波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 4 「無知の避難処」、吾々は「もの」なのか「ひと」なのか
波多野精一著「宗教哲学」を読む ― 4 「無知の避難処」、吾々は「もの」なのか「ひと」なのか
波多野精一著の「宗教哲学序論・宗教哲学」を読んでいます。
「宗教哲学」の2回目です。
p241
要するに世界そのものの立場に留まる以上は吾々はいずこにも全能の力に出会わない。
ここより観れば神は不可知的なるもの、いわゆる「知られざる神」である。
不可知論こそ吾々の唯一の正しき立場であるであろう。
それ故にもし神を世界原因と見做して、それによって世界の、並びに世界の事物の、
あることまたしかあることを説明しようとするならば、その事はかえって未知者を以って
既知者を理解しようとする愚挙を敢えてするに等しいであろう。
p242
世界の認識という観点より観れば、神はスピノザの適切なる評言の如く「無知の避難処」
に過ぎないのである。
宗教は決して、人のややもすれば信じやすき如く、いわゆる「世界の謎」を解くものでは
ない。
==>> はい、私も神仏にまだ直接会ったことはないので、その意味では不可知論者です。
なるほど、スピノザさんはいいことを言いますねえ。
「無知の避難処」ですか。
その意味でいうならば、「神は妄想である」を書いたドーキンスさんは
徹底して辛辣でした。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-f757c6.html
「p134
神経生物学者のサム・ハリスが「信仰の終焉」で・・・
「合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ
人々を指す名称はいくつもある。 そうした人々の信念が極端に
ありふれたものであるとき、私はそれを「宗教的」と呼ぶ。
そうでないときには、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは
「妄想的」・・・と呼ばれる。
明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。
p148
「知的な意味で著名な人びとの圧倒的多数はキリスト教を信じて
いないが、大衆に対してそのことを隠している。 なぜなら、
彼らは自らの収入が減ることを怖れているからだ。」
バートランド・ラッセル
p152
・・・すぐれているとみなされているアメリカの科学者のうちで、人格神を信じ
ているのはわずかに約7%でしかないことを示していた。この無神論者の圧倒的
な優勢は、90%以上の人が何らかの超自然的存在を信じているという、
アメリカの人口全体の統計データとはほとんどまるで正反対である。
・・・ここで注目すべきは、アメリカの大衆全体の信心深さと、
知的エリートの無神論の両極端というべき対立である。
p156
・・・ポール・ベルが発表したもの・・・
「宗教的な信念と、知能もしくは教育レベルとの関係についてなされた
1927年以降の43の研究のうち、4つを除くすべてで反比例関係が見出
されている。つまり、ある個人の知能あるいは教育レベルが高くなればなるほど、
宗教的、あるいは何らかの種類の“信仰”をもつという可能性が小さくなるので
ある」。
・・・アメリカという国は、日本人が想像する以上に貧富の差が大きいそうです
ので、どこまでの教育を受けられるかが問題という側面もあるでしょうし、
政治的な闘争の中で教育内容も決められるという制度にも注意が必要だと
は思いますが、その点では日本は良い悪いは別にして科学をまともに教えて
いるんだろうと思いますし、いわゆる無宗教という人たちが多いことは
全体として科学に対する異常な反発がないことが幸いしているのかもしれ
ません。
p246
ここに吾々はエックハルトのかの意味深き二様の無の思想を想い起すであろう。
神より観るとき、世界は無に等しく従って無より造られたるものとなり、これに反して
神自らは有そのものであるが故に、被造者の理解に対してはかえって無である、云々。
ここに吾々は一切を無に化する神の絶対的実在性が深き体験よりして明瞭に力強く
言い表され居るを見る。 宗教に入るとともに吾々は先ず無邪気なる直接的なる肯定
より自由となり、一種の反省の世界いわば宙に浮いた世界に入るのである。 宗教の
世界はイデア性観念性のそれでなければならぬ。
==>> 「宗教に入るとともに吾々は先ず無邪気なる直接的なる肯定より自由となり、」
という部分が理解できません。
「一切を無に化する神の絶対的実在性」が宗教にはあるから、一切が無になって
自由になるということなのか?
