クーリエ・ジャポン編「海外メディアは見た ― 不思議の国ニッポン」: 平成日本と天皇、皇族の仕事は単に存在すること?

クーリエ・ジャポン編「海外メディアは見た ― 不思議の国ニッポン」: 平成日本と天皇、皇族の仕事は単に存在すること?

  

クーリエ・ジャポン編「海外メディアは見た ― 不思議の国ニッポン」を読んでいます。

 

よくありがちな海外目線での「不思議な国ニッポン」なんですが、

いろいろと題材があるなかで、 私が日頃まったくと言っていいほど関心もなく、

テレビニュースぐらいでしか知ることのない、皇室関係の章だけを興味深く読んで

みました。

すべての章を一応読んではみたのですが、特に印象に残るような記述もなかったので。

 



  

第5章 日本の深奥 

平成日本と天皇 ―― 「アキヒトイズム」とは何か

London Review of Books

 

 

p212

 

フランス人記号学者ロラン・バルトは、1970年にこんなことを書いた。

「私が話題にしている都市(東京)は貴重な逆説を示す。 たしかに東京にも中心はあるの

だが、その中心は空っぽなのだ。禁域として超然と佇むこの場所のまわりに、東京の

都市全体が円を描いて広がる。

 

つまり二大現代都市のひとつは、城壁とお堀と屋根と木々から成る、このおぼろげとした

円環のまわりに築かれているのだ。

 

その中心そのものは、もはや雲散霧消した概念だが、それでもなおそこにとどまり、

なんらかの力を放射するわけではなく、ただ都市のすべての動きを空っぽな中心として

支える

 

==>> これは、皇居と天皇のイメージを描いた文章であるわけでしょうが、

     よくよく味わって読めば、なるほどそうも言えるかなという感じです。

     最近テレビで観た「ブラタモリ」で、皇居を中心とした東京の地理的構造が、

     徳川家康の深慮遠謀に基づく、非常に計算されたものであることを知ったの

     ですが、今現在のその中心が「空っぽ」であるというのは、海外から客観的に

     みればそう見えるのかという感じです。

 

 

p213

 

2019年、徳仁(なるひと)天皇の即位の礼では、その種の出来事がいっさいなかった。

意識調査を見ても皇室の人気は戦後で最高の水準にある。

その功績は、30年間皇位にあり、2019年4月に譲位して上皇となった第125代の

明仁(あきひと)天皇にある。

 

裕仁(ひろひと)天皇の在位期間は昭和時代と呼ばれるが、その昭和の戦後期では、天皇

をめぐる政治的な対立があった。 左派が天皇を激しく批判したのに対し、極右の一部が

天皇を文字どおり崇拝していたからだ。

平成という在位期間中にそれを変えたのが、明仁天皇だった。

 

==>> ここでわざわざ天皇の名前にふりがなを振っているいるのにお気づきだと

     思います。 大変恥ずかしいことに、私は戦後生まれでして、天皇の名前に

     関しては、明治天皇、大正天皇、昭和天皇という呼び方しか知らずに育ったの

     でした。 ラジオやテレビのニュースで、たまたま「なるちゃん憲法」などと

     いう言葉を聞き、「へえ、徳仁という名前なのか」ぐらいの認識しかありません

     でした。

 

     そのことについての認識が新たにされたのは、フィリピンで住むようになって

     からのことでした。

     私がフィリピンで下宿している家に90を超えるお婆ちゃんがいて、

     「エンペラー・ヒロヒト」とか「エンペラー・アキヒト」などと

     言って、私に簡単な質問をしてきたわけです。

     実は、このお婆ちゃんの父親が、田舎町の町長だったようで、それも

     戦時中に日本軍によって任命された町長だったとの話でした。

     なるほど、戦後の日本に育った私のような日本人よりも、戦前・戦中に

     日本との深い関係があった国の人たちの方が、よほど皇室のことを知っている

     のだなと感じ入ったことでした。

 

p214

 

