スティーブン・ピンカー著「思考する言語: ことばの意味から人間性に迫る」を読む ― 生得主義、ラディカル語用論、言語決定論と 概念意味論とは

スティーブン・ピンカー著「思考する言語: ことばの意味から人間性に迫る」を読む ― 生得主義、ラディカル語用論、言語決定論と 概念意味論とは

 

 

スティーブン・ピンカー著「思考する言語: ことばの意味から人間性に迫る」から

特に「第三章 こころは「意味」をどう表象するか」を読んでいます。

 




 

私の今の読書テーマは「意味とはなにか」というところにありますので、特にこの章に

関して、感想文を書いてみます。

 

この本の「はじめに」のところに、以下のような説明があります。

 

p012

 

これは人間の本性についての三部作で、一冊目の「心の仕組み」は認知科学と

進化心理学の観点から・・・二冊目の「人間の本性を考える」は、人間の本性と

その倫理的・情緒的・政治的な色あいについての考察・・・ そして

本書は、同じ人間の本性というテーマに別の切り口から迫る。 人間が自分の思考

や感覚をどのように言葉にするかを通して、人間の性質について探ろうというのである。

 

==>> このようにシリーズになっているようなんですが、なかなか難しい内容

     ばかりなので、興味を引かれない部分をすっとばして読むことにしました。

 

 

p187

 

語の意味は心のなかで、<思考の言語>の基本的概念がいくつも集まったものとして

表象されるということだ。 読者はこれに対して、「だからどうしたっていうんだ?

人間が自分の語彙にある語の使い方を知るのに、それ以外の方法があるというのか?」

と思われたかもしれない。 本章ではそのそれ以外の方法についてみていく。

 

そして三つの代替理論と対比させることで、概念意味論がいかに優れた理論であるか

説明していきたい。

 

==>> ということで、3つの理論と概念意味論をみていくということです。

     この概念意味論とはどんなものなのかをざっくりと知りたいと思ったの

     ですが、インターネットで検索しても、やっとこちらのサイトが出るだけでした。

     http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2017-01-03-1.html

     「Ray Jackendoff の提唱している概念意味論 (conceptual semantics) において

は,意味とは人間が頭のなかでコード化した情報構造である.」

     「Jackendoff は,文の意味は構成要素たる各語の意味からなると考えている

ため,概念意味論では語の意味に特別の注意が払われることになる.」

 

・・・語彙分析という私がかなり苦手なやり方のようなので、すでに

これは難物だなあと感じています。

 

 

p187

 

その第一は、フォーダーの極端な生得主義である(nativismには「排外主義」という意味

もあるが、認知科学では生得的な心的組織を強調する考え方を指す)。

 

第二はラディカル語用論、すなわち心には語の意味の固定的な表象は存在しないという

考え方だ。 この考え方によれば、語とは流動的なものであり、状況が違えばまったく

違うことを意味しうる。

 

・・・第三の代替理論である言語決定論は、・・・私たちの母語こそが<思考の言語>で

あり、それが私たちの思考を決定しているという。

 

==>> インターネット検索してみると、上記の三つについては、下のような

     説明があります。

 

     「生得主義と生成文法理論」

     https://s-counseling.com/avram-noam-chomsky/

     「チョムスキーによると子供の言語の産出力や創造性、革新性はオペラント条件

付けなどの従来の学説では説明がつかないと主張します。

そしてチョムスキーは、この能力は生まれつき備わっているとする「生得主義」

を主張しました。」

 

     「語用論」

     https://kotobank.jp/word/%E8%AA%9E%E7%94%A8%E8%AB%96-66411

     「言語の使用や理解を状況とのかかわりで解明しようとする言語学の一分野。

概念自体はモリスMorris,C.1938)が記号論において統語論,意味論,語用論

3分割を提唱したのに始まる。その後,言語哲学,認知科学の影響も受けて発

展してきた。」

 

     ・・・これは、かなり漠然として説明なので、その内容が掴みにくいです。

     「状況とのかかわり」がポイントだとすると、かなりその場の状況で

     意味が変化するというような話でしょうか。

 

