大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 6 無数のお釈迦さんの分身、女人が成仏できないのは何故? 多宝塔ってなに?
大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 6 無数のお釈迦さんの分身、女人が成仏できないのは何故? 多宝塔ってなに?
大角修 訳・解説「法華経」「無量義経・妙法蓮華経・観普賢経」を読んでいます。
すべて現代語訳になっています。
「天空の集会」
p181
さらに別の方角からご自身の分身の諸仏が戻ってくると、世尊は同じく八方に
二百万億那由他の国々を浄くあらしめました。 もはや地獄も餓鬼も畜生の世界も
阿修羅の戦いの世界も、天界も人間界も区別はございません。
こうして、無限に等しい数の釈迦牟尼世尊の分身の諸仏がそれぞれ説法をしていた
国から戻り、十方の諸仏がことごとく参集して周囲に座し終わりました。
p183
そのとき多宝如来は、ふたたび声を発したのです。
「讃えよ、讃えよ。 釈迦牟尼世尊は妙法蓮華経を説かれた。 我は法華経を聞くため、
ここに参った」
幾千万億劫の過去に入滅した仏がそのように告げたのを聞いて、人々は未曾有のことに
感嘆し、多宝如来と世尊に花々をささげました。
p185
「法華曼陀羅」
釈迦・多宝の二仏が座す宝塔の周囲に諸仏が参集する。密教で息災・増益を祈願する修法
(加持祈祷)などに用いられる。
「源氏物語」の「鈴虫」の帖では、光源氏が女三宮のためにつくった持仏堂に架けられて
いたという。
p186
わたしは、これまで多くの経を説いてきましたが、そのなかで妙法蓮華経こそ第一です。
もし妙法蓮華経を保持するならば、その人は仏の身体とともにあります。
==>> 「釈迦牟尼世尊は妙法蓮華経を説かれた」と書いてあるのですが、
その内容は書かれていません。
これが、「法華経には中身がない」と言われる所以なんでしょうか。
ここでは、無数の諸仏はお釈迦さんの分身だと書いてあります。
真言密教の場合は、諸仏は大日如来の分身だということになっているようです。
法華経の場合は、どういう構造になっているのかまだよく分かりません。
さて、ここに出て来た多宝如来をチェックします。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A6%82%E6%9D%A5-562628
「東方の宝浄世界にいるという仏。諸仏が法華経を説くとき、宝塔を出現させて
説法を讚嘆することを誓ったという仏で、釈迦が法華経を説いたとき出現した
塔中の仏。多宝仏。」
ここで思い出したのが「多宝塔」なんです。
そこで、上記の多宝如来との関係を確認してみます。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94-94240
「平安時代に密教が最澄・空海によって伝えられてから出現した建築である。
天台宗では、初め『法華経(ほけきょう)』を法舎利(ほうしゃり)とし、それに
胎蔵(たいぞう)界の五仏を祀(まつ)った多宝塔を建立、真言(しんごん)宗では
大日如来(だいにちにょらい)を祀る建物として多宝塔(大塔)が建設されている。
多宝塔の名のおこりについては、重層宝塔からとする説と、『法華経』見宝塔品
(けんほうとうほん)に説く多宝如来と釈迦(しゃか)如来の二仏並座の塔をいう
とする説がある。」
・・・これを読むと、最澄さんは「法華経」をベースに多宝塔を造り、空海さんは
大日如来と関連付けて造ったようですね。
p188
「アーナンダよ。 世界を支配する帝王はストゥーパをつくって埋葬し、これを礼拝
すべきである」
インドの風習からみると、これは異例である。 インドでは火葬したのち、遺灰を川に
流すのが古代からの風習で、今でもヒンデゥー教徒は墓をつくらない。 釈迦の
ストゥーパは、インドの他の宗教とはきわだって異なるシンボルになった。それは
ブッダの不滅と栄光を表すシンボルとして、人々の祈りの対象になった。
中国や日本の寺院の塔の起源も、ストゥーパである。塔を建立することは大きな功徳が
あるものとされ、法華経では特に強調されている。
p190
ストゥーパは中国や日本では仏像を安置する厨子の原型だ。 なかには特別の儀式の時
しか扉を開けない秘仏の厨子もある。 内部に安置された秘仏は見えないのだが、ふだんは
・・・前立本尊が置かれている。
==>> せっかくですから、ここで法隆寺の五重塔をおさらいしておきましょう。
https://horyuji.asia/entry3.html
「古代インドで仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために造られ始めた塔を、仏塔と
いいます。」
「文殊菩薩と維摩居士の問答、釈迦の涅槃、分舎利(釈尊の遺骨の分配)、
弥勒の浄土が、それぞれの像によって表されています。かつては五重塔の内部に
も壁画が描かれていましたが、漆喰などが原因で剥落。現在は他の場所で保管
されています。
五重塔は全体を心柱が貫く構造になっていますが、その心柱を支えるのが地下
1.5mの深さにある大礎石。礎石の上部には舎利容器などが納められており、
舎利容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められています。」
さて、ここで、ちょっと水を差すようですが「スッタニパータ」からの言葉を
抜き書きしておきましょう。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-58dc.html
「1146 (師ブッダが現れていった)、
ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
そのように汝もまた信仰を捨て去れ。 そなたは死の領域の彼岸に至るで
あろう。 ピンギヤよ。
・・・「信仰を捨て去れ」 ですよ!!