立憲君主の天皇は政治への関与を禁じられていたが、戦後日本で主流だった政治潮流

の代表者のひとりとなった。

その政治潮流とは、21世紀に入ってからは主流と言えなくなっているが、真面目で

熱心な中道左派の平和主義だ。 その根っこにあったのが、民主主義や1947年施行の

「平和」憲法の理想を守る情熱だった。

 

明仁天皇のことを急進派、あるいは社会主義者だと言ったら大きな語弊があるだろう。

だが、日本の左派が危機と衰退を迎えていたときに、この国の革新勢力の指導者

なかで最も有名で、最も一貫していて、最も決然としていて、最も効果を挙げたのが、

この世襲の君主だった。

 

==>> これはかなり過激な解説かとも感じますが、海外から見ると、そのように

     見えるということでしょう。

     戦後、アメリカによって押し付けられたとされる憲法に、真摯に寄り添った

     結果がそのように見えるということなのかもしれません。

     しかし、私自身の過去の天皇の発言についての印象を振り返ってみると、

     なるほど、そういうことかと腑に落ちる感じです。

     私自身は、政治的にはフラフラしている日和見でして、その時その時の

     政治状況に振り回されて、右往左往するタイプの情けない人間です。

     よく言えば、バランス型ですかね。

 

p214

 

アメリカの占領者が作った戦後憲法で、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」

と定められている。

天皇に許されるのは「憲法の定める国事に関する行為のみ」で、天皇は「国政に関する

権能を有しない」。

これは他の立憲君主制の国に比べ、政治発言をはるかに厳しく制限されることを

意味する。 明仁天皇は律儀に、この一線を越えなかった。

その代わりに、コミュニケーションに一種の暗号を使った。一見他愛なく率直にとれる

発言に意味を込めて響かせたのだ。

君主の多くがそうであるように、歳月の経過とともに明仁天皇と美智子皇后は、

独特の流儀で知られるようになった。

 

==>> 「アメリカの占領者が作った戦後憲法」とはっきり書かれているのに、ちょっと

     驚きました。 まあ、それはそうなのでしょうが、たまに見聞きする話では、

     日本人も瀬戸際でいろいろと頑張ったんだというような裏話的なものもあり

ました。 最近は、憲法改正・改悪論議が出ていますので、こういう議論が

噴出してくるのでしょうか。

 

2016年2月に明仁天皇と美智子皇后がフィリピンを訪問され、戦没者

     慰霊などに、ご高齢にも関わらず、精力的に多くの人たちと交流されました。

     たまたま、私も日本人会の関係者として、大使館からお声が掛かり、

     両陛下と一言二言言葉を交わすことも出来ました。

     その時のホテルの様子はこちらでどうぞ:

     「天皇皇后両陛下のフィリピンご訪問」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/02/post-38bc.html

     「この建物の中で 両陛下の御接見がありました。

そして、このベンチに、挙動不審の日本人男性が二人。聞くと、「昔から、

美智子妃のおっかけ」だったとか。

日本の関係者の中では、かなり秘密にされていたようですが、フィリピン側では

しっかり日程と会場が公表されていたらしく・・・・」

 

     ・・・この時に私が感じたのは、天皇皇后両陛下という存在は、

     日本に於いて、政治を超えた日本人の良心なのだな・・ということでした。

 

p217

 

父親の裕仁天皇が、戦争の司令官や戦略家だったことは一度もない

だが、現代の研究では、裕仁天皇が太平洋戦争に反対とは程遠い立場であり、反対していた

のは負け戦だけだったことが明らかにされている。

だが、日本では降伏の当日から、裕仁天皇の免罪を求める必死の努力があった。

裕仁天皇は平和主義者として描かれ、降伏を決断することで不幸な人民を滅亡の淵から

救ったとされた。

 

・・・その後の在位期間では、表向きには立憲君主を演じたが、その裏でときおり

閣僚人事に疑義を示したり、共産主義者に対する「備え」を促したりしたこともあった。

 

==>> この辺りの話になると、私なんぞは全くの門外漢ですから、ああそうですか

     と言うほかはないのですが、おそらく、日本国内の研究者やメディアなど

     よりも、こういう部分は忖度しなくてもよい海外の研究者やメディアの方が、

意外と研究材料も手に入れ易かったり、発表しやすかったりするのでしょうか。

 