     「言語決定論」

https://www.iatrism.jp/dictionary/psychology-term/term/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E8%AB%96

     「言語は、無意識において、それを使用する主体側の認識や思考パターンをも

形成するという仮説のこと(単に記号やコミュニケーションの手段であるだけで

ない)。「それぞれの言語体系に応じて、その数だけの世界観が存在する」と仮説

が立てられ、言語観に大きな影響を与えたとも言われる。サピア・ウォーフ仮説

または言語相対仮説とも呼ばれる。」

 

・・・これは、例えば、日本語を母語とする人の思考パターンは、日本語に

よって決定されるというようなことでしょうか。

 

p188

 

生まれつき備わっているものは何で、後天的に習得されるものは何か?」

「人間の話し言葉や書き言葉の意味は、それ自体で確定したものなのか、それとも

文脈によって相対的に決まるものなのか?

「言語は私たちの思考に制約をあたえるのか?

「人間の文化は根本的に似ているのか、それとも異なるのか?」

といった頻繁に投げかけられる問いは、あらゆる知的生活の領域と響き合うものであり、

私は「人間の本性を考える」のなかで、これらの問いがしばしば広範囲にわたる

道徳的・政治的意味合いをはらんでいることを示した。

 

==>> ここでは、これらの論争が、それよりはるかに大きな考え方の対立の

     代理戦争だ・・・と書いてあります。

     上によっつの「・・・」がありますが、それは順番に、生得主義、語用論、

     言語決定論を表わしていると見えます。

     ということになると、著者ピンカーのとる立場は、四つ目の「・・・」で

     あるかもしれません。

 

p190

 

たとえば「母」という概念は心のなかでは「女性の親」と表象され・・・

・・・最終的には、何か生得的なものがあると考えないわけにはいかない。 でなければ、

なぜ人間の子どもが言葉や概念を習得できて、ニワトリやルバーブやレンガにはできない

のかが説明できなくなってしまう。

 

ある単位がもうそれ以上細かい単位には分割できないとなれば、その単位は生得的で

なければならない。

 

p191

 

しかしフォーダーは、ほとんどの単語の意味は、それ以上単純な単位に分割すること

はできないと主張する。

 

フォーダーはさらに、「知る」「科学」「善」「説明」「電子」といった複合的な概念を、

より基本的な概念の組み合わせで定義しようとした哲学者の試みは、惨めなまでの失敗

に終わったと主張する。

 

==>> ジェリー・フォーダーという人がどういう人かといいますと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC

     「言語学者のノーム・チョムスキーの開拓した道を辿り、フォーダーは生得論に

強く傾倒した。生得論は多くの認知機能・認知的な構想を先天的なものであると

前提する。フォーダーにとって、この立場は行動主義および連合主義に対する

彼自身の批判から自然と浮かび上がるものである。その批判を端緒として彼は、

自身が暗黙に前提としていた心のモジュール性を定式化してもいる。」

「フォーダーは、ピンカー、プロトキン、その他彼が皮肉を込めて「新統語派」

と呼ぶ人々がモジュール性や類似の考えを本来のものから外れた使い方をして

いると不満を表している。」

 

著者のピンカーと上記のフォーダーの関係は、対立する理論をもっている関係

のようですから、「哲学者の試みは、惨めなまでの失敗に終わったと主張する」

と書いてあることがどのような意味なのか気になります。

 

 

p225

 

この意味の混沌ともみえる事態を、どう理解したらいいのだろうか。

ラディカル語用論によれば、解釈とは実におおらかなプロセスであって、その人が世界に

ついて、あるいは今語りかけている相手について知っていることはどんなことでも、都合

よく利用しようとするものだという。 

 

 

p226

 

「指示(レファレンス)」――その語が世界の事物をどのように指し示すかーーに関する

ラディカル語用論の主張には、一面の真理がある。 「ハムサンド」という語が

レストランのカウンターに座っている男性を「指示」しうるなら、言語における表現

は固定した指針に従って世界の多様な状況と対応しつづけることができる、という

論理学者の夢はほぼついえてしまう。

 

