瀬戸賢一著「メタファー思考 ― 意味と認識のしくみ」を読む ― メタファーが作る意味世界、科学でも光の粒子説と波動説

瀬戸賢一著「メタファー思考 ― 意味と認識のしくみ」を読む ― メタファーが作る意味世界、科学でも光の粒子説と波動説

 

 

「意味とは何か」などをテーマとしていろいろと地元の図書館からも借りたりしながら

読んでいるのですが・・・・

 

たまたま、借りていた本を返しに行って、言語学系の棚から「意味」のことに関して

書いてありそうな本を数冊取り出し、パラパラとつまみ食いしました。

 

一番ショッキングだったフレーズは、「意味には定義すらない」とか「意味については

古代からいろいろと考えられているが、これといった定説はない」というような

内容でした。

ド素人の私にとっては、なんとも身も蓋もない結論を目の前にぶらさげられた感じです。

 

そして、いくつかの本の中に、「メタファー」(隠喩)というものが意味に関係していると

いうようなことが書かれていました。

そこで、この「メタファー思考」という本を読んでみようと思ったわけです。

 

 

ちなみに、「見も蓋もない」というのもメタファーなんでしょうね。

辞書には以下のような解説があります:

「「身も蓋もない(みもふたもない)」の意味は「露骨表現すぎて含蓄がない」です。正しさ

はあるものの、「それを言ったら、会話する意味がなくなってしまう」ということに使用し

ます。語源は、「物を入れる容器」。「元も子もない」「にべもない」などが類語です。」

 

それで、まずは、「意味」とはなにかを辞書で確認しておきましょう。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%84%8F%E5%91%B3/#jn-15002

「い‐み【意味】 の解説

[名](スル)

 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。「単語の―を調べる」「愛を―するギリシャ語」

 ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。「慰労の―で一席設ける」「―ありげな行動」「沈黙は賛成を―する」

 価値。重要性。「―のある集会」「全員が参加しなければ―がない」」

 

・・・では、この三つの中に私が知りたい「意味の意味」はあるのかと言いますと、

そのものズバリというのが無いんですねえ。

敢えていうなら「意味というものは、どのような形で脳の中に存在しているのか」

言うような感じでしょうか。 私自身もよく分かっていません。だからその答えを

探しているわけです。

 

今の時点で仮に表現してみるとしたら、

「表現したい内容が表現される前の段階でどのような形で形成され脳の中にどういう形

で存在しているのか。 その状態が意味と呼ばれるものなのか。」

ただし、表現するしないにかかわらず、頭の中で考えているだけの場合もありますから、

その場合の意味も含むのですが。

 

では、ボチボチ読んでいきましょう。

 

====

 


 

p004

 

メタファーとは(見立て)と考えると分かりやすい。ためしに「目玉焼き」を「広辞苑」

で引いてみると・・・、「卵をかきまぜずにフライパンで焼いたもの。 黄身を目玉に

見立てていう」という簡にして要を得た説明――おそらくこの辞書のなかでもっとも

美しい記述のひとつーーに出会う。 やはり<<見立て>>なのである。

 

 

p016

 

     メタファーは特殊なものではなく、日常のものである。

     メタファーはまれに現れるものではなく、ことばのなかに遍在するものである。

     メタファーが意味形成(生成)の基盤のひとつとなっている

・・・・・・

 

==>> ここにメタファーの特徴などが書かれているのですが、辞書的には

     下のように解説されています。

     https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%9A%A0%E5%96%A9/#jn-17092

     「いん‐ゆ【隠喩】 の解説

比喩法の一。「…のようだ」「…のごとし」などの形を用いず、そのものの特徴を

直接他のもので表現する方法。「花のかんばせ」「金は力なり」の類。暗喩。

隠喩法。メタファー。」

 

     ここで私にとって重要なのは、③の意味形成です。

 

 

p022

 

「見る」は眼球によって外部の光をとらえることだけを意味するのではない。むしろ、

この一次的知覚を二次的な認識に高めることを主要な内容としている。 この知覚と認識

の間で、「見る」は豊かな意味の広がりを示す。

 

p023

 

視覚が大切なのは、私たちの思考の道具としてのことばのなかに、「見る」を中心とした

視覚表現が驚くほど広く深く浸透しているためである。 「見る」は、ただちに

「知る」の意味領域に接する。 しかも、きわめて密に。

 




p046

 

