大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 3 法華経は凡夫には理解できない? 教えるの教えないの? 結局一乗なんだけど・・・
大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 3 法華経は凡夫には理解できない? 教えるの教えないの? 結局一乗なんだけど・・・
大角修 訳・解説「法華経」「無量義経・妙法蓮華経・観普賢経」を読んでいます。
すべて現代語訳になっています。
p50
阿羅漢の道を求めてきた出家と在家の修行者たちも世尊の言葉に疑念をもちました。
「世尊はなぜ、方便を讃え、真実を知ることはできないと言われるのか。我らは世尊の
教えに従い、修行して、現に平安を得ているではないか」
舎利弗は人々の疑念を察し、自分も納得できなかったので、このように世尊に問いました。
p55
仏は一仏乗を人々に説くのであって、声聞・縁覚の二乗とか、声聞・縁覚・菩薩の三乗
とかを説くものではありません。 無量の方便をもって種々に法を説いても、それらは皆、
ただ一つの大きな乗り物、すなわち一仏乗に導くためです。諸仏から法を聞く者は皆、
究極においては、如来の一切種智(さとりの智慧)を得るのです。
p60
未来の諸仏が百千億もの異なる教えを説いたとしても、すべては一乗の道に通じています。
法は常に変わらずにあり、人々の心には、やがて仏となるべき種(仏種)があります。
==>> つまり、相手に合わせて、千差万別どころか百千億の異なった教え方で
法を説くんだけれども、それらはすべてさとりを得る道だってことの
ようです。
これをそのまま額面通り受け取れば、日本で仏教が多くの宗派に分れて
いても、結局は同じさとりに辿り着けますよということでしょうかね。
ってことは、親鸞さんの浄土真宗のように、ほとんど仏教じゃないと
言われているものであっても、親鸞さんが聖徳太子が説いた法華経を
大事に思っていたという話もありますから、百千億の異なった教えの
ひとつであることに変りはないわけですね。
p67
・・・伝記によれば、・・・釈尊は・・29歳のときに出家し、6年の苦行ののち、
35歳のときにガヤー市(伽耶城)近郊の羊飼いの野原(のちのブッダガヤ)でさとりを
開いてブッダになった。 ・・・最初に教えを説いたのが、・・・ガンジス河の聖地だった
ヴァラーナシーに近いサールナートであった。 釈迦の最初の説法=初転法輪の地として
知られるところである。
・・・各地に伝道の旅を続けるが、大きな拠点となったのが、当時の大国マガダの都
ラージャグリハ(王舎城)だった。 その王都には仏教最初の僧院とされる竹林精舎が
つくられ、郊外にそびえる霊鷲山にも僧院がつくられた。
・・・80歳のとき、・・・最後の旅に出て、クシナガラで世を去った。
法華経は釈尊の生涯の最後の段階で説かれたという設定で、・・・・・
==>> 経典などに書かれた伝記では、上記のような話になっているようです。
学問的にはどうなっているかについては、下のリンクでどうぞ。
https://kotobank.jp/word/%E9%87%88%E8%BF%A6-75539
「80年の生涯は確実とされる一方、没年に関しては仏滅年代論が現在も盛んで
あり、次の3種がある。南方には11世紀ごろからの伝説により前654年仏滅説
が普及しているが、学問的には、前485年ごろと前383年ごろの2説が有力で
ある。」
「この初期経典群はアーガマĀgama(伝来)とよばれ、漢訳は「阿含(あごん)」
と音写する。・・・・・アーガマには釈迦の伝記(仏伝)への関心はきわめて
薄く、やがて、そのなかの断片的な釈迦の回想などを資料としつつ、インド人
独自の優れた想像性のもとで仏伝が創作され、その種類も増える。今日伝わる
仏伝はすべてそれらに基づく。」
・・・ここに阿含という言葉が出てきました。私はまだ阿含経を読んだことが
ありませんので、その入門書をさっそく注文してしまいました。
「スッタニパータ」はかなり前に読んだのですが、「阿含経」は原始仏教の
中でどんな位置を占めるのか。 「スッタニパータ」とどう違うのかを
見てみたいと思っています。
「阿含経」
https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C-24948
「仏教の全資料のうち最古の初期仏教経典の総称。」
