ビギナーズ・クラシックス「今昔物語集」を読む ― 2 立派なお坊さんを呪い殺した弘法大師。 そんなえげつないことまで?

 

ビギナーズ・クラシックス「今昔物語集」を読む ― 2 立派なお坊さんを呪い殺した弘法大師。 そんなえげつないことまで?

 

 


角川書店編 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典「今昔物語集」を読んでいます。

 

 

 

 

p53

 

法力を競い合い、ライバルを祈り殺した弘法大師

 

あるとき、天皇の御前で修円僧都が、法力によって生栗をゆでて見せた

しかも、ゆであがった栗は無上の美味だった。

 

その後、弘法大師が宮中にあがったとき、・・・この話を聞いて、

「・・・私が隠れて、彼の法力の程度を試してみましょう」と言って、物陰に隠れた。

 

p53

 

二人の仲は非常に険悪となり、互いに相手を、死ね、死ね、と呪い祈った

 

・・・弟子たちを人の大勢集まる市場に活かせた。・・・・

空海僧都(弘法大師)が亡くなって、その葬儀に必要な品々を買いに来た、と弟子たちに

言わせた。

 

p54

 

・・・僧都は、「空海僧都の死は、まちがいなく、自分の呪の祈りが効いたのだ」と

確信して、祈禱を終わらせた。

 

・・それを聞いた大師は、精魂こめて呪の祈りをおこなったので、たちまち修円僧都は

死んでしまった。

 

p57

 

ボサツと讃えられる弘法大師が、法力によって人を祈り殺すようなことをするのは、

後世の人々の悪行を止めるためだ、と語り伝えているという。

 

==>> なんとまあ、最後に「後世の人々の悪行を止めるためだ」と書いてはあるものの、

     弘法大師さんも相当えげつないですね。

     ちなみに、強力なライバルであった修円僧都の霊に後で確認したところ、

     その正体はグンダリ(軍荼利)明王だったそうです。

 

     ちなみに、軍荼利明王はどんな方かといえば、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%8D%BC%E5%88%A9%E6%98%8E%E7%8E%8B

     「軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)は、密教の明王のひとつであり、宝生如来

の教令輪身とされる尊格である。」

「軍荼利明王は、疫病をもたらす毘那夜迦天(インドのガネーシャ)を調伏する

と密教では解釈されている。」

「軍荼利明王は一面八臂の姿で、手は2本の腕で三鈷印を結び、他の腕には武器

や斧を持ち、顔は三ツ目でとぐろを巻く蛇を身に纏った姿で像形されることが

多い。」

 

・・・かなり立派な明王さまじゃないですか。

なんで、こんな立派な明王さまと弘法大師が、栗をゆでるなどというつまらん

ことで、「死ね、死ね」なんて呪合戦をしなくちゃいけないんですかねえ。

わけが分かりません。

 

しばらく考えていて、こんなことを思いました。

この説話を書いた人はどういう立場の人なんだろうと。

つまり、弘法大師の法力はこれほど凄いという宣伝をしたいのか、あるいは逆に

弘法大師はこれほど恐ろしい坊主だと貶したいのか。

 

 

p58

 

もっとも、空海の仏教は、後世の浄土宗や禅宗と違って、現世の欲望を肯定し、

難行・苦行によって超能力を体得しようとする密教(真言宗)だった。

今ふうに言えば、オカルト的な要素を帯びていた。 敵を打倒し、利益の実現をめざすこと

は、仏法に反しない限り、正当であった。

 

・・・具体的に言い直すと、相手が仏法にそむいて空海を呪ったので、その報いは

必ず本人に返ってくるという仏説を、後世の人々に教えるためだ、という意味である。

 

==>> と書いてあるんですが。

     文章の中には、どちらが先に「死ね」と呪ったかは書いてないんです。

     いずれにせよ、双方ともに立派な僧都と呼ばれる人たちが、いくらなんでも

     こりゃあないでしょ、って感じ。

 

p71

 