だが問題はそこにはない。 私たちにとって重要なのは、人間の心に関するラディカル

語用論の主張が正しいかどうかだ。

 

単語は明確な心的表象と結びついてなどいないという彼らの主張は、動詞をめぐる構文

の交替現象についての探求から浮かび上がってきた言語の姿とはまったく相いれない。

 

==>> ここで著者は、「動詞使用の三つのポイント」を示して、

     「完璧に理解されるはずであっても、間違った動詞の使い方はしない」

     「類似した意味の動詞であっても、きっちりと使い分けている」

     「動詞の分類(クラス分け)は、単なる連想のゆるい集合体ではなく、

     心的表象は論理的に精緻である」

     などという議論をしています。

     つまりは、語用論が言うようないい加減さは見られないということを

     言いたいのではないかと思います。

 

 

p248

 

常識に従えば思考が言葉のいいなりになることなどありえないと誰もがわかっている

のに、知的な思考を始めたとたん、その正反対の考えを抱く人も少なくない。

 

人間の思考は話す言語によってコントロールされるという考え方 ―― 言語決定論

―― は、知的生活において繰り返し現れるテーマだ。

 

・・・その後、心理学における認知科学革命によって純粋な思考についての研究が

可能になったことや、言語が概念に与える影響はわずかなものであることを複数の研究

が示したこともあって、この仮説は1990年代までにほぼ姿を消したようにみえた。

 

p249

 

・・・ところが最近になってこの仮説が息を吹き返し、今や「新ウォーフ主義」は

心理言語学の分野で盛んに研究テーマとなったり、言語が思考を決定することを示す

と称するいくつかの研究がメディアで広く取り上げられたりしている。

 

==>> これに関しては、私も古い考え方、というか、息を吹き返してきたと

     される主義に染まっている人間の一人です。

     私の場合は、日本語と英語でしかないのですが、なんちゃって英語で

     あるにしても、思考というのか喋り方というのか、そしてそれに基づく

     行動・態度が変わっているような感じがします。

     また、さまざまな本を読んでも、日本語と他の言語を比較した議論も

     されていますので、そういうものだろうという考えになっていました。

 

     「「日本語の論理ー不同調の美学」: 

日本語は芸術には向いているが 政治・外交には・・・」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/09/post-59f3.html

     「p279

日本語には相手のことになるべく直接的に言及しないで意味を伝えようとする

表現法が発達している。日本語の特色である主語のはっきりしないセンテンス

は軟焦点的表現であり、敬語法などは焦点転移の表現が文法的に定着したもの

と考えられる。」

 

又、こんな事も書いてありました。日本語とドイツ語の比較。

 

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/06/post-67c4.html

「p82

日本語は、普通は家族の間で行われるような言語活動の様式が親密な集団の

範囲をこえて広く認められるのである。言語には冗語性というものがある。 

ひと口にいうと言葉の中に含まれる必要な蛇足である。

p83

・・・冗語性のすくない典型的なケースがすでにのべた家族間の話である。

p84

大陸言語の社会では冗語性をあまりすくなくすると、ごく親密な関係の人との

間ならともかく、相手に誤解されたり、了解不能を訴えられたりするから、

ていねいな表現をしなくてはならない

ヨーロッパ語の中でもドイツ語がいちばん冗語性が高いということであるが、

われわれがドイツ語を論理的で何となく理屈っぽいと感じているのはこの冗語

性の高さと無関係ではないように思われる。

p85

冗語性のもっとも高い見本は、・・(日本では)六法全書の中にあるということに

なる。」

 

 

p249

 

言語はたしかに思考に影響を与える ―― 控えめにいっても、ある人の言葉が別の人の

思考に影響を与えなかったとしたら、言語の存在意義はそもそもなくなってしまう。

問題は言語が思考を決定するかどうかーー私たちが話す言語が、ある種の考えをもつこと

を困難にしたり不可能にするかどうか、言語が私たちの考え方を予期できない形や重大

な形で変えるかどうか、にある。

 

p252

 

