島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 2 法隆寺の独特の世界と聖徳太子

 

島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 2 法隆寺の独特の世界と聖徳太子

  

島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」―「在家こそ日本仏教のあるべき姿である」という

本を読んでいます。

 



 

p64

 

現在使われている歴代の天皇の名は、死後に送られる、諡号であり、生前にそのように

名乗っていたわけではない。 ・・・昭和天皇は、在世中、そう呼ばれてはいなかった。

近代に入って、元号のあり方が変わり、死後に元号によって呼ばれることが分かっていた

ものの、「生前昭和天皇と名乗っていた人物は存在しない」とも言えるのである。

 

==>> これは知らなかったのでさっそく諡号をチェックしてみました。

     「し‐ごうガウ【諡号】」

     https://kotobank.jp/word/%E8%AB%A1%E5%8F%B7-518544

 

     諡(おくりな)とは?

     https://nanotown01.com/tenno-yobikata/

     「諡(おくりな)とは、「亡くなった後に、生前の功績をたたえて贈る称号」

ことです。 私たち一般の「戒名」に近いですね。

つまり、生きているうちは、「(元号)天皇」という呼び方を使うことができない

のです。」

 

・・・つまり、昭和天皇とは言えるけど、平成天皇とか令和天皇とかは

言ってはいけないということになりますね。

     勉強になりました。

 

p66

 

聖徳太子という呼称は、厩戸王と同様に、「日本書紀」や太子の古い伝記のなかには出て

こない。 だが、後世になると聖徳太子が広く用いられるようになった。 厩戸王は、

最近になるまで使われたことがなかった。

 

・・・むしろ、ここで問題としなければならないのは、呼び名の方ではなく、その

事績の方である。 今日聖徳太子と呼ばれている人物は、いったい何をしたのだろうか

 

聖徳太子の為政者としての事績としてあげられるのが、冠位十二階と十七条憲法

制定である。

 

==>> この二つについては、教科書で習ったことですが、これがこの本の中では

     どのように展開していくのでしょう。

     

 

p68

 

中国側の史料もあり、実際に聖徳太子の時代に定められたものだと考えていいだろう

その時代に聖徳太子が政治に深く関与していたのであれば、聖徳太子が冠位十二階を

定めたと言っても決して間違っていない。

 

p72

 

聖徳太子が十七条憲法を定めたのだとしても、本人が条文を書いたということではなく、

憲法を作り上げる作業を命じた、あるいは主導したと考えるべきだろう。

 

p73

 

聖徳太子が十七条憲法をすべて作り上げたのか、それとも後世にすべてが創作されたのか

の二者択一ではないはずだ。 少なくとも、後世にならないと使われないことばが

一つ含まれているからといって、すべてが創作された証拠にはならない。

 

・・・聖徳太子の時代に、十七条憲法の原形にあたるものが作られ、それが時代とともに

洗練された形に修正され、最後は「日本書紀」に収録された。 それが妥当な経緯なの

ではないだろうか。

 

==>> ここでは、聖徳太子虚構論に対しての著者の反論が、太子の事績なるものを

     検討することで行われています。

     しかし、著者の論点はここにあるのではなく、別の思想的なところにある

     ようです。

 

p76

 

仏教関係の出来事についての記述が増えていくのは、太子が生まれて以降のことである

少なくとも、太子誕生までに、経典についての講説が行われたとか、解説書が作られた

ということはまったく伝えられていない。 そうした状況のなかで、聖徳太子がさまざまな

形で仏教の興隆に貢献したのだとすれば、それはまさに奇跡である。

まして太子は僧侶ではなく、俗人である。 太子の貢献が否定されるのも、そのことが

深く関係している。

 

==>> 僧侶ではなく俗人である・・という部分が、親鸞との繋がりを感じさせる

     ポイントだと著者は考えているようです。

 

p76

 

「法華義疏」は、現在「御物」に含まれている。 御物とは、皇室が所蔵している美術品

のことである。

 

p77

 

「法華義疏」も「唐本御影」も、もともとは法隆寺が所蔵していた。

 

p78

 

