なった言語が残るのだという。

この状況は、インド共和国だけでなく、南アジアの国々にはほぼ共通している。

 

p031

 

紀元前一千年紀中葉に有力な国家をつくり、ブッダやマハーヴィーラを生んだシャーキヤ

族、リッチャヴィ族などは、この言語グループ(チベット・ビルマ語族)に属したと考えられている。

 

==>> この言語の数の多さに関しては、私がしばらく住んだことがある

     西アフリカのベナン共和国でも、フィリピンでも同じです。

     「各国の公用語の一覧」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%85%AC%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

     「ベナン フランス語」

     「フィリピン 英語 フィリピン語(国語)」

     この二つの国では、公用語としては一つか二つになっているのですが、

     その国の言語がどうなっているかをみると、簡単ではありません。

    

     民族と言語について、以下のように記載されています。

     ベナン共和国:

     http://harukatalunya.com/benin/

     「ベナンでは以下の言語が主に使われています。

フランス語 フォン語 ヨルバ語 バリバ語 ミナ語 デンディ語 ヨム語

これらを含む55の言語が話されており、うちフランス語が公用語となって

います。」

 

フィリピン共和国

https://philippinetravel.jp/about/basic/

111の言語、文化、民族グループがある、87の言語が話されています。

主な言語グループは、タガログ(マニラ周辺)、セブアノ(ビサヤ地方)、イロカノ

(北部ルソン)、ビコール(南部ルソン)、ワライ、パンガシナン、マラナオなどで、

タガログを基礎とするピリピノ語(フィリピン語)を公用語に定めています。英語

も小学生から教えられており、公用語であり共通語として全国的に通じます。

かつて公用語であったスペイン語は次第に使われなくなっています。」

 

ちなみに、日本もいくつかの言語が実際に話されているようです。

https://ichiranya.com/society_culture/028-japanese.php

 

フィリピンの言語については、いろいろと難しい現状もあります。

上記には、小学校から英語が教えられているので、全国的に通じますと書いて

あるのですが、地方によっては、また教育レベルによっては、英語が出来ない

人たちもいます。

ひとつは、裁判所でのやりとりです。

私は、日本語で書かれた文書を英語に翻訳して、それが裁判所に提出された

ため、証人として出廷することになりました。

バギオ市周辺では、山岳民族の言語などが日常的に使われていますので、

英語が使えない人もいまして、出廷した人がそのような人でした。

その原告はローカル言語でしゃべり、それを通訳が英語で裁判官に伝え

裁判官が英語で私に質問するという形になりました。

 

バギオ市周辺に住んでいる人たちは、多くが3~4言語を使えるのですが、

そういう人でも、マニラ以南に転勤になったりすると、分らない言語があると

嘆いていました。

バギオにある会社で、優秀な従業員が、管理者としてマニラ以南の工場などに

転勤させられると、その地元の従業員との日常的な会話が困難なので、

意志疎通が難しくなると言うのです。

方言レベルの違いではなく、言語レベルの違いがあるということです。

 

 

p032

 

ドラヴィダ語族については、かつて、その一つのタミル語が日本語のルーツであるという

ような騒がれ方をしたことがあったが、未だに世界のどの言語とも親縁関係が証明されて

いない。 ただ、この言語部ループは、紀元前3500年ころに中央アジアか西アジア

からアフガン台地を経てインドの地に入ったと考えられている。

 

==>> このタミル語が日本語のルーツではないかという説は、私が日本語教師になる

     ための勉強をしていた時に知りました。

     学会ではあまり支持されてはいないようですが。

 

     「これまでに唱えられた日本語系統論の主要な学説」

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90_%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AB%E5%94%B1%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E8%AB%96%E3%81%AE%E4%B8%BB%E8%A6%81%E3%81%AA%E5%AD%A6%E8%AA%AC

 