仏教には「対機説法」という言葉がある。

相手の素質に合わせて教えを説くことである。 いわゆる方便を用いた教育方法をいう。

本話のボサツはこの方法を採用した。 女好きの青年を、美女に変身して巧みに操縦し、

ついには一流の学者に育てあげた。青年の性癖をうまく利用したのである。

教育の極意は本来こうあるべきだろう。

教室で全員に同じことを繰り返す教育では、最近話題の学級崩壊も、来るべくして来た

と言えるかもしれない。

 

==>> これは、「美女の色じかけのおかげで、学者となった青年僧」の話です。

     法輪寺の虚空菩薩像が化身した、二十歳ほどの美女に悩殺されて、その美女

     の言うがままにさまざまな欲情を抑えながら精進して学者になるという

     お話です。

     あやかりたい、あやかりたい・・・・

     とはいうものの、結局その青年僧に素質があったから菩薩が目を掛けたという

     ことのようです。

     人生は甘くない。

 

p74

 

法師は考えた。 生きてさえいれば、子はまた授かる機会がある。 けれども、母は

今失えば二度と会えない、と。 そう決断すると、愛児を捨てて、母のもとに泳ぎ着き、

岸に引き上げた。

 

p75

 

「あんたって、あきれてあいた口がふさがらないことをするのね。 ・・・真珠の玉と

思っていたわが子を殺して、枯れ木のような、今日明日にも死にそうなばばあを、

どんなつもりで助けたのよ」と泣きわめいた。

 

==>> p75の言葉は、法師の妻の言葉です。

     これは究極の決断の話です。

     しかし、フツーであれば、子を選ぶでしょうね。

     子は自分の遺伝子を残す唯一の手段だとドライに考えればの話ですが。

     その「ばばあ」と自分は、その子に未来を託しているわけですからね。

     

     この話の最後にはこのような文章が続きます:

 

     「そのうち、子どもの代わりに母親を助けたことに仏さまが感心したのだろうか、

     子どものほうも川の下流で救いあげられた。」

     ・・・めでたし、めでたし、となっています。

     確かに、仏教説話らしい話で終わっています。

 

 

p89

橘則光は学者の家系に生まれながら、和歌が苦手で、「枕草子」には妻の清少納言

にやりこめられる場面が出てくる。 およそ家風に合わない則光だが、武芸に達者で、

主家に忍び込んだ盗賊を捕らえる武勇談も残る。・・・・・

 

性格や教養のレベル差が災いしたか、才女清少納言との夫婦仲も、喧嘩別れでは

ないものの、自然離婚という終末を迎えている。 二人の間には息子則長がいる。

 

この説話は、剣法を伝えるものであり、則光は、世が世なれば、橘一刀流の開祖となるべき

剣豪だった・・・・

 

==>> この説話は「清少納言の夫、剛力一閃、強盗一味を切り捨てる」という章に

     書いてあります。

     強盗との切り合いのシーンが描かれているのですが、時代劇などで主役の

     剣豪が相手をスマートにバッタバッタと切り捨てるという闘い方ではなく、

     どちらかといえば、恐々と身を伏せながら、逃げながら、それでも相手を

     結果的に倒してしまっているというようなものです。

     つまりは、殺し合いには絵に描いたような技はなく、その場その場での

     臨機応変の対応が生き残る術だということなのかもしれません。

 

 

p97

 

こともあろうに、力士たるものが、素人の学生ふぜいに手玉にとられるのは、現代感覚

では理解しがたいだろう。 けれども、この時代の力士は、都で年一回行われる

天覧相撲のとき以外は、自分の国で生計を立てていた。 練習にあけくれる余裕など

なかった。 つまり、プロの職業ではなかった。

 

それだけに、力士の力士たるゆえんである強力は、天性のものと考えられていた。

 

