波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 3 やっぱり仏教は宗教じゃないんじゃない?

 

 

波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 3 やっぱり仏教は宗教じゃないんじゃない?

 

 

波多野精一著の「宗教哲学序論・宗教哲学」を読んでいます。

 

 

前回は「宗教哲学序論」でした。

ここから、「宗教哲学」に入ります。

 


  

== 「宗教哲学」 ==

 

p174

 

仏教が宗教と看做さるべきかという問題は、かなり長い間論議された事柄であり、今日に

おいては学界の大勢は明らかに肯定に傾いて居るものの、しかも否定的の答を与える学者

も・・・跡を絶ったとはいい難い。 この問題は論ずる者の立場によって異なった取扱い

を受けやすいのはいうまでもないが、同時に歴史的事実の真相如何の困難なる問題と

特に密接に聯関するゆえ、専門的論究によらずしては到底安全なる解決の立場を見出し

難き観がある。 

 

例えば現代の学界の趨勢に従って「聖なるもの」という点を等しく強調する学者の間に

おいてさえ、原始仏教における宗教意識の対象があるいは四諦にあるいは三帰にあるいは

涅槃に求められて居る事実、次にまた、涅槃の思想の解釈上の幾多の疑義などは、この

問題の複雑さを瞥見させるであろう。

 

==>> その2までは「宗教哲学序論」で、ほとんどが西欧のキリスト教に関連する

     歴史的議論がでていましたが、ここで仏教の話が述べられています。

     個人的に過去に読んで来た本などからの感想から言えば、私は少なくとも

     原始仏教は宗教というよりも哲学であろうと思っています。

     原始仏教で有名な「スッタニパータ」を読めば、ブッダ自身は仏教を起こそう

     という意識もなかったようですし、形而上学を語ることをしなかったそうです。

 

     「ブッダのことば」(スッタニパータ)

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

     「1. 仏陀本人はバラモン教時代のインドにあって、自ら仏教の

開祖になるというようなことは考えてはいなかった。

最初期の仏教は<信仰>なるものを説かなかった。 

何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかった

からである。

 

11. 釈迦にあっては、信仰は「理法に対する信頼」を意味しており、
個人に対する熱狂的服従ではない。

32. 釈迦は徹底した自力の立場を表明した。
わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ
得ないであろう。 ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、
そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

 

・・・これらを読むと、人格神への信仰ではなかったことがわかります。

 

ついでに言えば、私個人としては、日本仏教の法然までは戒律と修行であり、

信仰という形になったのは親鸞からではないかと思っています。

その意味においては、よく言われるように、阿弥陀一神教である浄土真宗は

キリスト教と似ているとされています。

 

 

p179

 

古の印度の敬虔深き人々が日々に祈ったのは暗より光へ、また死より不死へと、しかして

特にそれ等に先立って第一に、非実在より実在へと導かれることであった。 印度の

深遠なる宗教思想また新プラトン派や中世のマイステル・エックハルトなどにおいて見る

実在の思想は、この体験の最も顕著なる典型的なる表現である。

 

p183

 

形而上学は、それの本質上、思惟の労作に基づき、認識としての資格を主張し、しかして

学問――それの有力なる代表者らの言う所に従えば最も優秀なる完全なるーー学問の

体系として成立する。 これに反して宗教は人格的体験に基づき、その目ざす所は神と

の生の共同によって得らるべき魂の極み無き福である。 ここに吾々は両者の根本的

差異を見る。 

 

==>> 形而上学と宗教の根本的な違いを述べています。

この辺りの議論は私は理解困難なんですが、過去に読んだ龍樹の「中論」

     の中に西洋哲学と仏教について述べているところがありましたので

     ちょっと復習してみます。

 

     中村元著「龍樹」の中の、

「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-c073.html

     「p108
西洋哲学との相違

普通一般に有部は実在論を説いたといわれるが、・・・
西洋哲学でいう普通の実在論とは著しく意味を異にするものではなかろうか。

p109
諸学者によってプラトーンの哲学との類似が指摘されているほどであるから、

たといこれをリアリズムとよぶにしても実在論と訳すよりも実念論(唯名論

に対する)と訳したほうがよいかもしれない。
インド学者の中でも・・有部を「概念の実在論」とよんでいる

 

     p109
ところが、・・・概念のみならず命題の自体有を認めているから、むしろ現象学

の先駆思想、たとえばボルツァーノの哲学と類似している点がある。

結局、有部の思想に西洋哲学の「何々論」という語を持ち込むことは不可能なの

ではなかろうか。・・それに反対した中観派も・・・困難であると思われる。」

 