「唐本御影」の聖徳太子の肖像一万円札に用いられるときには、当時の大蔵省印刷局

図案官の磯部忠一が原画を作成している。 その際に、歴史学者で東京帝国大学教授

だった黒板勝美の意見により、明治天皇の肖像に似せたとされる

 

==>> この「唐本御影」は聖徳太子の肖像画と考えられているようです。

     しかし、太子は622年に亡くなっていて、肖像画が8世紀のものだとすれば、

     死後100年ぐらいで描かれたということになるそうです。

     日本最古の肖像画という位置づけらしい。

     肖像画の写真はこちらのサイトでどうぞ:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%AC%E5%BE%A1%E5%BD%B1

 

 

p84

 

・・・大山が注目するのが、東洋学者の藤枝晃の「勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏」

ついての研究である。 

 

・・・たしかに、「七割同文」と言われると、現代の言い方に直せば、「勝鬘経義疏」は

中国で作られた「勝鬘義疏本義」をコピペしただけの文献ということになる

また、「法華義疏」においては、中国の梁の時代の法雲が著した「法華義記」からの

引用が多く、それを種本としていることは間違いない

 

==>> ここでは、聖徳太子が書いた本は、中国で書かれたもののコピペじゃないか。

     だから、捏造されたものだという推論であるようです。

     しかし、この本の著者はこれに反論をします。

 

p85

 

たとえば、親鸞の主著である「教行信証」の場合、ほとんどが経典そのものやその注釈

書からの引用である。 それに親鸞が自らの考えを付け加えているものの、箇所に

よっては引用だけで終わっていて、親鸞自身の見解が記されていないようなところもある。

仏法について論じるということは、主張の根拠を経典や既存の注釈書に求めるということ

であり、引用が基本なのである。

 

==>> 従って、引用が多いということだけで、これは聖徳太子の著作ではないと

     いうのは道理が通らないと著者は反論しています。

 

     ちなみに、このコピペ方式は、私のこの感想文ブログも同じですね。

     コピペ大王と読んでください。

 

     さて、そこで、親鸞さんのコピペ式の「教行信証」ですが、私が書いた感想文

     にもこのようなことを書いていました。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/06/post-d948.html

     「p32 

『教行信証』という作品を読み解くときの難しさが、まさにこの点に集中的に

あらわれて、前方に立ちふさがることになるのだ。 いま私は、親鸞における

主題や思考軸に揺れが生じ、目標までが軌道修正を余儀なくされることになる

と言ったけれども、かれのこころの動揺は、すでにこの総序にあたる文章の

なかにその片鱗を見せている。

・・・・ここではそれは「教行証」とだけあって、「教行信証」とはなって

いない。 「信」という重要な一文字が欠落している。 いや、意図的に除かれ

ている。(要するに、親鸞自身の目標やら主題やら思考がはっきり分からんって

いっているんですね。 最初から最後まで疑問だらけだってこと。)

 

p43 

『教行信証』を読むとは、結局のところこのような迷路を歩いていくということ

なのだ。 親鸞の主題、親鸞の思想に接近していくための、こちら側のもう一つ

の思考実験の旅、ということになる。 そういう思考の旅をいわば強いられる

ことになるのだ。

(親鸞さんは結局何を言いたいの? って疑問が常に付きまとう、ってことの

ようです。)

p46 

もう三十年も昔のことになるが、大学院のゼミのテキストにこの『教行信証』

を選び、数人の学生諸君と二年間悪戦苦闘したことを思いおこす。 結局は迷路

に追いこんでいくだけの二年間だったが、「教行信証」という言葉がどのような

ことを意味するのか皆目見当がつかなかったことだけはよく覚えている 

その思いは学生諸君も同じだったのではないだろうか。 親鸞における主題の

主題化という思考実験の深さが、まだ理解できていなかったのである。

あいやいや~~、読めば読むほど 訳が分からんってことなんですよねえ。 

親鸞さんも いろいろ考え考え、実験的に自分の主題を捜し求めていたん

じゃないかってことね。)」

 