==>> これは、ベテランの力士が、怪力のチビ学生に投げ飛ばされるという話です。

     学生というのは官僚の養成機関で学んでいる人のことらしい。

     その学生グループと力士のグループの力比べの喧嘩を描いたものです。

     そして、天覧相撲の力士をスカウトするのは政府の役人の仕事だったのですが、

     その天才的チビ学生を探し出すことはできなかったという結末になっています。

     官僚の養成機関で学んでいる学生を探し出せなかったというのも変な話ですが、

     それほど天才的な神憑りの力士はそうそう居るもんではないと言いたいので

     しょうか。

 

 

p104

 

男の力士(当時は濁音で「りきじ」)に対して、女の「力女(りきにょ)」が古代の日本には

存在した。 ・・・・なんと、時の政府が、全国に力女の推薦を呼び掛けているのだ。

しかも、この力女、年金にあたる無税の田まで支給されている。 それほど力女は貴重視

されていた。 

 

・・・そこには、生まれながらの強力は血筋によるものであり、聖なるパワーの発動だ

という信仰がある。・・・国家安泰・五穀豊穣を祈願したのである。

たんなる見せ物になったり、職業化するのは、後世も江戸時代になってからのことだ。

 

==>> せっかくですから、相撲の歴史をちょっと見てみましょう。

     https://sposhiru.com/84665

 

     「「相撲」(すもう)は、古くは「すまひ」と言いました。・・・・

そして中世後期には「すまひ」と音が共通する「相舞」や「素舞」とも表記され

ていました。現在の表記として用いられている「相撲」は、力くらべや格闘を

意味した漢語であり、その意味に基づいて「すまひ」という読みがあてられ

ました。」

「考古学上の起源から説明しましょう。相撲は農耕儀礼として始まりました

農耕が始まった縄文時代晩期・弥生時代において、農作物の収穫祈願や神の加護

への感謝として相撲が行われたのです。」

 

『日本書紀』(720年)には、垂仁天皇777日に野見宿禰(のみのすく

ね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が「角力(すまひ)」で対戦したと記されて

います。そのため宿禰と蹶速は相撲の始祖とされています。」

「奈良・平安時代になると、宮中の年中行事として「相撲節会」が行われるよう

になります。全国から集められた相撲人が、天皇の前で相撲を取るのです。

これを「天覧相撲」と言います。」

「平和が訪れた江戸時代は、娯楽の対象としての相撲が成立し、現在の大相撲の

土台がつくられた時代です。」

 

・・・女相撲については、あまりきちんとした歴史を書いているサイトが

ないのですが、こちらにちょっとした論文みたいなものがありました。

「江戸時代の見世物女相撲」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/santhropology1999/2002/4/2002_4_17/_pdf

「これ に対 し雄松 の 女相撲 観 は、 純 ・女相撲 と盲 ・女相撲は全 く別

の ものであ り、純 ・女相 撲は「まとも」 で 「正式」 の相撲 であ るとす

 る ものであ る。純 ・女相撲 は女力士 によるまと もな相撲 として延享元年

(1744)も しくはそ の少 し前か ら江戸の両 国で始 ま り、 明和 年 間(1764

1771)中頃 には上方(京 ・大坂)で も行 われ るよ うになったが、同時期 に

登場 した盲 ・女相撲が見せ た男女の取組が卑狸 なものであ ったため、

女相撲 も 「飽き られ、ス ポイル され」、盲 ・女相撲 と共 に禁止され る

に至 った とい うことであ る。」

 

「この ように、江戸 では女性 、特 に若 い女性 は貴重 な存在で あった。

いわば慢 性 的な 「男余 り」現象 で、離婚 もさほ どタブー とは されてい

なかったこともあ り、結婚前後 ともに男性 の もとで抑圧 され、忍従 を強

 い られるこ とはあ まりなかった ようである。さらに江戸独 自の 「張 り」

「い き」「伊達」を尊ぶ価値観 の影響 もあって、女性 の積極性 が抑えられる

 ことが少 なかった と見 られる。」

「表立 っては現 れて こない女性の力 に対す る畏怖 ・敬遠 、そ して女性

 の活発 さを容認 する風潮が あったこ とか ら、活発 な女性 に よる力 の

発揮 の場 としての性 質 も合 わせ持 っていたと見 るこ とが で きるの

で ある。」

 

