立花隆著「臨死体験」を読む ― 7(上巻・完) アメリカ・ギャラップ調査であぶり出された数百万人の「臨死体験者」 

立花隆著「臨死体験」を読む ― 7(上巻・完) アメリカ・ギャラップ調査であぶり出された数百万人の「臨死体験者」   

 

立花隆著「臨死体験(上)」を読んでいます。

 


  

「第十二章 時間なき世界」

 

p395

 

創発という、進化論で用いられる独特の概念がある。 ・・・ダーウィンの自然選択説

だけでは説明できない大進化がときどき突然あらわれる。 生命そのものの誕生にして

からがそうだが、水中生物が突然陸の上にあがったり、突然空を飛ぶものが出現したり、

突然人間がうまれたりといった、先行条件からは予測不可能かつ説明不可能な飛躍的進化

が突然起こることを創発というのである。

 

いま人類進化の上で、新しい創発が起ころうとしているところだというのが、リングの

考えである。 その未来進化によって新しく生まれてくる人間の原型を、彼はオメガ・

プロトタイプと名付けている

 

・・・臨死体験者が、オメガ・プロトタイプとして、出現し、新しい進化の方向が・・・

 

==>> 「創発」という言葉は、過去に読んだこの本の中でも議論されていました。

     「汎心論 : 21世紀の心の哲学」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-b2a0ef.html

     「p115

ミクロレベルとマクロレベルの関係が単純に部分を足し集めたメレオロジカル

な関係だとしたら何も問題はありません。

・・他方で、創発という現象を認めると変なことが起こります。創発とは、

ミクロな要素がある仕方で集まって生物個体などを形成すると、一個一個の

原子や分子についての物理学の法則からだけでは予測できないふるまいを

大きなまとまりが見せるという考えです。

 

・・・マクロレベルを機能主義的に考えるのがその中間の立場です。 創発を

認めるわけではないけれども、ミクロレベルの要素が集まることでその大きな

集まりがある機能を実現する、そしてあるマクロレベルの機能はさまざまな

ミクロレベルの要素によって実現されうる、というように考える説明です。

この説明によれば、生物を構成している原子と無生物を構成する原子の振る

舞いには違いはないけれども、生物には固有の秩序や法則性が見いだされる

ことになります。」

 

==> 創発というのが気になっているんです。進化論でよく言われる突然

変異となにか関係があるのでしょうか。

     今日テレビで人類誕生というのを見ていたら、ホモ・エレクトスの時代に、人類

     が肉を食べるようになって、それまでの草食よりも腸への負担が軽くなった

ので、腸が短くなり、その分のエネルギーを脳に廻せるようになって、脳が大き

くなり、心が生まれた・・・という話が出てきました。

     心が生まれたということは、意識と深い関係があるのでしょうから、こういうの

     も創発と呼べるのかどうか。

    ・・ってことは、欧米人より腸が長い日本人などは、脳あるいは心が小さいって

ことになっちゃうのかな? ベジタリアンはマズイかも?

 

     ・・・ということを書いていました。

     私としてはあまり「創発」という言葉は話が飛んでしまうので、好きではあり

     ません。 あくまでも何らかの腑に落ちる説明が欲しいのです。

 

p402

 

そこで、臨死体験はほぼ万人に普遍的に起こり得る現象と考えられるようになった

ただし、どういうことが原因で死にかかったかは、ある程度体験要素の出現率と関係

してくる。・・・病気の場合はあらゆる要素が満遍なく出てくるのに対して、事故の

場合は、人生回顧が顕著に多い。 55%の人が人生回顧を経験している。

また、自殺の場合には、光を見る、光の世界に入る、超越的存在と出会うといった経験

ほとんどないことが特徴となる。

 

==>> ほお、これはなかなか興味深いデータですね。少なくとも自殺で死ぬのは面白く

なさそうです。 個人的にはやっぱり、いろんな経験をしたいので、事故よりも

病気の方がよさそうだな。

 

 

p406

 