==>> 私がここでいいたいのは、要するに親鸞さんは、めちゃくちゃ

     引用が多くて、自分の主張らしいものは、ちょっとだけ、書いている

     のか書いていないのか分からないような書き方をしているという

     ことなんです。

     私は、それは、法然さんと明らかに考え方が違ってしまってことで、

     それを明白に書くことが遠慮されたんじゃないかと思ったわけです。

     グジグジと書くことで良く分からないように書いた。

 

法然さんと親鸞さんの思想の違いは、下のようなことであったようです。

 

「中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/09/post-0295.html

 

「「第十一章 大無量寿経 をめぐる解釈」

ー 親鸞もまた、「われも本願念仏のみを選択する」という

  宣言に心から信順して、法然の門に入ったのだった。

ー ところが、・・・自分の「教行信証」にとりくもうとしたとき、最初に掲げ

た言葉が、「われは大無量寿経を選択する」というメッセージだった・・・・

・・・要するに、親鸞さんの主著である「教行信証」は冒頭から

かなり挑戦状をつきつけるようなものだったってことみたいですね。

「けんか売りまっせ」ってなもんでしょうか。」

 

 

p87

 

それは、昔の書物についても言える。たとえば、親鸞が師事した法然の「選択本願念仏

集」は、弟子が書き写したというだけではなく、弟子が実際に執筆していた可能性が高い

当時、法然を批判した明恵は、法然には執筆能力が不足していることを指摘していた。

 

==>> 明恵さんのこの批判は、他の人は逆の評価をしているので、ともかくとして、

     弟子がいろいろ師に代わってやるというのはどこででも起こり得ることだと

     思います。

 

p89

 

議論に参加しているのは、皆、学者であり、・・・しっかりした史料に基づいている。

しかし、自説の正当性を証明することに力を注ぐあまり、都合の悪い史料を無視したり、

無理な推測を行なっている部分も少なくないように見受けられる

 

日本史の分野において・・・・「邪馬台国論争」がある。 こちらは、専門の研究者

だけではなく、小説家や素人なども参戦し、・・・これまで激しい議論が戦わされてきた。

 

・・・そこには郷土愛がかかわっていて、それが自説の正しさを強調する際の原動力

にもなっている

 

p90

 

ところが、聖徳太子をめぐる議論には、そうした郷土愛は関係していない。 関係が

あるとすれば、それはナショナリズムの問題である。

 

戦前には、聖徳太子に対する評価は今よりはるかに高かったわけだが、戦後はその反動

で、聖徳太子の価値を低く見積もる傾向が強くなっている。

 

==>> ここでは、この議論が政治的な性格を持ってきたことに懸念が持たれています。

     著者は、どちらにも与することはできないと書いています。

 

p91

 

法隆寺とはいったいどういう寺院なのか。 ・・・他の仏教寺院と比較したとき、特異な

性格を持っている。・・・・ 聖徳太子と仏教とのかかわりについても、法隆寺を見て

いくことで明らかになってくる部分がある。

 

==>> 著者はここで、文献に頼るだけではなく、法隆寺というものがもっている

     独特の時代的背景を探ることによって、聖徳太子の実像も掴めるのではないか

     と考えているようです。

 

p107

 

南面は「弥勒仏像土」である。 釈迦が入滅した後、56億7000万年後にそれまで

兜率天にいた弥勒菩薩がこの世に下り、釈迦に次ぐ第二の仏陀になって法を説くとされて

おり、その説法の場面を描いたものである。

 

p110

 

五重塔の内部には・・・特異な世界が広がっている。 金堂の仏像の並び方はほかに

例を見ないものだし、五重塔初重に法隆寺のような物語が展開されている寺院はほかに

ない。 

 

・・・聖徳太子が創建した法隆寺に、こうした法隆寺世界が展開されていることの意味

は大きい。 ・・・聖徳太子の信仰を考える上では、こうした宝物全体が、どういった

世界観を表現しているのかを理解しなければならない。

 

p113

 

聖徳太子が亡くなったのは622年のことで、法隆寺の創建が607年であると

すれば、若草伽藍は太子が生きていた時代に誕生したことになる。 そうであれば、

若草伽藍には太子の仏教についての考え方が反映されていた可能性が出てくる。

 