凄いことが書いてありますね。そこで、巻末の解説をよみますと:
「信仰を捨て去れ」という表現は、パーリ仏典のうちにしばしば散見する。
釈迦がさとりを開いたあとで梵天が説法を勧めるが、その時に釈迦が梵天に
向かって説いた詩のうちに「不死の門は開かれた」といって、「信仰を捨てよ」
という。 恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条(ドグマ)に対する信仰
を捨てよ、という意味なのであろう。
最初期の仏教は<信仰>なるものを説かなかった。何となれば、信ずべき教義
もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。
「スッタニパータ」の中でも、遅い層になって、仏の説いた理法に対する
「信仰」を説くようになった。」
「ブッダのことば」(スッタニパータ)
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html
「私自身が仏陀の教えをどのように受けとめたかを整理してみます。
<お釈迦様は信仰、仏教をどう考えていたのか>
1. 仏陀本人はバラモン教時代のインドにあって、自ら仏教の
開祖になるというようなことは考えてはいなかった。
最初期の仏教は<信仰>なるものを説かなかった。
何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかった
からである。
2. 洞窟や木の下で座禅・瞑想し、真理を求め、解脱することを
願う修行僧たちに、解脱の方法を問われるままに教えていた。
9. 解脱の意味が、バラモン教では死んでから行くところだった
ものが、仏教においては精神的な解脱の意味になった。
11. 釈迦にあっては、信仰は「理法に対する信頼」を意味しており、
個人に対する熱狂的服従ではない。
32. 釈迦は徹底した自力の立場を表明した。
わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。
ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の
激流を渡るであろう。」
・・・・これらを見ると、お釈迦様自身は、ストゥーパのようなものが
建てられるとは思ってもいなかったことでしょう。
もっと詳しくはこちらのページでどうぞ;
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-cdd1.html
ところで、法隆寺の秘仏といえば、これでしょうか。
「夢殿秘仏・救世観音菩薩立像(法隆寺)」
http://inori.nara-kankou.or.jp/inori/hihou/horyuji/event/k48kpjwdne/
あちこち秘仏を拝んで廻る観光ツアーも、新型さんのお陰で足止めですね。
早く自由にあちこち行けるようになって欲しいものです。
p199
・・・舎利弗(シャーリプトラ)が龍女に申しました。
「あなたは時を経ずしてさとりに達したとおっしゃるが、それは信じられません。
なぜなら、女の身は穢れが多く、法を受けるにふさわしくないといいます。・・・・」
龍の童女は、ひとつの宝珠をもっていました。 それを世尊にさしだすと、世尊は龍女
の心を愛でて、ただちに受け取りました。
p200
龍の童女はたちまち男子に変じて遠く南方の無垢世界にゆき、宝蓮華に座して等正覚
(無上のさとり)に達し、仏の三十二相を現しました。
・・・これを見て、智積菩薩と舎利弗は黙然として龍女の言葉を信じたのでございます。
p203
「女の身は穢れ多く、法を受けるにふさわしくない」というのは法華経が成立したころの
通念だっただろう。 阿弥陀仏の万人救済の本願を説く無量寿経などにも同様の記述が
ある。 その意味で、永遠の真理を説く経典といえども、時代の制約をまぬかれていない。
==>> さて、女人は成仏できるのかという問題ですね。
一応、この龍女の場合は、なんだか条件付きで仏になれたようなんですけど、
浄土系の無量寿経では、次のように書かれていました。
「浄土三部経ー無量寿経」- 第35願 「女人成仏の願」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2017/05/post-ca25.html
「p318
「女人成仏の願。 この題文は梵文和訳の35に相当する。法然は女人往生の
願といい、親鸞は女人成仏の願、変成男子の願と呼んだ。「法華経」に説く八歳
の竜女が成仏するという教えとともに、この願は古来有名である。
浄土教では、女人成仏の願がなぜ別に誓われているかの理由に二説をあげ、
第一はすでに第十八願において男女老少のあらゆる衆生が救われると誓って
あるが、女人は本性上うたがい深いから、別願をもうけて女人の疑念を除こう
とした。
第二は親鸞の和讃に明かすごとく、弥陀の大悲の深きこと、仏智の不思議を
示さんとして女人成仏の願を別出した、という。・・・・
浄土の往生人について、人間界でみるごとき男女の区別のない清浄の色身と
だけ言う方が無難であろう。浄土の生は、曇鸞のいう「生即無生」のものだから
である。ちなみに婦人を宗教的に差別してはならぬという思想は原始仏教以来
存する。」
・・・おそらく、お釈迦さんが生きていた時代のインドは、バラモン教
(ヒンドゥー教)の時代で、そこにははっきりとした男女差別があったようです
から、そういう差別に異議を唱えるものとして、お釈迦さんの考え方が、その後
の人たちによって仏教という形になったのではないかと思います。
そのヒンドゥー教の慣習は今でも存在しているようです。