それまではオカルトの領域と考えられていたこの体験が、立派に科学的研究の対象になり

得るということが、広く認識されるようになった。

それにダメ押しともいえる効果をもたあしたのが、同じ82年に発表されたギャラップの

世論調査である。(この調査をまとめた Adventures in Immortality の邦訳は「死後の世界」

というタイトルで三笠書房から出ている)。

 

この世論調査の主目的は、アメリカ人は死後の世界をどう考えているかをとらえようと

することにあり、臨死体験そのものが調査対象であったわけではない。

 

==>> 結果の一部を抜粋すると:

     ― 死後の世界を信じる ・・・・・・ 67%

     ― 天国は存在する   ・・・・・・ 71%

     ― 輪廻転生を信じる  ・・・・・・ 23%

 

     これに比較して、日本で統計数理研究所が行った調査では:

     ― 「あの世」「来世」を信じる ・・・ 12%

 

     また、日本では宗教を信じている人はおよそ30%で、アメリカでは大半の人が

     何らかの宗教を信じている、と著者は書いています。

     確かに、アメリカの大統領選挙の際には、宗教的な考え方がかなり影響すると

     「アメリカの政治」という本に書いてありましたので、そのようなものかと

     思います。

 

p408

 

この調査の一環として、・・・・「これまで死の瀬戸際まで行って、何か異常な体験を

したことがありますか」・・・・

 

死にかけたことがあると答えた人が約14%あり、そのとき異常な体験をしたことがある

という人がその35%(総数に対するパーセントでは5%になる)いたのである。

 

・・・この数字をアメリカの成人人口にかけて、実数を推定してみると、・・・異常体験

をしたという人が八百万人いるということになる。

 

p410

 

少なくとも臨死体験者の総数は数百万人に達すると考えられるのである。

 

==>> これは信頼できる調査会社がやったものであるだけに、立花隆さんも

     その体験者の多さには驚いています。

     まあ、これだけ多いと、単なる気の迷いだと無視するわけにもいきませんね。

     しかし、こういう調査を真面目にやるアメリカという国は素晴らしい。

     研究を自由にやれる雰囲気というのは、このような環境が大いに影響して

     いるんでしょうね。

 

p416

 

肉体のあらゆるシステムが機能を失い、解体していきます。 ・・・私がいいたいのは、

肉体がそのような状態におちいったときにはじめて見えてくる別の現象があるのでは

ないかということです。

 

 

p418

 

「数年にわたって疑問に思っていたことが全てわかった」ともいいます。

死の境界をこえるとそういう時空を超越した、人智を超越した世界に入るのであるとする

なら、“存続”だの、“認識主体”だのといったこの世でのみ通用する概念は意味を失って

くるわけです。 

 

==>> p416は、おそらく著者の本音で、なんらかの科学的説明がつけられるのでは

     ないかと言うことだと思います。

     そしてp418の上記の言葉は、もし死後の世界でも現実の人間の意識が

     時空を超えて続くというのであれば、なぜこの世に肉体をもったものが

     いなくちゃいけないのかという疑問になっているように思います。

     この世で生きている意味がないじゃないかってことになりそうです。

     「人間五十年、夢幻のごとくなり」が真実味を帯びてくるというお話ですね。

     私も、若い頃からこの人生は夢なんじゃないかと時々思ってきました。

     死んだら、パッと目が覚めるんじゃないかと・・・・

     もしかしたら、それが覚醒であり、解脱であり、涅槃なのかもしれません。

 

p425

 

この辺のリングの答えに、私は納得していない。 リングとしても、うまく答えられた

とは思わないという表情だったが、考えてみれば、この物理的世界に生まれ育ち、この世界

で認識能力をみがいてきた人間にとって、この世界とは異次元の世界の存在様式など、

そう軽々にわかるはずがないのである。

だがそもそも、そのような異次元の存在というものがあるのだろうか。

 

==>> これには私も全く賛成です。

     そう簡単には結論に飛び付きたくはありません。

     あくまでも、科学的にという線でねばってもらいたい。

 

 

 

「第十三章 光の存在、光の世界」

 

p430

 

