末木文美士著「仏典を読む」を読む ― 2 般若心経、理論か実践か、空には二つの意味

 

末木文美士著「仏典を読む」を読む ― 2 般若心経、理論か実践か、空には二つの意味




末木文美士著「仏典を読むー死からはじまる仏教史」を読んでいます。

  

p81

 

「無量寿経」や「法華経」は、もともと「空」の哲学とは無関係で

あった。 「空」だけでなく、東アジアの仏教の基礎となる「仏性」

とか「如来蔵」(すべての衆生に内在する、仏になる可能性)の思想

もまだ入っていない。 そもそも最初は「大衆」という自覚さえも

なかったと思われる。 そうしたさまざまな改革運動が統合され、

「大乗」として自覚されていく中で、次第に「空」の哲学がその

中核に置かれるようになり、その際に、哲学者竜樹の果たした役割

は大きなものがあったと考えられる。

 

==>> さて、ここで竜樹さんが出て来ました。

     2012年に中村元著 「龍樹」を読みました。

     その時の感想文をこちらのブログに書いています。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/11/post-54b6.html

p5
仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」とよぶ。
空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが
固定的な実体を有しない
、と観ずる思想である。

結局これが結論みたいなものなんでしょうが、その歴史について
以下のようにあります。

ー すでに原始仏教において説かれていた。
ー 大乗仏教初期の「般若経」で発展、基本的教説となった。
ー 龍樹がこれを哲学的・理論的に基礎づけた。
ー 日本において「八宗の祖師」と呼ばれる。

一応、「原始仏教」においても「空」はあったってことですね。
それが「大乗仏教」で発展した。

そして、龍樹の著書については、
ー 代表的著作は「中論」
ー インドの哲学的思索の中でも最も難解なものの一つである。
ー 「中論」の現代語訳を読んだだけでは、到底理解することはできない

凄いですね。「理解することはできない」と断定されています。
だから、いろいろと解説を読まないとだめだよってことなんです。

 

==>> と言う事ですし、学者によって様々な解釈がある

     ようですから、ここではさらりと流します。

 

     また、「無量寿経」については、2017年に

     こちらに感想文をアップしました。

     「浄土三部経 -上ー 無量寿経 中村元ほか訳」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2017/04/post-5844.html

 

p84

 

段落に従って見ると、以下のような展開になっていることが分る

だろう。

(これは「般若心経」のことです・・・)

 

1. 観自在菩薩に託して、般若波羅蜜多の行により「空」が体得される

ことを説く。

2. 「空」と「色」などの諸要素の一体性

3. 否定的表現により「空」を示す。

4. 「空」の実践性とそれによって到達する境地。

5. 般若波羅蜜の呪。

 

==>> 書いてある内容としては、上記のようなことなの

     ですが、それをどう解釈するかについては、山ほど

     本があります。

     私も何冊か解説本を読みましたが、以下のような

     ものがありました。

 

私が過去に読んでブログに感想を書いたものは以下のような本でした。

 

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-e49a.html

 

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/01/post-556c.html

 

松原泰道著 「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-ddc7.html

 

松原泰道著 「般若心経入門」 VS 宮坂宥洪 2回目

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-6755.html

 

==>> この中で一番面白かったのは宮坂さんの本でした。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-e49a.html

     「p185

「般若心経」は「心の大切さ」」を説く経などでは全然

なくて、むしろその反対に、心というようなものはないのだ、

ないということが観察できるレベルのフロアがあるのだ、

ということを説いている、そんなそれこそ恐るべき経典なのです。」

・・・それ以上に驚いたのは、宮坂さんの他の著者に対する

攻撃的な文章と翻訳の困難さでした。

 

p86

 

「山は山でない。 だから山である」などといっても、それこそわけの

わからない禅問答だ。 もちろん大拙の言いたいことは、その禅問答が

決してわけのわからないことではなくて、そこにこそ宗教の本質がある

ということだ。

もっとも、あえて禅問答を持ち出さなくても、それほど論理学の法則

通りに世界が動いているわけではないことは、今日ではむしろ常識

なりつつある。

「私は私であり、私以外の何ものでもない」という「私」のアイデンティティ

は、今日ではだいぶ危なくなってきて、それほど自信をもって言えなく

なってきた。 

 

p88

 