ドラヴィダ語族・タミル語説

日本語とドラヴィダ語族との関係を主張する説もあり、とりわけ大野晋による、

ドラヴィダ語族のひとつのタミル語との対応関係研究があるが、批判も多く、

学説としては定着していない。ドラヴィダ語族との対応関係については、文法

構造が膠着語であること、そして語彙の対応があることを芝烝や藤原明、江実

らが提起した。

大野晋はインド南方やスリランカで用いられているタミル語と日本語との基礎

語彙を比較し、日本語が語彙・文法などの点でタミル語と共通点をもつとの説を

唱えるが、比較言語学の方法上の問題から批判が多い。後に大野は批判をうけ、

系統論を放棄し、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えた。」

 

・・・この説は支持者が少ないようですが、人類がアフリカを出て、世界各地

に散らばり、日本へもやってきたということを思えば、絶対にありえないと

断言することはできないのではないかと、素人は思います。

 

p036

 

20世紀初頭、・・・「非バラモン運動」が展開されるようになった。

1916年には、彼らによる「非バラモン宣言」がだされ、翌年には南インド自由連盟

という政党組織も結成されている。 ・・・イギリス統治下においてもバラモンがいかに

特権的地位を独占してきているかが、・・・高級官職である判事補職の83パーセント、

郡長職の73パーセントをバラモンが占めている・・バラモンの全人口比が3パーセント

程度であることを考慮すれば、彼らの独占のすさまじさが判ろうというものである。

 

p037

 

教育についても、タミルのバラモンの識字率が74パーセント、英語を知っている率が

18パーセントであるのに対し、タミルの有力な農業カーストであるヴェッラーラのそれ

が、7パーセントと0.2パーセントにすぎないというのである。

 

==>> これはカースト制度の中での最上位であるバラモンと農業に従事するカースト

     とされている人たちの差別を述べているんですが、社会的な地位は明らか

     としても、識字率などでこんなに大きな差があるというのは、教育の機会の

     大切さも明示しているように思います。

 

     さて、この識字率を日本と比較したらどうなのかと思って、検索してみると、

     日本の場合は・・・・・

 江戸時代の識字率!日本は世界のトップクラスだったって本当?嘘? | ヨシ社長のブログ|バリ島の貿易会社 (pt-jepun.com)

     「江戸時代の日本人の識字率は、推定で7割~9割ぐらい!なんて言われて

います。これの根拠の1つになっているのが、明治に入って間もない

1877年の調査!

滋賀県で実施された、この一番古い調査では「6歳以上で自己の姓名を記し

得る者」の比率は男子89% 女子39% 全体64%

江戸や京都などの都市部では、字を読めない人はほとんど居なかったなんて

記録もあったようで。この辺を丸めてみたら、庶民でも50%ぐらい、全体では

7090%ぐらいなんじゃない?っという感じに落ち着いたようですね。」

 

・・・という驚くべき数字なんですね。

日本でも一応士農工商という身分制度があったのに、インドとはかなりの違い

になっています。 日本人はインドの尺度で考えれば、全員がバラモンという

話になりそうです。

 

p041

 

このドラヴィダ運動によって一体何が達成されたのかといえば、一つには、非バラモン運動

の帰結としての、従来のカースト秩序の破壊である。・・確かにバラモンの社会的優位と

その支配は覆された。その結果としての逆差別も起こり、バラモンの多くがタミルナードゥ

の外へと出て行くことになったのである。

 

p042

 

・・・すなわち、インドの中における民族問題が、ここから生み出されることになったので

ある。 

 

p043

 

・・・言語の役割である。 カースト間のヘゲモニー争いとしてはさほどの力を結集

できずにいた非バラモン運動が、一度言語の問題と絡むと大きなエネルギーを発散する

民族運動へと転換して行く、そこのところに我々は注目すべきであろう。

とくにそれが「国語」の問題となると、大学の入学試験、就職試験などと絡んで、

民族の意地といった側面を超えて、現実の利害問題として大きな意味をもってくるので

ある。

 

 

=== その2 に続きます ===

 辛島昇著「インド文化入門」を読む ― 2 玄奘は見た、カーストの秘密。 あなたはカースト制度を誤解している? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

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