そして、誰も悪くはなかったのだということがわかりました。

・・・「光の存在」は、私に、「実際にお前がしたこと以外、何が可能だったか考えてごらん」

といいました。 彼は、「お前はこうすべきだった」とさとすようなことはいっさいいい

ませんでした。 ただ、「他にもできることがあったかどうか考えてごらん」といっただけ

です。 彼はモラルを強制するようなことはしませんでした。

 

p433

 

グリップさんは「光の存在」が、他人が誰も知らないことを知っていたといい、それが超越

的存在の証であるかのように考える。 ・・・しかし、それが、光の世界で出会う神的

存在の神性の証明になるかといえば、必ずしもそうではない。

他人が誰も知らないことを知り得る立場の人は神以外にもう一人いる。 それは自分自身

である

 

==>> まあ、これは私もそのように判断できると思います。

     つまりは、自分自身の「内なる神」あるいは「良心」と呼ぶべきものでは

     ないでしょうか。

     医学的にも、右脳と左脳をつなぐ脳梁という部分を切断すると、まったく

     異なる性格の人格が二人いるような現象が実際にあるそうですし、

     そうでなくても、自分の中にもう一人の自分がいることは誰しも

     感じているんじゃないでしょうか。

     もっとも、私は他人の意識がどう働いているのかを見たことはありませんが。

 

p447

 

アメリカには、ベトナム戦争に参戦して、戦場で臨死体験をしたという人が珍しくない

アメリカの研究を見ると、たいてい体験の何例かはベトナム帰還兵の体験から取られて

いる。

 

・・・1965年に、ベトコンの迫撃砲攻撃にやられて右脚を失った人である。

 

・・トンネルの向こうには光が見えました。 ・・・光しかありませんでした。

三百六十度、光しかありませんでした。

 

・・・そのとき、声はしないのですが、私に質問が投げかけられました。 お前はここに

とどまりたいか、というのです。 私は大声で「ノー」と叫びました。 「私は息子に

会いたいんです」と叫びました。 妻が妊娠していて、予定日が二週間後だったんです。

 

・・そう叫ぶと、私は意識を取り戻して、野戦病院のベッドの上にいました。

 

p452

 

戦争という異常な状況は、臨死体験を生みやすいのか、私のところに寄せられた日本の

体験談の中にも、戦争による体験が少なからずある。

 

p453

 

「私は河原に仰向けに倒れていた。・・・誰かが手招きをして私を呼んでいる。 よく見る

と、四年前に死んだ父親だった。 ・・・河のこちら側にも、向こう側にも、大勢の

人がいた」

 

==>> アメリカのギャラップ調査からの推計で、アメリカには数百万人の臨死体験

     らしきものの経験者がいるというのは、おそらくベトナム戦争のように

     死にかけた人たちが大勢いることもひとつの要因なのでしょう。

     日本人の場合は、太平洋戦争が最後ですが、そこでの臨死体験には

     「三途の川」らしきものが出てくるようです。

     何を見るかは、欧米と日本では、結構、文化的・宗教的な背景が影響している

     ような傾向があるようです。

 

 

 

「第十四章 星への旅」

 

p458

 

キュブラー・ロスは、・・・ターミナル・ケアとサナトロジー(死生学)の世界的権威で、

「死ぬ瞬間」をはじめとするその著作は、世界中の医者、看護師の必読文献となっている。

 

p460

 

世界で最も野蛮なジャングルはニューヨークだ。 ニューヨークにも、アフリカやインド

以上に悩み苦しむ人たちばいる」といわれた。 ・・・アメリカでは、マンハッタンの

「患者が、動物か、見世物か、人間モルモットみたいに扱われている、悪夢のような

精神病院」で働いた。 そこで、医者からは完全に見放されている重症の精神病患者の

救済に力を注いだ。

 

p461

 

キャプラー・ロスが死の床にある子供たちに、死とは何かを説明するために、いつも、

さなぎと蝶が裏表になっているぬいぐるみを持ち歩いているという話を紹介した。

 

・・・肉体(さなぎ)を脱ぎ捨てることによって魂(蝶)が羽ばたいて飛んでいくのが

死だと説明するのである。 このアイデアは、強制収容所で見た蝶の絵からきている。

 