ここで言われているのは、菩薩は衆生を導いて涅槃に入らせるけれども、

その衆生に対して執着しない、ということである。

論理的に言えば、もし衆生の存在が固定的なものであれば、衆生の存在に

変化はありえないことになって、救済の可能性はなくなってしまう。

 

==>> 確かに、「私は私である・・・・」と自信を持って言えるかと

     問われれば、なかなか難しい話になりそうです。

     これまでに、神経科学や量子論などの科学的な本をいろいろと

     読んできたのですが、それを読んでいる内に、自分の脳が

     ちょっとしたことで大きな変化をしうることや、自分の身体が

     つきつめると素粒子でできている・・・などということを

     考えると、自分の自由意志はどこにあるのかという根源的な

     ところに行き着くからです。

     自由意志のないところに、自分というものが可能なのかという

     話になります。

     純粋経験とかクオリアとかいうものにしても、そこで働いている

     志向性はどこからくるのか。

     それは結局遺伝子のなせる業なのか・・・・

 

p89

 

この世界を「苦」と見、その原因を、万物が変化するという「無常」に

求める。 なぜ万物が変化するかというと、万物の根底には不変の本質

(我)がないからであり、それが「無我」の原理となる。

しかし逆に言えば、万物が変化するからこそ、「苦」から脱し、理想状態

である「涅槃」(=楽・幸福)に達する可能性も生まれる

 

==>> 我というものに執着し、変化を認めなければ苦が生ずる。

     ここでは仏教的な考えかたが書かれているんですが、

     上の科学的な本と重ねて考えてみると、結局同じことを

     言っているようにも見えてくるのが不思議です。

 

p92

 

「空」には二つの意味があることになる。

一つは、原始仏教の「無我」を継承するもので、固定的な本質(我)を

否定し、そのことによって執着を去り、原始仏教の実践性を取り戻そう

とするものである。

もう一つは、そうした実践の道も含めて、言葉による説明をすべて否定した

悟りの体験そのものである。

・・・・

肯定に戻る否定と、否定をも否定する否定とーーそれは「心経」において、

「色即是空、空即是色」という肯定に戻っていく方向と、「不生不滅、不垢不浄」

以下、「不」と「無」によって、徹底的に否定を連ねていく方向とに対応する。

 

==>> 般若心経には様々な解釈があるので、私としては、一応

     今や真言宗智山派のお寺の準檀家という立場上、

     下記の解釈を私の建前とします。

 

     というのは、「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)の本を

書いた宮坂宥洪さんは 真言宗智山派の最高研究教育機関で

ある智山伝法院の院長で仏教学者だからという理由にしておきます。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-079f26.html

     「・・・・この経典を読む私たちの立場からいうと、私たちが

般若派羅蜜多の修行を実践しようとするならば、このように

観察しなさい と、観法の手順が示されているということです。 

結局、般若心経はマントラ念誦法の指南書というべき性格の

経典なのです。」

     ・・・こういう解釈であれば、今参加している阿字観という

     瞑想法にも繋がるという都合の良さがあるからです。

 

p96

 

竜樹の場合もまた、論法こそ少し違うが、それに似ていて、運動や因果を

否定しているように見える。ところが、・・・序で竜樹は仏を「因縁を説く

こと」ができたと言っている。・・・どうして運動や因果を否定するような

論法から、「因縁を説くこと」ができるのであろうか。

 

p97

 

竜樹の立場は、部派による原始仏教教理の固定化に対して、もう一度

原始仏教の現象主義的な「無我」の立場を取り戻そうとするものであり、

その点で「金剛経」などとまったく同じことになる。 現象の世界において

はじめてものの生成や運動を認めることができるのであり、その根底に

何らかの固定的な実在を想定すると、生成や運動が成り立たなくなると

いうのである。

 

==>> ここは非常に興味深いところです。

     なぜかと言えば、最新の宇宙論、ビッグバンとか特異点とか

     言われる理論に似ているような感じがするからです。

     

     「スティーブン・ホーキング著「ビッグ・クエスチョン」」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/05/post-8dfa9d.html

