大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 7 法華経の核心部分はここか? 閻浮提という南方の島がわれわれの世界だ 三千大千世界って?
大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 7 法華経の核心部分はここか? 閻浮提という南方の島がわれわれの世界だ
大角修 訳・解説「法華経」「無量義経・妙法蓮華経・観普賢経」を読んでいます。
すべて現代語訳になっています。
p206
また、学(まだ学ぶべきことがある者)・無学(もはや学ぶべきことがない者)の
八千人が「他の世界で法華経を説き広める」と宣誓しました。
「なぜ他の世界においてかと申しますならば、この娑婆世界の人々は悪しき習いに流され
て、あまりに増上慢でございます。 怒りで歪んだ心と諂曲(こびへつらうこと)に
染まり、誠実さはひとくかけております」
==>> おお、普通の意味とは全く逆の意味が仏語(フランス語じゃありません)には
あったんですね。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%84%A1%E5%AD%A6/
「む‐がく【無学】 の解説
1 学問・知識のないこと。また、そのさま。ぶがく。「無学な自分を恥じる」
2 仏語。煩悩を断ち尽くし、もはや学ぶべきもののない境地。阿羅漢果
(あらかんか) 。「無学位」「無学果」⇔有学 (うがく) 。」
「う‐がく【有学】 の解説
仏語。仏教の真理を知ってはいても、まだ迷いを完全に断ち切っておらず、
学ぶ余地のある者。小乗仏教の四果のうち、最後の阿羅漢果にまだ達して
いない者。⇔無学。」
「他の世界で・・・」と言い、「この娑婆世界・・・」と言っているという
ことは、この娑婆は酷過ぎて手に負えないという話なんでしょうかねえ。
学校崩壊しているような雰囲気なんだろうか。
p213
万物は流転して止まずといえども、いたずらに空であるといって心を奪われては
なりません。 空にも有(現象)にもとらわれずにいるならば、その人は偉大な求法者
であり、かれがおこなうところを行処と呼びます。
偉大な求法者は・・・有為(変転するもの)にも無為(変転しないもの)にも・・・
とらわれることはありません。 法を説く相手が男であれ女であれ、区別はしません。
それが菩薩の行処です。
・・・求法者たちは、国王・王子・大臣など、世俗の力に近づかずにいなさい。
異教の徒や呪術を学ぼうとする者に、近づかずにいなさい。
==>> う~~ん、仏教は「色即是空」だと覚えてしまうと、確かに「空」に心を
奪われてしまいますね。「諸行無常」という言葉にも・・・・
上の「無為」という言葉がありますが、辞書にある意味は、
「む‐い〔‐ヰ〕【無為】 の解説
1 何もしないでぶらぶらしていること。また、そのさま。「せっかくの休日を
無為に過ごす」「無為な毎日」「無為無策」
2 自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと。
また、そのさま。ぶい。
3 《(梵)asaṃskṛtaの訳》仏語。人為的につくられたものでないもの。
因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。⇔有為 (うい) 。」
・・・この辞書の1と2の一般的意味だと、上に書かれた「変転しないもの」
とは逆の意味になりそうですね。
どうして仏語は、こんなに一般的意味とは離れているんでしょうか。
哲学用語がめちゃくちゃ難解なのと同じようなことですかね。
「近づかずにいなさい」の所には、上記の他に、「世俗の文芸や歌を楽しむ者、
極端な思想をもつ者、・・・・増上慢の人で小乗の三蔵に貪著する学者、破戒の
比丘、名前だけの阿羅漢・・・などには近づかずにいなさい」と書いてあります。
・・・つまり、余計な雑音を入れない方がいいよということのようです。
しかし、説話などの文芸や和歌などをやっている人もダメなんですかね?