==>> ここで紹介されている「死の瞬間」は何冊か日本でも出版されていました

     ので、一冊買って読むことにしました。

     詳しい情報はこちらでどうぞ。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93

     「キューブラー=ロスは死の意味をここであえて哲学的に探ろうとはしない。

本書の意図ではないからであるが、一方「死ぬ人が”平和と威厳”をもって死ぬ

権利がある」と主張する。この死に臨んだ静かな境地をキューブラー=ロスは

「デカセクシス(Decathexis)」と呼んだ。自分自身を周囲の世界とのかかわり

から引き離すというような意味である。これは日本語の解脱、涅槃の境地

無我の境地などに該当する。」

 

 

p469

 

子供たちというのは、大人がコンタクト能力を失ってしまったスピリチュアルな世界と

コミュニケートする能力をしばしば保持しているのです。 ・・・子供はしばしば、他の人

には見えない自分だけの遊び友達を持っています。 大人は・・・子供がちょっと大きくなると、・・・こういうコミュニケーションを禁じてしまいます。 カトリックの教えによる

と・・・いつも守護天使が身近につき従ってくれているといいますが、・・・」

 

・・・彼女がここで語っている、子どもが想像上の遊び友達を持つという現象は、発達

心理学の上でよく知られた現象で、「想像上の友達」と名付けられている。

 

・・・我が家でも、上の娘が二歳の時に、その手の友達を持っていた。見ていると、本当

にそこにもう一人の子供がいるかのように会話を交わしながら、いつまでも遊んでいる。

 

==>> 私自身が幼い頃には、姉と妹が一緒だったので、よく小さな家の模型みたいな

     ものの中で人形を使ってよく遊んだ記憶がありますが、上記のような経験は

     ありません。

     この話とはちょっと別の話ですが、バギオで日本語を教えた生徒から

     日本兵の亡霊が出てきて、その霊と話をするお兄さんの話を聞きました。

 

     「私の家に日本人の幽霊が出たんです。 それで引っ越し・・・」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/07/post-67f8.html

     「「いいえ。 兄が学校から帰ってきたら、家の中にその幽霊がいたんです。 

それで、両親に、お客さんが来てるよ、と言ったら、 親は、そんな人いない

よって・・・・」

「・・・で、どんな日本兵?」

「一人は、普通の日本兵なんですけど、凄くおしゃべりなんです。 よく兄が

自分の部屋で その幽霊としゃべってました。 だから、うるさくってしょうが

なかった・・・」

「もう一人はどんな?」

「多分、司令官かなにかだと思うんです。 刀を下げていたから。 ・・でも、

その幽霊は頭がないんですよ。 首から下だけ。」」

 

p471

 

自分の娘についていえば、悪いことは何でもすぐにヘンドロという訳がわからない存在に

押し付けるので、私は、この娘は、ずるい性格を持って生まれたのではないかと一時かなり

心配したが、この本を読んで安心した。 そのころ、娘とヘンドロのやりとりがあまりにも

リアルなので、私も、もしかしたら、娘には我々大人には見えないものが本当に見えている

のではないかとキャプラー・ロスみたいなことを考えたこともある。

 

しかし、明らかに彼女自身がやった悪さを何でもかんでもヘンドロに押し付けてしまう

のを見て、ヘンドロが実在ではあり得ないことを知った。

 

==>> 私たち夫婦の間には「タロー」という名の架空の猫がおりまして、お互いに

     なにか不都合なことがあるとタローという猫のせいにすることにしています。

     些細な言葉のやりとりの中ですぐに口喧嘩になるものですから、それを

     タローの悪さのせいにして、その場を誤魔化すという姑息な方法です。

     お試しください・・・・

 

p476

 

これまで述べてきたことでわかるように、臨死体験は人によって、その内容が大きく

ちがう。 たしかに体験のパターンというか、基本的な構造は互いに非常によく似ている

しかし、具体的な内容はあまりにちがっている。 同じ体験は二つとしてない。

トンネルの描写にしろ、光の世界の描写にしろ、あるいは川やお花畑にしろ、具体的には

みなちがうのである。

 

死後の世界というものが、客観的に普遍的なものとしてあって、そこに足を踏み入れる

のが臨死体験だとするなら、それほど報告内容にちがいがあるという事実はどう説明

できるのだろうか。 臨死体験が脳内現象にすぎないとすると、これは簡単に説明が

つく。

 