「直接的なる肯定」というのは何を肯定するという意味なんでしょうか。
「一種の反省の世界に入る」とありますから、一切を否定する宗教の世界に
入って、「宙に浮いた」感じになるのでしょうか。
昔、怪しげな宗派の親分が「宙に浮く」とかやってたそうですけど。
p257
文化のうちに無邪気に生きる限り人は自己と自己を取り囲む世界とにおいてのみ実在を
体験する。 イデアの世界は彼の生の欠くべからざる要素をなしているに相違ないが、
他の要素に包まれて未だその特有の姿を現さない。生の葛藤によって彼の良心が目醒め、
あるべきものとあるものとの乖離の意識によって無邪気の楽園が失われると共に、人は
はじめてイデアの前に立つを知る。 そこよりして実践的イデアリスムまた従って
イデアリスムの宗教は発生する。
主義や思想や当為や乃至は観念的形象としての国家や社会やまた自然や理性や法則など
に対して感激帰依献身等の態度が採られるところには、少なくも潜在的にイデアリスムの
宗教がすでに成立つというべきであろう。
==>> p246で「宗教に入るとともに吾々は先ず無邪気なる直接的なる肯定
より自由となり、」という文章がありましたが、ここでは「文化のうちに無邪気
に生きる・・・」というのが出てきました。
文脈として繋がっているかどうかは自信がありませんが、繋がっていると
するならば、現実の文化的環境を無邪気に肯定していた世界から
宗教の世界に入って反省あるいは批判的に見る目が出来るという意味に
とれるかもしれません。ただしここでは「イデアリスムの宗教」ということ
のようです。
p257の前段については、納得できるのですが、後段の国家や社会や・・
という所まで行くと、私としては何となくピンときません。
イデアリスムというのがいわゆる「内なる神」としての意味でしか私には
理解できないからです。
p259
すべての善や美の判断を可能ならしめるもの、善そのもの美そのものは、かくの如き
判断に真理性を与えるものとして、実在する永遠的真理そのものと同一でありそれの
うちに含有される。 いわゆる真善美の三つの原理を相並んだものとして押し立てるに
与って力あったアウグスティヌスにおいてさえも、「真」はかくの如く特に優越的意義
を有したのである。 アウグスティヌスの上述の議論は通常「神の存在の証明」と
呼ばれる。 この名称が適当なものであるや否やは別問題として、吾々はそれが、古く
より伝わるあらゆる神の証明に共通なる、基礎的体験の表現として、典型的意義を
有することを、興味深い事実として注意せねばならぬ。
==>> おお、「真善美」という言葉が非常に懐かしく響きます。
私が二十歳の頃、この真・善・美という言葉が流行っていたような記憶が
あります。 (今でも私が気が付かないだけで、一部の人にはあるのかも
しれませんが・・・)
p269
吾々は名無きものーーあらゆる内容あらゆるイデアが断然否定されたるものーーへと
飛躍を試みねばならぬであろう。 かかる否定とともに、吾々は単に自然的実在の世界
のみならず、イデアの世界意味の世界をも、従って世界一般を後に見棄てるであろう。
しかしてこの飛躍とともに吾々はもはやイデアリスムを去って神秘主義の国の住民と
ならねばならぬであろう。
==>> イデアリスム(理想主義)から神秘主義への飛躍がここに書かれています。
それでは理想主義とは何なのかですけど、
https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E6%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9-148833
「古代では、この考えはプラトンによって代表される。彼は感覚に不信を示し、
この現世を超越したところに実在を求め、永遠不変なイデアidea(ギリシア語)
の世界を考えた。魂は本来イデア界に属すべきものであるのが、肉体と結び付き、
いわば牢獄(ろうごく)の中に捕らえられている。その魂を肉体的な汚れから洗い
清め、その本来のあり場所に帰すことが哲学の使命であるというのである。」
