ジェームズ・ボーーエン著「ボブという名の ストリート・キャット」と 私の猫との人生

 

ジェームズ・ボーーエン著「ボブという名の ストリート・キャット」と私の猫との人生

 

A street cat named Bob  written by James Bowen

ジェームズ・ボーーエン著「ボブという名の ストリート・キャット」という本がある

ことをFACEBOOKの広告でたまたま知ったんです。

 


その表紙の猫の写真が、我が家で飼っていた猫に似ていたので、ついうっかり本を買って

しまいました。

 

なので、本の内容にはさほど期待はしていませんでした。

ですが、読んでみると著者がストリート・ミュージシャンで、ヘロイン中毒のホームレスで、

公的な支援を受け、更生プログラムを受け、ほとんど絶望的な状態にあった中、不思議な

ことに、この野良猫と出会ったことで救われていくという話でした。

 

いつもなら、難しい本にたくさん付箋をつけて、気になる部分を引用し、勝手なコメントを

だらだらと書くのですが、この本から引用したいと思った箇所は、以下の4カ所でした。

 

p91

 

ぷいっといなくなって、誰かほかの人間と暮らしはじめる。 ぼくにはボブがぴたりと

寄り添っている。 飼い猫に見限られていないのだから、こいつはまともかもしれないと

世間の人は思ってくれるだろう。 ぼくは人間以下の存在からステップアップしたこと

になる。ひとりの人間として認めてもらえる。 かつてはいないも同然の存在だったぼくが、

いまは人間社会に溶け込みつつある。

 

p102

 

猫にとっては、狩りをするときに自分のにおいを発散させては具合が悪い。 背後から

こっそり忍び寄ったり、待ち伏せしたりして狩りを行なうので、できるだけ自分のにおいを

消しておく必要がある。 猫の唾液には天然の消臭成分が含まれているので、身体をなめて

それをたっぷりこすりつける。 全身をなめてにおいを消す猫のほうが生き残る確率も

高く、多くの子孫を残すことが動物学者によって証明されている。

また、大型のヘビや爬虫類、そのほかの肉食動物といった捕食者から身を守ることにも

役だっている。

 

 

p218

 

奇妙な幻覚の世界を漂うぼくにとって、ボブは現実の世界に引きとめてくれる、本当に

大きな錨だった。

ボブは別の意味でも救世主だった。 やるべき用事をつくってくれたのだ。

日課として、ぼくはボブに食事を与えなければならなかった。 キッチンに行き、

キャットフードの袋を開け、ボウルのなかに入れる。 禁断症状に悩まされているぼくは、

その作業で気をほかに逸らすことができた。

 

p241

 

ぼくはベッドから出て、寝ぼけまなこでトイレのほうを見た。ドアがちょっと開いていて、

なかからチョロチョロとかすかに音が聞こえてくる。 へんだぞ、とぼくは思った。

闖入者がトイレを使っている姿を半ば想像しながらそっとなかをのぞいた瞬間、目に飛び

込んできた光景にぼくは言葉を失った。 ボブがトイレの便座の上で腰を落としていた

のだ。

・・・ボブはいちいち外に出て用を足すのが面倒になったのかもしれない。ぼくがトイレに

行くところを何度も見て、これは便利だと思い、まねをすることにしたのだろう。

ボブはぼくを見つめかえし、ちょっと恥ずかしそうな表情を浮かべた。

 




==>> 以上が今回の抜き書きのすべてです。

     p102の猫の秘密については、初めて知りました。

     著者はこういうことを知っていたので、猫をお風呂に入れたりはしなかった

     そうです。

 

     p241のトイレについては、ボブは猫用のトイレを買って部屋の中に置いて

     あげても、一度もそれを使おうとせず、かならず5階の部屋から出て、

     アパートの近くの庭で用を足していたのだそうです。

     その猫が、いきなり人間用のトイレを使いだしたというお話です。

 

     p91とp218の話は、いかにこの飼い主と野良猫ボブの出会いが運命的

     であったかを物語っているのではないかと感じた部分です。


     この本のスト―リーは、映画にもなったそうで、ボブ本人(本猫)が

     出演したのだとか。

     ところで、このボブちゃんは、2020年の6月に天に召されたそうです。

     14歳以上であったとされています・・・・・

     (57) In Memory of A Street Cat Named Bob - YouTube

     