出来事を特定の枠組みでとらえる語の能力は、昔からレトリックや説得に利用されて

きたが(たとえば・・・「財産の没収」を「所得の再配分」、「侵入」を「解放」

言い換えることなど)、その効果はたやすくみてとれる。

 

==>> これで頭に浮かぶのは最近のニュースです。

     https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052100493&g=int

     「【イスタンブール時事】ウクライナで軍事作戦を続けるロシアは20日、南東

部の要衝マリウポリを「完全に解放した」と発表した。マリウポリでは、アゾフ

スタル製鉄所で抵抗を続けていたウクライナ部隊が16日に投降を開始。

マリウポリは事実上陥落していた。」

 

そして、言語が思考を決定するかどうかについては、なにをもって「決定」と

言えるかが問題ですが、少なくとも上に書いたような日本語と英語、あるいは

ドイツ語などに関する著書にあるような「日本語の論理」あるいは「ドイツ語

の論理」などというものを認めるのか認めないのかという議論にもなるの

でしょう。 そしてそこには、翻訳や通訳のむずかしさの問題もからんで

くるかもしれません。 そもそも、言語の背景にある「意味」が異なる

わけですから。 そして、もっと深堀すれば、同じ日本語を使う日本人同士

であっても、意味するところが異なったり、思考回路が違ったりというのも

あることだし。

     

p254

 

言語は意味を喚起することによって機能し、意味は別の手段(目で見る、推論するなど)

によって得られた思考と結びついている。 したがって言語という語を大雑把に、(言語

を構成する実際の語や句、構文ではなく)意味を指すものとして使えば、言語は当然の

ことながら思考に影響を及ぼすーー言語すなわち思考であるーーことになる。 

 

この主張がおもしろくないのは、言語という語をただゆるい意味で表現したにすぎない

からであり、このような使い方をするなら、人間は言語以外の手段で思考するという

考えを述べることすら不可能になってしまう。

 

==>> ここには、言語、意味、思考、別の手段、の関係が書かれているのですが、

     言語を音声とするか文字とするか映像とするかで話はややこしくなりそうです。

     私の場合は、頭の中で音声が流れていて、それで思考している、考えながら

     ここにタイプしてブログを書いていると感じているわけです。

     しかし、世の中にはフォトグラフィック・メモリー、つまり映像によって

     考えている人もいるらしいNHKTEDSでそのような思考をする

     大学教授が講演をしていました。

 

     だから、私の場合は、脳の中に「意味」がボワッと浮かび、それが音声たる

     言語になって、思考する、という順番ではないかと思えるわけです。

     なので、その「意味」ってそもそも何ですか、というのが私の興味の的で

     あるわけです。

     言語は、音声でもいいし、映像でもいいし、手話のようなものでもいいし、

     実際にあるわけですから、それで考えているということになります。

     そうなると、日本語という言語は、音声なら日本語でしょうが、映像や手話

     だったら必ずしも日本語ということではないようにも思えます。

 

     日本語の論理とか英語の論理があるのなら、フォトグラフィック・メモリーの

論理とか手話の論理というものが、どのようなものなのか、が知りたいところ

です。

下のようなサイトがありました。内容はまったく分かりませんが・・・

     「否定と対比表現からみた日本手話の論理性とその身体性」

     https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19K21635/

     「手話言語の言語依存的な「分析的思考:論理性」と、分析的思考の「からだ的

思考:身体経験基盤」への依存性を明らかにすべく日本語から独立した文法体系

を持つ日本手話の否定表現と対比表現を分析する。」

 

 

p258

 

脳の状態をスキャンするという追加実験を行った。 その結果、概算を行なっている

ときには空間認識にかかわる領域が活性化し、厳密な計算を行っているときには

左脳の言語にかかわる領域が活性化することがつきとめられた。

ではこれは、人間の思考が言語に依存していることを示す例なのだろうか?