「ゴータマ・ブッダ(釈迦(しゃか))の言行を収め、仏弟子たちのも混じる。
原型はブッダ入滅後まもなくまとめられ、伝承の間に多くのものを付加した。」
Wikipediaでは、「阿含経」について:
「直説経典であるため、釈迦の言動、並びにその教法――とりわけ七科三十七道
品として知られる成仏法(修行法)が記されてある。」
「『阿含経』はむしろ近代文献学を事とするヨーロッパの研究者たちによって
正当な評価を受けた。・・・・阿含経は日本の仏教者にとって永らく注目されず
にあったものだが、ヨーロッパの研究者に学んだ明治以降は日本でも盛んに
研究され今日に至っている。」
・・・とありますので、最近はいろいろと日本語訳も出ているようです。
「スッタニパータ」
「多くの翻訳は『ブッダのことば』と題する。その用語や内容などからみて、
現在伝わる経典中の最古の資料と考えられている。」
・・・一応、「スッタニパータ」の方がより古いらしいのですが、「阿含経」も
劣らずに古いようだし、内容が異なってもいるようなので、読み比べてみたい
と思います。
p71
その国は美しく、神々も人も精霊たちも快適に過ごします。 そこは青い瑠璃
(ラピスラズリ)をもって地となし、黄金の糸をもって八つの蓮華の花弁が結び
つけられているところです。 八つの蓮弁には金・銀・瑪瑙などの七宝の樹木が列を
なしてそびえ、常に花が咲き、いつも実がなっています。
この如来の世は大宝荘厳(高貴な宝石で飾られた時)と呼ばれます。
==>> このような記述は法華経の中のあちこちにあるのですが、つまりは
極楽浄土がいかに素晴らしいかを語っているわけです。
p75
わたしは言わなかっただろうか。 諸仏が方便をもって法を説くのは無上のさとりに
導くためである、と。 仏の教説はさまざまでも、つまるところは一乗の菩薩へ
いざなうためなのです。
p79
仏は智慧と方便をもって三界の火宅から抜け出させるために、三乗の道すなわち
声聞と縁覚と菩薩の教説を示して人々に告げます。
==>> 「仏の教説はさまざまでも・・・」というところが、なんとも寛容で
仏教らしいと言えるのかもしれません。
例えば真言宗の場合、一応大日如来が一番偉いことになっているんですが、
いろんな仏様のどの仏様でも自分が好きな仏様を拝んでもいいよという
ことになっているんです。
とは言いながら、平安仏教でも鎌倉仏教でも、当時はかなり宗派間での
激しい争いがあったようですが。
私がまだ幼かった昭和の時代でも、一部の仏教宗派は他の宗派を罵るような
激しい争いがあったようです。
宗派の営業的には、他との差別化が必要ですから、争いも起こるのでしょうが。
p80
人々のなかで、仏の言葉を信じて、よく精進し、一切の仏の智慧と威力と平安に到達
したいと願い、生きとし生けるものに哀れみをかけて悲しみ、苦しみを癒して人々を
導くならば、それを大乗と呼びます。
==>> これは「大乗」の定義と理解していいのでしょう。
ここには「人々を導くならば・・・」と書いてありますから、ただ自分
だけが信じて精進しても「大乗」とは言えないようですね。
私は利己的なので、せいぜい頑張っても声聞が縁覚どまりであの世行きになり
そうです。
p84
もろもろの苦は、貪欲を原因として生起するのですから、もし貪欲を滅すれば、苦が
起こることはありません。 そのことを知り、よく苦を滅することを四諦(四つの真理)
の第三、すなわち滅諦(苦をなくすこと)とします。 そして、その滅諦のために
道諦(修行の道)があるのです。 そして、苦にとらわれているところから脱することを
解脱といいます。
==>> 四諦については、こちらでチェック。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E8%AB%A6-73695
「四つの真理。苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦の四つ。
苦諦は迷いのこの世はすべて苦であるということ。
集諦はその苦の因は愛執であるということ。
滅諦はその愛執を滅することが理想の涅槃の境界であるということ。
道諦はその涅槃にいたる因として八聖道を実践修行しなければならない
ということ。
この「諦」という漢字なんですが、私はすぐに「四つの諦め」と読んでしまうん
ですねえ。国語辞典をみると:
https://kotobank.jp/word/%E8%AB%A6-573333