==>> 確かに、ここまで読んでくると、立花隆さんの脳内現象説の方が私は本当

    ではないかと思うんですが、キャプラー・ロスさんの考え方はなかなか

    巧みであると書いてあります。

    その辺りの話については、上記で紹介された「死の瞬間」という本を読んでから

    再度考えてみたいと思います。

 

p478

 

存在は体験者主体が創造したものだというのだ。 これはもう、ほとんど、脳内現象説

に近いが、彼女はそれはあくまで実在であると主張する。 こういう考えは実は彼女の

ユニークな考えではない。 哲学史をひもとくと、これと同じような唯心論哲学の存在論

が昔からあるのである。

 

==>> 実は、最近の哲学の中に「汎心論」というものがあるそうです。

     それを「現代思想」という雑誌で知ったのですが、その内容は私にはほとんど

     理解できないようなものでした。 特に永井均さんの議論は、どうも思考回路

     がまったく異なっているようで、なぜ分からないのかさえ分かりません。

 

     「現代思想6 2020vol48-8 汎心論: 21世紀の心の哲学」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-3ec8ec.html

     「p22

なぜ私は過去の私の体験を、他者が体験を語るのを理解するときのように、

生々しさ抜きに表象することができないのか。

・・・

哲学的には、それはできなくはない・・・・つまり、自分の体験を思い出すとき

にそういうふうにしか思い出せない人を記憶ゾンビと呼ぶなら、記憶ゾンビは

可能です・・・

・・では、記憶ゾンビの人は何を失うのか。

・・・これはクオリアの欠如という有名な問題なのですが、その問題の本当の

意味は何かということについて、かつて「なぜ意識は実在しないのか」という

本を書いたのですが、残念ながらほとんど理解されていません。」

 

== ここで私が何を言いたいのかと、あえてひねり出していうならば、

哲学の分野においても、「私」というのは一体全体何なのかということが

いまだに議論されているということです。

唯心論と唯物論の違いは、昔から議論されていますので、少なくとも誰でも

漠然とした理解はあると思いますが、最近はどうもその両者を「クオリア」

というものを中心にして統合するような方向にあるのかな、という気がします。

 

唯心論の再確認はこちら:

https://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E5%BF%83%E8%AB%96-144556

「精神の独立した存在と優位を説く学説。精神を物質との対立でとらえる場合

と,生命との対立でとらえる場合とがある。前者は唯物論の対極に立つもので

ある。唯心論は必ずしも物体の存在を否定しない。精神と物質の2実体を認める

デカルト的二元論も唯心論である」

 

汎心論に関するwikipediaの説明は:

汎心論は、心あるいは心に似た側面が現実の基本的かつ遍在的な特徴である

とする。また、「心は宇宙全体に存在する世界の基本的な特徴である」とする

理論とも表現される。・・・したがって物理学の基本的なレベルの存在には原始

的な形態の精神性を認めるが、岩や建物などのほとんどの集合的なものには

精神性を認めない。」

 

p482

 

「医学の「科学的」トレーニングを受けたのに、「霊の問題にかかわっている」と私を

非難する人がいる。 ・・・「ロスは死ぬ子供をあまりに多くみすぎたので精神病になって

しまったのだ!」とはっきり言う人までいる。・・・これらのことを賛辞と受けとめている。

というのは、これは、われわれが働いている領域が、攻撃するほか防ぎようのないような、

多大の恐怖を人びとに抱かせる分野であることを明らかに示しているからである。

 

しかし、・・・幾多の話を無視することは不可能である。・・・」

 

 

p484

 

説明がつかない例・・・・盲目の臨死体験者です。 その人は十年前から完全に視覚を

失っていて、何も見えないのです。 ところが、臨死体験中のことを聞いてみると、

彼が見なければわからないことをちゃんと知っていたのです。

 