そうとはいえない。

 

p259

 

研究チームは、言語にかかわる左脳の部分に重大な損傷を負った三人の男性を対象に

実験を行った。 被験者たちは文を話したり理解したりすることはできず、話し言葉

や書き言葉で表された数の理解にも支障があった。 にもかかわらず、三人は複数桁の

数の足し算、引き算、かけ算、割り算を難なくこなし、負の数や分数、さらには

50―{(4+7)x4}といったカッコのある数式(さしずめ文でいえば、

「その女性が好意を抱いている男性は禿げている」といった構文)でも問題はなかった。

 

多くの人は自分は母語で「考える」と言うが、その大きな理由は、計算やそれ以外の

意識的な推論に、頭のなかの反響箱が使われることにあるのではないかと、私は考える。

 

==>> 思考が言語に依存しているわけではない。

     なぜなら左脳を損傷していても数学はできる、から?

     そこで、右脳と左脳の働きを再確認しておきましょう。

     https://www.goodbrains.net/brain/shikumi2.html

     「言語については大脳のほぼ全域が何らかの形で関与していることになります。

日本では半ば常識となっている「言語=左脳」理論は、あまりにも大雑把で原始

的なものだったわけですね。」

・・・ということで、右脳左脳と右往左往するのは古いらしいです。

 

p263

 

思考の手段は、その人が話す言葉の実際の単語や文で構成されている。 したがって人は

自分の言語に名前のない概念を思い浮かべることはできない。 因果の矢は言語から思考

へと向かうため、母語で言葉にならない概念は、その人にとって心に抱くことの

できない永遠の盲点となる。

 

==>> これは「純粋な言語決定論」の段落のところに書いてあるのですが、

     私にはこの説明がすんなりと入ってきます。

     しかし、「概念」という言葉自体にいろいろな意味がありそうなので、

     こちらでチェックしたところ、さらに複雑になってしまいました。

     https://kotobank.jp/word/%E6%A6%82%E5%BF%B5-42803

     「概念と語の意味】 従来の概念研究では単語が概念の単位として扱われてきた。

人は「イス」という語に対応する「イス」という概念をもつ,と考えられてきた

のである。しかし,ことばが概念の単位だとすると大きな問題が生じる。言語

相対仮説の主張するように,ことばによる世界の切り分け方は言語によって

大きく異なる。

「たとえばオランダ語は日本語の「歩く」に対応する単語はもたず,「歩く」に

対応するアクションをスピードと様態によって四つの語で言い分けている。

しかし,ランニングマシンでゆっくり歩いているスピードからシステマティッ

クにスピードを上げていき,それぞれのスピードでの動作の名前を聞いていく

と,英語話者,スペイン語話者,オランダ語話者すべてが,日本語話者が「歩く」

から「走る」に切り替えたまったく同じ所でそれぞれ動作の名前を切り替えて

いた。」

 

一番普通の辞書的な意味あいでは、上のリンクの中にある、概念とは

「《concept》形式論理学で、事物の本質をとらえる思考の形式。個々に共通な

特徴が抽象によって抽出され、それ以外の性質は捨象されて構成される。内包と

外延をもち、言語によって表される。」

・・・というのが分かり易いかと思います。

 

上記にかかれた「イス」について言えば、私としては「座る物」が概念で、

「イス」はそれを表わす言葉なのかなと思います。

また、「歩く」だったら、「動物がゆっくり動く」ことが概念で、それを表わす

言葉が「歩く」ということかなと感じます。

 

ただし、「自分の言語に名前のない概念を思い浮かべることはできない」と

いう観点から考えてみると、「座る物」とか「動物がゆっくり動く」という

名前?すらなかったら、確かに考えることなどできないだろうなと感じます。

 

 

p264

 

言語という監獄で考えることを拒否すれば、われわれの思考は停止する

――― フリードリッヒ・ニーチェ

 

私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する

――― ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 

 

p265

 

サイエンス誌に英語が科学の共通語になったという記事が掲載された後、同誌には

次のような読者からの投稿が載った。

 

言語はしばしば思考を指揮する。 もしすべての科学者が、事実や仮説を単純な

SVO(主語―自動詞―目的語)構文だけで記述する言語を使って書いたり考えたり

したとしたら、私たちは何を失うだろうか?