p215
あらゆる事物は、あるがままに置かれています。
・・・深く祈り瞑想において観ずれば、事物は無から生じるものではなく、どこかから
出現するものでもなく、ただ起こるというものではありません。 名をつけても、それに
実体はありません。 姿や形を目に見ても、その実体を見たのではありません。
真実は無量であり、量ることはできません。
==>> この辺りの記述は、なにやら最先端物理学の本を読んでいるみたいな
感じになってきます。
人間の目に映っているものが素粒子によってあるいはそれよりも小さな
単位によって出来ていると頭に浮かべてみるだけでもそうですし、
人間の目に映っているものが、脳のどこかで処理されて、例えば赤いリンゴを
見ていると感じさせていることを思うと、確かに「実体を見たのではない」と
いうことになりそうです。
p218
文殊よ、わたしの滅後、末法の世に法華経を説こうと願うならば、安らかさにおいて
語りなさい。 好んで人や他の経典の欠点を語ってはなりません。 他の教えを説く
人に対して高慢であってはなりません。 他の人の良さ・悪さ、長所や短所を口にして
はなりません。
==>> おそらくこれは、「口は災いのもと」ということを言っているのだと思います。
「ブッダのことば」(スッタニパータ)にも、以下のようなことが書いて
ありました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/06/post-b49f.html
「657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
661 嘘を言う人は地獄に堕ちる。 また実際にしておきながら
「わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者ともに行為の卑劣な
人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に堕ちる)。
664 口穢く、不実で、卑しい者よ。 生きものを殺し、邪悪で、悪行を
なす者よ。下劣を極め、不吉な、でき損いよ。 この世であまり
おしゃべりするな。 お前は地獄に堕ちる者だぞ。
他にもたくさん列挙してあるんですけど、とどのつまりがどうなるかって
いうと:
677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ
胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。
すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。」
p228
「日蓮の受難」で述べたように、日蓮は五十歳のとき、鎌倉龍ノ口の刑場で処刑される
ところをあやうく逃れて佐渡に流された。 その受難によって日蓮は自分は釈迦如来の
直弟子だという自覚にいたり、佐渡で「南無妙法蓮華経」の曼荼羅本尊をあらわした。
p229
「南無妙法蓮華経」の題目はその全体をつつむかのように独特な髭文字でしたため
られているのだが、その真下に「日蓮」の花押(書き判)をいれ、自己が真の仏弟子と
して曼陀羅世界にいることを示している。
p230
なお、「佐渡始顕の大曼陀羅」は現存しないが、日蓮は弟子・信徒に曼陀羅を与えたので、
さまざまな形式のものが現存する。
==>> この日蓮の大曼陀羅は、この本にその写真が掲載されているのですが、
絵ではなく文字ばかりになっていて、釈迦如来、多宝如来、日本の天照大神
や八幡大菩薩、天台大師(智顗)や最澄などの名前が書いてあるそうです。
神道の神々の名前もあるというのが独特なのかもしれません。
こちらのサイトで詳しくご覧ください:
https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E4%BD%90%E6%B8%A1%E5%A7%8B%E9%A1%95%E6%9C%AC%E5%B0%8A
「佐渡始顕本尊(さどしけんのほんぞん)は、日蓮が佐渡配流中の文永10年
(1273年)7月8日に図顕したとされる法華曼荼羅。身延山久遠寺の所蔵で
あったが、明治8年(1875年)の身延大火で焼失した。」
ちょっと気になるのは、こういう曼陀羅に本人が自分の名前を書き入れたのか、
それともその後の弟子や信徒が書き入れたのかで、私的には大きな差を
感じます。
p243
法華経は従地涌出品からいわゆる本門になる。 いよいよ釈迦の真実の姿が明かされる
部分である。 特に次の如来寿量品を中心として、従地涌出品の後半と分別功徳品の
前半の「一品二半」と呼ばれる部分を本門のなかでも正宗分といい、法華経の核心と
される。
==>> その従地涌出品という部分をこの本で読んできたんですが、
p231からp245までのページの筈なんですが、私にはどこが
その核心部分なのかが分かりません。読み落としてしまったか?
この後に如来寿量品と分別功徳品が出てきますので、用心深く読んでみたい
と思います。
そこで、p231から再度読み直して、もしかしてここかという部分を
抜き書きしてみます。
p232
世尊がこのように告げたとき、娑婆世界の国土全体がゆれ、一面に亀裂を生じ、地中
から無量千万憶の菩薩が同時に湧き出してきました。
この菩薩らは娑婆世界の下の虚空(広大な空間)に住していたのですが、世尊の音声を
聞いて、地から現れたのでございます。
p233
四大菩薩