たとえば、「見通しが明るい」というとき、「見通し」も「明るい」もメタファーである

・・・(近)未来を知るためには、それが「明るく見通せる」状態でなければならない。

私たちは、メタファーを通して思考し、語り、そして、理解しているのである。

基本的なメタファーは、私たちの思考そのものといってよい。

 

それ故、基本的なメタファーをおさえると、私たちの思考法が見えてくる。平たくいえば、

人間的な癖である。

 

==>> 「見通しが明るい」などという日常的に使うフレーズが出てくると、確かに

     何気なく使っているのに、考えてみると不思議な感じがしますね。

 

     「見る」=「知る」という構図は、「百聞は一見にしかず」でも理解できる

     ことですね。

 

p050

 

「一定の形をなしている」は、「分かり」の大切な条件である。 無定形なものは、捕捉

しようがない。 「とらえどころのない不安」とは、「不安」の原因が一定の形をなして

いないので、つかまえようにもつかまえられない状態をいう。つかまえられなければ、

分かることもできないのである。

 

このように、形は物体としてのもの以外に、「不安」のような抽象的なものにまで適用

される。 これは、すでに、立派なメタファーである。

 

==>> ここは、意味というものが抽象的な領域に入っても、メタファーを通じて

     理解されるということを述べています。

     これは意味を理解する上ではかなり重要なことのように思えます。

     たとえば、何か複雑な話、抽象的な話をしていて、理解が難しい場合などに、

     「それは、例えばこういうことですか?」と比喩的に言い換えてみて、

     「はい、そういうことです。」、「なるほど、そういう意味なら分かります」と

     腑に落ちることから推測できます。

 

p052

 

旧約聖書の創世記は、よく知られているように、「光あれ!」で天地創造の第一日目の

夜が明ける。 なにも聖書にかぎらず、光と闇との対立ないし闘争は、宗教テクストや

神話・民話に見られる基本テーマであり、私たちの認識の普遍性をよく立証してくれる。

 

外国の例を引くまでもない。 私たちの天照大神を思い浮かべるとよい。

 

p053

 

この天照とペアになっているのが月読命(つくよみのみこと)。 天照はイザナギの左目

から、月読は右目から生まれている・・・。 天照は太陽神で、月読は月の神である。

「光陰矢の如し」というときの「光陰」は「とき」の意味であるが、直接的には、「光」は

「日」を指し、「陰」は「月」を指す。 「月日」が「とき(の流れ)」を表わす

・・・これらは、対立的思考が意味の明瞭な分化を生むきっかけとなることをよく示して

いる。

 

p062

 

私たちは、すでにメタファー思考を開始しているのである。 自然界に存在する光と闇

の対立は、直接的に見ることのできない私たちの精神(理性、イデアなど)界を、あるいは

天上界を照らす道具立てとなる。 このようなメタファー思考は、ほとんど人類の歴史

とともに古いといってよいだろう。 

 

・・・プラトンの「太陽の比喩」と「洞窟の比喩」は、光に関するメタファー思考を

もっとも流麗に描き出したものである。

 

==>> こういう例を読むと、確かに自然を基本においた上で、それを抽象的な事物

     の理解を助ける形で使っているのが理解できますね。

     プラトンの比喩については、こちらで確認しておきましょう。

     「プラトン『国家』における認識論」

     https://information-station.xyz/6869.html

     「「太陽の比喩」においては、人間における視覚という認識のあり方が、その

大本においては太陽がもたらす光に基づいて成立しているという比喩を通じて、

現実の世界における個々の事物は、その原型である個々のイデアに基づいて

成立し、個々のイデアは、その大本にある善のイデアに基づいて成立している

という」

 

 

p064

 

基本的なメタファーの選択は、また、科学理論の選択にも影響を及ぼす。いまは、光に

限定すれば、長年争われてきた粒子説と波動説との対立は、要するに、光に関する現象

が、光を「粒」と<見立てる>ことによってか、光を「波」と<見立てる>ことによって

、どちらによる方が統一的にかつ包括的に説明されるかという違いに帰結する。

理論の争いは、メタファーの争いでもあったのだ。

 