 

p218

 

戦前の天皇は、魔法を使ったかのような高みにあらせられるお方だとされ、「雲の上」の

人にたとえられていた。 大日本帝国の臣民が裕仁天皇の姿を見たのは、写真やニュース

映画で軍服を着て白馬に乗っているところだけだった。

1945年8月15日、日本の降伏を伝えた有名な放送の時、大日本帝国の臣民の

ほとんどが裕仁天皇の声を初めて聴いた

 

==>> 「軍服を着て白馬に乗って・・・」のくだりは、まさに今の北朝鮮ですね。

     30~40年ぐらい前には、私は、日本の政治というのは社会主義というか

     共産主義の国家みたいだなと感じていたことがあります。

     それはおそらく、アメリカと比較しての感覚だったのだろうと思いますが、

     自由な雰囲気や、アメリカン・ドリームやシンデレラのチャンス、そして、

     平社員と社長の給料の大きな差、そのようなアメリカでの可能性に比べて、

     日本はなんと平等なんだろうと思ったからです。

     おそらく、一億総中流という意識がそうさせたのでしょう。

 

     そして、上に書いたように、私のような凡人が、天皇皇后両陛下と言葉を

     交わすことも可能な時代になりました。

     今現在進行形の話で言うならば、皇室から出て一般人になった女性に対して、

     一般の庶民があ~だこ~だと騒ぐまでに、皇室の権威というものが、人々の

     地上のレベルまで降りて来たというべきでしょうか。

     それにつけても、皇室の方々は本当に大変だと思います。

     もうそろそろ、解放してあげてもいいんじゃないかと思うぐらいです。

 

 

p219

 

それから、なぜかはわからないが、その場にいた私たちは全員、声をひそめなければ

ならないと感じたのだ。 皇族は、優しくて、善意が感じられる不思議な雰囲気を身に

まとうかのように見えた。

 

徳仁皇太子と雅子妃は、明仁天皇と美智子皇后と似て、非常にいい人だという印象

だった。 相手がそれなりに楽しく時間を過ごせているのかを、必死というか、ほとんど

神経質と言えるほど気にかけているのだ。

 

==>> これは、記者会見に参加した人が書いた話ですから、かなり緊張した

     雰囲気の中での印象なのではないかと思います。

     私が直接お会いしたのは、フィリピンにおける日本人の組織団体企業などの

     関係者が集まっての場面でしたので、緊張した雰囲気というよりも、歓迎の

     嬉しさに包まれた会場でした。

     明仁天皇はイメージしていたよりもずっとざっくばらんな印象で、威圧感など

     はまったく感じられず、 美智子皇后は冗談がお好きなようで、笑い声があち

こちで聞かれました。

 

 

p220

 

皇居内で働いた経験のある人物が私にこう語ったことがある。

国民の1割は、どんなことが起きても血統を重んじて皇室を支持する人達です。

7~8割は、皇族がその役割に勤勉、献身的、熱心に取り組んでいれば、程度の差こそ

あれ皇室を支持します。

 

皇室の制度は、圧倒的多数が支持しないと不安定になります・・・・・」

 

p221

 

記者会見での質問は事前提出方式であり、回答には台本がある。 メディア対応は、

皇族の生活のすべての側面と同じで、宮内庁が管理している。

宮内庁は保守的な機関であり、能力は凡庸なのに、偉そうに振る舞う能力だけが

とりわけ発達した役人が多い

 

もっとも宮内庁の上級職には、外務省など他省庁からの公務員が就いたりするので、

そうした人のなかには、賢明で心の広い、礼儀正しい男性もいる(これらの職に就く

のは決まって男性だ)。

 

==>> 「皇室の制度は、圧倒的多数が支持しないと不安定になります。」というのは、

     確かにそうだろうなと思います。

     皇室に生まれてくるというだけで、ご苦労様と言いたいぐらいです。

 