・・・この部分だけをつまみ食いすれば、仏教の中にもいろいろな派があって、

上記の「有部」とは「説一切有部」のことでして、

https://kotobank.jp/word/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8-87149

「小乗仏教の代表的一派。釈迦の滅後300年のころ,上座部より分かれた。

部派の祖はカタヤーヤニプトラ。自我は非実在,構成諸要素(諸法)は実在と

見て,全宇宙を五つの範疇(はんちゅう)75の構成要素(五位七十五法)に

分ける整然たる体系をつくり上げた。・・・この部派の教義は,大乗の主要な

論敵とみられたため盛んに研究された。」

 

・・・従って、中論を書いた龍樹からは否定されたということになります。

龍樹の「空の思想」についてはこちら、

https://kotobank.jp/word/%E9%BE%8D%E6%A8%B9-149660

「『中論』において確立された空(くう)の思想は、彼以後のすべての仏教思想

に最大の影響を与えている。すなわち、実体(自性(じしょう))をたて、実体的

な原理を想定しようとするあり方を、この書は徹底的に批判し去り、存在や運動

や時間などを含むいっさいのものが、他との依存、相待、相関、相依の関係

(縁起(えんぎ)のうえに初めて成立することを明らかにする。」

 

・・・つまり、仏教においても、実在論と非実在論が議論を戦わせていたという

ことになります。

 

そして、中論の読書のまとめのページで確認しますと、

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/02/post-3882.html

 

「p83

仏教思想は、つねに法に関する思索を中心として発展している。これに対して

大乗仏教、たとえば「中論」は「法有」に対して「法空」を主張した・・・

 

法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるといわれている。

 

p85

法とは一切の存在の軌範となって、存在をその特殊性において、成立せしめる

ところの「かた」であり、法そのものは超時間的に妥当する。」

 

・・・こういう議論を読んでいると、宗教と呼ぶにはあまりにも哲学的だと

思いませんか。

 

 

p190

 

・・・哲学思想が、宗教に対して全然独立の態度を取るものの如く解するやも

計られぬ。 げにギリシア哲学は神話よりの、また近世哲学はカトリック教会の

教義よりの、解放を意味したことは隠れもなき事実である。

しかしながらそれに心奪われて見失ってならぬのは、神話や教義や、一般的に言えば

宗教的表象が、決して宗教そのものではないことである。

 

・・・場合によっては、根源より遠ざかり宗教的意義を次第に失いつつ、なおそれ

自らの生命を保ち、客観的文化の世界における一勢力としての存在と活動を続ける。

 

==>> ここでの論旨とはちょっと外れるかもしれませんが、

     「内なる神」と「外なる神」との分裂ということが言えるかもしれません。

     既に述べた例でいうならば、ヘーゲルの「内なる神」でしょうか。

     それは宗教というよりも彼独自の哲学だったのかもしれません。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-c35641.html

     「p222 

「内なる神依存派」の人々と、宗教団体に属して他の信者との連携を求める

人々(これを「外なる神依存派」とよぶことにする)とが、厳密に一線で

画されて分れているわけではない。・・・両者の間を行ったり来たりして

いるのが現実であろう。」

 

 

p194

 

哲学的思想はいかに高遠の境に進み入ろうとも、意味の世界、「妥当」の世界を一歩

も踏み出すことを許されぬ。 それは一切思想の最高原理、最高前提としての絶対者の

イデーにまで登り、場合によってあるいはこれを神と名づけるであろう。 しかも

これは、名の如何にかかわらず、理念であり思想であるに止まり、宗教の意味する

実在する神とは明らかに区別されなければならぬ

 

==>> 哲学者ではありませんが、アインシュタインの言葉が意味するものと

     同じではないでしょうか・・・・

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-a3a824.html

     「「第一章: すこぶる宗教的な不信心者」

      「私は人格神を想像しようとは思わない。 世界の構造が私たちの

不完全な五感で察知することを許してくれる範囲で、その前に立ち、

畏怖の念に打たれるだけで十分だ。」

アルバート・アインシュタイン」

 

 

p199

 

啓示の種類、それの種々相については、今は深入りする暇が無い。

最後に述べたものは化身という類に属し、神が人と成るというを特徴とするが、

これにも種々特殊の相が成り立ち得る。 一層主観的なるものには、神託や霊感、

照明や直覚、エクスタシスや神憑りなどもあり、団体により個人により類や特質を

異にする。しかしながらそれ等すべてに共通であり、しかしてそれ等に啓示と呼ばる

べき資格を与える特質としては、特に先ず受動性の自覚を挙げねばならぬであろう。

・・・神は自ら天より降りるものであって人が地に引き下ろし得るものではない

 