・・・私自身は、イデアリスム=哲学、神秘主義=宗教という単純な区別
を以前から持っていましたので、宗教哲学という意味では、これは
当然といえば当然かなと思います。
p283
・・・対象そのものにとっては、それの宗教性は非合理性に存する故、既に宗教的と
して成立する対象の側から見れば、それの非合理性従って宗教性に過度とか極度とか
分量上の差別を設けるはいわれ無き事となるであろう。 しかしてこの意味の「非合理性」
と徹底せしめるならば、対象に関する一切の述語はーーオットーも原則としては明らかに
承認する如くーー悉く譬喩的象徴的となり、従って厳密の意味における概念的表現では
なくなり、換言すれば、この意味において等しく皆非合理的となるが、同時に概念的
言い表しとして理解し得定義し得る意義を蓄えて居る点においては、等しく皆「合理的」
でなければならぬであろう。
==>> 非合理性=宗教性とあるのは、まさにそうであろうと思いますが、
仏教の本を読んでいると必ずしもそうだと頷くことはできません。
もちろん宗教宗教している経典もありますが、龍樹の中論などを読んで
みると宗教というより哲学、非合理というより合理を感じます。
p285
然らば主体の側体験の側より見て、神秘主義に本質的なる特殊の傾向は何であるか。
それは直接性の完全なる実現、それへの努力乃至それの体験、といい得るであろう。
宗教はもと聖なる実在の体験、それとの人格的交わりである。 吾々の人格と宗教的
対象との間に生の共同・実在的共同が成り立つことは、宗教にとってはそれの本質的
構造をなす最も重要なる事柄である。
p286
宗教的体験が相反対するものの合一、人間の体験であってしかも神の(との合一で
ある)体験である点、にこそ非合理的契機は求むべきである。
==>> 「それへの努力乃至それの体験」と書いてあります。
私が毎月一回阿字観会という瞑想の会に参加しているのも、そのような
宗教体験というか神秘体験というか、そういうものを体験したいから
なんですが、なにせ足が痛い・・・・
ちなみに、その阿字観や月輪観で言われるのは、一言でいうならば宇宙とひとつ
になる・・・というようなイメージなので、ここで述べられている「吾々の人格
と宗教的対象との間に・・・・」という内容とはちょっと違うような気がします。
この本では、おもにキリスト教を対象として書いてあるようなので、
人格紳が対象となっているように感じますが、仏教の場合は、一応様々な仏様
があるにしても、仏様との合一というイメージではなく、法つまり法則を
体感する、「空」を体感する、というような意味合いなのではないかと感じます。
体感してみたいものです。
p287
「神に成る」ことはそれであらざること、従って非同一性をなお含むが故に、かの
「神に成りつつ否神でありつつ」というプロティノスの句が模範的に言表したように、
直接性の傾向努力は「神である」ことにおいて、換言すれば、同一化ではなく同一性
において、はじめて安住すべき究極の地を見出すのである。
ウパニシャドの有名なる(「われはブラフマなり」)や(「それこそ汝自らなれ」)を
はじめとして、東西古今を通じて聞こえるこの種の告白は、神秘主義の肺腑よりの声
である。
==>> おお、ここにウパニシャド哲学が出てきました。
これは「梵我一如」のことを言っていると思われます。
https://kotobank.jp/word/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82-632009
「自然的世界の根本原理であるブラフマン(梵)と,人格的な自我の原理である
アートマン(我)との本体が同一無差別であるという思想。インド哲学の中で,
特にウパニシャッドに基づく正統バラモン教の中心思想である。」
お釈迦さんは、バラモン教を批判する社会運動みたいなことをやっていた
そうで、信仰も捨てよ、呪術はダメだ、形而上学的問いには敢えて答えないと
いう態度だったようなので、宗教というよりやはり哲学だったのだと思います。