     記者会見には台本があるというのは、もちろんそうだろうと思います。

     NHKの某番組でフィリピンでの正月風景を紹介するというので出演したこと

     があるのですが、たいした内容でもないのに、きっちりと台本が作られました。

     さすがにNHKだなあと感心したものです。

 

     「能力は凡庸なのに、偉そうに振る舞う能力だけがとりわけ発達した役人が多い」

     という部分には、笑ってしまいました。さもありなんという感じです。

     もちろん、長い歴史を持つ皇室ですから、保守的であるのは極自然なことだと

     思います。

 

 

p223

 

その当時、皇居にはDVDプレーヤーもインターネット回線もなかった。 私が話を

聞いた宮内庁の上級職員は、仕事用のメールのアカウントを持っておらず、デスクには

コンピュータもなかった。

 

・・・とはいえ天皇夫妻は活字の熱心な読者だ。 日本の新聞や雑誌のほかに、航空便

によって数日遅れで皇居に届く、私が勤める英紙「タイムズ」にも目を通しているとの

ことだった。

 

==>> 私としては、天皇皇后両陛下には、パソコンの前にへばりつく、アメリカの元

     大統領みたいにはなって欲しくないし、悠久の時の中での皇室ですから、

     そのようなコミュニケーション環境でも構わないと思います。

     一方で、新聞や雑誌などから情報を集めているというのはいいことだなと

     思います。 インターネット上の情報はしっかりした構成の文章にはなって

     いないことが多いと思うので。

     ちなみに、皇室はどのような新聞雑誌テレビから情報を得ているのかという

     点については、下のようなサイトがありました。

     https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14100977449

     「購読紙が分かると差しさわりがあるということで公表はされていないよう

です。 昭和天皇が記者のインタビューで「テレビはどんなものをみますか」の

答えとして・・・。「それをいうと色んなところに差しさわりがあるので・・・。」

といって笑いを誘いました。昔、テレビニュースで見ましたよ。」

・・・ということだそうです。

 

 

p223

 

天皇には私有資産がなく、御用邸も国有財産だ。 私が聞いた話によると、明仁天皇は

日銀総裁から経済や景気動向について聞いたとき、話を遮って訝し気にこう尋ねたと

いう。 「そのATMとは何なのですか」

 

p224

 

天皇夫妻はめったにプライベートの社交をせず、皇居の外で接待を受けることも稀だった。

渡邊は私にこう言った。

「(プライベートの社交派)警備の都合で非常に難しいです。 それから公平性の問題も

あります。 どうしてあの人の家に行き、別の人の家には行かないのか。そういったこと

もあるのでなされません」

 

==>> これを読むと、皇室にはプライバシーが無いということのようです。

     私有財産がないという話については、こちらのサイトに書かれていました。

     「皇室とそのお金事情、今さら聞けない超基本」

     https://toyokeizai.net/articles/-/253298?page=3

     「姓も戸籍もない天皇と皇族は、一般国民ではないので、私たちが持っている

さまざまな自由や権利も制約されることになります。例えば、選挙権もなければ、

表現の自由や移動の自由、職業選択の自由もありません。」

「実は皇室には私有財産がありません。なぜかというと、日本国憲法第88条で

すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の

議決を経なければならない」と定められているからです。」

 

 

p224

 

皇族には、他国の王族が享受するような特権はほとんどない。 ここが、比較される

機会が多い英王室との大きな違いだ。

 

p225

 

明仁天皇も・・・2013年の誕生日の会見で触れた。

「既に80年の人生を歩み、これからの歩みという問いにやや戸惑っていますが、年齢に

よる制約を受け入れつつ、出来る限り役割を果たしていきたいと思っています。

(中略)天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものです」

 

==>> この部分には、「ワーカホリック世代」の天皇、という小見出しがついているの

     ですが、ここまで読んできたところで、つくづく天皇というお仕事は

     逃げることもできない、大変な仕事なのだなと思います。

     変な言い方ですが、「ご同情申し上げます」という言い方しかできません。

     

     明仁上皇は1933年生まれですから、2016年のフィリピン訪問の時には、

     83歳ぐらいだったかと思いますが、その訪問のスケジュールはかなりの強行

軍であるように見えました。

よほどの体力がないとあんなスケジュールはこなせないなと驚いたものです。

 