==>> この著者のひとつの癖は「暇が無い」という言い方のようです。(笑)

     神の啓示の現れ方が書かれているのですが、ここに書かれていることが

     まあ常識的なものかと思います。

     しかし、この世においては時々「人が神を地に引き下ろし」ているケースが

     あるように聞いています。おそらくそういうのは商売の一種なのでしょう。

 

     一般的な啓示のイメージはこちらでどうぞ:

     https://kotobank.jp/word/%E5%95%93%E7%A4%BA-58838

     「神あるいは超越的存在が,一般的意味において人間自身の力では認識でき

ない秘密,特に神が人間の理解をこえて実在する本質が,いわば逆説的な緊張

関係においてあらわにされることをいう。人はこの啓示によって神との交わり

に入ることを許される。啓示は人間の予測をこえてただ神の側から一方的に

訪れるものであるから,キリスト教では,救いを目的とした神の恩寵としての

奇跡的行為とみなされる。」

 

・・・日本仏教においては、あまり神仏の啓示ということについて大袈裟に

いうことはないように思いますが、空海の場合はなにやら奇跡的なエピソード

が語られているようです。 まさに密教らしいと言うべきでしょうか。

 

p201

 

直観、観想、認識等の語が用いられる場合にも、それ等は宗教においては、単なる

理論的または美的の働きにおいてとは異なって、深く情意的人格的なる、従って

動的実践的なる意義を有するを常とする。 生の態度において革新や変動、場合に

よっては突如として来るそれ等、を齋すのが啓示の特徴である。 要するに宗教は

生真面目なものである。

 

==>> あははは・・・笑っちゃいけません。

     宗教は生真面目なものなのです。

     ここで観想という言葉が出てきました。 そして動的実践的という言葉も

     あります。 そのようなものとして私自身は昨年の12月から毎月一回

     阿字観会という瞑想あるいは観想の会に参加しています。

     なぜかと言うと、この本に何度も出てくる宗教的体験なるものを味わって

     見たいからです。 ですが、生真面目じゃないので足が痛いばかりで、

どうも無理みたいです。

 

 

p201

 

宗教そのものの立場――は事実主義と名づけられねばならぬであろう。 高次の実在

主義は高次の事実主義(実証主義)を必然的に要求する。 この事の必然的帰結と

して、神の存在の証明は不可能事の無謀なる企図として根柢より覆えされねばならぬ。

 

==>> カントの「神の証明」については、既に出て来ましたが、著者は否定的でした。

     ここでも否定しています。

     私はドーキンス著「神は妄想である」などという本を読みましたので、

     基本的にそういう考えかたではあるのですが、真言宗では一応大日如来

     なるものを人格紳のように掲げてはいるもののそれは法身であるとして

     いまして、つまり「真理そのもの、永遠の理法としての仏。」という言い方に

     なっていますので、アインシュタインと同じじゃないかと勝手に理解して

     います。

 

     苫米地英人著「人はなぜ、宗教にハマるのか?」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-2ba5b8.html

「p157 

ゲーデル自身はユダヤ系ではなかったと言われていますが、敬虔な

キリスト教徒であったのではないでしょうか。 彼は、不完全性定理

の証明が神の存在を否定するということにたいへん悩み、その後の

人生を神の存在証明のために費やすようになりました。

 

・・・そして、ついに頭がおかしくなり、療養先の精神病院で餓死

するという最期を迎えます。」

 

・・・このゲーデルの不完全性定理の証明と神の存在の否定については、

こちらのサイトに分かりやすく書いてありましたのでご参考として

ください。

https://www.metafaith.net/faith/incompleteness.html

 

 

p216

 

吾々は決して宗教的と美的芸術的との差別を軽視はしない。 むしろ両者の接触によって

促されやすき混同を、―――従って例えば宗教を趣味の事柄と見做すが如き、あるいは

芸術を宗教の位に据え立てようとするが如き、その他一般に唯美主義の態度を、唯理主義

(合理主義)と等しく力強く排斥する。宗教は実在との聯関を飽くまでも固執するものと

して徹頭徹尾生真面目でなければならぬ。

 

==>> 恐れ入りました。 私も観光ツアーで仏像を美術品としてしか観ることの

     できない不真面目人間でございました。ご勘弁ください。

     でも、やっぱり、美しい仏像は美術品ですよねえ。

     フェノロサさんが日本の貴重な仏像などを救ってくれたことを勘案して

     いただけませんかねえ・・・・・

     フェノロサ〜日本美術を救ったアメリカ人

     http://www.inori.nara-kankou.or.jp/inori/special/17fenollosa/

 

 

p221

 