・・・本に書いてあるような江戸時代以前の力女の優遇ぶりについては、

残念ながらインターネット検索では女相撲の歴史としては出てきません。

 

 

p109

 

川成は、宮中に仕えて地方官を勤めた経歴があり、一介の絵師ではない。 彼の死亡記事

は、れっきとして国史書に載っている。 いわば、絵画の名人として公認された

人間国宝級の画家である。

 

p110

 

飛騨の工は、飛騨国出身の工匠という意味だが、ここでは個人名に使われている。

飛騨国は、古くから優秀な木工を宮中に送っていた。・・・・

 

察するところ、川成の絵は抽象ではなく、写実画であったようだ。 

 

飛騨の工の伝統は、一千年以上たった今もなお、高山祭(岐阜県高山市)に受け継がれ

ている。・・・・川成の画技も飛騨の工の妙技も、・・・宮廷のお墨付きの芸術であった。

 

==>> これは「画伯と名工の大勝負――死体画像とからくり仏堂」の章にあります。

     川成とは百済川成という絵の名人。 似顔絵が超似ていて、本人とそっくり

     の絵が描ける。 

     ライバル心をお互いに持っていた川成と飛騨の工が、腕を競ってお互いを

     騙し合うというお話です。

     第1ラウンドは、飛騨の工が作ったからくりのお堂で川成が騙され、

     第2ラウンドでは、川成が襖に描いた死体で飛騨の工が騙される。

     それほどに、両者の腕が冴えわたっていたというお話です。

 

p120

 

今は昔、天文博士安倍晴明(921~1005)という陰陽師がいた。

 

p125

 

「じつは、先生がたいへんな権威者であるとお聞きしまして、ひとつお試ししてみようと

思いまして、参ったわけなのです。 それにしても、識神を使うのは昔からたやすいこと

ですが、人の使う識神を隠すのはまったく不可能です。 それがおできになるとは、

なんとおみごとな。 ただ今からぜひともお弟子にしていただきとう存じます」

 

==>> 安倍晴明の前に、年老いた僧形の陰陽師が、御供に十歳ほどの子どもを二人

     連れてやってきます。安倍晴明がどれほどの陰陽師であるかをチェックしに

     やってきたのですが、それを見破られてしまいます。

     二人の子どもというのは、識神というものだそうで。チェックしましょう。

     

     「しき-がみ 【式神・識神】

     「陰陽師(おんやうじ)」の命令に従って不思議なわざを行うという鬼神で、

多くは童形。変幻自在で効果的な呪力(じゆりよく)を持つ。式神(しきじん)。

式の神。式。」

Wikipediaでは:

「陰陽師もしくはそれを下地にした物語の式神は、平時には式札(しきふだ)と

呼ばれる和紙札の状態にあるものが、陰陽師の術法によって使用されるとき、

使役意図に適った能力を具える鳥獣や異形の者へと自在に変身する、そのよう

な存在として描かれることが多い。」

 

・・・さて、ここまでに、さまざまな技の競い合いを説話という形で見て来た

のですが、その中でも弘法大師の「死ね、死ね」は、仏道の大御所がやることか

と感じます。 安倍晴明の識神隠しは可愛いものですが・・・

本当にこれは仏教説話なのかなと首をひねってしまいます。

 

 

p129

 

この清明は、家人がいない時は識神を使ったのだろうか、人の気配もないのに、雨戸の

開閉がひとりでに行われた。 また、門を閉める人がいないのに、閉まっていることが

あった。 何かにつけ、常識では説明のつかないふしぎな現象が多く見られた、と

伝えられている。

 

==>> もしかして、安倍晴明はエンジニアだった?