「インドの深刻な女性差別~ヒンドゥー教の慣習」
https://mirasus.jp/sdgs/gender-equality/2374
「インドでの「女児殺し」の慣習は、イスラム教徒との戦争時に娘を敵からの
強姦から守るために行われたのが始まりだと言われています。」
「ヒンドゥー教では、女性の人格は認められておらず、夫が亡くなり火葬する際、
自分も同じ火により焼死することを厭わないとされています。この残酷な慣習
は1829年まで続きましたが、現在では禁止令が出されています。」
「インドの小さな村のいくつかの部族には、現在でもガオコルという風習が
残っています。ガオコルとは月経中の女性は「不浄」だとする考えで、女性は
その期間、他の村人や家の中の道具や衣服、家族にさえも触れてはいけないの
です。」
p201
デーヴァダッタは後に出家して釈迦の弟子になるが、やがて釈迦を追放して教団を
奪おうとした。・・・ことごとく失敗してついに地獄に堕ちたという。
・・・悪人の代表格だとされるのだが、法華経では、その悪人が釈尊の善知識(善友・
導き手)であったといい、悪人でも仏になれると説く。
このことを「悪人成仏」という。 また、悪いことでも機縁となって道に目覚めること
があるという意味で、それを「逆縁」という。
==>> この部分は、親鸞さんの有名な「悪人正機説」で関係があるところです。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2017/04/post-89d0.html
「19.世尊よ。 もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数の仏国土に
いる生ける者どもが、わたくしの名を聞き、その仏国土に生まれたいという心を
おこし、いろいろな善根がそのために熟するようにふり向けたとして、その
かれらが、 -- 無間業の罪を犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗
するという(煩悩の)障碍に蔽われている者どもを除いて -- たとえ、心を
おこすことが十返に過ぎなかったとしても、(それによって)その仏国土に
生まれないようなことがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上
ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
p256
「無間業とは五逆罪の異称である。 五逆罪とは、母を殺し、父を殺し、阿羅漢
を殺し、仏の身体から地を出し、僧団の和合を破ることを言う。」
「 五逆(の罪を犯すもの)と正法を誹謗するものを除かん。」の部分の解釈
ですね。 「除く」ってところが問題。
親鸞さんの「悪人正機説」の分かれ道の部分です。
p312
「唯除の文は、五逆罪の者と正法をそしる者とは仏の救済から除外されると、
古来、理解されてきたから・・・・
善導は・・・「大経」の文は衆生が二罪をつくることを恐れて、予め方便を
もって二罪を犯せば往生はできないとさとしたものであり、仏の大悲ははじめ
から衆生を摂取するにある。 また、「観経」に五逆だけをとり謗法を省いて
あるのは、五逆はすでに下下品の衆生がつくった罪であるから仏の大悲は
見すてることなく臨終の十念によって摂取したもうが、謗法はいまだつくらない
罪であり、もしもつくったならば当然、救うと解している。・・「謗法(ぼうほう)
も闡題(せんだい)も廻心すれば皆往く」と述べている。」
・・・ここで、仏教の歴史年表を探してみました。
各仏典がいつごろ成立したのかをちょっと見てみましょう。
「世 界 仏 教 史 年 表」
http://www.ueda.ne.jp/~houzenji/sub33.html
この年表によれば、
前566 ゴータマ・ブッダ誕生(~486)
<諸説あり> 別説1.463-382 2.623-543
前551 第一結集ケツジュウ 王舎城において。
前268 仏教がインド全体に普及。
原始仏教聖典原型成立。『阿含経』『法句経』『ジャータカ』等。
前100 ストゥーパ崇拝。アジャンタ石窟始まる。
前 50 大乗仏教出現。
後100 初期大乗仏教経典成立。『般若経』」『維摩経』『法華経』『華厳経』
『浄土三部経』『般舟三昧経』 等
後150 龍樹ナーガルジュナ誕生(-250) 別説240-300
『中論』『十二問論』『大智度論』」『十住毘婆沙論』 等
中期大乗経典成立 『勝鬘経』『如来蔵経』『不増不減経』
『大般涅槃経』『解深密教』『大乗阿毘達磨経』等
後401 鳩摩羅什が長安にて経論の翻訳。『般若経』『阿弥陀経』『弥勒経』
『妙法華経』 等
後522 漢人鞍部司馬達等が仏像を持って来朝
後538 百済王から仏像、経巻を贈られる。仏教伝来。 別説552
後593 聖徳太子574-622 推古天皇の摂政となる。
『冠位十二階』『十七条憲法』『三経義疏』 四天王寺、法隆寺建立
・・・以上、お釈迦さんの誕生から聖徳太子さんまでの間の仏典がどのように
成立し、そして翻訳され、日本に渡ってきたのかを概観してみました。
ちなみに、最澄さんと空海さんが遣唐使として唐に渡ったのは804年と
されています。
少なくとも聖徳太子が『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書を書いた
とされていますから、在家でも仏になれるよという教えは、仏教が伝来した
早いうちから日本に広まったようです。
=== その7 に続きます ===
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