     

私にとっては、この本はさほど感動的というようなものでもないのですが、この著者が

小さい頃から猫好きであったこと、そしてボブという野良猫との相性が奇跡的に

合っていたことが、著者の絶望的な状態の中で、著者の前向きな気持ちを反映する

鏡として、ボブが反応したのではないかという気がします。

 

さて、私自身が物心ついたころ、そこには既に猫がいました。

 

ミミという名の真っ白な雌猫でした。

長崎では尾曲り猫というのが有名で、長崎が唯一の貿易港であった戦国時代に、

南蛮船に乗せられてきた猫が居付いたと言われています。

しかし、我が生家のミミには、その尻尾さえもありませんでした

尻尾が短いというのではありません。 尻尾がなかったのです。

世界には尻尾のない猫の種類もあるようですが、我が生家になぜそんな種類の猫が

いたのか、その当時はあまり不思議にも思わず、いまとなっては調べる術もありません。

 

ミミとはおそらく十年前後いっしょに暮したのではないかと思いますが、何度も子供を

産みました。

生家の二階には港を見下ろす縁側があって、雨戸を引き入れる戸袋のスペースがあり、

そこにボロ布を敷いたリンゴ箱を置いて、猫の親子の棲み家にしていました。

 

私が今唯一覚えているのは、3匹の子ネコたちで、その名前は アン・ポン・タンでした。

 

我が家は五人兄弟でしたが、下の三人は同じ部屋に寝て、特に冬になると猫を奪い合って

一緒に寝ていました。 湯たんぽ代わりの猫たちでした。

 

あまりにも猫とべったり生活していたので、猫のお産の際に、悲劇が起きてしまいました。

ミミの娘だったと思うのですが、その子がお産をした場所が、私が寝ている布団の中

だったのです。

私が知らない間に、私が寝ている布団に潜り込んで、お産をしてしまったのです。

私は何も気が付かず、寝返りを打って、その産み落とされた赤子たちを潰してしまった

のでした。

猫は人目に付かないところでお産をするというのが常識でしたが、あまりにもべったり

と一緒に生活をしていると、猫も常識を失ってしまうようです。

 

ミミとの生活が終わったのは、子ども心には悲しいものでした。

ミミがかなりの歳になっていたためか、家の中のあちこちで嘔吐するようになって

しまったのです。

我が生家は、和菓子屋でしたので、衛生的な面からミミをそのまま飼っているわけには

いかなくなりました。

また、その当時は、50年以上前のことですから、まだまだ動物病院などというものも

我が町にはなかったのではないかと思います。 仮にあったとしても、猫の医療費まで

支払えるような家ではありませんでした。

 

私は、兄が運転する配達用の車に、ミミを抱いて助手席に乗りました。

おそらく父が兄に、配達のついでに、ミミをどこかに捨ててくるように言い渡したのでは

ないかと思います。 車は山の斜面を登って行きました。でも、まだ家がチラホラある

ような場所だったと思います。 私はドアを開けて、抱いていたミミを放しました。

私の記憶には、石垣の方へ逃げるように走っていくミミの白い後ろ姿しか残っていません。

 

 

私が結婚して猫を飼うようになったのは、娘たちが動物に興味を持ってからでした。

 

最初の猫は、娘が友だちの家で生まれた子ネコをもらってきた、キジトラ白の柄の猫

でした。

猫の色柄についてはこちらでどうぞ:

http://www.iris-pet.com/nyan/pattern/

 

この子猫には「タロー」という名をつけました

飼育担当はもちろん娘ということにしていましたが、結局は私の相棒が面倒をみる

ことになってしまったようです。

 

オス猫はいずれどこかに行ってしまうもの、そして暴れん坊という認識があったので、

アパート住まいだったこともあり、10センチぐらいの幅の板を風呂場の倒し窓を通して

渡し、2~3度訓練をして、タローが自由に出入りできるようにしました。

 

そのタローは、まだ大人にならない内に、近所の大人猫とつるむようになり、娘が

見かけて声をかけてもしらんぷりをして、遊びまわるようになり、1年も経たないうちに

帰ってこなくなりました。

 