==>> 科学的に物ごとを捕らえて対処するはずの医師の立場の人が、このような

     非難をされることは、凡人の私ですから、そりゃそうだろうなと思います。

     しかし一方で、ことは死に関する話ですから、死が科学的に解明されて

     いない限りは、死から生還したと見なされている人たちの話に頼るしか

     ないわけです。

しかし、さすがに立花さんは、ここでもそうすんなりとは納得しません。

 

p484

 

確かに不思議な話である。 しかし、・・・その人が生まれつき目がみえなかったわけ

ではなく、・・・・・ 実は私が取材した体験者の中には、生まれながらの全盲者がいる。

しかし、彼の場合は、臨死体験の中で何も見ていないのである。

 

p485

 

―― 木や草があるのはどうしてわかったんですか。 見えたんですか。さわったんですか。

 

私は生まれてから一度も見たことがありません。 そのときも何も見ていません。

ただ、見なくてもわかったのです。 木も草もそこにあることが感じとれたのです。それに

いい匂いがしました。・・・そして、向こうのほうから、とてもきれいなコーラスが聞こえてきました。・・・・一度に何カ国語もの言葉で歌われていました。 ・・・石でできた

アーチがありました。 今度はさわってみたので、それが石だというのがわかりました。

急に私の胸のところを、大きな手がさわってきました。 ・・・・その手にさわってみると

暖かくて筋肉質の手でした。・・・声は聞こえないのですが、私の心に直接語りかけてきて

言いました。 まだお前の時はきていない。・・・・」

 

・・・バリーさんの場合は、触覚、嗅覚、聴覚は働いていたが、視覚は全く働いていな

かった。

 

==>> 臨死体験というのは、幻覚みたいなものではなく実感だということなので、

     想像すると「クオリア」のようなものなのではないのかと思います。

     そういう意味では、今の哲学でさかんに出てくる「質感をともなうクオリア」

     というのが、それが脳の働きであろうがなかろうが、キーポイントになり

     そうな気がします。

 

p489

 

―― 体外離脱してどこに行くんですか

 

「いろんなところに行きます。 その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、

別の銀河まで行ってしまうこともあります。 ・・・そこの人たちは、地球人より

ずっと優れた文明を持っていて、「地球人は地球を破壊しすぎた。 もう元に戻らない

だろう。 地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある」と

いっていました」

 

p490

 

よくよく聞いてみると、体外離脱が起きるのは、夜、寝床に入ってからなのである。

キャプラー・ロスの場合もそうなのである。 どう考えても、これは夢ないし入眠時

幻覚(寝入りばなに起きる幻覚)なのではないかと私は考えている

 

・・・彼女には何度か説明しがたいスピリチュアルな、あるいはサイキックな体験が

起きているというのはまた別の事実なのである。

 

==>> これはまるで、カール・セーガン著の小説「コンタクト」の世界ですね。

     これに関しては、小説を読み、映画もみました。

     本当は、小説の感想文を書くつもりでいたんですが、他の本が数冊ツンドク

     状態になっているので、小説については書かないことにしました。

 

     こちらは映画の予告編です。

     https://www.youtube.com/watch?v=SRoj3jK37Vc

 

     もし、このようなことが本当に事実としてあったとしても、小説のように

     実体験した人たち以外は誰も信じてはくれないでしょう。

     ちなみに、映画では主人公一人だけの体験となっていますが、小説では

     複数の人たちの宇宙体験となっていました(4~5人だったかな?)。

 

     小説のストーリーなどについては、こちらでどうぞ:

     https://www.dokusho-life.com/entry/CONTACT/Carl_-Sagan

     「作中では、1960年代の地球外知的生命体に対する科学者たちやSETIの立場

も描かれています。SETIの必要性は認められているが、あまり重要視されて

いない印象です。地球外知的生命体がいるかどうかも重要ですが、物語の核心は

コンタクトした後の人類の行動と変化です。変化は外形的な変化と内面な変化

があります。」

 

さて、やっと分厚い上巻を読み終わりました。

下巻については、別の本の感想文をいくつか書いた後に書きたいとおもっています。

 

いずれにせよ、この「臨死体験」の本は、「死に対する恐怖」を持っている方には

お薦めの本です。 非常に気持ちが楽になると思います。

 

 

=== では、その内 下巻の感想文に続きます ===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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