 

p226

 

ケネス・ルオフという、現代の皇室を研究してきた英語圏の一級の学者がいる。

ルオフが著書「国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制」で「アキヒトイズム」

の特徴のひとつとして挙げるのが、障がい者や恵まれない人々、被災者と身近に接し

「(日本)社会の周縁との距離を縮める努力」をしてきたことだ。

 

・・・火山の噴火や地震、津波で家を失った人のもとに行き、膝をついた。

 

・・・このような慈善活動に対する極右の戸惑いもきわめて大きかった。

 

==>> ここで、極右の戸惑いの一例として、江藤淳の反応が引用されているのですが、

     「明治国家を理想とする正統的な保守派の論客」」とされた江藤淳が述べて

     いることを、私は理解できません。

     もちろん、「明治国家を理想とする」ということから類推すれば、そうかな

     という感じは分るのですが。

 

p228

 

私の祖父の世代の多くは、日本人を「残忍」な民族だとみなして疑うことがなかったが、

そのような観念は、いまの西側諸国では完全に払拭されている

 

p229

 

いまの日本といえば、スタイリッシュで洗練され、クリエイティブでクールといった

ポジティブなイメージになった。

 

だが、東アジア諸国では、日本に対するイメージは、いまも正負の両方が併存している

状態だ。 中国や韓国にも、ラーメンやマンガ、ユニクロ、村上春樹が大好きで、

飛行機で東京や福岡に行き、買い物や食事を楽しむ人は多い。

 

ただ、そういう人でも、いまの日本人が、数世代前の自分たちの家族を殺したり、

レイプしたり、強制労働させたりした1930~40年代の日本人と基本的には同じだ

とみなすことに異論がない。

 

かつての敵国に自分たちの反省を納得してもらうという課題において、ドイツは見事に

成功したが、日本は失敗したのだ。

 

==>> この点に関しては、フィリピンにもまだそのような、日本の暗いイメージは

     残っていると肝に銘じておくことが必要だと思います。

     それを私が実感したのは2つの出来事からでした。

     

     ひとつは、私がフィリピンの兄弟会社で勤務していた時、日本企業からの

フィリピン工場訪問があり、その事後対応で日本のその企業で会議があり

ました。その会議の中で、その顧客から「フィリピン人は嘘をつくから」

いう発言があったのです。

もちろん、それは別のフィリピン企業での話だったのですが、その話を

議事録としてフィリピンの兄弟会社に報告したところ、猛烈な反応が

返ってきたのです。

「戦争中に日本人がどんな嘘をついたか、わかっているのか!」

「そんな日本企業とは一緒に商売できない!」

・・・それはもう、役員から担当者まで、物凄い反応でした。

 

そして二つ目は、ルソン島北部山岳地帯の農村で、ある日系NGOが

アート系のイベントを実施したのですが、その地域でも、戦争時代に

日本軍とフィリピンゲリラの闘いがあって、多くの地元民が殺害された

という歴史があったのです。

そのような背景から、地元民の一部が、銃を持ち出してきて、イベントを

実施しようとする日本人を追い出そうとしていた、という話を後日談として

イベント主催者から聞きました。

 

フィリピンの場合は、カトリック信者がほとんどなので、表面上はかなり

寛大な対応をしてもらえるのですが、話があるポイントを突いたり、

地域によっては、そのような怨念が表面化することがあるのです。

 

 

p230

 

加えて戦争を終結させた広島と長崎の未曾有の惨劇が、日本人に被害者意識を持たせる

ことになった。 そのため日本人は、自分たち一人ひとりが、消極的であれ、積極的で

あれ、それぞれ少しずつ戦争に加担していたということから目を背けてしまうこと

があった。 

 

 

p232

 

こうした旅の目的は、すべての戦没者に「慰霊」の祈りを捧げることだった。

これには最も急進的な軍国主義者も反対できなかった。

 

・・・明仁天皇は2015年にこう語った。

「年々、戦争を知らない世代が増加していますが、先の戦争のことを充分に知り、考えを

深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」

 