「あきら・める【諦】
〘自マ下一〙 あきら・む
〘自マ下二〙 仕方がないと思い切る。断念する。
※浄瑠璃・蝉丸(1693頃)一「ぜひなき事とあきらめ給へ」」
・・・しかし、あきらめるという意味以外に、こんな意味もあったんですね。
「1 明らかにする。「諦視」
2 締めくくり。まとめ。「要諦」
3 あきらめる。「諦観・諦念」
〈タイ〉仏教で、悟り。真理。」
私的な屁理屈でこれらの意味を繋ぐと、
「人間の苦から逃れることはできないと諦めたら、仏さんが「しょうがない奴
だなあ」と憐れんでくれて、真理を明らかにしてくれて、締めくくりとして
あの世に送り込んでくれる」ってことなのかなと妄想するわけです。
p85
法華経は、深い智慧の言葉です。 声聞・縁覚らの力の及ぶところではありません。
智慧から遠く、自我にこだわっている者たちはとまどい、疑うことでしょう。
ですから、シャーリプトラ(舎利弗)よ、この法はみだりに説いてはならないのです。
p86
この法は過去から深く善をうえて心ゆらぐことのない人々、深心堅固な人びとに説かれる
ものです。 シャーリプトラよ。 よく見極めて、もし慈心をもってよく精進する人が
あるならば、その人に法を説きなさい。・・・・
==>> ここでは、一般の凡夫にはみだりに法華経を説いてはダメよといっているん
ですが、一方で、8つばかりの例外も書いてあります。
そのひとつは、上に書いたとおりですが、もうひとつは、たとえば
「心に怒りがなく、こころすなおな人があるならば、その人に法を説きなさい」
という文言です。
少なくとも私の場合は、意固地で天邪鬼で素直じゃないので、どの例外にも
該当しませんね。
p88
菩薩の原語「ボーディサットヴァ」は「ボーディ(さとり)」と「サットヴァ(衆生)」
の合成語で「さとりを求める人」という意味であるが、法華経では三つの意味で
使われる。 まず、声聞・縁覚・菩薩の三乗のうち大乗の修行者、 次に三乗を統合
した一仏乗(法華一乗)の菩薩である。 ・・・三つ目の菩薩は、観音菩薩・普賢菩薩など
の救済者としての菩薩で、おもに法華経の後半で登場する。
==>> 「一仏乗(法華一乗)の菩薩」についてはこの本では「求法者」と訳されて
います。
ところで、今更ですが、「さとり」ってどういう意味、定義なんでしょうか。
まず国語辞典では:
「さとり【悟り/▽覚り】 の解説
1 物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。察知。「―が早い」
2 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。
「―の境地に達する」」
・・・どちらかと言えば、一般的には2の意味で使われることが多いでしょうか。
1の意味で使われる場合は、どちらかと言えば哲学的、人生論的意味合いかなと
思います。
では、つぎにコトバンクで見てみます:
https://kotobank.jp/word/%E6%82%9F%E3%82%8A-511451
「自我的な人格から解脱して自由になり,衆生に対して無礙(むげ)自在に
はたらく新しい仏菩薩的人格へと生まれ変わることであるといってよい。」
・・・「解脱」をめざすということで言えば、この解釈が「悟り」を一番よく
表しているように思えます。
さて、仏教以外ではどのような意味合いがあるのでしょうか:
Wikipediaでは以下のような説明があります:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A#%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99
「イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるという
エピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、
「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。」
「自分の心の中の悪を自覚できるようになることは、一種の悟りであるという
自力救済的な教えを、時にイエスは説いていたということである。しかし、
ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような
資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に
仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみで
ある。」
「「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて
編まれたものと思われる・・・」
・・・「闘技者トマスの書」からの言葉を読むと、仏教と共通するものが
ありますね。
インドのジャイナ教やヒンドゥー教(バラモン教)は、元来がお釈迦さんの
時代にあった宗教ですから、根っこは同じとみてよさそうです。
ちなみに、上のwikipediaには、このような解説もあります:
「藤本晃によれば、南伝仏教であるテーラワーダ仏教では、釈尊は悟りを
四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことは
できないとパーリ語仏典や漢訳阿含経典に書いてあるとする。」
・・・これは、益々「阿含経」を読んでみないといけませんね。
「凡夫は悟りを開くことはできない」というのは、まさに「法華経」の
根底にある考えと同じじゃないでしょうか。
p97
国の王と宝玉の輝き
仏教でもキリスト教でも清貧が修行の徳目として重視されるが、王や富裕な商人によって
建立された光り輝く聖堂によって仏や神の栄光が示されなければ、礼拝と祈りがなり
たたないのである。
==>> これは、いわゆる極楽浄土のイメージを衆生に知らしめすという意味では
重要なのでしょう。 空海さんが経典を読んで頭で理解するだけじゃダメだ
ということで、曼荼羅などを作って密教の神秘な世界を体感させるような
道具立てを作ったのも、それなりの意味があったのだろうと思います。
空海さんは、かなりのエンターテインメント・プロデューサーだと私には
思えます。
p100
あなたがたが教えを聞いて、その言葉を持ち、読誦し、説かれているとおりに修行して
功徳を得ても、それを知ることはできません。 なぜなら、それは如来だけが知っているの
ですから。
あなたがたが何を思い、何を望んで、どのようにおこない、何を得ているのか。
あなたがたがどこにいるのかは、如来が明らかにしっています。
p101
草木が何も知らずに等しく雨を受けているように、究竟の涅槃は常寂の滅相にあり、
つまるところは空なのです。
p103
人の身分の上下に関わりはありません。 戒をよく持つ人も、そうでない人も、
修行がよく進んだ人も、そうではない人も、まなざしが正しい人も、そうではない人も、
勝れた人も劣った人も、雨がすべてを潤すように、わたしに差別はありません。
しかも懈倦なく法雨を注ぐのです。
==>> この辺りの記述は、なにやら親鸞さんの浄土真宗っぽい感じがします。
もしかしたら、親鸞さんが聖徳太子を敬っていたというのは、この辺りに
あったのかもしれません。
p106
仏教でいう智慧とは、もとは「明」と同じ言葉で、やはり直感的な感性によって発見
されるものをいう。 したがって、智慧は知識が多くあることではないし、神通力も
現実に超能力があるというものではない。「ヴェーダ」は漢訳経典では「明呪」とも訳され、
威力のある呪文とされる。法華経で偈が経文の中核に置かれるのも、ヴェーダ=明呪の力
を源泉として、詩歌に威力がこもるとされるからである。
==>> 「偈」(げ)とは辞書によれば「仏の教えをほめたたえた韻文」となっています。
私はもともとは浄土真宗の両親のもとで「なんまいだ~」と毎朝唱えて
朝ごはんを食べていましたから、たまに加持祈祷のような密教の儀礼をみると
ずいぶんおどろおどろしいことをやるんだなあと感じていました。
もう三十数年も前のことですが、パック旅行で中国・敦煌に洞窟壁画仏像を
観に行ったとき、そして、テレビ番組でその洞窟の中での僧侶たちの読経の
イメージが語られた時に、おそらく大勢の僧侶が洞窟で経典を読み、呪文を
唱える、その洞窟内での声の響きは、さぞかしこの世のものとは思えない
音楽的な神秘的効果を作っただろうなと思いました。
そして、そのきわめて荘厳なその音の響きが、五感を通して、身体にも響き
渡り、如来との一体感、宇宙との一体感を醸しだしたのではないかと
思うのです。
=== その4 に続きます ===
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