     あるいは、飛騨の工に頼んで、からくりドアを取り付けてもらった?

     はたまた、現代に飛んできて、自動ドアの設計図を盗んで行ったか。

 

 

p131

 

陰陽道は、宇宙の万物は陰(マイナス)と陽(プラス)の二つの要素の組み合わせ

から成り立つとする自然科学的な思想である。

現代科学とは異なるが、学術的な信頼を受け、生活の指針となった。

 

宇宙の根源を説明する陰陽道は、未来を予知したり、禍福や吉凶を判断するのに

大いに活用され、朝廷から民間に浸透してゆき、呪術信仰の中核を占めるようになった。

 

==>> ここだけ読むと、かなり現代科学に近いものに見えますね。

     元々、ヨーロッパの古代においても、哲学と自然科学は一人の人間が

     両方をやっていたし、宗教家もその中にいたようですから、不可思議なもの

     が混然一体となって様々な妄想や、今でいう疑似科学のようなものが出て

     来たのでしょうが、歴史を紐解くと、実験などで現象を実証していくという

     歴史はほんの最近なんだなあと思います。

 

     一方で、宗教にせよ尖端科学にせよ、凡人にはその究極の法則なり真理を

     個人レベルで確認することはほぼ不可能ですから、その専門家が言うことが

     信頼に足ることかどうかというのを読み解くための、いわばリテラシーと

     いうものが必要なのでしょう。

     ・・などと言いながら、寺社でやる様々な占いごとなんかもなかなか楽しい

     ですけどね。

 

p137

 

この当時、文学・歴史は官僚として出世するための必須科目だった。・・・詩文に巧みで

あることが、出世の必要条件となりえたのだ。・・・・芸術的な感性を磨くこと以上に、

民の心を理解する能力を高めるという実際的な効果が期待されたからだ。 文は人なりの

精神は、ほんらい文芸よりも政治の世界で発揮されるべきものだった。

 

政治にたずさわる人間の実務能力とともに、彼の人格・教養を重んじる伝統は今次の

敗戦まで続き、一流政治家や高級官僚はたいてい漢詩・和歌・俳句をたしなんだ

 

==>> これは藤原為時の時代に関する解説です。

     この為時さんは、紫式部のお父さんです。「漢詩の才によって、一条天皇に

     登用され、・・越前の守(長官)となって、めでたく殿上人の栄誉を獲得した」

     という方です。

     ・・・さてさて、このような才能というか素養は、最近の政治家にはあるの

     でしょうか? 錬金術の才能はあるようですけど・・・・

 

p147

 

つわものの共通認識は、殺戮を第一の仕事とするという点にある。 この一点で、

つわものは、貴族とも一般人とも、明確に一線を画した。 彼らは、日常の絶えざる

武技の錬磨を通じて、「つわものの心ばえ」を体得していく。

 

つわものが一般庶民に異常な恐怖感を与えたことから、こんにちの暴力団になぞらえる

歴史家もいるが、間違いである。

・・・武士は社会を主導するが、暴力団は社会に寄生するだけである。

 

==>> 「源頼信 朝臣の男頼義、馬盗人を射殺せる語」という説話の解説です。

     説話自体は、護送される名馬を盗んだ盗賊を父・頼信と息子・頼義が追いかけ

     馬を取り戻すのですが、その明け方、親子ともに何事もなかったように

     振る舞い、父が息子に褒美の鞍とともに、その名馬をプレゼントしたという

     お話です。

     ことが起こっても、ジタバタせずに、つわものとしての心構えを持つという

     ことのようです。

     命のやりとりをするのが武士ですから、狂人に刃物では困ります。

 

 


== その3 に続きます ==

 ビギナーズ・クラシックス「今昔物語集」を読む ― 3 美女に色仕掛けで操られ、鞭で打たれ、いつの間にか盗賊団に (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

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