この菩薩たちには、四人の導師がいました、その名は上行(勝れて行じる者)、無辺行
(無限に行じる者)、浄行(清浄に行じる者)、安立行(堅固に行じる者)です。
p239
弥勒よ、敗れざる者よ、あなたがたに告げます。
ここに無数の菩薩が地から湧出しました。 あなたがたが、かつて見たことのない偉大な
菩薩たちです。 この者たちは、この娑婆世界において、私が阿耨多羅三藐三菩提(無上
のさとり)を得たのちに教化し、導きを示して、かれらの心を調え、仏道の志を
発させました。 そして皆、この娑婆世界の下、この世界の虚空に住して、もろもろの
経典を読誦し、その意義に通じて思惟し理解し、心に深く刻んできたのです。
p240
わたしは今、真実を語り明かします。 あなたがたは一心に信じなさい。
わたしは久遠の過去から現在まで、この菩薩たちを教化してきたのです。
==>> 私が「これかな?」と思った部分は以上のようなものです。
「従地涌出品」ですから、地涌の菩薩を調べてみますと、wikipediaには
「地涌の菩薩(じゆのぼさつ)・・・とは、上行菩薩を初めとする法華経に登場
する娑婆世界に常住する無数の大菩薩のこと。」
とありましたので、続いてこの上行菩薩を検索してみますと、
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E8%A1%8C%E8%8F%A9%E8%96%A9-79042
「『法華経』従地涌出品で述べられる菩薩。その場面で,地から現れた菩薩たち
が,仏陀によって『法華経』の伝道にふさわしいものとして予言されるが,
それらの菩薩の指導者4人中の一人。日蓮は自分がこの菩薩の生れ変りである
と自覚した。」
・・・・これだけでは、まだまだ私には何が核心なのか理解できません。
p245
インドの原語はヨーロッパと同系統だから、漢訳経典にも、しばしばヨーロッパ的な
表現がみられる。 たとえば数字の「百千」という記述は、インドの記数法が三桁区切り
を基本としたからであろう。 漢訳されても普通ではない言葉づかいになっているところ
に経典の独特な雰囲気がある。
==>> ああ、なるほど、そういうことだったんですか。
100,000円だったら、日本語としては10万円ですけど、
英語では one
hundred thousands yen (1百千円)ですもんね。
p247
つまびらかに聞きなさい、如来の秘密と神通の力を。
この世の一切の神々と人々は、阿修羅などの鬼神・精霊に至るまで皆、この釈迦牟尼仏
釈氏の宮(シャーキャの王宮)を出て伽耶城の近く(ブッダガヤ)の道場に座し、
阿耨多羅三藐三菩提(無上のさとり)を得たと思っています。
しかし、善き求法者らよ、私が成仏したのは、実には無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫の
過去のことでした。
p249
その願いが小さくてささやかな真実を求め、徳薄く罪や煩悩の重い者には、その人のために、
わたしは年若く出家して短い期間に無上のさとりを得たと語りました。 しかし実には、
わたしが成仏したのは久遠の過去であることは、今、告げたとおりです。 ただ方便を
もって人々を教化して仏道に入れるために、そのように説きました。
p250
すべては真実であり、虚妄ではありません。
なぜなら、如来は三界の相(世界のありさま)を如実に知り、見ているからです。
生死の若しは退、若しは出あることなし、すなわち、生死流転の世界において実には消滅
することも生成することもありません。
また在世および滅度の者なし、世に在るものも滅するものもありません。
実に非ず虚に非ず。 万物に実体はなく、また異なるものでもありません。
如に非ず異に非ず。 同じものはなく、また異なるものでもありません。
三界は三界を見るが如くならず。 世界は、人々がこれが世界であると見るようなものでは
ありません。 このことを如来は明らかに見て、誤ることはないのです。
==>> この部分が、「妙法蓮華経如来寿量品第十六」と書いてありまして、
おそらく上記のところが核心部分になっているのではないかと私には思えます。
要するに「空」について述べていると見えるからです。
そして、ついでに言えば、これはまたまた、現代の最先端物理学や神経科学・
脳科学はたまたシステム工学の入門書で読んだ内容を連想させます。
p252
その医師に多くの子がいたとしましょう。
・・・そこで父は、このように言いました。
「よく聞きなさい。わたしは年老いて衰え、もう死期がせまっています。 この薬は、
味のよい良薬です。 ここに置いておくから、おまえたちは飲みなさい。 何も心配する
ことはありません」
p254
父は、そのように諭してから、また他国に行き、使いを送って「父は死んだ」と告げさせ
ました。
・・・かれらは、もはや頼るもののない孤児であると思い、深く悲しみを感じて、ついに
その心は目覚めました。 すなわち、この薬の色と香りと味のよいことを知り、それを
飲んだのです。 すると、毒の病はことごとく癒えました。
父は子らが苦しみから逃れたのを知って家に戻り、皆にその姿をみせました。
「善き求法者たちよ。 あなたがたの意において、どうであろうか。 この医師は、
はたして、虚偽の罪を犯したと言えるでしょうか」
==>> この話は、「如来は、実には滅しないにもかかわらず、滅度すると告げるのです。」
という言葉の具体例として述べられている部分です。