こちらのサイトで、バラモン教と仏教を比較していますので、ご参考まで。
https://true-buddhism.com/religion/brahmanism/
「バラモン教(ヒンドゥー教)では、一切を創造した神が世界や生命を造ったの
ですが、仏教では、世界も生命も無始無終です。」
「ヒンドゥー教には、このような身分差別や男女差別が、現在も根強く残って
いるのです。ところが仏教では、このような厳しい身分差別の社会にあって、
すべての人は平等であると教えられています。」
「ヒンドゥー教では色々な神が出てきますが、仏教には出てこないという
ことです。」
「人生の解決としては、バラモン教(ヒンドゥー教)では、梵我一如を教えます
が、仏教では諸法無我を前提として、苦悩の根元をなくして変わらない幸せに
なることです。」
・・・・日本に神様や仏様がたくさんいるのは、ヒンデゥーの神々が移住して
来たからのようですしね。
p288
・・・もし対象に関しては極度の否定を、例えば無というが如き述語を用いながら、また
自我の態度に関しても自己克服・世界否定などについて語りながら、実践の外面と現実
において否定の生活様式を貫徹するを敢えてしなかったならば、神秘主義としてはそれは
不徹底、場合によっては偽善・自己欺瞞であるを免れがたいであろう。
歴史の示すが如く、徹底的なる神秘主義は、世捨て人の間に僧院修道院の内において、
自然に自由に育ち得るのである。
==>> そうですか、神秘主義を標榜するには世捨て人のような生活が必須という
ことですか。 しかし、仏教の修行の場のイメージは神秘主義というよりも
修行という感じでしょうか。 一方で、空海の密教においては、顕教との
違いを強調していますから(現代の実状は知りませんが)、呪術のような
密教らしい神秘性はあるのでしょうね。
p294
神秘主義における「一者」の主張は・・・・単なる思想内容として意味的存在を保つもの
として、思惟され乃至直観されるものではなく、厳然たる実在として体験される。 それは
実在として、吾々の人格の集中を、自我の中心がそこに吸収されることを、要求する。
かくして、この種の体験は、エクスタシスと総称され得る状態、即ち日常の生活が全く
休止し日常の自覚が全く失われ、魂がわれ自らがぬけ出でてわれ自らのもので無くなった
と感ぜられるような状態、においてしばしば行われる。
==>> ここでの「一者」性は、哲学の場合はその対象を対象として観想する立場だが、
上記のバラモン教におけるような「梵我一如」のように神と一体になるという
イメージであるようです。 完全に日常の感覚が無くなってこその神秘主義
ということになりそうです。
p319
いかなる存在も単に観られるだけ使用され処理されるだけには尽きはしない。 普通「もの」
として取扱われ呼ばれるもの、例えば一枝の花、ひとしずくの水も、それ自らの実在性を
主張するものとしてわれに迫り来りまたわれに何事か訴え何事かを語る。 かかる限り
それは実は物的ではなく「人」的な存在を保つのである。 しかして反対に、人間と
呼ばれる所のものも、ある目的と手段として、例えば一定の任務を果たすべき組織の一員
としてあるいは享楽のための具としてなど観られ取扱われる限りにおいては、または
単なる表象内容として体験される限りにおいては、「もの」として存在するに過ぎぬ。
==>> ここの前段の部分は、日本の八百万の神々のような多神教を想い起させますが、
後段の部分は、実に殺伐とした現代のビジネス社会をイメージさせますね。
そして、ここで思い出したのが、人としてみるか、モノとしてみるかの
複雑な現実の世界です。 それは以下のような話でした。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-2ba5b8.html
「p098
この神父は、乗員たちに祝福を与えたということが伝えられています。
原爆投下のボタンを押し、大量殺戮を行う乗員たちの迷いと葛藤を
鎮めるために、神父は神の祝福を唱えました。