==>> p229に出てきた、ドイツは成功したが、日本は失敗したという点ですが、

     私も確かに日本は失敗したと思います。

     私自身、長崎県出身ですから、戦後世代とは言え、広島長崎の原爆被害の

     ことは勿論聞きました。 それは確かに被害者の立場の話です。

     加害者という立場での話は、日本にいる間、ほとんど聞いたことはありません。

     もちろん、日本史などの教科書に書いてありますから、読めば、日本が侵略

     していったことは分かりますが、どのような戦場であったのかについては、

     ほとんど知らなかったと言ってもよいでしょう。

     教科書はあっても、近現代史は授業では教えませんしね。

 

     それを学んだのは、フィリピンに住むようになってからでした。

     例えばの一例としては、こちらのような大学での講演会です。

     「日本占領下のフィリピン・バギオ市 - フィリピン大学バギオ校公開講座」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/09/post-fdab.html

     「ー シティー・マーケット前の広場で、日本軍による公開処刑があった

      5名がみせしめとされた。(4名=山岳民族、1名=イロカノ族)

ー 日系人の中には日本軍への反感もあった。

ー インフレで、日本の軍票は紙切れとなり、金貨がつくられるようになり、

        その後 その金貨を溶かしてインゴットが作られるようになった。

ー 1944年12月ごろ:日本人 2,500人、日本軍 10,000人」

 

・・・フィリピン全土では、戦争中の日本人死亡数は約50万人で、

フィリピン人は約100万人以上とされています。

 

「先の戦争のことを充分に知り、考えを深めていくことが日本の将来に

とって極めて大切なことと思います」

・・・という明仁天皇の言葉は実に重要なことだと思います。

 

 

p233

 

これらの「お言葉」は、直接の謝罪とは言えなくとも、それに近いものだった。

それは天皇が独力でしたことではない。 宮内庁の上級職員が関与したからできたこと

でもない。 

当時の自民党政権が比較的中道寄りで国際協調路線をとっていたことの反映だった

当時の自民党は、安倍晋三前首相時代の保守的なナショナリズム政党とは大きく異なって

いたのだ。 

1995年、日本の降伏から50年という節目の日、社会党の首相だった村山富市が、

はっきりと戦争の謝罪をした。

 

その後の20年間、歴代内閣は基本的には村山の談話をくりかえし、継承してきた。

 

==>> この村山談話の「深い反省」という言葉については、安倍首相の時代には

     口にされなかったとこの後に書いてあるのですが、それに対する

     明仁天皇の「お言葉」が、「安倍が落としたバトンを拾った明仁天皇」

     いう小見出しをつけて述べられています。

     なかなか日本のニュースなどでは見かけられない表現かなと思います。

     時事に詳しい方であればもちろんお気づきのことなのでしょうが。

 

p236

 

神社本庁などの団体は、それまで天皇の権威の復活を何年も訴えていた。

ところが、突然、天皇が政治「利用」されていると憤り、天皇が憲法に定められた象徴

としての役割を厳格に守ることを求めるようになったのだ。

彼らは天皇が天皇主義者でない事実に気づいて不快感を覚えた

 

 

p236

 

美智子妃いじめのゴシップのキャンペーンは、主として悪意のある雑誌記事のかたちで

出た。 それは結婚直後から始まったものだった。

 

・・・一方、神道のエスタブリッシュメントが怒りの矛先を向けたのは、美智子妃が

聖心女子学院という学費の高いカトリックの学校で教育を受けたことだった。

美智子妃は洗礼を受けていなかった。 だが、美智子妃と、クエーカー教徒から教育を

受けた「ジミー」明仁皇太子のふたりは、潜伏キリシタンのシンパだとの憶測も流れた。

 

==>> この辺りは、「悪意のある雑誌記事」レベルの話のようですから、

     私は基本的にさっぱり分かりません。

     しかし、「天皇が天皇主義者でない」という表現は、なかなか面白いですね。

     