==>> 実際のところ、光が観測機器の中で粒に見えるのかは分かりませんが、

     波というのは元々は水の波からの発想でしょうから<見立てて>いるという

     話は理解できます。

 

p069

 

メタファーの素材を意味的に分類することの意義は、どこにあるのだろうか。

いうまでもなく、これが<<人間的意味の形成の問題>>の中心テーマに直結するから

である。

・・・私たちのことばは、メタファーなしでは使いものにならない

 

・・・視覚のメタファーは、五感のメタファーのひとつである。

視覚以外の例をひとつずつ挙げると、「名声が鳴り響く」(聴)、「儲け話を嗅ぎつける」(嗅)、

「甘い判断」(味)、「熱い戦い」(触)。 これらの五感のメタファーは、共感覚メタファー

とともに外部感覚のメタファーを構成する。

 

==>> なるほど実に面白いですね。 

     名声に音があるわけがない。 儲け話に臭いがあるわけがない。 判断に味が

     あるわけもない。 戦いに熱い冷たいがあるわけもない。

     ああ、それなのに、平気で使ってますね。理性的に考えれば、これって

     無茶苦茶じゃないですか?

 

p071

 

私たちは、五感という高感度のアンテナを世界に向けて広げ、内に向けては敏感な

神経網を張りめぐらせた身体的存在であるといえよう。 この身体的存在は、まず、

感じる。  感じるとは、反省的な認識以前の直感的な知覚のことをいう。 これが

「感性的」ということばの意味である。

この感性的メタファーと対になるのが、悟性的メタファーである。

 

p072

 

たとえば、「社会の歯車」というメタファーは、・・・・このメタファーの背景には、

「社会」を一つの大きな「機械」と見立てるメタファーが存在するだろう。

・・・「愛」を「宝物」と見立てるのも、たとえそれが直感的な閃きであっても、

直接的な身体知覚とは違う。

これらはすべて悟性的メタファーに含められる。 ・・・精神的認識をベースとする

・・・ひとつの判断を経たメタファーであるといってもよい。

 

==>> 「反省的な認識以前の直感的な知覚」という表現から思い浮かべるのは

     右脳の機能であって、 悟性的ということからは言語脳とされる左脳の機能

     かなと思います。

     もっとも、右脳だけの働きでは、言語であるメタファーにはならないの

     だろうと思いますが。

 

 

p079

 

「ある」は、「もの」についていう場合にかぎらない。 これは、重要な意味をもつこと

なのであるが、「ある」は、「こと」についても用いることができる。

「今朝早く、地震があった」というように、「地震」は「もの」ではなく、

「出来事」としての「こと」である。

 

p080

 

さらには、「ある」は、抽象概念にも適用される。 たとえば、喜怒哀楽の気持ちが

心のなかに「ある」と考える。

 

森羅万象を「もの」化してしまう力を秘めているのであるから。 私たちは、ふだん、この

メタファーの存在に気付かない。

 

==>> 日本語教育では、初心者向けに教える時に、「もの=ある」「生き物=いる」

     単純に区別して教えるのですが、上記の「ある」の複雑さに加えて、

     「いる」についても、必ずしも「生き物」ばかりとは限らないので

     説明は大変です。

     例えば、深夜に家に帰る時、「タクシーはいるかなあ」などと考えます。

     これは、タクシーを動物に見立てているのでしょうか。

 

p149

 

宗教も、メタファーとは切っても切れない関係にある。 どの宗教テクストを開けて

みても、メタファーと出会う。 私達の言語がメタファーに満ちていることは、すでに

疑えない事実であるが、宗教テクストに関しては、このことがいっそうよく当てはまる

ようである。 ・・・メタファーに満ちた宗教テクストをいかに解釈するかという問題

につながる。

 

==>> 宗教書も哲学書も、専門用語が満載の場合は、まったく手も足もでないという

     ケースがあります。 おそらくそのような内容を含むものを、分かり易く

     説明するためにはメタファーが重要になるのでしょう。

     お釈迦さんも話す相手に合わせて言い方を変えたそうですし。

     そして、それが「いかに解釈するか」ということに繋がり、様々な宗派に

     分れることになるのではないかと思います。

 

p189

 