つまり相手に合わせて「嘘も方便」を使うということのようです。
p262
娑婆の原語サハーは大地のことで、釈迦如来の国土をいう。
ところが、この世は一切皆苦で、さまざまな悩みや苦しみを堪え忍ばねばならない世界
として「忍土」ともされてきた。 しかし、「如来寿量品」では「衆生劫尽きて大火に
焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」と告げる。
真実には常寂光土(苦悩の寂滅した永遠の光の世界)であるとされ、娑婆即寂光土
(娑婆がそのまま久遠の釈迦牟尼仏の浄土)とよびならわされてきた。
法華経が現世の救済を説く経典であるとされる大きな典拠となる箇所である。
==>> このような記述を読んでいると、現世利益を肯定する空海さんの考え方、
つまり密厳浄土や即身成仏を連想させます。
真言宗の密厳浄土の解説はこちらにありました。
http://www.okaya-shinpukuji.jp/blog/20180607post-247.html
「仏さまとは大日如来。大日如来の浄土を『密厳浄土』と呼びます。
真言宗中興の祖、興教大師覚鑁は、
「惜しい哉、古賢難易を西土に諍うこと。 悦ばしい哉、今愚往生を当処に得る
こと。」と、西方浄土への往生ではなく、この世に成仏することを強い意志で
説かれております。
「一切如来は悉く是れ大日なり」 阿弥陀如来と大日如来は同体、極楽と密厳は
名異にして一処と説き、娑婆即ち浄土であるのだといいます。」
法華宗・日蓮宗は日蓮さんの時代から、政治に関わることに非常に積極的
だったようですから、その意味でも現世自体を肯定しないといけなかった
んでしょうね。 現世の有りようを変えるためには現世がないといけません
からね。 親鸞さんの浄土真宗のように、念仏さえ唱えればすぐに
阿弥陀様がハイヤーで送迎にきて西方浄土に行けますよ、なんてことは
言ってられないわけですね。
さて、ここまでが、法華経の核心部分とされる
「如来寿量品を中心として、従地涌出品の後半と分別功徳品の前半の
一品二半と呼ばれる部分を本門のなかでも正宗分といい、法華経の核心と
される」ところを読みました。
私の理解では、「空」すなわち「色即是空」と、相手に合わせて説法するという
「方便」の重要さ、そしてお釈迦様は常に在るということが強調されて
いるように思います。
p270
その人が百千万億劫において、このように行じても、その功徳は、なお小さなものです。
仏の寿命は無量であると聞いて、たとえ一念でも信解する功徳の大きさにくらべれば、
その百分の一、千分の一、百千万億分の一にもなりません。
一念でも信解する功徳の大きさは、その数を算することも譬喩で示すこともできません。
==>> 「このように行じても」の例として、ここに書いてあるのは、例えば、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、阿羅漢などへの供物、僧院の建設、などが
在家の行として書かれていますが、それでも「信解」には及ばないということ
なんです。
ここを読むと、「信」の重要さが他のいかなる「行」に比べても大きいことが
語られています。
これで連想するのは、先に読んだ「親鸞と聖徳太子」で述べられていたことです。
つまり、親鸞さんは、直接の師であった法然さんよりも、心の中では
この法華経を説いた聖徳太子を崇敬していたのではないかという点です。
私は、過去数年間の間に読んできた本から、法然さんの浄土宗までは戒律と
修行、そして、親鸞さんの浄土真宗からは信仰になったと感じました。
要するに、親鸞さんは、師・法然さんが守っていた戒律とか修行とか功徳とか
いうものよりも、信仰ということを第一に重要だと感じて、その点で
この法華経と聖徳太子を心の中では一番重要だと思っていたのではないか、
ということです。
p273
この経を受持し読誦することは、このような僧院・堂閣を幾百千万憶も無量に、仏と僧に
ささげることになるのです。 まして、この経をよく持し、そのうえ布施・持戒・忍辱・
精進・禅定・智慧の六波羅蜜を行じるならば、その功徳はもっとも勝れており、無量無辺
です。
==>> おっとっと・・・・ちゃんとフォローしてありますね。
信解するだけで他はなにも要りませんと言ってしまったら、教団は経営でき
ないですもんね。
まあ、それも方便ですね。
もしかして、ここに忖度の起源があるのでしょうか。
p277
インドでは、宇宙は無限の時空の広がりのなかで神々への賛歌とともに瞑想され、宇宙の
中心にそびえるという須弥山(原語はスメール)のイメージが形成された。
須弥山の周囲の大海に四つの島がある。 これを四大州または四天下という。
そのうち閻浮提(えんぶだい)という南方の島がわれわれの世界だ。
p278
この須弥山を中心とする世界がひとつの小世界である。 その小千世界が千集まって
中千世界となり、中千世界がさらに千集まって一つの大千世界となる。
これが で一人の仏の国土とされる。
==>> おお、やっぱりインド人の発想力は広大無辺というべきでしょうね。
こんな発想をどこのだれが持ち出したのか知りたいものです。
それにしても、現代の最先端宇宙論の多宇宙論を彷彿とさせる考え方
ですね。 なぜこんな発想がヨーロッパでも中国でも他でもなく、インド
に生まれたのか、それが知りたい。
== その8 に続きます ==
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