 

二匹目の猫は、私の相棒が、職場の近くを歩いていた時、後ろからついて来たので、

職場である薬局でしばらくかまった後、我が家に連れ帰ってきたのでした。

 

タローの後継者だったので、「ジロー」と名付けました

ジローは茶トラの猫で、オス猫でしたが、タローよりも大人しい性格でした。

拾って来た時は、まだ大人にはなり切っていない頃でした。

 

その当時は、アパートからマンションに転居していたので、風呂場から板を渡すこと

もできず、やむなく、古いマンションの玄関ドアに開けてある牛乳入れを取り外して

ギリギリ猫が出入りできる穴をつくりました。

ジローが、お尻をベチャッとつぶすようにして、その穴をくぐり抜ける姿には大笑いした

ものです。

 

ジローは、出入り自由だったのですが、タローと違って、10年前後我が家に住んで

くれました。 

 

ある日、私たちが家に戻ると、見慣れない猫が家の中にいて、驚いて追い出したことが

あります。 ジローがご招待した友だちだったようです。

ジローには悪いことをしました。

 

そんなジローでしたが、いつからか、調子が悪そうで、食べ物も食べられない状態になり、

相棒が動物病院に連れていったところ、その頃流行りだった猫のエイズだったようで、

一本5千円の注射を月に二回ほど打ってもらったそうです。

 

しかし、ある日、マンションの前の駐車場に停めてあった車の下で、命が尽きたジローを

相棒が見つけました。

 

娘があちこち探して、ペットの葬儀屋さんを見つけ、遺体を受けとりに来てもらい、無事に

火葬をしてもらい、その遺骨は今も我が家に安置されています。

いずれ、我が家のお隣にあるお寺に、我々夫婦同様面倒を見てもらうつもりです。

 

その後、我がマンションのルールが変更となり、犬や猫などのペットを飼ってはいけない

ことになり、いろいろな夫婦間のトラブルを「猫のせい」には出来ない環境になってしまい

ました。 ジローが居たころは、我々夫婦の間でつまらない口喧嘩をした時には、

「それはジローがxxxしたからだよ・・・」などと、ジローのせいにしていたのでした。

 

私は、過去15年間、フィリピンのバギオ市に住んできました。

そこで部屋を借りた下宿の大家さん宅には、当初数年間は犬が2匹飼ってあって

なかなか性格の良い犬たちだったので、犬も大好きになりました。

 

その後も、一時期は4~5匹の犬が飼われていましたが、フィリピンでの犬の

ポジションは、日本とはかなり違っていて、基本的に番犬であるということが

分かりました。

 

今は、バギオ市という元々別荘地という土地柄もあって、ペットとして犬や猫が

大切にされるという家庭も増えてきているようですが、少し前までは、犬も猫も

食べるものという扱いだったようです。

 

三十年ほど前、私がまだ出張でフィリピンを訪れていた頃、その後わたしの

職場の上司となったマネジャーである日系フィリピン人がいました。

彼の家で飼っていた犬が子犬を産んだのですが、誰にその子犬をもらってもらうか

頭を抱えているという話がありました。

 

というのは、当時のフィリピン人の一般的な常識としては、犬はペットではなく、

食べるものという伝統的な考えかたが残っていたので、もらいたいという人たちを

面接して、ちゃんとペットとして大切にしてくれるかどうかを確約してもらわ

ないと子犬を譲れないということだったのです。


実際に、私も地元の同僚たちに誘われて、大衆食堂で犬料理を食べたことがあります。

しかし、何年か前に、犬料理は法的に禁止とされました。

 

私の下宿の、今年100歳にもなる大家さんちのお婆ちゃんからは、

私が数匹もいる猫ちゃんたちに私の食べ残しを毎日あげていると、時々、

「猫を甘やかしている・・・・」とぶつぶつ不満の声が聞こえてきました。

もちろん、犬や猫の為に最低限の食べ物は与えるおばあちゃんではあるのですが。

 



コロナ禍が始まったのが2020年の3月で、フィリピンでロックダウンが実施された

のが3月中旬。 そして、私が日本へ一時帰国したのが4月中旬でした。

 

その後、あの猫ちゃんたちはどうしているのか、心残りな毎日です。

 








 

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