・・・・現存する法隆寺は、すべて670年以降のものである。・・・だが、焼失した

寺を再建する際に、若草伽藍のあり方を再現しようとした可能性は充分に考えられる

逆に言えば、まったく無縁なものが立てられたとは考えにくい。

 

==>> つまり、法隆寺の若草伽藍がもっていた聖徳太子の仏教に対する考え方が、

     今でも特殊な内容を保っている法隆寺に、その痕跡が残されているのでは

     ないかという推理のようです。

 

 

p117

 

釈迦三尊像と薬師如来像の光背銘に書かれていることをそのまま信じるならば、法隆寺

の創建は607年のことで、そのとき薬師如来像が造立された。 そして、聖徳太子の

死の直後、623年に釈迦三尊像が造立されたことになる。 光背銘には当然記されて

いないが、この二つの仏像はともに670年の法隆寺焼失を乗り越え、再建された金堂

に安置されたことになってくる。

 

逆に、光背銘の成立年代を疑うなら、・・・・・釈迦三尊像は創建時にもので、釈迦如来像

は再建後のものだということも考えられる。

 

==>> ここでは、様々なケースを考えて、それぞれについて考え得ることを

     検討しています。

     歴史学というのは、このような推理が様々にできる人じゃないと道理の通った

     筋道を導くことはできないってことですね。

     小説や映画ならば、不明な部分をどのようにでも膨らませて作品を作る

     ことができるのでしょうが。

 

p119

 

アルカイック・スマイルを浮かべている仏像ということでは、法隆寺ではほかに、救世

観音像や百済観音像のことが思い浮かぶ。 法隆寺以外では、飛鳥寺の釈迦如来像、

中宮寺の菩薩半跏像、京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏像などがあげられる。 いずれも、

7世紀に造立された可能性が高い仏像たちである。

こうしたタイプの仏像は、この時代に特有のもので、それ以降は造られなかった。

 

・・・何より重要なことは、釈迦という存在が中心に位置づけられているということ

である。

 

p120

 

だが、日本に現存する仏教の寺院について考えてみた場合、必ずしも釈迦が中心に

あるわけではない。 具体的に言えば、釈迦如来像を本尊としているようなお寺は、

意外なほど少ないのである。

 

たとえば、文化庁の「国指定文化財等データベース」では、・・・もっとも多いものは

観音菩薩像の539件で、・・・・・釈迦如来像は129件の第5位である。

 

==>> ここで著者は、仏像などから法隆寺世界というものを絞っていきます。

     確かに、仏教は釈迦が元祖で釈迦如来像が本尊になっているお寺が多いかと

     思いきや、私の近所のお寺をあちこち歩き回っても、本尊が釈迦というのは

     あまりありません。 日本で一番門徒が多いとされている浄土真宗では

     もちろん阿弥陀如来ですし、たまに釈迦如来があるのは禅宗系のお寺ぐらい

     です。

 

     ちょっと横道にそれますが、ここで浄土真宗と曹洞宗(禅宗)の比較について、

     2012年に読んだ本の面白い話をご紹介します。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-1577.html

     「「もう一つ、宗派の特徴が出るのが曹洞宗の場合である。曹洞宗は、浄土真宗

とは反対で、僧侶は必ず剃髪し、黒染めの衣を身にまとっている。 講演の後に

記念写真があったとき、黒を身にまとった数百人の僧侶のなかで、スーツ姿の

私だけが異質な存在に見える写真に仕上がった。これは、他の宗派ではないこと

である。」

「ただ、奇妙なことに、このような曹洞宗が平成4年版の宗教年鑑では、

信者数が 706万人で、浄土真宗本願寺派の694万人を超え、日本で最大

宗派だったとなっています。

そしてさらに、

ー 曹洞宗の寺院の数は1万4604ヵ寺にも達する。この数も各宗派の

なかで一番多い。コンビニエンス・ストアの店舗数で唯一1万店を超えている

のがセブン・イレブンだが、それでも1万3718店であり・・・・

「曹洞宗は葬式仏教の生みの親」 だと書いてあります。」

 

 

== その3 に続きます ==

 島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 3  法隆寺世界、日本霊異記、そして今昔物語は日本の仏教史である (sasetamotsubaguio.blogspot.com)



 

 

 

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