     それに、皇太子の教育に関連して、なぜクエーカー教徒が家庭教師に

     なったのかというのは、なかなか興味深いところですね。

     宮内庁という空間は、だれがコントロールしているんでしょうか。

 

     こちらのサイトにその家庭教師のことが書かれていました。

     「天皇陛下の先生は誰?」

     https://kims-001.com/3371/

     「昭和天皇と皇后のたっての願いで、明仁天皇に英語を教える外国人として、

エリザベス・ヴァイニング婦人がアメリカから招かれました。

米国ペンシルベニア州フィラデルフィアの生まれ

図書館学を学び、司書・作家として活躍した方です

1946年にGHQによって皇太子明仁親王の家庭教師に選ばれ来日

     「ヴァイニング夫人は、敬虔なクエーカー教徒でした。クエーカー教はキリスト

教の一派「質素・誠実・平等」を旨とし、平和主義を掲げています。

夫人は授業では、自らの信仰を押しつけないよう配慮していたそうですが、

「質素・誠実・平等」の精神は確実にそこにあったと思います。」

 

・・・ところで、キリスト教や仏教には、いろいろと教義なるものがある

わけですが、神道にはそのようなものがないようですね。

そういうことになると、仮に神道系の人が皇室の教育係になったとしたら、

どのようなことを教えるのでしょうね?

イメージが湧きません。

 

 

p238

 

相手は小和田雅子という国際的な教育を受けた、外務省のキャリア外交官だった。

皇太子のプロポーズを何度も辞退したが、皇太子妃や皇后になったほうが国に尽くす

仕事ができるという議論の末に受諾したと言われている。

だが、皇室の視点では、雅子妃の知性や学歴は二次的な話だった。

その主たる務めは、未来の天皇を産むことだった。

 

p239

 

1999年には、雅子妃の流産があった。その2年後、不妊治療を経て、雅子妃は妊娠

し、夫婦のあいだに最初で唯一の子供である愛子内親王が生まれた。

 

徳仁皇太子は、ほとんど台本がないかのような記者会見で、雅子妃が抱える悲しみと

不満を直接的に語った。

その怒りは露わだった。 世継ぎを産めないせいで、婚約の条件だった自由と外国旅行

の生活が拒まれたのだ。

「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあった

ことも事実です」

 

==>> もう、これは女性週刊誌にお任せするしかない内容です。

     私の個人的な印象で言うならば、「お可哀そうに」という一言でしょうか。

     日本の女性の中でも、トップクラスの知性と能力の持ち主であった

     優秀な女性が、皇室に入ったがために潰されてしまったような感じが

     します。あな恐ろしや・・・・

 

 

p243

 

明仁天皇のいとこである寛仁親王がこう言ったことがある。

「皇室は、要するに何なのかと聞かれれば、よくよく考えた上での結論というのは、

私たちの意味というのは、私たちが単に存在していることにある、ということです」

 

寛仁親王の結論では、皇族は「朝起きて、朝、昼、晩のご飯を食べて、寝る。これを

一年365日繰り返す」だけで役割を果たせるとのことだった。

 

明仁天皇は皇太子時代、こうした役割とは別の可能性も考え、すぐにその考えを退ける

発言をしている。

「立場上、ある意味ではロボットになることも必要だが、それだけであってはいけない。

その調和がむずかしい」

 

==>> 私は今までは、ほとんど天皇に関しては興味がありませんでした。

     そして、今回たまたま、この本を読んでみて、貧乏な庶民の家に生まれて

     良かったなあとつくづく思います。

     最低でも、自分が好きなことを、好きな仕事を、好きなようにやれるわけ

     ですからね。

     そして、その逆の生活を、生まれたときから運命づけられた皇室の方々には、

     想像を絶するストレスがかかっているのだなと思いました。

     そんな状況をこの本を通じて理解できたところで考えると、

     勝手な議論をあ~だこ~だとやっている取り巻きの連中が疎ましくさせ

     思えてきます。

 

私は、日本の皇室とは、政治を超越したところでの日本人の良心を代弁するもので

あって欲しいと願っています。

そして、そのような皇室には、心穏やかな日々があることを願うのみです。

 

 


 

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