     「p49

・・・もしもすべてを足し上げれば宇宙は「無」になる

と言うのなら、それを作るために神を持ち出す必要はない

ということだ。」

「p52 

ここが決定的に重要なところだが、自然法則に従えば、

宇宙は陽子と同じく何の助けもなく自発的にひょっこり

出現できるだけでなく、ビッグバンは原因がなくても

起こりうる、原因はいらないのだ。 

この説明の背景にはアインシュタインの理論があり、

・・・ビッグバンの瞬間には、時間に途方もないことが

起こった。時間そのものが始まったのだ。」

「p54

 ビッグバン以前には時間が存在しなかったのだから、神が

宇宙を創造するための時間もなかった。 それはちょうど、

地球の端へ行くためにはどちらの方角を目指せばよいかと

尋ねるのに似ている。 地球は端のない球なのだから、

端を探すという行為には意味がない。」

 

そして、特異点については、こちらのサイトに以下の記述が

あります。

(東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 須藤 靖、

 日本大学での講義)

http://www-utap.phys.s.u-tokyo.ac.jp/~suto/myresearch/nichidai06_1.pdf

「英国のロジャー・ペンローズとスティーブン・ホーキングに

よって、一般相対論によれば初期特異点(宇宙の始まり)が

必然的に存在することが証明された1970年)」

 

==>> ド素人の私がただ単に似ているなと思っているだけ

     のことですので、お許しください。

          それにしても、竜樹さんの論理は凄いっすねえ。

 

          おまけに、「原始仏教の現象主義的な「無我」の立場」

          というのも、最近読んでいる本の中によく出てくる

          純粋経験とかクオリアに繋がるのが示唆的です。

 

p98

 

西洋の哲学では、概念に対応する対象が実在するという実念論と、それを否定

して言語に対応する実体はないとする唯名論の論争が長い間行われたが、

仏教は基本的に唯名論の立場に立つ。

 

無自性の立場は、このような哲学的な議論の地平だけに位置するものではない。

それは原始仏教の実践主義の立場を取り戻すことを目的としている。

 

==>> 唯名論についてはこちらで。

     https://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E5%90%8D%E8%AB%96-144573

     「中世哲学において、普遍を実在とみなした実念論に対して、

物または個体のみが実在し、普遍は個体から抽象した名に

すぎないとした理論。」

 

一方の実念論はこちら。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E5%BF%B5%E8%AB%96-74195

「西洋中世のスコラ哲学で、個物のみを実在とする唯名論に

対して、類・種のような普遍が実在であると主張する説

この説は二様に分かれる。一方は、普遍は個物に先だって原型と

して存在し、個物は普遍の模写としてのみ存在すると主張する

プラトン風の実在論であり、その主な哲学者はアンセルムス、

エリウゲナである。他方は、普遍は個物から離れて存在する

のではなく、個物の中に実在すると主張するアリストテレス風

の実在論である。実在論。概念実在論。」

 

・・・私自身はどうかと言えば、50年ぐらい前にプラトンのイデア

みたいな本を読んでいたので、プラトン風の実在論に馴染みがある

んです。 

最近は空海の密教の本をいろいろ読んできたので、大日如来が

宇宙の法則として実在して、その現象面として、あるいは化身と

して、お釈迦さんが地上に現れた、という理解をするならば、

「普遍は個物に先だって原型として存在し、個物は普遍の模写

としてのみ存在する」と繋がるように思えるんですが、

この本の著者は「仏教は基本的に唯名論の立場に立つ。」と述べて

いますので、私の理解が足りないみたいです。

 

p100

 

「中論」のはじめの「八不」で言えば、「不生不滅」等で表現されるのは、

単なる否定ではなく、そのような二元対立を超えた何かの実在を指示すると

見ることもできる。 そうなると、これは新たな実在論へと導く可能性

出てくる。 それは一種の神秘主義とも言うべきものに近くなり、密教など

はその方向を強く推し進めることになる。

 

このように見てくると、「空」と一口に言っても、その解釈にはかなり

大きな幅があることが分る。

 

==>> ここでちょっと安心しました。

     「解釈にはかなり大きな幅がある」は慰めになります。

     私は若いころから神秘主義的な本を好むようなところが

     あったのでしょうがないですね。

     しかし、上にも書いたように、最新の量子論や宇宙物理学

     のようなものが、仏教、密教と馴染む感じがするのは

     どういうことなんでしょうか。

 

p109

 

自らの心こそ、もっとも身近でありながら、実はもっともわけの分からない

ものであり、「私」のもっとも近くにある他者である。 その心の分析は、

インドではアビダルマから大乗の唯識の哲学への展開の中で深められた。

唯識学における無意識の発見は、仏教の理論の中でももっとも精緻なもの

である。

 