宗教の正しき理解への第一歩は宗教そのものの立場に身を置き、それの体験が語るが

まま教えるがままに、偏見に囚われぬ耳を貸すという態度に存せねばならぬ。

宗教そのもの自己理解――これ以外のそれの正しき理解はあり得ない。

 

==>> まあ、これは確かにそうだとは思うんですが、

     中には過激思想をもつ反社会的で閉鎖的な新興宗派もありますからねえ。

 特に最近はSNSなどでの一本釣りも可能な時代ですし・・・・

 

 

p231

 

「われ神を信ず」といえば、この言は決して神の存在の肯定を意味するのでない。

それは「われはあたかも神が存在するかのように行為す」ということを意味するので

ある。 更に詳しく言えば、善が世界において無制約的価値と決定的意義とを有し、

従って世界の秩序は善の終極の勝利に導くという虚構のもとに行為するということを

意味するのである。 さてかくの如き世界秩序は全然空虚なる虚偽なるーー単に

事実と矛盾するばかりでなく己自らと矛盾するーー表象である。

 

p232

 

人はここに殆ど息詰まるばかりの不自然さを感ずるであろう。 真に自ら宗教を体験する

者は、果たして机上に組み立てられたかくの如き世界――自覚された虚偽の世界に、

真面目に安らかに生存し得るであろうか。

 

==>> なかなか厳しい言葉が続きますね。 不真面目な私にとっては、ここで

     述べられていることは納得できる内容なんですが、真面目な人にとっては

     不愉快極まりない記述ではないかと思います。

     一方で、そこまで生真面目な人がそんなにたくさんいるとも思えないのですが。

 

 

p235

 

実在するということは、意志に対して、それの前面に立ち塞がるもの、それの進行を遮る

もの、それに向かって抵抗を与え乃至は拘束を加えるものとして、すなわち畢竟、それに

働きかける力として、それとの交渉において立つ意志的存在者として存在することを意味

する。 それ故実在する神は、それの本質聯関上、同時に力の神でなければならぬ

しかもこれはまた宗教史の事実によって広く証拠立てられる事柄である。 

更に立ち入って人格的と呼ぶや否やは今しばらくこれを措き宗教の対象が、吾々において

吾々の世界吾々の生において何ものかを惹き起こす、力として体験されることは、疑いも

無き事実である。

 

 

p236

 

宗教の対象において力という要素が基本的意義を有することを示すに何よりも有効で

あったのは、未開人原始民族の宗教意識の研究である。

 

・・・原始民族の世界観の中心に立つものは、超自然的なる不可思議な力の信念である

ことが学界一般に承認されるに至った。

 

==>> ここで述べられているのは、人間にとっては理解の及ばない自然の力という

     ことなのでしょう。 その程度が高いものを超自然と呼んでいるように

     思います。 上記では未開人原始民族においてとしてありますが、

     科学的知識が大いに広まっている現代社会においても、なかなか先を見通す

     だけの自然の理解には達していないようですから、まだまだ一種の信仰や

     宗教が人間の心に入る隙間は多々あるように思います。

 

 

p239

 

それ故神の全能は客観的学的認識の立場における原因の意味に因果律の意味にではなく、

日常の生活において吾々自身において、即ち真に実在に出会い得る世界において、体験する

具体的の力の意味に解されねばならぬ。 ここよりして吾々は、神の働きが、世界の発生

という単独なる一回的なる出来事と結びつけられ、従って世界形成乃至創造の働きとして

表象されやすきを解し得るであろう。

 

p240

 

・・・一回的出来事の歴史的物語としては、これらすべての表象はもちろん直接に宗教

に属するものではないが、しかもかくの如き表象が、宗教における神の力の、従って

人間の無力と依属性との、体験と結び付きやすき内面的本質的聯関の存することは、特に

注意すべき事柄である。

 

==>> 確かに、キリスト教徒でもない私のような日本の凡人が、小さい頃から

     「天地創造」などという映画を観たからといって、それを絶対的な真実と

     受け取ることもなく、単なる西洋の神話だなと思って観てきたわけですから、

     こういう論はすんなりと入ってきます。

     一方で、米国などでは、キリスト教系の私立の学校などで、創造神話を

     歴史的事実だとして教え、進化論は嘘だと教えるところもあるそうですから、

     米国というのは根っからの自由主義なんだなと呆れながらも立派だと

     思います。(かなり皮肉が混じっていますが・・・・)

     生物は多様性がないと地球環境の変化の中で生き残ることはできない

     そうですから、それもありかなと思うわけです。

 

 

=== その4 に続きます ===

 波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 4 「無知の避難処」、吾々は「もの」なのか「ひと」なのか (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

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