 

==>> なぜ英語に決められたのかについては、こちらのサイトでこんな説明が

     書かれていました。

     https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14241332494

     「まず大昔は科学論文はラテン語で書くものでした

今でも生物の学名はラテン語ですね。

さて、第一次世界大戦のあと、科学論文などでも戦勝国が団結し、ドイツを排除

してゆきます。この時点でドイツ語の論文はインターナショナルなものでなく

ローカルなものになります。次に第二次世界大戦後は冷戦時代です。この時点で

国際的な論文は英語かロシア語の二つになります。そしてアメリカが冷戦に

勝利することにより、ロシア語が凋落し、英語論文が最後の勝利者になりました。

いや正直、私も調べて見るまでこんなに露骨に戦争がらみだとは思いません

でした。」

 

     ・・・それはともあれ、現実問題としては、科学論文に関しては、世界の中

     での特許の問題など、特定の言語で発表されないと、順番が決められないなど

     の支障も出てくるのでしょうか。

     しかし、実際には、上記のように戦争の結果が反映しているようです。

     もしかして、中国語が論文の言語になる日が来るのでしょうか。

 

 

p269

 

霊長類の脳はある一定の成熟度まで発達しないと、物を種類によって区別することは

できないということだ。 これが達成されたために赤ん坊は語を習得することができる

のであって、その逆ではない。

 

p270

 

ブラジルのピラハ族は、ほかの狩猟採集民族の多くと同様、「1」「2」「たくさん」と

いう三種類しか数を表わす語(数詞)をもっていない。 しかもこの数え方さえ厳密

なものではなく、ちょうど英語の a couple が厳密には2を意味するにもかかわらず、

2~3という意味に使われるのと似ている。

 

・・・アマゾンに住む先住民族ヤノマモ族の研究を・・・・

ヤノマモ族は日常的にまわりの物を一つひとつ個別に認識しているため、正確なかずを

知る必要はないのだという。 たとえば猟師なら、自分の矢を一本一本識別できるため、

無くなったかどうかは数えなくてもわかるのだ。 

 

p271

 

大きな数を正確に数えることのできるより高度なシステムは、歴史的にも子どもの発達

のうえでも、もっと後になって出現する。 そうしたシステムは、農耕社会が到来して

大量の識別不能な物が生みだされるようになり、その正確な数を把握しなければならなく

なったとき(とくに通商や課税のため)に発明されることが多い。

 

==>> つまり、単純に言えば、必要があってこそ概念や言葉も進化するという

     ことのようです。 

     そこでふと頭に浮かんだのが文化の遺伝子とでも言えそうな「ミーム理論」です。

 

     リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」

文化・宗教の遺伝子 ミームとは

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-4563be.html

     「p291

ミーム理論を誰よりも推し進めたのは、「ミーム・マシーンとしての私」に

おけるスーザン・ブラックモアである。 彼女は繰り返し、脳(あるいは

コンピューターやラジオの周波数帯のような他の情報貯蔵器や情報ルート)と、

そこを占拠しようとひしめきあうミームに満ち溢れた世界を思い描く。 遺伝子

プール内の遺伝子と同じように、勝利するミームは、自分自身をコピーさせる

ことに長けたミームだろう。

その理由は、たとえば一部の人々にとって不死というミームがもつような、直接

的な魅力をもっていることかもしれない。 あるいは、すでにミーム・プール内

で多数になっている他のミームの存在のもとで繁栄できるという理由かもしれ

ない。 

・・・実際に起こっているのは、個々の遺伝子がその対立遺伝子と争って選別

されるときの環境の主要な部分が、遺伝子プールの他の遺伝子によって構成さ

れているということなのだ。各遺伝子は他の遺伝子・・・の存在のもとで、首尾

よく選択されるがゆえに、協調的な遺伝子のカルテルが出現するのである。

ここには、計画経済よりもむしろ自由市場に似たものがあるといっていい。」

 