いまでもイラクやアフガニスタンの米軍には、たいへんな数の
従軍牧師がついています。
・・・
「大丈夫、きみは天国にいける。 神も祝福してくださる」
「p102
1600年にインドに渡り、肌の黒いインド人を見たヨーロッパの
貿易商が、同行した神父に、「この肌の黒い人は人間ですか?」と尋ねました。
・・・
神父はその場で答えを出さずに、バチカンに質問状を送ります。すると、
しばらくしてバチカンから、「人間ではない」と記された返書が送られてきます。
それは、「インド人はキリスト教徒ではない」という理由によるものです。
p103
キリスト教徒以外は人間ではなく奴隷だ、という当時のバチカンの判断
が、ヨーロッパに莫大な富をもたらすのです。」
・・・・つまり、人間以外のものを「モノ」として扱うばかりか、歴史的には
ある宗教宗派、もしくは肌の色によって「モノ」として扱うという現実が
あった、あるいは今もあるという現実です。
p327
換言すれば、文化を創造するもの、文化を通じて真に行為するもの、「もの」の世界に
手段として道具としての意味付けをなすもの、真の中心として内容に表現性象徴性を
与えるもの、真に語りあうもの、こそ人格である。
「もの」においては実在性は表現に吸収され、かくて内容は表現性従って生命性を失って
固定しつつ枯死するに反し、「ひと」においては、内容は表現性象徴性とともに生命性
を保ち、含蓄と流動性とを示しつつ、実在の深み厚み強みによって支えられるものとなる。
人格と人格との共同態においてこそ世界の真の実在的内容は成り立つのである。
==>> この部分を読んでいると、著者が言いたいことの文脈とは外れますが、
なにやら「空」の論理を連想させます。 つまり、縁起とか相依りという
相互作用によってすべてのものが生みだされるという考え方です。
この部分に書かれている言葉を拝借して言い換えれば、人格と人格の
相互作用によってこそ実在的内容が成り立つと言えるのではないかという
連想です。
p349
カントの答は簡明であった。 一般的に言えばあらゆる理性的存在者は、従ってかかる
ものとして特に人間は、絶対的価値を有するものとして、従って他の何ものかの手段
として使用されぬものとして、簡単にいえば自己目的として存在する(あるいは実在
する)。 かかる究極目的として理性的存在者は「人格」である。 もっとも「人間性」
は手段として使用されることを必ずしも拒否せぬ故、それは理性的なる限りにおいて
のみ人格たる資格を保ち得る。
==>> ここは、実は著者の文脈を見失ったのでよく理解できないんですが、
おそらく理性的存在者としての人間は、上記にあった「もの」とはなり得ない。
なぜなら自己目的として存在できるからである、ということでしょうか。
しかし、その後の「人間性」が手段として使用されるという意味が分かりません。
ここでいう「人間性」とは何なのか・・・・
p355
人格はそれの成立の鞏固なる地盤を獲得するであろう。 もっとも吾々は哲学者によって
しばしば要求され乃至主張されたいわゆる無前提の立場――孤立的自我の全能の夢――
を潔くかなぐり棄て、すなおに「他者」(他我)の実在性の前提に立つことを覚悟せねば
ならぬ。 これ即ち「愛」の立場である。
かくて、自然・文化・道徳(愛)――主体・自我・人格――これら三個の段階を生の頂点
へと登り窮めることによって、吾々ははじめて宗教、しかして特に人格主義の宗教、の
正しき真の姿を観得るであろう。
==>> この部分は 第4章の「愛」の神・・・の中で述べられていることなんです。
「自然・文化・道徳(愛)――主体・自我・人格――」とまとめてあった
ので、やっと著者の主張するところの全容が見えて来た感じがします。
道徳=愛という点は まだピンときませんが・・・・
いずれにせよ、著者のポイントが「人格主義の宗教」というところにあることは
ここではっきりと分りました。
== その5 へ続きます ==
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