メタファーとアナロジーは、科学的研究の周辺にあったのではなく、つねに中心にあった

と考えてよい。 ・・・・かつての光の性質についての論争――光は粒子なのか波動なのか

――も、メタファーの論争であった。 粒子と見立てた方がより多くの光の現象を統一的

に説明できるのか、それとも波動と見立てた方がよりいっそう有効な説明が与えられる

のか・・・・

 

p196

 

たとえば、進展がめざましい認知心理学について考えてみよう。認知心理学は、

コンピューター・サイエンス、情報理論などの分野から大いに用語を借入している

つまり、人間の思考プロセスを探るのに、これらの分野の用語をメタファーとして

取り入れている。

・・・いまは、逆に、人間の脳をコンピューターの仕組みになぞらえて理解しようと

している(つまり、コンピューターが人間の脳のメタファー)。

 

==>> 専門家は、例えば数学などを使って考え、思考するという方法をとるの

     かもしれませんが、元々の発想の部分には、光は粒なのか波なのかという

     分かり易い見立てがあるということですね。

     そして、認知心理学の話は、そのメタファーが逆転していることが述べられ

     ています。

     確かに、私が最近読んで来た人間の意識に関する本などでは、コンピューター

     システムになぞらえて脳や神経の働きを説明しているものが多いように

     感じます。

     それだけ、人間の身体の機能を単純化したものとしてのコンピューターの方が

     説明をする上では分かり易いということになります。

 

p204

 

メトニミーは、現実世界(民話のような想像世界も含める)のなかでの隣接関係に基づく

意味変化である。 「赤ずきん」は「赤ずきん」そのものを指すのではなく、赤ずきんを

かぶった女の子(赤ずきんちゃん)を指す。

 

・・・同じく、「きつね」は「油揚」を指し、「たこ」は「たこ焼き」の一部として「たこ焼」

の全体を指す。

 

シネクドキは、意味世界(私達の頭のなかにある)における包摂関係に基づく意味変化で

ある。 包摂関係というのは、類と種の間のカテゴリー関係である。「焼鳥」の「鳥」は、

文字通りに鳥一般を意味するのではない。 「鳥」は、主として「鶏」を指す(カラスの

丸焼きが出てくれば文句をいえる)。 「鳥」は類名であり、「鶏」はその類に含まれる

種名である。 

 

p205

 

「両手に花」の「花」はメタファーであるが、「花見」の「花」はシネクドキ、・・・・

 

p206

 

メタファーは、三角形の頂点に立ち、現実世界と意味世界の橋渡しをする

意味世界は、私たちの内にあり、現実世界は、私たちの外にある。 両世界を結ぶ

メタファーは、私たちの身体が媒介する。 身体の表面に張り巡らされた視・聴・

嗅・味・触の五感は、世界に向けて広げられた敏感なアンテナ。 五感のメタファーが、

世界を理解するーー外の情報を内の意味に転換する(理解可能なものに変える)――

うえで、とくに重要な働きをするのは、このためである。

 

==>> ここでは、メタファーと、それに似た働きをするメトニミーやシネクドキに

     ついて述べています。 そして、それらが、意味をもたらす働きをする

     ものとして解説されています。

 

さて、これで一冊を読み終わりました。

意味とは何か・・・ということでこのメタファーに関する本を読んでみたのですが、

なかなか示唆的であると感じます。

 

確かに、人間は、外界の実際に見えるものを描写する形で言葉を産み出してきたわけ

ですが、複雑にそして抽象的になるに従ってメタファーなどの喩えを使って分かり易く

表現することを開発したようです。

それがなければ、特に複雑なものごとを、他の人たちに伝えることは出来なかった

だろうと思います。

 

一方で、外界ではなく人間の頭の中にあって、目に見えないもの、つまり、抽象的、形而上

学的なものについて、あるいは、外界であっても目に見えない小さすぎる原子や巨大すぎる

宇宙など科学分野のものを、それを目に見える五感で捉えられる外界にあるものに見立て

ることによって人間が理解可能な意味の世界を作っていることが分かってきました。

そのような意味の世界が、人間の脳の中に生成されているということのようです。

 


 

これで、メタファーに関連する本を一冊読みましたが、さらにメタファーについての

本をもう一冊読んでみようと思います。

 

 

==== 完 ====

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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