・・・この理論は、かなりぶっとんだ理論のようですが、歴史的な概念、言語、    

あるいは文化の進化という意味で捉えるならば、かならずしも突拍子もない

ことではないかもしれません。

 

 

 

p287

 

人間の思考が、文よりもはるかに抽象的な形で記憶に保存されることもわかっている。

記憶に関する研究の大きな発見の一つは、人間が何らかの知識を得るもとになった文を

厳密な形では記憶していないということだ。 だがたとえ形を忘れても、聞いたり読んだり

したことの要旨を忘れるわけではない。 

 

・・・この結果が示唆するのは、言語表現自体は通常、記憶に到達する前に捨てられる

いうことである。 記憶に残るのはその意味であり、意味は概念構造という大きな

データベースに統合されるのだ。

 

p288

 

言語が思考を決定するものではないといえるもう一つの理由は、もしある言語が

その話者の概念上の要請に応えてくれない時、彼らはただなす術もなく困惑するの

ではなく・・・言語のほうを変えるということだ。

メタファーや換喩を使ったり、ほかの言語の単語やフレーズを借りてきたり・・・・

 

==>> ここでは言語決定論を退ける理由を述べています。

     確かに、記憶ということで言うならば、ここに書かれているとおりで、

     「要旨を忘れるわけではない」、あるいは「記憶に残るのは意味」である

     のだろうと思います。

     私の場合は、記憶力がかなりお粗末で、なんらかのエピソード記憶に

     ならないとなかなか残りません。

     その意味で、記憶に長く残っているのは、ほとんどが恥ずかしい思い出ばかり

     です。 なんで、あの時にあんなことをしたんだろう、という記憶です。

 

p288

 

だがおそらく、言語が思考に限られた影響しか与えない、そのもっとも深い理由は、

言語そのものが論理的思考の手段としてあまりにも適性を欠いていることだろう。

言語は、抽象的な心的計算という膨大な基盤の助けなしには使うことができないのだ。

 

p289

 

なかでも顕著な欠点は多義性だ。 健全な精神の持ち主ならば、一つの単語がもつ

複数の意味・・・の区別ができないはずはない。

ところが、ありふれた英語の単語が思考の内的手段として使われるとしたら、人は

その多義性に惑わされてしまうはずである。

 

・・・その部分(すなわち思考)こそが、一つの単語に押し込まれた複数のカテゴリー

を区別しなければならないのだ。

 

==>> この辺りから、著者が主張する「概念意味論」が優位であるところを

     語り始めているようですが、 「言語が・・適性を欠いている」「抽象的な

     心的計算」という表現は、にわかには理解できません。

     「多義性」については、たしかにそうだと思いますし、「思考」こそが

     その点を区別していく機能を持っているというのは、なるほどなと

     感じます。

 

p290

 

私が支持する概念意味論では、単語の意味は心のなかで、より豊かで抽象的な

<思考の言語>による表現として表象されると考えるが、これはちょうど三つの

ラディカルな理論がつくる円環の中心に位置し、それら相互間の対立点をすべて

吸収することができる。 

 

 

・・・トマス・ホッブスはかつてこう書いた。

言葉は賢者にとっての計算器であり、賢者は言葉で計算するだけだ。

だが愚者にとって、言葉は貨幣である。 (彼らは名のある人びとの権威によって

言葉の価値を高めようとする)」。

 

==>> これが著者である スティーブン・ピンカーさんの結論のようなのですが、

     私にはなんだか消化不良の結論です。

     「円環の中心」にある理論だとのことなのですが、結局どういうこと

     なのかはっきりとは理解できません。

 

     どちらかと言えば、私は言語決定論に近い考え方かなと思いますし、

     三つの理論の中で一番興味を引かれるのは、「生得主義と生成文法理論」

     のチョムスキーさんですので、ちょっとそっちをいくつか読んでみたいと

     思います。

 

     しかし、このスティーブン・ピンカーさんの言っている「抽象的な心的計算」

が「心的言語」と関係があるのかが気になりますので、ちょっと調べてみようと

思います。

 

 



 

===== 完 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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