==>> 唯識については、wikipediaでは以下のような記述があります。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98#%E6%A6%82%E8%A6%81

     「唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆい

しきがくは 唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教の一派に

よって唱えられた認識論的傾向を持つ思想体系である。」

・・・そして、意識の下、つまり無意識には次の二つがある

しています。

「その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されて

おり、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。

熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、

自己に執着するという。

さらにその下に阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)という

根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、

さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」で

あると思っているものも生み出していると考えられている。」

 

一方、西洋においては、以下のような無意識の研究があった

ようです。

https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98-140213

17世紀から「意識されない自己心」が論議されていたが,

19世紀末に哲学的には F.W.ニーチェが,心理学的には

S.フロイトがこの概念を明確にした。」

 

・・・上記のインドと西洋を比べると、無意識の研究においては、

圧倒的にインド哲学が先行していたようです。

ただし、宗教における研究と心理学における研究をおなじ土俵で

比べるのは乱暴なのでしょう。

いずれにせよ、いろいろ検索してみたところ、宗教や哲学の

カテゴリーの中においても、無意識についてはインド哲学の

独壇場であるように見えます。

 

 

p111

 

根本になる心を迷いの原理となる心と見るか、それとも悟りの原理となる

と見るか、二つの方向に分れることになる。

 

・・インドにおいて、前者の立場は唯識説として展開し、後者の立場は

如来蔵・仏性説として展開する。 東アジアでは、・・・全体的に後者の

立場が強くなる。  その面をもっとも強く展開させるのが中国の華厳

哲学で、・・・・日常の心を超えた絶対的、宇宙的な心と解されるように

なる。 それに対して、天台の立場ではあくまで我々の日常のありのまま

の心を見つめ、迷いと悟りの両面を含むものとしての心を解明しようとする。

 

==>> ということになると、空海さんの密教は、華厳哲学に寄っている

     感じでしょうか。 宇宙的という言葉がありますからね。

     実際に空海さんの「十住心論」でも、華厳宗を真言密教の次の

     レベルの境地としていますし。

     一方、お釈迦さんの態度に近いのは、天台の方になるようです。

 

p115

 

智顗が追求しようとしているのは、あくまで宗教的に心を浄めて悟り

へ向かうことであり、煩悩に満ち、散乱した日常の心を高め、転換して

いくことが目標である。 そこが、自らの心の観察から絶対確実な

原理を求めようとしたデカルトや、認識する心の構造を解明しようと

したフッサールのような哲学者の営為と似ていながら、相違するところ

である。

 

==>> ここでは、「摩訶止観」についての議論をしています。

     その著者である智顗(ちぎ)と西洋の哲学者の目標の

     違いが書いてあります。

     これは、上に書いた、無意識に関する研究でのアプローチ

     の違いにも言えることでしょう。

     https://kotobank.jp/word/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E6%AD%A2%E8%A6%B3-135615

まかしかん【摩訶止観 Mó hē zhǐ guān

中国,天台宗の祖師智顗(ちぎ)が,南岳恵思より伝えた,

止観の思想について講じた著。10巻。弟子灌頂の記録であり,

《法華経》の注釈である文句,およびその原理を論じた玄義

とあわせて,天台三大部とよばれる。摩訶とは大,止観は

座禅のことであるが,」

 

 

p120

 

仏の心にも地獄の要素があるという説は、後に性悪説(=しょうあくせつ、

いわゆる性悪説とは違う)と呼ばれて、天台の特徴的な説として宣伝される

ことになる。 ・・・・しかし、もし仏の心の中に悪の要素がなければ、

仏には地獄に蠢くものの心は理解できないことになり、地獄の衆生を救う

ことはできないであろう。

他方、地獄の衆生もまた、その中に仏の要素がなければ永遠に救われない

ままでいることになってしまう。

 

==>> シンプルに言うならば、水清ければ魚住まずということでしょうか。

     いろいろ今までに読んだ本の中では、誰にでも仏性があると

     書いてありました。それに気が付けば誰でも仏になれるとも。

     そのことを考えれば、生身の人間には悪もなければ現実的

     ではないでしょうね。

 

 

== その3 に続きます ==

 末木文美士著「仏典を読む」を読む ― 3 「日本霊異記」と日本人の宗教観 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

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